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リーゼンスラローム大会 この愛すべきスーパー草大会 2003/12/30
ズラシの勧め ズラシ無くしてスキーはできるんズラか? 2003/12/28
リコール 揚げ足取りはこれでおしまいッ(12/26修正) 2003/12/23
大雪 滑りた〜〜いッ 2003/12/22
新種スキーウイルス ワクチンは手遅れだった? 2003/12/17
初心に帰ってみる 初心に帰ると見えてくるものがあるカモ 2003/12/15
禁断の無断転載 新教典のゴミ具合 2003/12/11
スキーは易しい 本当は単純なんです 2003/12/08
新教典を見た 笑ったね 2003/12/07
ウエアーを買った 買い物は難しいけど楽しい 2003/12/02
スキーが愉快なワケ 斜めになるのも原因の一つカモ 2003/11/29
怒りその2 オタクの戯言 2003/11/22
ヒネリということ オレは人間だ〜の巻き 2003/11/19
怒り 新経典解説 Part1、2、3のこと 2003/11/18
エッ・・・  なんちゃって(・・; 2003/11/14
自分自身のスキー 某団体発行の「位」と三浦雄一郎氏 2003/11/12
バッジテストその2 一応犬のトーボエなどしてみるのだ(^^)その2 2003/10/28
バッジテスト 一応犬のトーボエなどしてみるのだ(^^) 2003/10/27
新たなシーズンに向けて スキーの魅力とは何だ? 2003/10/26

リーゼンスラローム大会
2003/12/30

八方尾根スキー場では毎年リーゼンスラローム大会が開催されている。今年で58回を数えるから、歴史は国体より古い。
初期の頃は第三ケルン(八方池)がスタート地点だったのだが、現在はウサギ平から名木山ゲレンデまでのリーゼンスラロームコース約2.5Kmを使って行われている。

かつての緩急織り交ぜた自然の地形そのままの非常にタフなものから、現在は平均斜度16°最大でも25°程度の整備された斜面に変わり、コースそのものの難度は低下した。

一方で旗門数が減り(旗門員確保が困難という話もある)、リーゼンスラローム(大回転競技)としてはFISのレギュレーションを満たせない高速コースに変わってきていて、実態はスーパーGか女子のダウンヒルといった所だろう。

この大会は完全オープンなので、性別、年齢別のクラス分けはあるものの、エントリーに際しての制限は無く、アマチュアのトップレーサーからプロを名乗るスキーヤーまで、そしてその気になればスキーを始めたばかりのビギナーも、ハンディキャップ無しの同一条件で参加出来る日本で最大且つ唯一の草大会だ。その為か参加者は多い時で1000人を越える時もあった。

草大会と言えども、FISのホモロゲーションを取得しているナショナルレーシングコースを使うこともあり、長い伝統に培われたそのクオリティーはFISレースに匹敵する。

斜面が広く、旗門数が少ないということはライン取りに自由度がある為、上手な人もそうでない人もそれなりに楽しめるが、おのずとレコードラインは決まってしまうので、それに乗ってトップを狙うレーサー達はやはり速い。

2.5Kmを1分20秒前後で滑るから平均時速は110Km/hを越えるし、途中2箇所の変哲の無いウネリを通過する時にはけっこうな飛距離が出てしまう。

参加者の平均的なタイムは2分30秒程度(これでも充分速い)なので、トップとの速度差は50Km/h以上あることになり、速い選手のスタートが遅い選手より後になれば、前走者に追いついてしまう可能性もある訳で、そうなったら危険だし、何よりレコードラインを外れなければならなくなる。

例え草大会と言えどもトップクラスのレーサーは100分の1秒を争っているから、レコードラインを僅か外しただけで勝利は遠のく。

そういうことが起こらないように、又、速い選手がより有利な条件で滑られるように、FISやSAJ公認のレースでは、各種の大会の成績によってそれぞれの選手にポイント(リストポイント)を与え、ドロー会議(抽選)ではポイント上位(例えば1位〜15位)を第一シードとして抽選し、残りは16位からポイント順に出走順を決める。つまり力のある順番にスタートするということだ。

ポイント(リストポイント)を取得する為にはSAJなりFISなりの競技団体に登録し、ポイントレースに参加しなくてはならないし、用具もオフィシャルサプライヤーのものを使う必要があったりしてけっこう面倒くさいが、草大会ならメジャーレース参加経験者以外は大抵誰でも参加出来るみたいだ。

ポイントの計算方法は合理的ではあるものの、仕組みはけっこう複雑なので詳しい説明は避けるが、簡単に言えば、ある公認大会のトップのタイムを出した選手を0点として、2位以下をトップとのタイム差から換算して、凡そ離された距離(M)をそのレースのポイント(レースポイント)とするもので、遅い選手ほどポイントは大きくなる。

タイム差が大きく開くとポイントも大きくなりすぎるので、対数圧縮(自然対数だったか?)をしているし、ダウンヒルとスラローム、あるいは同じGSでも開催場所によって平均速度が異なるから、ある係数を掛けて種目毎のポイントにあまり差が出ないようにしている。

又、速い選手が沢山参加するレースとそうでないレースとでは、同じポイントレースでも価値が異なるから、レースのランクに応じてポイントを加算する。これがペナルティーポイント。

速い選手が沢山参加するレースはペナルティーポイントが小さく、それ程でもない選手が多いレースでは大きいということになる。

つまりあるレースでA選手が1位になれば、A選手のレースポイントは0点だが、ペナルティーポイントが100点だったら、リストポイントは100点ということになるし、あるレースでB選手が10位になり、レースポイントがで60点でペナルティーポイントが20点だったらリストポイントは80点ということになって、AB両選手が次に同じレースに出場する場合、B選手はA選手より出走順番が早くなるという仕組み。

リストポイントは競技会参加の度に加算されていく訳では無く、良い成績を出すとポイントは少なくなっていく。
この計算方法も、ペナルティーポイントの計算方法も、レースポイントの計算方法も色んなファクターが絡んでくるのでもっと複雑になるのだが、ワールドカップクラスでは0.1ポイントの違いでも出走順に影響するので、良い条件(コースの荒れが少ない)で滑りたい選手にとっては重要な意味を持つ。

ちなみに、このポイントは例えばワールドカップレースの総合成績を決める得点のポイントとは無関係。

公式の大会ではこのリストポイントの順に滑るので、間違っても前の選手に追い着くなどということは起きないが、草大会ではポイント管理が出来ない場合が多く、いきおいその大会の過去の成績や選手の自己申告を参考にして出走順を決めるから、実力があっても実績が無かったり初参加だったりすると、遅い人の後になるのはよくあること。

こうしたことから、リーゼンスラローム大会も例に漏れず、毎年抜きつ抜かれつのデッドヒート(^^)が展開され、それが又別の意味で大会を盛り上げてくれるのだが、遅いスタート順でも勝ちを狙っている速い選手も居る訳で、そういう選手が運悪くスタート間隔30秒のインターバルを使い切った選手に追い着いたりすると優勝を逃がす場合だってある。

今シーズンアルピーヌをお手伝いしてくれているお姉さんの友達がその一人だった。
彼女はスキーのトレーニングの為?にゴルフ場でキャディーの仕事をしており、足腰はバッチリ鍛えられいるし技量も並みではない。で、その彼女が昨年のリーゼンスラローム大会で前走者に追い着いた。
こういう場合、コースを空けてもらうためにバンフライ(避けて欲しいという意志表示)を掛ける。

普段淑やかな女性でも

「すんませ〜ん、どいていただけますですか〜

などと悠長なことを言っている場合じゃないし、アドレナリンがバンバン分泌しているから、普通は「どけ〜」とか「どいて〜」とか言うのだが、彼女は職業柄思わず


「ファー〜ファー〜

と叫んでしまった。すると前走者は反射的に 

頭を抱えてしゃがみこんだ


・・・・・・かどうかは知らないが、走路妨害を受けた彼女はトップと僅かの差で惜しくも4位。これ本当の話(^^)
次回は上位シードで滑られるだろう。

ちなみにリーゼンスラローム大会のローカルルール?では、走路妨害を食らっても「再レースは認めない」となっているからスゴイ(^^;
勿論参加者は先刻承知だからトラブルことは殆ど無いし、選手も競技役員も和気藹々とレースを楽しんでいる。

この大会は誰でも参加出来るので、オカルト理論をでっちあげた張本人はもとより、その信奉者には理論を実践で検証をする場としては最適だと思うから、是非参加してそのポテンシャルを確かめて欲しい。
2分30秒が2分29秒99になるカモ・・・・無事に辿り着ければ(笑)。

あれ?又この話になっちゃった。ドーモしつこいね(^^;

今シーズンは2004年3月3日〜3月5日


ラシの勧め
2003/12/28
スキーは易しい (2003/12/08)で書いたように、要点は3つだけというのはホント。

1:板にバランス良く乗ること(転びたくない)
2:行きたい方向に板を向けること(意のままに滑りたい)
3:アイツに出来ることならオレにも出来ると思うこと(夢も希望も持ちたい)

技術書の類にはターンの仕組みを説明する上で、一見力学に基づいた解説がされているように思わされるが、実は観念的な表現が多いことに気付く。
それはある面で仕方ないとしても、最近のものはターンの質にかかわる記述が多く、その向上?(ズレなきゃエライという風潮)によってどんなメリットをスキーヤーにもたらすのかという部分に関しては曖昧だし、一番肝心なバランス維持やターン弧を自由自在に調整する具体的な方法についてはほとんど触れられていない。

本当はそれが一番知りたいところなのだが、もし触れたとしたらカービング志向はその正当性(何の?(笑))を失ってしまいかねないことを無意識に察しているのか、又は単に説明出来ないだけのかもしれない。

ターンの大小をコントロールする方法は、ベクトルの指す位置と、板が雪から受ける抗力中心との距離の違いから板に発生するヨー方向(左右)のモーメントの変化を利用するのと同時に、弧の調整とバランス維持は密接な関係にあるので、ベクトルの指す位置とは別に、ヨー方向の動きを終始自分の支配下に置くという意味で、例え僅かであっても捻って(人間の意志)ズラせる環境(構え等も含む)を維持することが必要。

何より、ずるずるとズラすことが「ダサイ」とか「古い」とか思わないことが大切で、自由自在にズラせるということは、既に板は自分の支配下にある訳だから、その逆のことをすれば必要なだけ効かすことも出来るということ。

車を運転していて横滑りすると「ドキッ」っとするが、ステアリングの無いスキーをコントロールするためには、そういう状況を安定的に作る以外に方法は無いということを再認識した方が良いと思う。


リコー
2003/12/23

例えば・・・自動車やモーターサイクルは長い期間を経て熟成を重ね、様々な状況を想定してテストを繰り返し信頼性や耐久性等々に確信を持てた時、初めて市場にリリースされる?のだと思う。

ところが自信を持って送り出した新型車であっても、時には重大な欠陥が見つかることがある。誠実な企業なら些細な欠陥でもリコールの対象にするが、深刻な事態が発生し、それが明らかに欠陥に因るものだと判っても隠蔽工作をしたり非を認めるどころか使用者側の責任にしようとする企業があったりする。某スキー憐命みたいだね〜。
中には定期点検の際にこっそり修理してしまうこともあるみたいだが、修理するだけマシカモ。

今度の教○はその意味で速やかにリコールされるべきだと思う。

教○が教科書のようなものだとすれば、それはその目的を成すのに必要な知識や、技術を習得させるための基本的内容が体系立てて記述されていなければならないのと同時に、長年スキーに慣れ親しんだ人は言うに及ばず、初心者から上級者に至るまで、習熟度の如何にかかわらず系統性や統一性を欠くものであってはならない筈だ。
一般に教科書とよばれる書物は、そういった原則を維持しつつ改善されていくものだと思う 。

子供でも遊べる本当は易しいスポーツなのに、教○の内容に解釈の相違が生まれたり、咀嚼が必要な程難解(とユーよりデタラメだから意味不明)な記述が果たして教科書たりえるのだろうか?
その点で従来の教○も教科書としての資質を備えていたかどうかは怪しいが、少なくとも新教○よりマシな気がする。

今度の教○にはオカルトパワーが登場した。
ターンの最中 エッジをある角度以上に立てると内向きの力(山側へ) が発生するんだってサ。
板が水平(斜面上では角付けされている)より内側に傾いた時に、 内側に向かってスライドすると言う意味のことを言いたいらしいが、その可能性を考えるとしたら、静止した状態で斜面はメレンゲか極上の絹漉し豆腐かでだろう。 終いにはスキーも身体もその中に潜っていくらしい。

スキーヤーはどぜうか?(笑)。
実際ターンの最中そんな現象は発生しないのだが、信じるものは救われるという意味で、あえて教典と呼ぶことにした。
それなら

解釈はどうぞご自由に!

という訳だ。

S○Jの「新教○完成! 狂逝く本部会議開催」の巻きではカタガキ命の挨拶の中で、言うに事欠いて「この教○は読めば読むほど味がある本だと思っています」と、はなっから理解不能を自白しちゃった○カもいるから笑える。

スキー術は知らなくても、こういう狂団での保身術だけは知っているらしく、「何か変だな〜」と感じても「味がある」と表現するところなど、とても勉強になりますデス。あながち○カとは言えないカモ(笑)

雪もたっぷりあることだし、狂団の揚げ足取り(^^)に無駄な時間を費やすのはこれ位にしてスキーを堪能することにしよう。


2003/12/22

待ちに待った大雪に恵まれました。
早速滑りに行ってきました・・・・・とユー訳にはいかないのが辛いところ。

先ず駐車場を始め宿周辺の除雪作業に1日、屋根の雪下ろしに1日、そのかたずけに1日、そして疲労困憊。とても滑りに行く気力も体力も残っていません。

除雪はスノースロワー(投雪機)で行うのですが、一度に除雪出来る深さは50cm。今回の大雪は一日目60cm以上、2日目も50cm以上積もり、一回で地面を露出させることは出来ません。ましてや屋根の雪が落ちた部分は締まっていて、部分的には2m以上の山になるので除雪には時間が掛かります。その他にもお客様の為の通常の仕事があるのでなかなか出掛けられません。

降雪のあった翌日は大抵こんな調子ですから、余程のことが無い限り朝一でふかふかの新雪を滑りに行くという訳にはいきません。漸く出掛けられる頃にはお気に入りの場所は大抵荒らされています。ガッカリする一方、こんな荒れた斜面にも入ってみようと思うスキーヤーがまだ沢山居るかと思うと嬉しくもなります。

「アー早く滑りテー」(;;)

荒れた斜面と云えば・・・・・・
以前「向上心は失った」と書いたものの、それは狂団のオカルト理論には興味を示せないという意味であって、悪雪ではいつも力に任せて必死に滑っている気がするから、この年になっても(54)未だにふかふかの新雪を滑る時のような、気負いも衒いも無い愉しさだけに包まれた幸せな気分で滑る方法は無いものかと模索している。

もしそういう方法があるのなら是非学びたい。魂に沁み込んで来るような黙示。


新種スキーウイルス
2003/12/17
スキーは簡単だと云いながら、随分ゴタクを述べて来てしまった(^^)

寒そうで危なそうで費用が掛かりそうで難しそうだけど、やってみれば簡単で愉快で、楽しい想い出や感動をいっぱい創れるスキーを故意に難しくしてソッポを向かせようとしているとしか思えない「コレデモカッ」っつー位頻繁に新種のスキーキラー(イ)ウイルスをばら撒く狂団があるもんだから、業界の一員としては死活問題なのだ。

で・・・無い知恵を絞って(無いものはいくら絞っても無いわけで、いきおい「アッタマーキタ〜」とか「ジョーダンジャネーヨ」程度の文章しか書けないのは情けない・・・・シクシク)対抗している訳だけど、狂団の行為はまさに業界に対するテロだね。

最新のは具体的に書くのもおぞましい「ピーピー理論ウイルス」だけど、これは免疫力の乏しい「カタガキホシー∩イバリテー」スキーヤーには速やかに感染してしまったみたいだ。
症状は内スキーに乗りたがる体勢で滑っているから識別は簡単。ゲレンデで見かけたら危険なのでちかづか無いホーが賢明(^^)

先日八方では狂団がその手のスキーヤー450人位を集めて集団感染させようとしていたが、感染者は今頃頭の中がグチャグチャレロレロ???になって発熱していることで笑。

治療方法は「外向外傾外足果汁薬剤」の筋肉注射で、リーゼン製薬製(名木山大壁ケミカル開発協力)10本+黒菱のコブ薬品製5本で治癒するカモ・・・・ってところですか?。
もっと強力な薬剤もありますが副作用が心配されますので紹介は致しません(^^)。一日も早い快復をお祈りしています。

先日隣組の忘年会があって、八○尾根スキースクールの好調を含め同僚3人も同席していた。トーゼン狂態の話もデタ〜ッ訳で、3人の免疫力は私を遥かに上回っていることが確認できた。
ターン中半から後半にかけての外傾外向ポジションは、ターン前半から中半にかけて必然的に内傾内向傾向を示しますが、これは板の動きと上体(腰を含む上部)との相対位置関係から見た場合であって、上体の絶対位置から見るとローリング、ヨーイング方向の慣性力に対しては極端に変化しない安定的なポジションだと考えます。

一方狂態の新種ウイルスは上体と板とを絶対的位置関係とするもので、上体と斜面との相対位置関係は大きく変化するというものです。つまり実感としてもローリング、ヨーイング両方向の慣性力を無駄に発生させるということになり、それはとりもなおさず「カッタルイ切り返し」+「転倒リスク増大」+「悪雪斜面禁忌症」につながるものだと思います。

注:内傾とはターン前半付近を除き、足から腰を結ぶ延長線の傾きに上体が限りなく近くなるということで、まさかそれより内側に傾いてしまうという意味には思えません(笑)

心に帰えってみる
2003/12/15
ほんとに小さな子供でもスキーは出来る。ましてや小学生ともなればスゴイ子がいる。ので、初心に帰ってみよう。

両足の幅を30cm位に開いて直滑降する。
どちらかに向きを変える。
例えば左。すると右足に多く体重が乗るのがわかる。
進路が変わると、大抵その反対側の脚に荷重される。そしてズレる。上手く向きが変わったとしたら(^o^)

スキーを習い始めて間もない時は、外スキーの外エッジが引っかかって外側に転倒することも稀にあるが、大抵はターン内側。そして上達してからも余程のことが無い限り同じ。

まだ慣れないうちは進路を変えよう(ターンしよう)として、内側に転倒することが多いが、それは自分のイメージ通りに板の向きが変わらない場合が殆ど。

ある程度滑られるようになってからの転倒も同じだけれど、前者は向きを変えたい気持ちが勝っていて、内傾過度になり、外スキーや内スキーの内エッジが立ち過ぎて板の自由が利かなくなる(板のサイドカットと撓み具合で勝手に走ってしまう)のが主な原因。
後者は逆に不意にエッジが外れる場合。

いずれにしてもターンの最中、スキーは外へ外へ、谷へ谷へ膨らもう落ちようとしている訳で、それを自分のイメージ通りにターン弧を維持する為にエッジを効かせ、あるいは弛め、捻り、且つ踏ん張って堪えるのがスキー技術だと思う。

不意にエッジが外れたり、ある迎え角を維持しながら回っていた板のズレが止まったりすると、踏ん張っていた力が急に減少する。
身体と板との位置関係を咄嗟に変えることは難しいから、遠心力という見掛けの力に支えられ、斜めに保たれていた身体はその力を失う。するとドーなるか?内側に転倒するか、少なくともそれを避ける為にジタバタすることになる。
綱引きをしていて急に綱を放されたのに似ているカモ。

この時の転倒リスクは、内脚/外脚の荷重配分で言うと、例えばそれが10%/90%より、90%/10%の方が大きいのは常識(自分の常識は他人の非常識という話もありますが)。

これは外脚の内側には内脚があり、内脚の内側には何も無い(^^)。つまり、外スキーの荷重配分を多くとっていると、それが不意にグリップを失っても、内脚が支えてくれるという訳。
このことから、ターンの最中は出来る限り外脚に荷重していた方が転倒リスクが少なくなる。

しかし問題はターンの曲率半径が変わらないとしたら、速度が速くなるにしたがい脚に掛かる荷重が増大し、それに伴い10%/90%の荷重配分を保つのは難しくなってくることだ。

高まる荷重を支えるにはその配分を50%/50%にちかづけざるを得ない。つまりここが両足で踏ん張れる体力的な限界。それを越えると潰れるか、エッジを緩めて圧を逃がすしかない。

極限状態で50%/50%の荷重配分を越え、内脚の比率が高まることはあり得ないし、もし内脚に多く荷重していると感じたら、それは既にピークを超えて負荷が減っているということだ。つまりズレが大きくなっていると同時に、転倒リスクが高まっている状態でもある。

でも「ゲレンデでは2本のトラックを斜面に刻んでいる人も居るじゃネーカ」となりそうだが、それはあえてやる意味も感じないトリッキーな滑りの一種であって、方法は簡単。許容全負荷以下で内スキーの荷重配分を増やし、外スキーの曲率半径より小さくなるように撓ませているだけのことだ。

現実は様々な状況で安定的に身体が耐えられる限界まで(50%/50%)持っていけるだけのエッジグリップを得るのはとても難しい。大抵はそれ以前に弛んでしまう。だから筋力にも拠るが、カービングは負荷の小さい中〜緩斜面でしか出来ない。

もう一度綱引きを例に挙げると、例えば敵に対し、綱の右側で引っ張るとしたら右足が敵側になり、且つその足で主に踏ん張る(左足は曲がっていて力が入らない)。
最初は上体を敵に向かって斜めに構えて引っ張っているが、形勢が不利になると苦し紛れに顔も腰も味方側に向いてしまうことがある。こうなるともうヘロヘロで負けは決まったようなもの。つまり内向内傾(^^)

内向内傾にすると身体の構造上エッジは自動的に立つが、それはあくまで「自動的」であって、微妙なコントロールの結果ではない。
この負けが決まった体勢を、エッジが効くからといって低負荷領域から「意識しなさい」というのが今度の狂態←「テイ」と読みます(笑)。

狂態に奇妙なゴタクを述べられるまでもなく、いままでだって外向外傾をベースにしていても、自分の脚力の限界まで負荷が掛かるようなターンでは、遠心力に対して平行(進行方向に正対)近くまで腰の向きを変えたし、外傾も少なくしてそれに対処していた。

重要なのは「エッジが効いちゃった」体勢がどんなものかではなく、「如何にして効率良くエッジを効かすか?」がこれまでも、そしてこれからも最大の課題であり、その効き具合を微妙な捻り動作とシンクロして、自由に(勿論個々の体力の限界内)コントロールすることがスキーの醍醐味だと思っているので、その他のモロモロは自分にとってはオカズみたいなものだ。
待望の雪が降ったということで、ニュースでは菅平高原で滑っているスキーヤーが紹介されていて、かなり上手なスキーヤーとお見受けした。
本人達は最新の技法を披露していたつもりだろうが、平らな斜面の低負荷状態にもかかわらず、滑りは内向内倒のチャールストン(内スキーだけで滑る練習バリエーション)だった。

ゴミがばら撒かれたと思ったら、もう洗脳された信者が出没してしまった。こんなに早く汚染されちゃうのは、きっと○クール関係者だろうな、上手い筈だよ、マッタク(大笑い)

あくまで適度な(^^)外向外傾を構えのベースとし、外足荷重を意識することで、楽しめる幅はより広くなるものと信じておりますです。ハイ

注!!:外向外傾は次のターンの開始時に於いてはトーゼン内向内傾傾向を示します。そして外傾とは足から腰を結ぶ延長線の傾きより、相対的に上体が外側に起きているという意味で、決してターン側にくということではありません。そんなことになったら転倒です(^^)

 
左ターンマキシマムの外向外傾・・・これが


次の右ターン開始時にはそのまま内向内傾になる。

外足荷重意識だから、もう「内脚なんか知ったこっちゃないもんね〜」という位浮いてます(^^)


断の無断転載
2003/12/11

本当は新教典を批難する以上、如何にゴミかを具体的に説明しなければならないのだが、あまりにも馬鹿げていて、そのエネルギーが勿体無いと思っていた。でも一つだけ挙げておこう。
これが新理論デッチアゲのベースになっているからだ。

下の図はS○JのHP「新教典の解説ページ?」から無断転載しました(2003/12/11)。関係各位にお詫び致します。
 
赤色は腰(上体か?)だと思うが、同一方向にターンしているにもかかわらず、その向きが変わるだけでベクトルが変化したり、内向するとそれが正反対になっている。
こんなバカげたオカルト現象を私は理解出来ない。

そもそもこれがベクトルなのか?だとしたら何のベクトル図なのか、「スキー縦軸に沿う力」だけじゃ意味不明だから、少なくとも分力や合力の名称くらいは記載するべきだろう。

そしてこのバーチャルイメージがベースになっている以上、全てがゴミと云わざるをえないし、実体験組を思考停止だとしたのも、これを主張するオタクに反論出来なかったからだ。


キーは易しい
2003/12/08

要点は3つだけ。

1:板にバランス良く乗ること
2:行きたい方向に板を向けること
3:アイツに出来ることならオレにも出来ると思うこと

たったこれだけ(^^)

1については、足元が理不尽に滑るから、慣れるには少し時間がかかると思うけど、これこそがスキーのスキーたる所以であり愉快なところ。

向きを変えようとすると結果的に股関節が捻られるから膝から下の向きが変わる。こうすることで自動的に行きたい向きにスネが傾き、エッジが立つ。少し待っていると方向が変る。これがターン。 この時足の親指で板を引っかけるというか掴む感じがあるとなお良いカモ。
決して拇指球を踏む感じではない・・・・・云々(^^)
・・・・・・・・というようなとても易しいスキー。

但し誰かに教わる場合には覚えておいた方が都合の良い用語もあります。

例えば

山側
谷川
内脚(足)(スキー)
外脚(足)(スキー)
内エッジ
外エッジ




スキーは上手いに越したことはないが、上手けりゃいいってものじゃない。いかにして愉しい思いをするかだ。
「上達」とは楽しんだ人に与えられるご褒美みたいなものだ。

教典を見た
2003/12/07

想像していたとは言え、本当に出版されたのが信じ難い程奇妙で正気とは思えない内容に怒りを通り越して笑いがこみあげて来た。語るに堕ちたとはこのことだろう。だから語らない(^^)。
知りたい方は立ち読みでドーゾ、でもその時間さえ無駄カモ。

とは言っても一応感想は述べてみますね(^^)

冒頭の理論構築のベースからして奇妙だから、以降に書かれていることは無意味なので全部は読まなかった。

変臭メンバーにはかつて○モ選で戦った何人かも名前を連ねており、私の知る限り彼らのスキー技術における技量を疑う余地はない(今は知らない)し造詣も深いと思う。その彼らをしてドーしてこんなゴミ教典を編纂し出版せしめたのか理解に苦しむ。

考えられることは・・・・

変臭メンバーを2つに分類するとしたら、一つは過去にも実績があり、技術は高度なものを持っていても、それが何故どういう仕組みで自分の滑りを構築しているのかが解らない、説明出来ない、あるいは本気で検証しようとしなかった人々。

もう一つが、実体験に乏しくても彼らに比べノーミソだけは優れていると自負し、それが○○大学の××という肩書きが強力に(^^)バックアップしているオタク。

結果は、このオタクが主張する屁理屈に負けたということだ。言い方を変えれば、彼ら実体験組の豊富なノウハウ?が、バーチャルイメージに屈したということでもある。

こういう手合いは必ずと言って良いほど他のジャンルの著名人を引き合いに出して、自論の正当性を主張しようとする。S○Jの解説ページでは野球選手が登場していたナ〜。
何の関係があるのか知らないが、口先オタクにはこういう手法しか無いのだろう。カワイソーに。

それ以上にカワイソーなのが、エキセントリックなドーグの出現にウロタエてしまい、過去に自分が築いて来た自分なりの技法に自信を無くした実体験組だ。滑ることは上手でも殆ど思考停止だから、アタマのヨサソーなヤツにたたみ込まれると反論が出来ないのだ。

こうして新教典はカワイソーな人々によって無事完成しましたとさ、メデタシメデタシ。
板はコンベンショナルタイプ(もう死語か?)であっても機種により操作性の優劣は顕著だったから、コンポラ板は単にその操作性が大幅に向上しただけであって、本質的な技法に関しては全く変わらないのだが、同時に、それによって従来の板では一般スキーヤーにとって到達が困難と思われていた領域にも踏み込める可能性がもたらされたカモ・・・という程度なのだ。

にもかかわらず、改定にあたり、お気に入りレーサーの滑りがオタクの「無理論構築」の重要なヒントになっているのは明白だし、トップレベルのWCレーサーの滑り(勝つ為だから極限状態)を教典のベースに据えるというのは、あまりにも短絡的で無知と云わざるをえない。

何故なら、参考にした写真が撮られたのはどんな状況だったか?前後のゲートがバーチカルかオープンかオフセットか、はたまたスルーゲートか、その他モロモロの条件で、同一選手でもフォームは大きく変わってしまうからだ。・・・・・・勿論用具のレギュレーションでも。

出版物は多かれ少なかれ読者に何らかの偏見を与えるメッセージを持っていると思うから、その内容に共感出来るか出来ないか、あるいはそれが正しいと思うか、そうでないかは読者の判断に委ねられる。

しかし教典と名が付く以上、そうした出版物とは異なる性質だということを、今度の変臭メンバーのオタクには理解出来ず、何かのコマーシャルの様に、イヌのお散歩は「片手逆立ち」がカッコEから、今後愛犬家はそうするべきだと云っている様なものだ。

教典はスキーというスポーツをする上で道具の如何に拘らず、それに必要な普遍的技法とは何かを誰にでも解り易い形で著すべきだと思う。
エキセントリックな道具や、それを用いたスキーヤーのディティールに惑わされ、普遍的な真実(あるとして)にせまろうとする真摯な姿勢が欠如しているという点で、今度の教典もやはりゴミだと言い切ってしまおう。

ここでも以前から再三指摘し危惧していたように、もしこの書物の内容を真に受けたとしたら、残念ながら多くのスキーヤーの上達は阻まれ、楽しめるフィールドや視野は狭まり、いたずらな混乱をもたらすだけだろう。

新しい技法へのチャレンジはおおいに結構だが、それはS○誌をはじめとするジャーナリズム?(笑)に任せておけばいい。
雑誌の付録とすればなかなかバカバカしくて面白い発想だとは思う。

このゴミは先ず中央研修会でばらまかれ、指導員研修会でばらまかれ、スクールやクラブレベルでばらまかれる。
どんなに不審に思っても、カタガキの欲しいヤツは従わざるを得ないんダローな。

新教典は近いうちに消滅するか、大幅な再改定が行われるか、又は間違いを認めず糊塗し続けるか、「新教典の正しい解釈の仕方」とか称する言い訳文をバラマクか・・・。

いずれにしても良識あるスクールの指導現場では完全に無視されることだろう。


ウエアーを買った
2003/12/02

先々シーズンと先シーズンは板を購入した。
連続で買ってしまったのは、形状とか長さを眺める限り、とても従来の感覚では選びようが無かったので、お店のオヤジのウンチクを素直に聞いてそれに従ったのだが、あまりにも今風過ぎてしっくりこなかったから買い直したというわけ。

先シーズン購入したフォルクルP40は売れ残って2年も店の倉庫に眠っていたもので、長い間「自分で選んで買う」という経験をしていなかったから、道具選びには自信が無かったが、これは自分の判断で買った。
「良さそう」に見えたものはやはり良かった。

この板がヘタるまでには数シーズン掛かるだろうから、今年はウエアーを買うことにした。
これは手持ちのパンツの裾が全てボロボロになってしまったから。

大型スポーツショップに並んでいる膨大な種類と数のウエアーを前にして、再び板を買いに行った時と同様の気分になった。
どれが良いのか判らないのだ。

スクールのウエアーもあったし、長い間所属するスキーチームから用具の供給を受けていたから、結局滑ること以外については無知に近かったわけだ。

で・・・・思い切って買った!
トーゼンアウトレットの型落ち半額品(^^)

かつてのウエアーは機能より「ハデ命」みたいな所があって、街中ではとても恥ずかしくて着れないようなものが多かったが、ゲレンデは皆似たり寄ったりのハデなウエアーだから、結局目立たなかったのだ(笑)

選んだウエアーは上がボード用(バートン)、下がスキー用(フェニックス)。色とデザインが地味だし、機能重視で好感が持てる。
ダブダブな感じが気に入ったのと、素材や縫製については少し前までのものとは違い、随分良くなっていて感心した。
フェニックスはヤマハのチームウエアーを供給していたから、なんとなく親しみがあり懐かしかった。

板を購入する時も同様、数ある中から気に入ったものを選んで買うという行為は、それ自体が既にスキーの楽しみの一部だと思う。余裕のある人は毎年この悦びを経験しているのかと思うと羨ましい限り。

遊び道具を買うと、それが何であれ早く使いたくてウズウズするのだが、もう12月だというのに全く雪が無いから滑りに行けない。

来年はブーツか(汗)

板がヘタるということは?

板がヘタってくると外観の良否に関係なく、エッジングを強めるとそれに比例してスキーが前に走っていた(抜けが良かった)のが、特に瞬間的に強いエッジングをしたような時に踏み抜けてしまう(踏ん張りが効かなくなる)感じに変わり、明らかに走りが悪くなるので判る。

連続してターンを切り返す時に「なんだかかったるくなったな〜」と感じ始めたら、ヘタってきたのかもしれない。
本当は自分がヘタっていたりして(^o^;


スキーが愉快なワケ
2003/11/29
スキーは50年、モーターサイクルも40年は乗っていて、未だに飽きないし止められない。
滑るだけ、あるいは走っているだけでも面白いし、その面白さを終始感じながら見知らぬ土地や風景を見に行けるのだから、単に便利だとかその他モロモロ以上の趣がある。

しかし、何と言ってもワクワクするのが傾いている時、つまり鉛直に対して身体が斜めになっている時だ。
日常生活では、何の支えも無しに斜めになってバランスするなどという状況は殆ど無いから、この不思議な現象が新鮮に感じられるからかもしれない。
そしてこの角度が大きいほど、その時間が長いほど面白さも大きいような気がする。

モーターサイクルでの高速道路走行や、スキーのチョッカリ(直滑降)だけでも楽しいに違いはないが、やはり峠等の曲がりくねった道の方を走りたいし、スキーではターンが不要な緩斜面でさえ曲がりたくなる。

早い話が、何が何でも斜めになりたい訳だ(^^;

モーターサイクルでは傾けることを「バンクさせる」といい、状況にもよるが大体45°程度までなら割と安心して寝かせられる。
それを越えると(あくまで自分の感じ)急に緊張感が高まり、ワクワクがドキドキに変わる。

ここまで斜めになると路面のウネリ等の影響もあり、場合によってはバンクセンサー(ステップに付いている突起)や車体の一部が接地することがあるので、公道では大抵この辺りが物理的にも精神的にも安全に傾きを愉しめる限界となる。

精神的な限界とは、簡単に言ってしまえば「タイヤがスリップするんじゃないか?」と思い始める所で、本当はコーナリング中タイヤは終始外側に向かって僅かずつ滑り続けているらしいのだが、これが一気に来そうな気がしてくるし、実際一気に来たことがある(・o・;

・・・・とドーなるか?・・・・(泣)。

上手な人やコンジョーのある人(^^)はこの時さらにスロットルを開けてトラクション(駆動力)を掛け、後輪加重を増やして積極的にタイヤを路面に押し付けながら曲がって行くらしい。
つまりタイヤのグリップ力+トラクションで曲がっているから、スライド量だって自由にコントロール出来るし、バンク角はそのままでもマシンの向きを変えることだって出来る訳だ(正確にはサスペンションが動いているので接地点と重心との位置関係は変化しているのカモ)。

ここまで出来てはじめてマシンを「操っている」ということになるとは思うが、そんなことは自分には恐ろしくてとても出来ない。
パーシャルより僅かに開けているとは言っても、大部分をタイヤ自体が持つグリップ力に頼っているから、曲がり方もバンク角に比例したものにならざるを得ない。

いずれにしても斜めになっているので、これで充分満足なのだが、この状態でもっと積極的に操ることができればさらに楽しいと思う。
しかし一般公道ではリスクが大きすぎるのでやらないのだ(^^)。

モーターサイクルはこれでよしとしても、スキーで深く斜め状態にするのはけっこう難しい。

先ず斜めにしようとしても、その横方向の力を支えるだけのエッジグリップを得られるまでにはかなりの練習が必要になるし、何より傾いたら傾いたで脚に掛かる荷重も増えるわけで、そうなればエッジを弛ます方向の力も同時に増えるから、角度が大きくなればなお更エッジが効きにくくなる。

ズレているいないを問わず、それなりにエッジが効いたとして、例えば重心と接雪点(ベクトルの指す位置)を結ぶ角度が45°の時、脚に掛かる荷重は約1.4倍、60°なら2倍になる計算。つまり体重が60Kgの人なら84Kg、とか120Kgになっちゃう訳だ。

もっと具体的にイメージするとしたら、24Kgとか60Kgのお米が入った袋を背負った状態と同じになるということ。
これは平面上での話。

こんなことを左右何回か連続すれば、「スキーなんか走らなくたって滑って落ちてくるだけだから楽勝ジャン」などとノーテンキなことを言っている場合じゃなくなるし、しかも実際は斜度がある所で遊ぶ訳だからもっと大変なのだ。

必要な時に必要なだけエッジを効かせる為のコツを会得するにはそれなりの時間が掛かると同時に、それに耐えられるだけの筋力も養わなければならないことになる。

コンベンショナルタイプの板でも、習熟度が上がればカービング(笑)させることなんかチョー簡単だし、エッジグリップだって昨今流行のCARVINGSKIと変わらない。ヨーするにドーグより技量や筋力で耐えられる傾きは決まってしまう。

レースシーンから生まれたカービングスキーが一般にもはやり始めたのは、この「良く曲がりソー」な形と共に、「エッジを効かせやすい」→「斜めになりやすい」→「面白い」という状況を、習熟度がホドホドでも手っ取り早く作り出せるカモ、という短絡的な発想からだと思う。

勿論そういった意味ではコンベンショナルタイプより優れているし、こういう道具の出現で楽に曲がれ、切れの良いターンを多くのスキーヤーが容易に楽しめるようになったことは認める(一部の条件を除いて)。
しかし現実は高性能なドーグによって簡単に曲がれたとしても、残念ながら本人の技量や筋力以上に傾けることはできないのだ。

それはゲレンデを観察すれば一目瞭然、カービングスキーを使用している人もそうでない人も、その大部分がズラシて回っているではないか(勿論私も)。

エッジが効きやすい板は強い圧を脚に返してくるから、それに耐えられなければエッジを弛めて圧を逃がさざるを得ないのだ。
無理をして頑張るとすぐに疲労したり、悪くすると身体に障害が発生する。だからこういう板でカービングし、斜め状態を楽しもうとしたら、いきおい緩斜面がそのフィールドになる。

ドーグやS○Jのオタクが提唱する、個々の体力を無視した奇妙な技法云々ではなく、ジジーになってもかきたてられちゃうスキーの愉しみとは一体ナンズラカ〜と、自分なりに考えてみるのも、未だに降らない雪を待つ間の暇つぶしには良いカモ。

勿論斜めになるだけじゃ無いと思いますケド(^^;

ちなみに・・・・傾きが45°を越えるといきなり不安になるのは、横方向の力が鉛直方向の力を超えるからかもしれない。
それと・・・・一見派手に傾いてカービングしているように見えても、大股おっぴろげてしゃがんでいるから、実効バンク角はそれほどでもないのだ(^^)

これからも斜めに傾いて滑りながら、ドーしてスキーが愉しいのか考え続けるのだろうな。

だから斜滑考・・・・ナンチャッテ(・・;




                    座布団一枚・・・自分で言ってしまいました(^^;

怒りその2
2003/11/22

昨年は降雪が早く、もう既に何回か滑っていたと思う。
今年は平年並みと言うよりどちらかといえば暖かな日が多く、一旦枯れた庭の芝生が再び緑を取り戻してきた。

一度でも滑れば気分もスッキリすると思うのだが、先日某団体のHPを見たときの、怒りと共に感じた例えようの無い気持ちの悪さは一体何なのだろうと考えていた。

教典を読んだ訳では無いが、HPからだけでもその内容はおして知るべし。それ以上に、そこから漂う異臭が気持ち悪さの原因ではないだろうかと思った。

今までテニスをはじめ色々なスポーツをやった。身近に教師が居なかったので教本の様な物を買って読んだのだが、そのいずれにもそこで感じた臭気は無かった。

スキーというスポーツをすることによって、心から自由を味わえる精神世界が構築出来るとしたら、それは習熟度や技法を問わず、それぞれのスキーヤーの心の中に多様な形で形成されるものであって、他人には侵すことのできない人格のようなものだと思う。

スキーは誰のものでもない。にもかかわらず、某団体の私物化に等しい「S○Jこそが絶対正義」であり、考え方さえも「仕切っているのは我々だ」というような、謙虚さの欠片も無い傲慢で横柄で押し付けがましい態度が悪臭の源であり、それによって人格が蹂躙されたような気分になったからかもしれない。

かつてもそうであったように、何の成果も見られないカスみたいな技術論をこねくり回し、それに影響を受けたスキーヤーには多少の混乱をもたらしたにせよ、めくじらを立てる程のことも無かったし何をホザこうと勝手だと思っていたのだが、今回ばかりは許せない。

一番大切にしているスキーに対する想いへの琴線に触れるようなでしゃばったマネをしたからだ。

ケチな団体のケチな肩書きがこれ程までに人を思い上がらせるものなのだろうか。
うすら寒い感じさえするし、組織が大きいだけにオタクの戯言では済まされないのだ。


ヒネリということ
2003/11/19

以前「自転と公転云々」について書いたことがあった。
自転とはある曲率半径(現実の滑走状態ではその中心は移動しちゃう筈)でターン(公転)する為の板へのヒネリ動作のことでもあるし、もう一つは公転の軌道上で身体が板との位置関係を変えなければ、それは結果的に「自転」していると言う意味で使った(公転一回で自転も一回ということ)。実際は半回転までいくのは稀だと思うケド。

ちょっと怪しいかな〜(^^;・・・・モゴモゴ

ヒネリという意味での板の自転運動はスキーヤーの意思なのだが、この様子を特にハッキリ自覚できるのはターン初期のみであって、一旦ターンに入ったら殆どの場合それを維持する為の「保舵力」に変わる。

「保舵力」に含まれるヒネリ(自転)成分は、公転の曲率半径を小さくしていこうとしない限り、0と言っても良いほど少なくなる(必要なくなる)が、かといって「保舵力」を無くせば常識的にはターンは大きくなるか直進状態に戻る。

最近のサイドカットが小半径の板は、この「保舵力」が少なくて済むものの、パワーアシストが異常に効き過ぎた車を運転しているのに似ているカモ。

つまり、コーナリング中にステアリングから手を離しても、そのままの曲率半径で曲がっていってしまう様な「保舵力」皆無の車ということができる。
これがドライビングプレジャーに富んだ乗り味かどうかは想像するまでもないだろう。

でスキーロボットの写真があった。同好会やオタククラブが会報誌でお遊び程度に扱うのなら可愛いものだが、公(笑)の団体がこんなもの持ち出て、もっともらしいことをほざかれた日にゃマジ切れするってもんだ。

人形に、ある半径のサイドカットを持った板を履かせ、エッジを立てた状態でそれを滑らせたら「カービングターンした」というものだと思うが、如何に欺瞞に満ちたものであるかは以下のとおり。

例えばサイドカットが半径100cm、板の幅(一番狭い部分)が6cm、左右の板の中心の幅が20cm、角付け角をn°としてNgの荷重を与えた時、エッジの有効長全域が均等な面圧を受けて面上にあるとすると、これを正しくカービングターンさせようとしても絶対に滑らない(動かない)のだ。

オタクの期待通りに滑らせる為には、ターン内側になるであろう板のラディアスは100−20=80cmでないと辻褄が合わない。
この人形が滑ったのであれば、それはどちらか片方、あるいは両方共に「ズレ」が発生していたということになる。

これを雪の上でやったとしたら、雪の柔らかさが誤魔化してくれるとは思うが、両足の関係が剛体に近い人形では無く、人間では板は間違いなく交差してしまう筈だ。
それを避けるには内足荷重を高めて実効ラディアスを外スキーより小さくする(より大きく撓ませる)か、シェーレン状に保つしかないだろう。

人が楽しむスポーツという点で、今のところ人間にしか出来ない微妙なコントロールの一部としてヒネリ動作があり、それが後者にも使われているのに、何故かS○Jのオタクは人間をロボット並みに扱おうとしていて、前者に興味があるみたいだ。

日を追うごとに「イカレ度」が増すこの団体の行き着く先は、怪しさいかがわしさに於いてきっとトップクラスのカルト教団になるんだろーな〜。



2003/11/18
信仰心の超薄い信者(私)とは言っても、経典がどー変わったか多少興味もあったので、S○Jのサイトを初めてのぞいてみた。
「新経典解説 Part1、2、3 」を見てぶっとんだ。

オタクのでっち上げた経典の内容が誤解を生むらしいので、重ねて解説(言い訳とも言う)されていた。

もうゴカイもゴキブリもあったものじゃない。貴重なWWWサイズを使ってまでいちいちコメントするのもアホらしい内容に、スサマジー怒りがこみ上げたね。

技術に関するモノは殆ど意味不明や矛盾だらけで「ゴミ以下」だと言い切ってしまえるが、看過できないし、「ふざけるのもいい加減にしろよ」と思ったのは、「感動」に至る過程まで系統立てていちいち指図している点だ。

テ○ーらなんかに言われたくネーヨッ。

テ○ーらとは「新経典完成! 教○本部会議開催される・・・の巻き」に並んだバ○ズラ連中のことだ。
この方々は一体何様のつもりなんだ老化。

「新経典解説 Part1、2、3 」だけじゃ足りなくて4、5、6、・・・・と永遠に続くのカモ。

権威ある団体(笑)が見向きもされなくなる日はそう遠くないような気がしたのはヨシとしても、オタクのトバッチリ食らって、スキーそのものがそうなったらマジで困るんだよね。


2003/11/14
ちょっと以前のこと、価値とすればせいぜい数十万円と見られていた絵が、ある高名な画家の手によるものだと判ったとたん、それが数千万円だか億だかに跳ね上がったことがあった。
このニュースを見た時には思わず笑ってしまった。「ヒョータクレの皆さん、あんた方の目は節穴かい」と。

後日「やっぱり違ってました〜」となった時に、はたして絵としての価値はドーなるのか興味深いところ。
これに似たことはけっこうあるし、過去に技○選でもあった。

技○選に参加する選手は各都道府県の代表なので、予選段階では技量に相当開きがあるのは否めない。
その大会で、ある県の選手が出走前に有名な(笑)選手の名前と間違えてアナウンスされてしまった。

ドーなったか?

ナント・・!本人もビックリの高得点が出たのだ。

たまたま何かの係りだったかして私も現場に居合わせており、本人には大変失礼だとは思うが、彼がその有名な選手だとしたら、「どうしてあんな滑りをしたのだろう?」という、どう贔屓目に見ても失敗したとしか思えない滑りだったし、同僚も「○○にしてはエレー下×だなー」という感想を漏らしていた。

滑り終わった当の本人でさえあまりの高得点が腑に落ちない様子だったが、この一滑りで予選を通過してしまったものだから、彼も、又彼の所属する県連の関係者も笑いが止まらなかったことだろう。

結局大事なのは物事の本質では無く、ネームバリューやお墨付の世の中なんだと再認識させられた一件だった。
こういう世の中だからと言って、スキーも○チな団体の評価なんかにすがっていたら大切なものを失ってしまうカモ。


自分自身のスキー
2003/11/11
今年も雑誌は相も変わらず「○○合格への○○」などとタワケた記事を組むことだろう。

バッジや指導員の資格は本来の姿(んなもん最初からあったかドーか?)ではなく、「位」としての価値こそが関心事であって、本当はバッジと指導員ではその性格は異なっていることさえ気付かない。「位」の一つがバッジであり、指導員と言う訳だ。
指導をしないシドーインか・・・・・、笑えるな。

人は会社や団体等、多かれ少なかれ某かの組織に属している。その中でアイディンティティーを認めらる為には「位」が必要だったり、資格が必要だったりする。つまり、自分の「内なる力」とは関係の無い外部による「与えられた価値」によってあたかもそれが自分だと錯覚させられる。もっともこれは生活の糧を得る為には必要なことかもしれない。

が・・・、殆どの場合糧を得られないスキーにこうしたことが必要なのだろうか?。
常に組織のお墨付きが無いと安心出来ない国民性なのかもしれないが、その心理をS○Jは上手く突いている。ヤルネ〜

バッジ取得は「習熟度確認」や「励み」の為という人が多いが、ホントジャロ〜カ(笑)。

プロスキーヤーに三浦雄一郎という人がいる。
彼は昔富士山を直滑降した。
滑った距離や場所はともかくとして、一般人のイメージとすれば天辺からだと思った人もいたかもしれない。とにかく鮮烈な衝撃だった。

当然スピードが出るので減速にパラシュートを使った。これは減速用というより、いかに速いかを演出する上でもっとも効果的な小道具だったと思う。
スキーをある程度知っている人なら、微妙なバランスで滑走中にパラシュートが開いたらどうなるかは容易に想像できるからだ。
著書では「200Km/h位出た」となってい たように記憶している。

当時イタリアのチェルビニアで行われていたスピードスキーの大会 (キロメトロランチャート)では斜度35°程度の完全に整備さ れたコースを使い、ツルツルのレーシングウエアを着て、最高速度が180Km/h位(現在は240Km/h前後に達している)だった。それから推察するに、普通のウエアにパラシュートを背負っての滑降で200Km/hは難かしいと思う。

しかし実際に速度が測られたわけではないし、第一その真贋を問うのはナンセンスでもある。
彼が200Km/h出たと感じたのであれば、それは彼にとって真実なのであって、滑らない外野がとやかく言う問題でもない。

「スゴイ」というより「ヤラレタ」という感じだった。
大会等ではさしたる成績も無かった彼が、スキーで食べていこうとすればこうする以外無かったのだろう。
この時初めてプロスキーヤーというのが居るのを知った。

パラシュートを使うという発想も、キロメトロランチャートに出場する際、風洞実験をしたのも彼が始めてだったと思う。こういうマンガチックな冒険の話は私は好きだ。
しかし反面、こうした売名行為に当時の私はそれなりの不快感もあった。今より純粋だったから(爆笑)

自分は「スキーで食べていく」という強いプロ意識と、命を賭すことも厭わない、どうしようもないスキーバカになり切ることがなければ出来なかったことだろう。

S○Jのどんな肩書きを持ってしても、知名度(スキーが上手い人)という点で三浦雄一郎氏には遠く及ばないし、例えオリンピック選手でも時が経てば忘れられる。

その後のエベレストやその他モロモロは周知のとおり。
「どこをどの程度どのように滑ったか」などはもはや問題ではない。多くの人が知っていながら、誰も滑ろうとしなかった山を「最初に滑った」という事実こそが大事なのだ。
一般的にスポーツのプロフェッショナルは技術的にアマチュアより遥かに高いレベルにあると思われている。そしてプロを名乗るにはそれなりのテストをクリアしなければならなかったりするから、その多くが実際高度な技術を持っているものと思う。

しかしことスキーに関して言えば、誰でも「私はプロ」だと宣言できる。
アマチュアのレースで勝てなくなったスキーヤーや、特別何かの肩書きが無くても、そこそこ滑ることが出来れば「○○プロスキースクール」といった具合に、もっともらしい名称をつけて収入を得ようとする人が大抵このスタイルだ。

他にもS○Jが「彼(彼女)はプロ行為をした」と認めればアマチュア資格は剥奪される。つまりネガティブな意味で自動的にプロになれるのだ。

今でこそプロを名乗るスキーヤーは大勢いるが、誤解を恐れずに言えば技術的にも収入面でもアマチュのアトップクラスには遠く及ばないし、実際スキーだけで食べている人は僅かだと思う。

こういう現状を知ってか知らずか、いきおいアマチュアの権威ある団体(笑)S○Jのお墨付きに価値を認めることになるのも無理からぬことだろう。

年を重ねるごとに体力は低下し、技術はいつしか凌駕される。その時の心の支えとして「位」を持っていたいのだろうか?

与えられる価値と創り出す価値。プロスキーヤー三浦雄一郎は勿論後者だ。

ショーマンシップという点で彼は唯一のプロフェッショナルスキーヤーだと思う。
スキーの楽しさ愉快さ、そして可能性を身をもって示してくれたし、上手いことが楽しめることや稼げる(^^)こととイコールではないことも。

スキーに価値があるとしたら、非日常に於ける精神的自立なのではないかと思う。

バッジテストその2
2003/10/28
ドーして「マヌケだったりバカバカシー」と感じるか?

バッジテストの良し悪しは別にして、3年前の改定では「5級からクラウンプライズまで一貫した技術基準で習熟度を評価する」という多少マシな路線に気が付いたかに思えた。

マシというのはつまり、スキーの習熟度を0〜100点(これにも無理があるが)の範囲で、それぞれの習熟度合いについて得点を与え、級毎に範囲(例えば1級だったら70点以上80点未満)を決めるというものだったからだ。

再び以前のシステムに戻った70点が合格ラインとする考え方は、上記よりはるかに無理がある、というより殆どデタラメと言ってもよい程ヒドイものだ。

何故か?
例えば2級の合格ラインを70点とした場合、2級の100点の滑りとは一体どのようなものなのか、あるいは同じ70点が合格ラインの1級100点の滑りとは?
これについてはバッジテストの改定に携わった関係者の誰一人として明確な回答は出来ないだろう。

100点の滑りがどのようなものかもイメージ出来ないまま、曖昧な判定基準で合否を判断するなど、コーニン検定員がどんなにエライ人か知らないが、極めて僭越というものだ。
タダならお遊びで済ませられるが、何しろ受検者はベラボーな検定料を支払っているからだ。

にもかかわらず、バッジテストというシステムが出来て以来、長年この方式が何の疑いも持たれずに続いてきたのは、70点=0点という暗黙の了解が受検者側と検定員側の双方にあったからだろう。

技術の習熟度を見るというのは、とどのつまり「このレベルの滑りだったら」という誰でも目にすることが出来、イメージ出来る具体的なモノでなければならない。であるなら、そこに至っているかいないかの「可否」だけで充分な筈だ。

千歩譲って、誰もイメージすることが出来ない100点満点の滑りがあるとしても、そこからどこがどういう理由で何点のミスかも皆目不明な減点を食らって「71テ〜ン」とか「69テ〜ン」と、もっともらしい検定員のお言葉に一喜一憂する多くの受検者を今年も目にするかと思うと、同じスキーヤーとして心が痛む。
お上のお達しとはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
ちなみに検定種目が複数あるのは、本当は受検者がテキトーに滑って来るのを一回見るだけで充分なのに、一種目(一回)見ただけじゃ「マジで解らね〜よ〜」とウロタエるケンテーインがしこたま居るから、S○Jもマヌケな心配しちゃって何度も確認させる為に種目をでっちあげただけなのだ。決して受検者の為なんかじゃないので、そこんとこヨロシク!。

こういうサギに近いイベントでも、マジメに取り組もうとしているスキーヤーも居る訳で、S○Jが彼らのことを考え、又将来のスキーシーンを少しでも憂いていたら、思いつきで小回り外したり加えたりして、いたいけなスキーヤーを弄ぶマネはしないと思うよ。

バッジテスト
2003/10/27
検定種目が変わった。
スキー技術の習熟度を見るだけなのに、たいそうな種目?を並べて、それぞれにもっともらしい得点を付けるなんて行為はチャンチャラ御菓子ーと思っていたが、マヌケなシステムが復活した。

3年前の改定では、それまで習熟度の評価が

「5級からクラウンプライズまで一貫した技術基準で配列されていなかった」

らしいから

「5級からクラウンプライズまで一貫した技術基準で習熟度を評価する」

に変えてみたら、コーニン検定員サマがウロタエたので、マタマタ

「ヤッパ5級からクラウンプライズまで一貫した技術基準で配列しないことにしちゃったもんね」

ということになった。

つまり、検定員が気ままに滑る受検者を漠然と見ていても、その滑りが上手いか下手か、何点が妥当かが良く解らないから、予め「この位だと1級、この位だと2級」と先入観を与えておき、それでも悩むと可哀相(検定員が)だから、本当は自由に滑る様子を見るだけでいいのに、受検者にも課題(種目)を与えて「けっこーイケテルジャン」と思ったら「70点でいいよ」という風に、実にバカバカシーシステムに戻したという訳だ。

そういうことだったら、以前も書いたように合格を70点以上と決めなくても、0点を合格としたって全然問題無いし、でっちあげた種目のトータルが0点以上だったら合格にすればいいだけの話だ。

たてまえは種目毎の持ち点が100の減点方式だと思うが、検定員の誰一人として減点法で得点をつける、あるいはつけられる人は居ない。

級によって違うとは思うけど、合格点が60でも70でも80でも級別では精々±5点が検定員共通認識による「無難な線」というところだろう。
何故なら今までだって「スンゲー上手い」と思う受検者だって75点止まりだし、目を覆いたくなるような滑りだって66点(^^)がいいとこだ。

神業に近い滑りだと思ったって80点はおろか、ましてや100点なんて付けられる勇気のあるヤツは一人も居ないのだ。

0点を合格としたら集計だってチョー簡単だし、計算ミスもあり得ない(簡単な足し算をミスるッツーのも不可解だが)。
もしかしたら+−の計算がわからない検定員が居るかもしれないというS○Jのありがたい御配慮かもしれない。

新しい検定種目には小回り(ヴェーデルンと呼べば良いのに)が復活した。

これ一つとってもスデニ検定システムは崩壊している。・・・・「ホーカイ?」なんちゃって。

以前のバッジは無効だな。残念ながら・・・・アハハ・・・

外野やS○Jの愚行に振り回されず、スキーを通じて自分自身が持つ神秘の能力に触れる旅に目を向けて欲しいものです。
それぞれの旅、それぞれの感動。
「誰が上手いか」とか「自分のレベルは」なんて、きっとゴミにも値しないと思えるようになるのでは?

新たなシーズンに向けて
2003/10/26

山を見たらウサギ平まで雪が降りてきていた(10/24)。新たなシーズンが始まる。ワクワクするな〜。だからNEWページ。

スキーに限らないが、道具を使うことによって引き出される人間の潜在能力は驚異としか思えない。
人の他にも道具を使う動物がいるとはいっても、それらとは比べものにならない。
裸のままでは人の能力なんてたかが知れている。しかし道具を手にした人間はドーだ?。月に行って帰ってくることさえやってのける。

様々な欲求で道具を考え創りだす人間の夢と希望っていうのは実際凄い力を持っているんだなと思う。
と同時に、便利な道具だからといって、それ単体ではただの物に過ぎないから、その能力を発揮させる為の知恵だって使い方だってあるし、それなりの練習も必要になる。

道具とはいっても、中には何のためにどのように使うものかさえ解らない物だってけっこうあるから、例えば赤道直下に暮らしている人にスキーを見せても、大抵の人はそれが何なのか理解できないだろうし、ましてや使い方なんか思いも及ばないと思う。

先日スキー場の刈り払いに行ってきた。
大勢で広く長いコースを下から刈り上げて行くのだが、帰りは登山道がある訳でも無く、急な斜面に刈り倒された滑り易いカヤや雑木の上を歩いて下るから、転ばないように降りていくのは大変だ。
たかだか400m程度のバーンなのに降りるのに10分近くも掛かってしまった。
雪があり、スキーを着けていれば20秒と掛からない斜面なのに。

もっともスキーさえ着ければ誰でも即その恩恵に与かれると言うものでは無いし、むしろ慣れないうちは逆に時間が掛かるかも知れない。

スキーは走ったのでは到底不可能な短時間で距離を稼げる便利な道具という以上に、ちょっとした土手を滑り降りるだけでも、非日常的な移動感覚が怖さと同時に不思議な愉しみとして実感出来る。例えその後に転倒が待っていようと。

スキーをするということは、他の道具同様、素の人間では成し得ない新たなポテンシャルを手に入れたということでもあり、それによって得られるパフォーマンスと、それを引き出す過程こそがスキーの根源的な魅力なのだと思う。でなければいい年をしたジジー(私のこと)が50年以上もハマり続けるワケがない。

上手下手(^^)、あるいは納得がいくいかないにかかわらず、「スキーで滑った」という事実が既に自身のパフォーマンス向上を証明している。普通はこれだけで充分満足出来る筈(^^)。

蛇足の蛇足:
習熟度を他人と較べたり評価されるのは、ある面で励みになったり楽しいことかもしれないが、大事なのはあくまで自分自身のパフォーマンスなのだ。

案の定検定内容が変わったみたいだし、これを踏まえて次回は・・・・・・・@+*><}{??¥・・・・いつもの調子を取り戻せるカモ(^^;

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