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斜滑考]V

斜滑考]W


斜滑考Y

渋滞 無駄に長い話でキョーシュクです 2003/10/03
給湯器 エコキュートなるもの 2003/09/30
斜滑考 「言いたい放題」改め「斜滑考」にしました 2003/09/28
ワインの味その2 アル中のすすめ 2003/09/25
ワインの味 美味しい筈のワインもゴタクが過ぎると・・・・・(^^; 2003/09/24
フラフラ 原付のオバサンに教えられたこと 2003/09/05
つちのこスキー ド〜ヨ(^^:・・・9/02一部訂正あり 2003/09/02
道具と技術 道具依存症からの脱却 2003/08/31
タジタジ 説明はムズカシーの巻 2003/08/27
転倒を科学する 結局不明のままでした(泣)・・・8/25一部訂正あり 2003/08/25
すばらしきオタクの世界 日本スキー教○指導理論編 2003/08/12
新オタク理論 持続する混沌 2003/08/03
ヘ〜2 オタククラブの暇つぶしは身内だけにしてね 2003/08/01
へ〜 キョーテーもケンテーもモロモロ変わるらしい 2003/07/31
ワビサビ 合理と不合理のハザマで悶えるのだ(笑) 2003/07/27
Immortal Skier あるスキー教師の死 2003/07/16
二枚の板の上の自由 自己責任 2003/06/20
透明な時間 ドリームズカムトゥルー 2003/06/12
指導員W スーパースプレッダー 2003/06/09
力ずく 深雪入浴の勧め 2003/06/01
実験 片足立ち ちょっとしたこと 2003/05/30
指導員V 知りたいこと 2003/05/30
指○員U マットーなスキーの為に 2003/05/28
イマジン いろんな場面 2003/05/19



2003/10/03
スキーはリカバリーの連続。常に理想的なポジショニングなんて、例えどんなに仲良しのカップルだって喧嘩するのと同じ以上にあり得ないことだ。

喧嘩の原因はつまらないことによるものが殆どだろう。例えば・・・・

行楽地に向かう山道で渋滞にはまり、新車のロータスエリーゼの助手席に座った彼女との間にはスデニ話題も尽き、水温や油温の上昇と共にクラッチの滑りも気になりだした頃、ふと気が付くと彼女は大口をあけてよだれを垂らしていたりすると、ミッドシップの背後から直撃するメカノイズで気付かなかった彼女のいびきも、エリーゼには似つかわしくない400Wのパワーアンンプでいきなり直撃されたかと思うほどの音量に感じるかもしれない。

挙句の果てにオープンエアーのエリーゼは、絶対整備不良と思われる観光バスから吐き出される大量のパティキュレートマターを浴びるので、トップをかけようにもノロノロ進んでいるからそれも出来ない。

ただでさえ渋滞でマシンのコンディションが気になっているのに、「この状況は一体なんだ?」と無性に腹が立ち、やっとのことで目的地に辿り着いても、美しい景色に感動することも無く不機嫌になって、昼食に彼の喜ぶ顔が見たくて4時から起きて今までより100倍気合を入れて作った彼女の気持が一杯詰まったお弁当のことや、ましてや「眠ってしまったのは自分の為に早起きしてくれたからだ」などとは間違っても思い及ばず、長いようで短かった5年間の付き合いに「この際ピリョードを打とうか?」と本気で考え始めてしまうのだ(^^)

本当なら言葉なんか無くたって、美しい紅葉を観ながらの楽しいワインディングランだった筈だ。
腹立たしくなった原因ははっきりしている

渋滞!

その脇をバイクですり抜けようとしたお節介なオジサンが、この重苦しい雰囲気を敏感に察知出来たのは、日頃から「ロータスエリーゼ欲しいなー」と、漠然と、しかも絶望的な望みを抱いていた所に本物が現れたからだ。
そのオジサンライダーが

1:話題が尽きた
2:彼女が寝た
3:しかも大口を開けていた
4:しかもイビキまでかいていた
5:しかもよだれをたらしていた
6:バスの黒煙を浴びた
7:トップをかけられなかった
等々・・・・沢山・

というような理由を挙げ、話題が尽きないようするには?彼女が寝ないようにするには?しかも大口を開けないようにするには?・・・・・?・・?などともっともらしい対処方法をアドバイスしはじめたとしたら、マヌケもいいとこなのだ。

無駄に長くなったけど、スキーも本質を見失った枝葉末節の技術論はこんな感じカモねっ(^^)

給湯
2003/09/30
中○電力のテレビコマーシャルに「空気でお湯を沸かすエコキュート、これからはそういう時代よね」
・・・・っと酒井ノリコがしゃべっているのがある。

コマーシャルの間「電気を使う」という言葉は一言も出てこない。
常識的には「電気を使って沸かすんだろうな」と思うところだが、これを聞いた内の何%かは、本当に空気だけでお湯が沸くのだと思ってしまう人もいるだろう

その仕組みは不明だが、電気を直接熱に換えるより、ヒートポンプ等を使って空気の熱を利用した方が効率は良いとは思う。
が・・・空気をそのままでは利用できない。
もし他のエネルギーに頼らず、本当に空気だけでお湯が沸くとしたら、様々な環境問題は一気に解決するし、社会のシステムだって根底から変わるかもしれない位のもだ。

その大発明を中○電力は「やった」と言っているようなものだ

このCMが誇大広告で問題にならないのは不思議だが、「酒井ノリコはカワイーから許しちゃう、○井○カコだったら絶対許さん」というレベルでは無く、殆どの人が「そんなもの電気使ってるに決まってるジャン」と暗黙の了解があるからなのだろう。

「原発はクリーンで安全な発電方法です」ってなことを聞くが、本当は「原子力はこんなに危険でとても厄介な廃棄物も出ます。しかし万一の場合にはコレコレで万全の対策を採っているので心配はありません」というような言い方をしてもらえば、少しは納得できるし信用もする。が、現実には「安全です」一本槍だ。
そんなに安全なら一番電力を使っている地域の東京湾に、せめて原発と核廃棄物処理施設の一基位は作ることをお勧めする。そうすれば「原発は安全です」という説得力も一気に高まるというものだ。

話がとっちらかってしまったけど、スキーの理論や技術論だって「エコキュートのCM」にちょっと似ている所がある。
真っ直ぐ行きたいから、あるいは曲がりたいから「曲げる」という一番大事な気持ちの部分が飛んでしまっていて、「どこをどうすればドーなる」というような方法論があっちからこっちから、次から次へとボーフラのように湧いてきて、素直な心の動きとは乖離した話ばかりだ。
これには真冬の襟裳岬に3時間放置されてシモヤケになった痒い足の指をスキー靴の上から掻いているようなもどかしさを覚えるし、いずれ凍傷になってしまいそうな危機感さえある。

まず問答無用で曲がろうとする。無駄な力も大いに使うだろう。立っていることさえ難しいかもしれない。しかしこの原点を曖昧にしてスキーの楽しさは語れないと思う。

スキーはスキーヤーの意思によって操作されるもの。例え強引であっても、「どこに行こう、どの位曲がろう」という行為を、より合理的、効率的に行う為に技術論や理論がある訳で、「こういう風にしたらこういう風になってしまいました」じゃ〜面白くもなんともないのだ。



斜滑
2003/09/28
「言いたい放題」っていうのはどうも「言いっ放し」みたいで、ちょっと無責任な感じもしてきたので、タイトルを変更しました。

で、早速斜滑考・・・・じゃなくて「斜滑降」について。

斜滑降というのは直線で斜面を斜めに滑ることを言う。もし直線でなく曲がったとすれば、それは「ターン」と言う。
エッジがしっかり効いていると、好むと好まざるとにかかわらず、大抵スキーはカーブを描いて山側にターンして行く(ニシザワのツチノコスキーではドーだったかは覚えていない)。

斜面の端に目標を置き、それに向かって斜めに真っ直ぐ滑ると言うのは簡単そうで実はけっこう難しい。滑った後のシュプールがどうなっているか振り返ってみれば一目瞭然だ。

スキーがカーブしてもエッジを弛めないで滑るのが正しい斜滑降だと言う人もいれば、エッジが多少弛んでいても真っ直ぐ斜めに滑るのが正しいと言う人もいる。

カーブ派(笑)は真っ直ぐ行くのは斜め前の横滑りで斜滑降とは言わないと信じているし、真っ直ぐ派はカーブするのはおかしいと信じている。

私は目標物に向かって正確に到達する為にはエッジも多少ダルにして、進路のコントロール(微妙な脚の捻り戻し)が可能な滑りが良いと思う。
だからといって、どこまで曲がっていくのかわからない「エッジガッチリキイテルゼッ」のシュプールと比べてもその幅は大して変わらないし、以前にも書いたけど、バランス維持の難しい「エッジガッチリキイテルゼッ」状態より、多少ダルの方が遥かに気楽に安定して滑られる。

このズレているけどズレ落ちる(横滑りになってしまう)のでは無い、極く細い斜滑降のシュプールのイメージを保ちつつ、そのままターンに入っていくと、力まずに安定して且つ切れの良いターンが出来る。

「マジッスカ〜」・・・・「マジマジ」・・・・今度のシーズンは是非試して頂きたい。

昨今はサイドカットちゃんが大いに協力してくれるので、ケータイでしゃべりながらでもOKっつー位簡単だもんね。


ワインの味その2
2003/09/25
私はアルコールはブチョウホーであまり飲めない。愉快な仲間達と旅に出た時にだけ飲むナマチュー一杯が限度だ。
飲めないヤツがアルコールのゴタクを述べるのも何なんですが・・・・(^^;

ワインを飲もうと思った時、ソムリエやその方面に詳しい人がいて、ウンチクをサラッと語ってくれるだけなら一応「フムフム」と何となく分かったような気がして「よく知ってるな〜、親切な人だな〜」と感心するのだが、これが正しい飲み方の作法から始まって、「このワインはドータラコータラだから適温はドータラコータラでドータラコータラ・・・・延々・・・」と続くと、モー飲む前にうんざりしてくる。

アルコールを嗜む時にある程度のウンチクは期待が高まるし楽しいものだが、それが度を越すと「そんなことまで知らないとワインは楽しめないのだろうか?」となる。
やっと飲んだら延々とカマされたウンチクとは全然違う味に感じたりして「オレの味覚はオカシー」と思ったりもする。

最初は味に気をとられていても、アルコールが回ってくるとそんなことはドーでもよくなって、愉快な気分になった頃はウンチクなんてウンチの役にも立たなくなる。

スキーを他のものに例えればワインに限らず沢山あると思う。
先ず飲んで見る。そして酔うことが楽しいと感じたら、○ド吐きの苦しさを何度も繰り返し、その都度「も〜二度と飲まない」と心に誓いながら、後はアル中に向かってフルパワーで突き進んでいくのだ(^^)


ワインの
2003/09/24
ワインの種類は星の数ほどある。その中から価格が現実的で好みにあったものを選び出すのは、もう絶望的といってもよいほど難しい。

ワインの良し悪し(当たり外れ)は仕入れ業者の質(造詣の深さ等)で殆ど決まってしまうと言ってもよい。
アルピーヌのワインは信頼できる業者から仕入れていて、品質に関してはそこそこのレベルを保っていると思う。
購入に際してはある程度万人向けで、あまりクセの無いものと、少しあるものいうことで、お勧めの何本かを試飲して独断と偏見で数本だけ仕入れる。

とは言ってもお客様が注文時に参考になるように、メニューには多少の能書きを添えている。

品名:ビンテージ:生産者:品種:格付:そして特徴:

特徴にはワインの凡その味をイメージ出来るような説明を付けている(業者が)。

例えばBlanc(白)のCuvee Valerie(キュヴェ バレリ)2001は

「酸味が生き生きとしたすっきりした印象ながら、複数品種のブレンドによる味わいの広がりがあり、後味は強めのミネラルを感じさせる切れ味が魅力」

Rouge(赤)のChateau Prieure de Sainte Barbe(シャトー プリュール サント バルブ)2000は

「ボルドーワインらしい色と香りと共に、完熟したフルーツのような上品なのみ心地。カジュアルでありながら時間を掛けて飲んでも十分楽しめるワイン」・・・とか

「フレッシュな赤い果実の香りと滑らかで調和の取れたタンニンが・・・・」

というような能書きを読んだだけで「味」をイメージ出来る人はそう多くはないだろう。殆どの人は「ナンノコッチャ?」と思うのが普通だし、何となく解ったつもりでも味覚は人それぞれ異なるので、イメージとは程遠い味だったりして、結局飲んでみなければ解らない。
数万円のワインより数千円の方が美味しいと感じる場合だってある。
スキーの技術解説や理論もこれに良く似ていて、S○Jや雑誌がゴタクを並べれば並べるほど素のスキーの味わいは希薄になっていくような気がする。

はっきりしているのは
ワインはブドウから造られている。そして造り方の手順は昔から変わっていないということ。

リンゴやその他の果実酒を「美味しいワインだ」と言う人がいても、私はワインだとは思わない。

フラフ
2003/09/05
昨日久しぶりにビーナスラインを走って来た。

高原にはマツムシソウや陽の光を浴びて銀色に輝くススキの穂、色付き始めたナナカマドの実。丘の向こうには入道雲。
秋と夏が同居していた。

途中松本市内を通った。
原付のオバサンが脇道から飛び出した。
自分のことしか考えていないから、路地から脇目も振らず飛び出して他車にブレーキを掛けさせ、悪くすれば事故を誘発するかもしれないなんてことはこれっぽっちも考えていないし、気にもしない。
こういうオバサンだって原付自転車には乗れる。

フラフラ走っているから乗り始めてそんなに経ってはいないか、学習能力が??かは知らない。
4輪免許の付録か、原付の試験を受けて取得したかも知らないが、とにかくイキナリ公道を走れる原付は、オバサンにとってチョーお手軽移動手段だ。

理屈なんか知らなくても本能で(笑)オバサンは走っている。
オバサンがフラフラ走るのはある意味で正しい。
フラフラしないと倒れるからだ。

原付だろうと大排気量だろうとレーサーだろうと2輪車は2輪車、走る原理は全く同じだ。
その内あまりフラフラしなくても走れるようになるだろう。

で・・・・このオバサンが少しは周りの交通にも配慮して、とても上手に走れるようになったとしても、鈴鹿サーキットを2分7秒台で走ることができるだろうか?多分出来ないと思う。理由はあるけどあえて書かない。
傍目にも自分にも、そう感じなくてもMCはフラフラしながら走る。
フラフラするのはハンドルを操作しているからだ。

スキーも実はフラフラしながら進んでいく。
フラフラしないと転倒するからだ。
フラフらが止まった時に転倒する可能性が急に高まる。

MCはハンドルが付いているからオバサンでもフラフラさせられる。
スキーは何も付いていないからけっこう難しい。

スキーではハンドルの代わりはヒネリしかない。これはどんなにエッジが立っていても、どんなに上手になったとしても同じ。
でも今の風潮はこれにあまり触れたくないようだ。

MCはタイヤが荷重を支えているからラクチンだけど、スキーは自分の足で支えなくちゃならない。
支えていながら且つフラフラさせないといけないから大変だ。それも左右バラバラに。

繰り返しの練習はこの「フラフラ感度」を上げるためと言っても良い。

ネロ(犬)はカーブする時に教えられなくても内側に体を倒して走る。足の運びだって上手いものだ。そんなことは人間だって同じで原理を説明されるまでもない。


数年前カービングスキーとその技法?が華々しくデビューした時、「アー自分の時代は終わったんだな、全く違う時代になったんだな、もう陳腐化した技術を他人に教えることは無いだろうな」と正直に言ってすっかり自信を無くしてしまった。

しかし悪あがきしている内に見えて来たものがある。
今の技術論は漸くフラフラが目立たないように走れるようになったオバサンに、体重移動やニーグリップやリヤステアや膝スリの方法を教えようとしているかのようだ。

例えサーキットのような最良のコンディションでオバサンがこれらをマスターしたとしても、山道の悪路、それも大小の石がゴロゴロしていたり、滑りやすい泥濘がいたる所にある道をハンドル操作無しに走り切れるとは思えない。強いキックバックを力で押さえ込むのだってハンドル操作だからだ。

ピステもオフピステもこんな状況がテンコモリだ。

ハンドル操作=ひねり行為

これはスキーをする上で最も大切だと思う。


つちのこスキー
2003/09/01

左がいわゆるカービングスキー。
右がNISHIZAWA949スラローム用レーシングモデル204cm。

このスキーを生み出した背景には、ターンの切り替えはスピン的な動作であり、それをブーツセンター辺りの接雪範囲を極力少なくすることでヒネリ操作を楽にしようとの考え方があったものと思う。

アイスバーンでは荷重がブーツセンター付近に集中し、エッジに掛かる単位面積当りの荷重が多く、エッジは良く効いたが、逆ラディアスのサイドカットの為に、タワミはある程度使えるものの、ターンを維持するには終始回し(ヒネリ)続ける必要があった。

形状から想像出来るように、大半径のターンではスタビリティー関しても問題があったので、殆どSL専用機だった。

この板は全日本のA級レースでもそこそこの成績を残したが、ターン全域に渡ってスキーヤーに過度なコントロール技術を要求したため、2年位でラインナップから外れた。
異次元滑走感覚(笑)のつちのこスキー試乗を希望する向きは、八方尾根スキースクールに問い合わせてみてください。

もし今風の板しか知らないのであれば、如何にドーグに頼っていたか、スキーの基本とは何か?がストレートに解ると思います。

道具と技術
2003/08/31
四輪車で直進していて進路を変えるには曲がりたい方向にそのままステアしますね。その時例えば左にステアすると身体は右に押しつけられるように感じます(慣性抵抗)。
MCではこの力を使ってコーナリングのきっかけを作ります。 とは言っても、四輪車のように左右に腰や上体を支える物が無いので、本人がこの慣性抵抗を具体的に感じることはまずありませんが、結果としてステア方向 とは逆に倒れていくということになります。
ハンドルを切る(実際はターンしようとする側のハンドルを押す)と相対的に「ベクトルの指す位置」が曲がりたい方向に外れるということです。

こう書くと逆向きに大きく舵角が付くのでは?と思われますが、「ベクトルの指す位置」を外すだけですから余程注意深くハンドルを観察していないと見過ごす程小さな動きです。

例えば右に曲がろうとしたら、ハンドルは一旦左に切れてから右に切れるということです。その後は自動的に正規の舵角がつきます。この舵角は丁度コインを床に転がして傾いた方向に回り続けるのと同じで、放っておけば次第に弧が小さくなっていって傾きも大きくなり、最後には倒れて止 まりますが、MCではアクセルワークでこれをバランスさせます。
ですから一旦旋回に入ったらハンドルには力を加えないのが正しい乗り方だと言われています。

「逆操舵」はMCの初期旋回性をスポイルするので、この現象が起きないように体重移動(ハングオフ)でMCを倒すのが正しい操作だという専門家も居ますが、前後ホイールのジャイロ効果もあり、体重に比べはるかに重いMCをハンドル操作無しの体重移動だけで希望する速さで希望するバンク角に持ち込むのは難しいと思います。

スキーの場合自動車同様、曲がりたい方向に板を向けるのは意志に素直な行動で良いのですが、それと同時に外側に倒れないように上体を内傾させないといけません。

この内傾をMCと同じように最初の「逆操舵」で準備が出来るのではないかと考えたのです。・・・・・が、

MC(自転車も)とスキーは決定的な違いがあります。
MCは走り出すとどうして自立するか?というようなことはこの際おいときます。

MCは一本の線の上でバランスを取ります。
スキーは左右の板で囲まれた面で取ります。
MCは停止した状態で自立は出来ません。

スキーは停止した状態で自立できます。
これはベクトルの指す位置が両スキーの内側にあるからですが、そこをはみ出ないかぎり倒れません。体重80Kgの人が両足に均等に荷重して立つと片側40Kgずつです。
ベクトルの指す位置から左右の足までは距離があるので、「ベクトルのさす位置」はすでに左右の足から離れています。
この状態で直滑降をし、そして上体を動かさないで片足を持ち上げると上げた側に倒れます。

ですからスキーの場合「ベクトルのさす位置」を外す為に逆操舵は必要無いとい うことになります。
ただし、連続してターンしている時、そしてそれが小半径で速い速度で切り返そうとする時は、自然に倒れるのを待っている訳にはいきません。

相対的なものですが「ベクトルのさす位置」を素早く次のター ンの適正位置に移動するためにも、チェック的な動作(ターンの切り増し、又は エッジングを強めて抗力を増やす)が有効なのではないかと思います。

ようやく動き出す程度のごく緩い斜面(秒速10cm以下)でパラレルターンを しようとすると、遠心力?も働かず、いわゆるスキーの技術書に書いてあるよう な力学的な現象や板の特性は殆ど利用出来ません。しかし両足を行きたい向きに捻ることでター ンは出来ます。

両足を雪面に付けた時にだけ得られる捻り(速い捻りで あれば慣性抵抗を利用出来るから片足でも可)の微妙なニュアンスこそスキーの醍醐味だと思っていますので、ズレの無いカービングはコントロールを失ったも同然だと再三書いてきました。

道具に依存した何となくよそよそしく味気ないスキーでは無く、気持ちと行動が希望した結果とシンクロするようなスキーをしたいし、それは例えどのようなレベルであったとしても、自分の力で成し遂げた充実感に満ちたものだと思います。
両足の捻り戻し(内外足の捻りの角度もその時々で違う)がスキーヤーの進路にどう関わっているのか、又その動きがバランス維持にとってどういう役割を果たしているのか、実感として理解はしていても、そのメカニズムを今のところ説明出は来ません。 しかしこれを解明することでスキーの本質が見えてくるような気がします。
スキーメーカーの技術者はエライッと思う今日この頃。何故なら彼らには分かっている筈だから。
個人的には道具の進歩はあくまで 技術のサポート役で、技術の基本が道具に左右されるのは変だと思っています。

以前ニシザワの「つちのこスキー」のことを書きました。
こういう形状の板でも特別な技法を要求されることは一切無く、ごく普通にスキーを楽しめました。
ラディアスに依存している今風の技術論では、サイドカットが全く逆のこの板でスキーは出来ないことになるような気がします。

近いうちに現物の写真をUPします。乞うご期待(笑)。


タジタ
2003/08/26
前回は転倒を科学しようとしたのだが、乏しく曖昧な知識では物理的力学的にオカシーと思える部分が目に付き、自分自身が「タジタジ」してしまった。が、メンドクサイので直さない(^^)。しかも恥の上塗りを敢行するのだ。

ドーしてスキーというスポーツの技法を「ピーン」とくるすっきりした方法で説明出来ないかを考えてみた。

板一枚だけ、あるいはスキーイングを大雑把な1本のラインとして考えたら、殆ど常識的な力学だけである程度納得できる説明は可能だ。しかし板は2枚ある(ハンディキャップスキーヤーだったら、アウトリガーを含めると3枚)からややこしい。

とりあえず2枚に限って考えてみようと思います。

何故2枚だと難しくなる(説明が)のか?暇な方は次の実験してみてください。そして何か発見があったら教えてください←ついに泣きがはいったりして(^^)。

先ず両足で床に立ちます。そのままどちらか片方の足を1°/1秒位のゆっくりした速度で捻ってみます。次に両足を同時に捻ってみます。どちらも簡単に出来ますね。勿論捻りの速さも自由に変えられます。

今度は片足で立ち、その足を同じ様に1°/1秒位のゆっくりした速度で捻ろうとしてみてください。
出来ませんね(^^)

多くの技術論もドーグのゴタク(性能)も、この片足をベースに語られているように感じます。つまり唯の物体に掛かる力だけで解決しようとしているかのようです。
これだったら板の何処に荷重して、それをどういう方向にどれだけ・・・・だけで、ある程度説明はつきます。

しかし、両足が雪面に接している状況でのみ、片足だけ、あるいは両足をゆっくり捻る(向きを変える)ことが出来るということは、お互いがその動作を支え(外力を提供)合っているということになり、これは道具やその性能云々を抜きにした「純粋な動作」として、力学以前のスキーというスポーツをする上での「最も直感的な真実」だと思うのです。

つまりスキーイングを考えるなら、まず最初に板の動きに大きく影響し合うこの相互の関係を明確にしない限り、真実は見えてこないのではないかとも思えます。
S○Jを含む各人各様の怪しげな技術論がまかり通るのも、この辺りの不明確さが原因なのではないでしょうか?

勿論片方の板だけで滑走している時もありますが、多くの場合両方の板が雪面に触れていることからすると、例え外足に「ベクトルの指す位置」があったとしても、外スキーの進路を調整する為の「捻り」操作には欠かせない外力の提供を受ける為に、内スキーは時々、あるいは僅かでも雪面に触れていることが必要なのです。
そして時には内スキーでさえ進路に対して積極的に関与する(捻る)場合もあるのです。

最近の板は確かに良くなりました。サイドカットや捩れ剛性、あるいは長さによる性格は様々でしょう、しかしそれらの違いがスキー操作の基本部分に及ぼす影響は僅かなものだと思いますし、逆にそれらに大きく左右されるようであれば、基本的なな技術に対する問題が解決されていないからだと思います。

例えば熟練スキーヤーが道具を換えたところで、傍目にはその滑りの変化は感じ取れないからです。
峠のワインディングロードをモーターサイクルで遊んでいると、そのうちガソリンが無くなります。
再び満タンにして遊ぶのですが、直後のハンドリングは大きく変わります。

愛車のRC30はタンクがボディーの最上部に位置しており、乾燥重量は180Kgです。
このモータサイクルに燃料を満タンにすると約200Kg、車体重量の10パーセントがガソリンということで、満タンでは重心が高くなる為か、倒し込みが重くなり、あるバンク角を越えると急激に倒れこむような感じがします。

しかしこのように感じるのはほんの僅かの間で、すぐにそんなことは気にならなくなります。そして再びカラになるまでの間に重心の位置は次第に低くなっていくのですが、それによるハンドリングの変化を感じ取ることは出来ません。

スキーも同様だとはいいませんが、多少の性格の違いはそれ程気にすることは無いと思います。

慣れですナレ!(^^)

転倒を科学する
2003/08/23
宿屋にとっては忙しい筈の夏休みだというのに、このページを見て引いてしまわれる方が多いのか、あるいは宿として致命的な欠陥があるのかは分からないが、アルピーヌは超暇なので又ゴタクを述べてしまうのだ(^^)。

転倒を科学する・・・そこから見えてくるもの・・・ナーンチャッテ始めたは良いものの、見えすぎちゃってモー収拾ががつかなくなりますデスッ。ハッキリ言って。

その一:
直立状態で身体の重心(本当は何処かわからない)が、例えばある瞬間雪面から1mの位置にあったとすると、その状態からだるま落としの様に脚払いを掛けられ、支えを失って雪面に倒れる時のことを考えてみる。

重心が雪面に到達する時間は横っ腹の脂肪の厚みを無視すると(^^)

初速度0、自然落下の加速度gとt秒後の落下距離Sは1m。

S=1/2g・t二乗・・・というのは誰でも知っているとおり。

g=9.8だから 1=4.9t二乗 t=0.45秒となり、重心が雪面に垂直に落下して転倒が完了するまでこんなに余裕があるということになる。仮に転倒に至らない50cmまで落下するとしても掛かる時間は0.32秒。

これだけあったら足の速い人なら走って4m〜3mは進むし、スキーで60Km/hだったら7.5m〜5.3mは進む。
普通は転倒まで、ある半径(<1mとしても)の弧を描いて落ちていくので時間はもっと余裕で掛かることになる。これがどれだけか?なんて話になったら角加速度がドータラコータラになってしまうので止めておくが、単純に考えても転倒までの時間はタップリあるということになる。

もし転倒を避けたいのならこの間にジタバタすれば大抵何とか出来るはずだ。その「何とか」が問題じゃネーカ・・・んっ!!??

ってなことを考えていたら自分の頭では説明の付かない問題がゴロゴロ出てきたのだ。

その二:
以前にも使い、そしてこれからも使うだろう「ベクトルの指す位置」について。

これは生物物理学者香川浩先生からの受け売りによる表現で、あらゆる向きの様々な力の合力が雪面を指している「点」のことと理解しています。

片足で滑ればその「点」は良く分かりますが、板は通常2枚あり、、それで囲まれる「面」があるので、厳密な意味での「ベクトルの指す位置」は実際に力を感じている両足の周辺ということになり、若干曖昧な感じもしますが、「ベクトルの指す位置」の所在の様子が実感に近いという意味で、何処にあるか皆目見当がつかない重心の位置をベースに考えるより、はるかに現実的だと思います。

つまり、より荷重を多く感じる方向に「ベクトルの指す位置」が移動するということです。
「円周率は3にスルベー」なんてメチャクチャなこと言ってる時代ですから、マー細かいことは言いっこなし(・・;ということで。

その三:
プルークスタンスはひとまずおいといて、パラレルターンの場合を考えてみる。

直滑降からターンに入るとき、先ず最初に必要なのは誰がなんと言っても「ベクトルの指す位置」をターンしようとする側に移動する。勿論相対的なものなので、「ベクトルの指す位置」はそのままでスキーの進行方向を次のターン方向と逆に向けてもても同じこと・・・キッパリッ。

このことを「重心移動する」と多くのオタクは言うが、この怪しい瞬間にそんな悠長なことを言ってる場合じゃないんだけどな。

つまり自分から不安定(そのままだったらいずれ転倒)な状況を作るということ。
曲がりたければ転倒するかもしれない危険を冒す。そうでなければ曲がれない。転倒リスクの無いターンはあり得ない。このあたりが面白いところ。

「ベクトルの指す位置」が板から外れると自動的にスキーはその反対側に押され、そして若干向きを変える。 ドーしてかを解説するとややこしくなるのでこれは割愛。

本当かドーかを手っ取り早く確認するのは「実験」が一番。
滑りやすい床の上に何か棒のようなものを立てて倒してみると、倒れ始めると同時位に棒の床側が滑って、倒れるのと逆方向に移動し、倒れた後、棒は立っていた位置より倒れた方向に移動するのが分かる。

滑りにくい床だったら、棒の移動距離はさらに遠くになる。これが何を意味するかというと、倒れることで床が棒を「斜めに押した」ということになる。

倒れただけで床に押される棒。
倒れただけで雪に押されるスキー。

だから倒しただけでスキーが曲がっていっても不思議ではない。そこにどれだけ人間が関与するかだ。

その四:
モーターサイクルでは傾けることを「バンクさせる」と言う。

ある角度(バンク角)まで倒れこんだら(実際は僅か倒れた瞬間から希望する角度までの過渡期においても)そこで安定させる為に遠心力(角加速度)を得、それ以上倒れるのを止める。「ベクトルの指す位置」を再び板の上に保つのだ。

そのためには同時に微妙な脚の伸縮が必要になるかもしれない。残念ながら、これは現場でないとうまく説明できない。 同じ速度なら弧を小さくすると(角加速度が大きくなると)バンク角を増やさざるを得ないので、これは大抵の場合下肢を倒すということになる。

腰から上が立ち、下肢が寝ている状態。つまりくの字姿勢(外傾)はもしもの時のリバウンドストロークを確保する上で絶対に必要な構えだし、もう一つ外向(下肢と上体との捩れ)は人体にネジレのバイアスを掛けるというか、テンション(プリロード)を掛けるというか、いずれにしてもフィードバック系が機能する環境を作るという意味で、これも進路の微調整(反射)には大いに役に立つと思う。

倒れそうで倒れない「不安定の安定」をあらゆる感覚と筋力を総動員して維持し、しかも左右に自在にコントロールする所にスキーの楽しさがある。
このバランス維持は大変そうに感じるが、前述したように転倒に至るまでの時間はたっぷりあるし、人間のセンサーは誰でも微妙な変化まで感じることが出来るので、慣れで解決できる(^^)・・・・オイオイ。

結局スキーの上達は繰り返し転倒して練習するしか無いってことですね、ナンノコッチャ(^^;

その五:
ターンの切り替えは重心とスキーのクロスオーバーなんちゃってるけど、アンタショーキですか?マジっすか?と聞きたい。コロコロ変わる重心が何処かオタクにはわかるんッスカ〜。

実際滑っている時の重心の位置なんて実感できる人は居ないだろうし、ましてや「エネルギーライン」なんて皆目見当もつかないのに、重心だエネルギーラインだ・・・・・他にもしこたまあるもっともらしいオタク用語を駆使して説明されても、元が曖昧だから理解出来ない。
しかしそれをマジメに述べてる人の話はある意味で愉快でもある・・・フムフム。
これこそ客観と主観のすばらしいコラボレーションの極致、ゲージュツ的ともいえますね。

ちょっと物知りのスキーヤーはこれにだまされる。とにかく「クロスオーバー」なんて響きはカッコE感じがするらしい。
「重心と板とのクロスオーバーの仕方が良く分からない」なんて話聞くけど、分からないのが当たり前でわかるホーがおかしい。

ターンしている時、ドッカにある重心とスキーは確かに離れている。そしてターンを切りかえると重心も切り替わる。この瞬間がクロスオーバーと言われるのだが、これは天の神様しか見ることが出来ない俯瞰2次元の話だ。3次元の話をしている時にいきなり2次元の話まぜられたんじゃウロタエルよ。

既に「系」として進行しているスキーイングで重心の位置が何処か?なんてことは気にすることもないし関係ない。ひたすら「ベクトルの指す位置」に神経を集中するのだ。
これは両スキーの何処かだし、実感に近い確かなものだ。「ベクトルの指す位置」を両足で操ると言う感じかな?

この位置をほんのチョコっと移動させるだけでターンの切り替えは終わる。つまり事実上のクロスオーバー(^^)は完了する。後は直進からターンに入る時と同様なのだ。前のターンが終わるのも、重心がついてくるのも俯瞰2次元で観察すれば、きっとその後からなのだろう。

その六:
ところが!!、そうは簡単に問屋が卸さないから困る。

もう一度確認しておくと、実感できるのはただ一つ、「ベクトルの指す位置」だけなのだが、 コトはそう単純なものじゃない。きっとブーツのなかでは微妙な調整をする為に複雑にベクトルが枝分かれしている筈だ。ただ体重を支える成分が一番大きな力として実感できるから、これを「ベクトルの指す位置」としている。

通常板は2枚ある。両スキーが雪面に接していると「ベクトルの指す位置」を再び2個に分けて考えなければならない。もしストックが雪面に接していたら3〜4個になるし、そしてそれぞれの「ベクトルの指す線」にネジレのモーメントが働いていたりしたらモーお手上げなのだ。

2枚の板は相互に大きく影響し合い、それは「スキーヤー系」の進行にとって重大な問題なのだ。どちらか1枚の板に掛かる力だけだったら話は随分簡単になるが、それでゴマカシチャオーなんていい加減なことはとてもできない。

その点誤解を恐れずに云えば一枚の板だけのスノーボードははるかに単純だ、「ベクトルの指す位置」はトー側エッジとヒール側エッジの間を行ったり来たりしているだけだから(^^;実際要領を会得するのも上達も早い。

その七:
モーターサイクルには舵がついてるけど、コーナリングは一枚の板みたいなもんだ。

どちらかに曲がろうとすると、まず曲がる方向の逆にハンドルが切れ(所謂逆ハン)、その後に正規の舵角が付く。だからS字が続く道をテンポ良くコーナリングするには直前のターン方向にさらにハンドルを切り増しして、寝ていたMCを起こし、逆に倒しこむ。

つまり安定したコーナリング状態の「ベクトルの指す位置(多分前後のタイヤの接点から接点までを結んだ線の何処か)」を瞬間次のターン方向に外れるような操作をする。

例えば右に倒れて定常旋回を続けているMCの旋回半径を一瞬小さくした(ベクトルの指す位置を外した)直後、左方向に向きを変えていく(定常旋回から局率半径が次第に大きくなり、直進状態を経て左旋回に入るということ)。

ハンドル操作無しの体重移動だけでも「ベクトルの指す位置」を変えることは出来るものの、地面から遠い部分から動かそうとすると切り替えしが超カッタルくなる。

スキーでは次のターンに入る直前「チェックを入れる」というような言い方をするが、完全にズレが止まらなくても、直前より強いエッジングによって、旋回半径が一瞬小さくなるので、これは、「ベクトルの指す位置」を次のターン方向に移動させる有効な方法だ。
ちょうどMCで舵角を切り増した(次の旋回にとっては逆ハンになる)時と同様の効果が得られる。

その八
正真正銘のカービング(レール)ターン・・・・んなもんあるかドーかは知らない。が・・・

ゲレンデには2本のトラックをつけて滑るスキーヤーもいる。
半径が異なり、しかもその平行を保ってカービングターンをする為には、当然内スキーに多く荷重されていなければこういう現象は起きない。
全くズレないターンを切り返すのはカッタルイ。
つまり「チェック(逆ハン)」の入れようが無いし、しかも正しいカービング(笑)だったら内脚に多く荷重されていなければ理屈が通らない。

だからカービングでの小回りをヴェーデルンの様に軽快にこなすことはマズ不可能だろう。

板の2枚をそれぞれ外足荷重で操るなら、「ベクトルの指す位置」を瞬時に最適な位置に移動させることが出来るから、ターンの切り返しはチョー速いのだ。
方法は簡単。ガッチリ荷重されている外脚をチョイト曲げて荷重を抜くだけ。

その九:
実感できる「ベクトルの指す位置」は板が空中に浮いた時でも、直前までの感触が残像のように残る。

「慣性抵抗と重力と抗力の和はゼロだ」というヨーなダランベールさんの原理を知っていたとしても、いきなり上手にバランス良く滑られる訳ではない。もしそうだったら、その筋の権威は皆ワールドカップ第一シードクラスだがね。

インチキラクターが「ジャー次はこういう風にやりますね、アーダコーダ」なんて言ってお手本を見せる場面がけっこうあるけど、それだけじゃ本人だって滑られないから「こういう風にやってます」と見えるように「こういう風にやりますね」とは大違いの詐欺的滑りをする場合だってしこたまあるのだ(私も)。

有名デモのウンチクだって何か系統立てて考え、それを意識して滑っている訳じゃないのに、後で自分の写真なりビデオを見てから、本人が滑りの意識を後付け(こじ付け)して、意味不明な技術論をブチカマシテいるだけのヨーに感じる。
これを赤の他人に理解しろと言っても所詮無理な話だろう。

つまり・・・・例えば、よしだたくろうの「たくろう節」がカッコEから「教えてください」とお願いしても、あの「たくろう節」が何故醸し出されるのか、本人だって説明は出来ないだろうし、ましてや誰にも真似など出来ないのだ。

○ジメ・○トセのエキセントリックな唄い方に最初はグラっときたが、数回聴いただけで疲れる、とユーか、すぐに鼻についてしまった。
S○JやS○誌、○G誌のやっていることは、特徴のある歌手の唄い方をご丁寧に解説しているようにも思える。

「味」は別にして、歌をキチンと歌うのには何が必要か、楽器をキチンと演奏するのには何が必要か、習うべき基本ははっきりしている。
スキーだって普遍的な基本がある筈なのに、それらが軽く扱われる結果、上手だと云われる人の宇宙語解説を有難がったり、自分のスキルアップはそっちのけで、今やドーグのセ○○リ大会の様相を呈しているのだ。

結局何を言っても虚しくなるので、スキーっていうのは得体の知れない「つもり」の世界ってことにしておこう。

その十:
モーターサイクルでは設計時、重心の位置を何処にするかが運動性その他に影響するため、非常に重要(数ミリ違うだけでハンドリングが変わるらしい)だが、それでさえ乗車したら重心の位置なんて実感できない。

モーターサイクルも「バンク角」が浅いほど転倒までの時間が長いので安心して(余裕で)旋回できるが、バンク角が深くなる(45°程度を越える)と重心が(^^)地面に近くなり、転倒までの時間が短くなるので、この辺りで安定を保つのは非常神経を使うし、操作もシビアになる。だから深いバンク角に持ち込むのは怖い。スキーだって同じだ。

以前サーキットを走っていて、気が付いたら火花を散らしながらコースを滑っていくRC30と、それを「アレ〜ッドーしちゃったのかな〜」とボーゼンと見ながら滑っていく自分がいた。
ヘルメットが「ゴンゴンゴン」と3回路面にぶつかったのは今でもハッキリ覚えているが、未だにドーして転倒したのか分からない。
頭を打って記憶が無くなったのか、あまりにも瞬間だったのか、原因の分からない転倒。

この怖さは後を引くヨ。

・・・・・で、この話は何だったの?・・・・書いてる張本人が分からなくなってしまいました・・・・深く反省(。。;

従って誤字脱字、文章もオカシー部分がいつにも増して大だと思います。

すばらしきオタクの世界
2003/08/12
先日凄い努力で指導員の資格を取った知人が日本スキー教○の指導実技編と指導理論編とスキー○○ーナル9月号を持ってきてくれた。
教○(2003までの物)の本物を見るのは初めてなのだが(他のナントカ編はスクールでチラッと見たことがある)とても感動した←ウソ(^^)

指導理論編(単なる「理論編」では無く、正しくは「日本スキー教○指導理論編」というのも初めて知った)について言えば、正直よくここまで懇切丁寧に書いたものだと感心する。
身体のしくみには殆ど全ての骨や関節、筋肉の名称が書かれており、それぞれがどのように動くかが事細かに解説されていて、まるで鍼灸治療院の壁みたいなのが7ページ位ある。これを見ただけもぶっ飛びそうな衝撃を覚える。

「スキー運動の特性と技術の構造」というパートでは、ベクトルについてもゴチャゴチャとした記述があり、ナント「系」とか「自転、公転」という言葉が使われていたりして、多少ニュアンスが異なるものの、以前自分もHPに書いたことがあったので少々驚いた。

既に手元には無いので記憶は定かではないが、とにかく凄い内容だ。
一つ一つの力学的解説はそれ程怪しいものでは無いとは思うが、それぞれがスキーをする上でどういう関連があるのかは曖昧な感じを受けた。これらを当事者である変臭関係者はもとより、キョーイク本部の一体何人が理解していることだろう。

一つ例に挙げれば、スキーヤー本人にも、又板にも、ある点を中心にそれぞれX・Y・Z軸があるというようなことが書かれており、これはヒコーキの解説かと錯覚する。
X・Y・Z軸とはローリング・ピッチング・ヨーイングのことだと思うが、スキーヤーを一つの系として捉えるという評価できる姿勢があるにもかかわらず、3軸の交差する点が2箇所あることの不可解さと、その関連の説明はどこにも無かった。

スキーに限らず、日常生活でも人間の動作には必ずネガティブフィードバックが掛かっているのは以前も書いた通りだが、この説明に「バイオテクニクス?メカニクス?←忘れた」というような言葉が使われており、ソニーとナショナルの合弁会社がドーかしたのかと思った。

フィード・フォワード(動作を起こすという意味か?初耳だな〜)とかフィード・バック(起こした動作に対して抑制的に働くので本当は「ネガティブ」と入れるべきだと思う)制御の系統図まで描いてあったからたまんない。個人的なイメージ構築の補助に扱うのならいざしらず、教○理論編にこんなもの持ち出していったい収拾がつくのだ老化。

こういった学問?に踏み込み、人間のフィードバック系に言及するなら「バイオメカニクス?←忘れた」では無く、ノバート・ウイナーが動物と機械における制御と通信について研究した「サイバネティックス」を理解してからにすべきだろう。
この説明には当然ながら積分を主体とした数式がズラッと並んでいて、すでに数学を忘れてしまった私には殆ど理解不可能だが、少なくともイメージはできる。
このあたりを正しく詳しく知りたければ、ホンダのロボット開発技術者に聞くのが一番だと思う。

ネガティブフィードバックはスキーをする上で非常に大切なもので、これが無ければ次に起こすべき動作も分からない。そしてご丁寧に解説されるまでも無く、大抵の人(大抵というのは障害を持っている人がいるかもしれないから)が無意識でこの恩恵に与かっている。
だからわざわざこういう言葉を「素」のまま持ち出すことは無いだろう。もっと平易に、いってみれば刻々と変わる自分に働いている「力の感触」と「理想の力の感触」との「差」程度の表現に止めておくべきではないじゃろか〜ッ。

つまり「こういう感じ」になったら、あるいは「こういう感じにしたい」なら「こういうつもりでやる」というヨーなことで始末はつくと思う。
しかしこのニュアンスこそスキーヤー本人にも、又指導者にとっても一番の関心事であり、永遠の課題でもあるのだ。

「差」を感じ取ることが出来てもそれを補正出来るだけの要領や筋力や瞬発力、あるいは気持ちの持ちよう・・モロモロ・・という点では人それぞれ異なるので、とりあえずポテンシャルの範囲内で最良の対応をドーすれば良いか?ということになる。

折角の力作にケチをつけるようで申し訳ないが、スキーの指導者を目指す、あるいは既に指導者である人々の中には理数系を不得手とする人もいるだろから、こういう内容を普遍的な共通認識として要求するのは酷だと思う。純真な指導員が中途半端な知識(私も)でその筋の専門家の生徒に突っ込まれでもしたら「タジタジ」では済まないだろう。

勿論スキーを掘り下げて科学する分野があっても良いと思う、しかしそれは実際に滑る楽しさとは別の「議論好きの楽しみ」の「たたき台」としてだったり、それが新しい滑り方の発見につながり、レースや困難な状況で圧倒的な優位性が証明されるのであればこの分野も歓迎されるとは思う。

しかし現状は時々現れる天才的なスキーヤーの常に後追いと分析に汲々としているだけのように感じられる。
本気で滑れば1分30秒(^^)ともたない激しいスポーツなのに、鍛えらたスキーヤーの瞬間芸的ワンショットを解析し、それを普遍的技術だと錯覚させることに、いったいどんな意味があるというんズラか?
トバッチリを食らうのはいつも生真面目なスキーヤーや現場のシドーインだ。

昔が良かったとは言わないが、かつて八方尾根スキースクールには「アッケ・オシダシシマ・ヒネルダ」のワンフレーズだけで人望を集め、多くの生徒を上達させた指導員が居た。

改定される教○では、ごく普通の老若男女が一日中楽しく愉快に滑って遊べるスキーをホンネで説いて頂きたいし、シンプルイズザベスト・・・・サルでも分かる理論?を期待する。

S○誌9月号は佐怒賀さんのマンガの最終回だった。
謎の老人が主催したサバイバルレース?の様子はまるで八方尾根スキースクールの達人検定とダブって見えた。
謎の老人が八方尾根スキースクール、サバイバルレース?が達人検定。

佐怒賀さん、まさか達人検定見に来てたんじゃないでしょうね〜(^^)


新オタク理論
2003/08/03

これが「The トップコントロール」・・・・・大嘘・・・・・ん?・・・マテヨ、これこそ「テールコントロール」・・・ん?ん?ん?「テール&トップコントロール」カモカモ(・・;

何しろスキーが雪から離れてるもんでコーユーばわい「オタク理論」はテキヨー出来るのだ老化?
老化ばく進中の私は上体がこんなに遅れていてもこれでけっこう愉快に遊べてマスので「新オタク理論」はカンケー無いッツーことですね、ヒトマズ。

「理論」をジビキ(^^)で引いて見たら「個々の事象を統一的に説明するため、基本的原理に基づいて法則を体系化したもの」とありました。

理論と名が付く以上、スキーを科学している筈だし、それは「感じ」と「事実」をはっきり区別して一般的、客観的事実のみを筋道を立てて調べ上げ、構築していくものだと思う。

スキーの場合理論は力学を抜きには語れないから、難しい話がトージョーするのはある程度避けられない。
例えば・・・ある力が物体に掛かった時、どんな運動が起きるか、ターンをする時板にはどんな力が働いているか、あるいはその逆に、物体にある運動をさせたい時、どんな力を掛ければよいのか、板にどんな力を掛ければどんなターンが出来るのか・・・・といったヨーな、力学は力と運動の関係を考えるもので、そこには「感じ」など存在する余地はこれっぽっちもない。あるのは真実か誤りかのどちらかだけだ。

この力と運動の関係を、多くの場合単に板が雪に接している状態でのみ語られているので、上の写真のような状況は説明がつかないだろう。

もっともらしい理論展開をするのなら、幸せで理想的に見える結婚生活だって「アーラシモーフーケバー カゼーモーフークー云々・・・・」ッツー位だから、スキーだっていろんな事態が発生する。ので・・・
空中にあるときも、あるいは強い風圧を受けているときも、あるいはストックが雪面に接しているときも、およそ考えられる全てのパラメーターを含むものでなくてはなるまい。
しかしそんな作業は実際問題現実的ではないし、何よりナンセンスなのだ。

理論風解説が時々変わらざるを得ないのも、普遍的事象以外のもの(「妄想」や「感じ」等)がけっこうたくさん介入しているからで、それはもはや理論とは呼べない。だからよく見るとその表紙には「理論変」と書かれているのだ(^^)。

そこでどうしても登場して頂かなくてはこの難局を乗り切れないありがたいお言葉がある。いわずと知れた「フィーリング」あるいは「つもり」だ。

ある力学的現象と、それを起こすに必要な力の本質(力学)、それを生み出す動作(技術)を何個か用意して、それぞれを有機的に結合する心の働きを「フィーリング(つもり)」とすれば、この「フィーリング」をバリエーション豊かに表現することで、過渡期に存在する真実を曖昧にするかわり、大仰な理論などと言わなくても、これはこれで現実的に役に立つ技術書になると思う。

まだ見ていないのでなんとも言えないが、仮にS○J「改定理論編」がのっけから「力学的現象と、それに必要な力の本質部分」に、多くのスキーヤーが共有する普遍的事象以外の文言が使われているとしたら、まさしくそれは「新オタク理論変(偏)」と呼ぶしかないシロモノなのだ。

過去にも新技術?が登場するたびに繰り返されてきた混乱は、このあたりが原因なのではないかと思う。



ヘ〜
2003/08/01
「くだらねー言葉の遊びはイーカゲンにしろよ」と思ったものの・・・・・。
書くのもおぞましいが、書いちゃう(^^)ゾ。
トップコントロール、テールコントロール、トップ&テールコントロールのことだ。
マー次から次とよくもこんなことを思いつくもんだと寒心するよ。

フレックスはあるにしても、関節なんか何処にも無い一枚(二枚)の板っ切れ振り回して遊ぶだけなのに、それぞれの部位を単独にコントロールできるかのような表現はドー考えても正気の沙汰ぢゃない。

理論変はたった一人のオタクによって書かれているらしいが、変臭に携わっている他のメンバーはこれがオカシーとは思わないのだローか?そしてオタク一人の思いつきが、何万何十万人という善良でマジメに取り組もうとしているスキーヤーを再三再四五六七・・・混乱に陥れるとは思わないのだローか?
この想像力の欠如は今日から始まる農水省の輸入冷凍牛肉セーフガードに匹敵する愚かさだ。

改定という行為は少なくともスキーヤーの利益に直接繋がる為のものである筈だ、技術的にも金銭的にも。
だが従来からそうであったように、今回も決してそうとは思えない。

ス○ラー波???攻撃を白い布で防ぐというような団体があったが、常人(私は変人)には理解しがたいという点でトップコントロール・・・云々も大して変わらない。
もうS○Jは宗教団体と化したので、信仰心の超薄い信者の私としてはほっとけばよいのかも知れないが、それでも曲がりなりにも信者の一人としては経典の実態が明らかになるに従い、又何か言いたくなるんだろうな。

輝ける2004シーズン、新たなオタク用語について質問を受けることだろう。巻き添えを食らう私を含め、多くの指導者達の困惑した顔が目に浮かぶ。

とりあえず信仰心のブ厚い信者の皆様、お布施をしこたまふんだくられて(騙し取られて)幸せになってくださいね。チャンチャン


ヘ〜
2003/07/30
TOKさんのHP見て玉毛増した。
S○Jのキョーテーもケンテーも大幅に変わるそうです。「ヤッパリナ〜」というか「マタカヨ」といったところですが、詳しくはオンラインスキースクールをご覧になって下さい。TOKさんが丁寧に解説しています。

新しいキョーテーは「シドーイン」目指す人も、既に「シドーシャ」だと思っている人も恐らく殆どの関係者が買うことになる筈だから、これで又暫くはS○出版も安泰だな(^^)。

経典・・・アッ、いけねーキョーテーだった・・・はこんなに変わってヨイものだろーかっ。
ケンテー内容だってつい3〜4年前たいそうなゴタク並べて変えたばかりだし、その変わり身の速さと節操の無さにはマジメなスキーヤーでさえ従いて行くのは大変だろうな。勿論技○選の様子(種目)だって変わる筈だ。

キョーテー関連の書物は知らない間に5冊(1〜5まであるということ)になっているそうだし、これらを全部買うとなると相当の金額になりそうだ。
内容がどうなのかは未だ出版されていないので何とも言えないが、仏教の経典も真っ青の有り難く、且つ常人には理解しがたいお言葉が書き連ねられていることだろう。
お坊さんが唱えるお経の内容を理解できないまま、神妙な顔をして聞いている(私だけか?)のと同様の空しさに襲われそうだ。

オーストリーを含め、他国のスキー連盟のメッソドがドーなっているのか、あるいはそんなものがあるのかドーかも知らないが、少なくとも日本ほど複雑怪奇魑魅魍魎曖昧模糊空前絶後言語道断意味不明支離滅裂(^^;・・・・では無いと思う。

例えば「トップコントロール」って言葉が使われているみたいだが、それは一体何だ?
「これはですね、エートですね、カクカクシカジカ」なんていちいち解説されたんじゃタマンネーよ。

経典がどう変わろうと、来るシーズンの自分のスキーが激変したり、いきなり上達することなど太陽が西から昇るのと同じくらいありえないからご心配なく(^^)。

無理やり独自性を打ち出そうとしてきたS○J教団○部の意欲は認めるが、そんなものは世界の潮流から見ればディティールに過ぎないし、そういう団体に振り回され(利用され)続けた多くのスキーヤーには心からゴクローサンと言いたい。又新たな試練が待ち受けているとユーことだ。

日本のスキー(S○J)はオリジナリティーを確立したかのような態度をとっていたが、それは結局オーストリースキーのバインシュピールを模倣していたに過ぎないし、だから数十年前、これも又オーストリーがベーレンテヒニークを発表した時のうろたえぶりが可笑しかった。

オーストリーはそれまでの「立ち上がり沈み込み」に加え、「抱え込み蹴り出し」技法を体系化して発表した。
この「抱え込み蹴り出し(ベーレンテヒニーク)」はコブ斜面や深雪をこなす上で、従来の「立ち上がり沈み込み」技法を凌ぐアドバンテージを持っていたのは確かだった。

この時期オーストリーのみならず他国もこれに似た動きを見せていたが、いち早くこの匂いを嗅ぎつけ、ちゃっかり「ドルフィンテクニック」と称して発表したのが三浦雄一郎氏だった。

左右一対のターンが1サイクル(〜)とすると、脚の曲げ伸ばしの位相が丁度90°ずれた格好になるので、それまでの「立ち上がり沈み込み」技法に慣れた目には、随分違和感があったものだ。

そのせいかS○J関係者の中には三浦氏の「ドルフィンテクニック」を嘲笑する者まで見受けられた。
が・・・その後大先輩であるオーストリーが正式にベーレンテヒニークを発表しちゃったものだからタマンナイ(^^)

慌てふためいたS○Jが打ち出した名称は「曲進系」で、動きは「抱え込み蹴り出し」じゃなくて「抱え込み送り出し」だってさッ。
あの当時は混乱したな〜。

しかしこれはいきなり90°までずらす(ディレイ)程極端なものではないにしても、それまでだって上手なスキーヤーは状況に応じて0°から90°の間で微妙に調整して状況の変化に対応していた筈だから、決して目新しいものではなかったのだ。

ただ両極端が示されたことで、「立ち上がり沈み込み」から「抱え込み蹴り出し」に至る過渡期の動きにも、ようやく市民権(^^)が与えられたのだと思う。
つまり脚の動きなんてその時の状況でなんでも良いということだし、脚の曲げ伸ばしがターンの構成に深く係わっているのでは?との呪縛から漸く開放された瞬間でもあった。

日本のスキーヤーにとってはカリスマ的存在だったマルティン・グガニックの滑りは、三十数年前のオーストリースキーのトップデモ、エディーと同じだったのは前に書いた通り。

時代が変われば技術も変わる。だからキョーテーもと、幾たびかの改定があったけれど、S○Jが何と言おうと、多くのスキーヤーが認める理想のスキーは結局現在まで何も変わらなかった訳だ(レースはこの限りではありません)。

唐突ですが・・・音速の2倍で飛ぶ旅客機コンコルドがついに引退する。その性能を越える新鋭機が登場しコンコルドが陳腐化した訳でもないのにだ。高性能とは別の何かが重要になってきている、これは一つの暗示ではないかとも思う。

コンコルドの引退は、先鋭化(爆笑)するあまり大切なことをないがしろにしてきた日本のスキーシーンとダブって見える。
期待していないとは言え、今度の改定が例えいくらかでもスキーの楽しさを広めるものであって欲しいと願うばかりだ。が・・・
他人と同じことをしていないと安心出来ないし変人扱いされる日本だから、又多くのスキーヤーが様々な局面でこれに翻弄されるんだろうな〜(^^;

TOKさんの解説を見ただけでもメマイがするほどなので実物はどうなっていることやら。
大袈裟な経典なんか無くたって「オレンジメソッド」(現在は「コロコロメソッド」かな?)だけでスキーは上達するし楽しめるのだョ・・・・ヨイショ(^^)ッと。

ヒドーインを含む検定云々のシステムや内容に関してはあまりの可笑しさに腰が抜けちゃって、もーコメントどころではないのだ。キャハハハ・・・・。

ワビサ
2003/07/23
長くて(200cm)サイドカットがゆるいスキー(VolklP20)は終始回している(スキーをしている)という実感があるのだが、R=12mのヘッドXP100では逆に回り過ぎるのを抑えているような気がする時がある。

ターンは真っ直ぐ進もうとする板をまず自分の力で行きたい方向に向けることから始まると思うし、開始から終了までの間は常につま先側より踵側を外側に押しつづけている・・・とユーか捻っている(フェルゼンドレシュープ)。

この力加減でターンの大小をコントロールしていると思っているので、間違っても逆向き(つま先を外側に押す)に加えなければならない状況など考えもしなかった・・・・が、コイツ(ヘッドXP100)はそれを要求してくる場面が結構ある。

例えば左に曲がっているのに、足を右に捻るような力を入れなければならないなんて不自然ではないか。・・・と、今頃になって気がついたのだ。
ラディアスが小さくなることで、ベクトルの指す位置が限りなく足裏の中心にちかづくのは良いのだが、それはあくまでも中心迄なのだ。その点P40は絶妙の位置に踏みとどまっている。

とは言っても真ん中に近い状態で滑るのに慣れすぎると、つまり合理的過ぎる(回そうとする力が0に近い)と本来の面白味である「スキー操作」が退化していくのではないかと思ったりする。退化するとドーなるか?所謂難しい条件での滑走が困難になるということ。

何度も書いているように、本当は力任せで振り回さなければならない場面がしょっちゅうあるのに、そういった動作を「悪」だと思いこんでしまうと手足を縛られたようなストレスが溜まる。タテマエとの整合性に腐心するのは疲れるだけだ。

サイドカットのきつい板のエッジを立て、CARVE状態になれば板は撓む。撓んだ板はズレなど無くても自動的にCURVEする。合理性を求めすぎると、その上に乗っているのはべつに人間でなくても良くなるカモ。例えばロボットとか。
人間ならではの不合理ゆえの面白さだってあると思うのはこのご時世ヘンタイか?。

カービング状態は歌の「サビ」に似ていて、いくらサビの部分がカッコ良くても、サビだけじゃ歌にならないのだ(^^)アハハ・・・。

Immortal Skier
2003/07/16
スキースクールの同僚が亡くなった。
と言っても彼とは一面識もなく勿論言葉を交わしたことなど無い。スクールが毎年オーストリアから 招聘している教師の一人だった。

オーストリア人の教師が居ることは知っていたが、亡くなってから初めて彼が如何に優れた指導者であり、指導を受けた生徒からも又直接教わる機会の無かったスキーヤーからも慕われていたかを知った。どれ程スキーを愛していたかも。

今年偶然彼の滑りを見る機会があった。
バキュームチューブの手前、丁度パノラマとセントラルコースの境界辺りだった。「上手い!」という一言では不十分だし、その衝撃はとても言葉では表わせない。が、あえて陳腐な表現を許してもらえるならば、軽快で柔らかで躍動感に溢れていながら、通常では考えられない程の安定感を 伴っていたということ。

荒れた斜面にもかかわらず、尋常でない安定感は一体何処から来るのだろうと不思議な気分になったし、それは彼だけが持つ特殊な精神的質量に因って支えられているのではないかと思った程だ。

ズラシながらも、板は鋭い切れ味と共に胸のすくような走りを方をしていたし、そしてそうすることが明らかに「重要な意味を持っているのだよ」と強烈な説得力で訴えているようにも感じた。

これと同じ衝撃をずっと昔に味わったことがあるのを想い出した。30年前、私の師匠エディー・ハウワイスに初めてブンデススポルツハイムで出会った時のことだ。

ここ数年、今風の技法に違和感を抱いていた私は、ようやく理想のスキーを目の当たりにしたと思った。それはまさしくエデイーを彷彿とさせるものだったし、こういう教師が八方尾根スキースクールに居ると知っただけでも誇りに思ったものだ。
しかしもう二度と見ることは叶わない。

彼の名はマルティン・グガニック
心からご冥福をお祈りする 。

二枚の板の上の自由
2003/06/20
スキーにカタガキは不要だと思っているのですが、カタガキが欲しくなる気持ちも勿論分らない訳ではないのです。

単に滑り降りるだけなら、持てる力の半分、いや何分の一かで事足りるスキー場ばかりになって、難易度の等しい斜面で如何に他者より上手に見せるか、あるいは自分のレベル確認に腐心する方向に向うのは無理からぬことだと思います。
以前に比べ滑られる場所がどんどん制限され、培った技術を実践で使うべき環境が閉ざされてしまっていては限られた範囲でしか遊べない訳ですからね。

雪のある所なら、それが例えどんな所であろうと滑ってみたいし、又滑られるような技術を習得するために練習していたような気がするんだけど、今のスキー場はそれを許してくれない訳です。
培った技術や気力や体力を総動員しても、なお手強い斜面をなんとかこなして得た充実感(例え七転八転したとしても)を味わうことが難しくなっています。
かつては滑られた斜面を今は滑られない環境の悪化は滑りに行く意味を見失いそうになる時があります。

スキーが下火になっているのは何もS○Jの責任ばかりではなく、私達スキーヤーの考え方にも問題があったのではないかと感じる時があります。
転倒してケガをするのを他人の責任にする人は少ないとは思いますが、ある状況で自分の行為が危険か否かの判断はスキーヤー個々の責任にも拘わらず、何か問題が生じた時にスキー場の管理責任を問う姿勢への具体的回答がぐるりと張り巡らされたロープと立て看板と言えなくもないでしょう。

スキー場管理者が例えば”物的人的に安全な環境”を初心者用、中級者用と2つ位のエリアに限定して提供し、それ以外の部分については「全て自己責任において楽しんで下さい」 と言うような方策が採れ、それが法的倫理的に問題が無く、多くのスノーアスリートの賛同が得られれば、来シーズンからでも実現して欲しいと思いますし、関係者の一人としてその努力はするつもりです。

初心者か中級者か、あるいは安全なエリアを越えて保障されないピステを滑走可能な技術を習得しているかどうかは個々の判断に帰するとしても、エリア外においての雪崩等の危険情報は勿論リアルタイムで提供するという前提です。
情報を元にトライするか否かの判断に迷う時は、それこそ雪山を熟知した指導員(ガイド)に協力を求めれば良いと思います。

スキーは危険なスポーツです。一瞬の判断ミスが重大な結果を招く恐れがあります。しかしかつて書いたように、高い確率で安全に楽しむ術はあります。
オフピステを滑るボーダーやスキーヤーを羨望の気持ちを込めて非難するのでは無く、全てのスキーヤーが「二枚の板の上の自由」を謳歌出来る日が来ることを願っています

培った技術が宝の持ち腐れになるのは勿体無いですからね。


透明な時間
2003/06/12

山梨県の芸術の森公園に行ってきた
美術館と文学館がある

時間が透明になる瞬間が本当にあるんだと思った
30年の歳月がまるでリセットされたかのように透明になったその向こうに
24歳の自分がいた

至福の時、珠玉の一日

この日のために自分は歩いてきたのだろうか

透明な時間・・・
それは事あるごとに見ていた夢ではなかった

指導員W
2003/06/09
スポーツの要領を他人に伝えるのはとても難しい。特にスキーは。
言葉は勿論、身振り手振りでさえ停止した状態では相手方に実感として理解してもらえるのは困難だろう。停止した状態で理解出来たつもりでも、滑り出した瞬間に「アレ〜話が違うジャン」「ドタッ」となるのはけっこう多い。

滑走中に起こっている様々な物理的力学的現象を客観としたら、それらを感じるのは主観であり、受け手側が同様の主観として理解し、客観として再現された時技術が伝達されたことになる。
この場合客観的事実と主観的事実は全く異なっていても一向に構わない。とユーか実際問題ある状態が起こってい、しかも変化しつつある数値を正しく言い当てることなど所詮無理な話だし、それ以上にナンセンスな訳で単純に送り手側の客観的事実が受け手側の客観的事実と合致すれば良いだけの話だ。

例えばエッジの角度が実際は15°で斜面に接していて、それがその状況でのスキー操作に最適だった時、当人の感じとしては25°のつもりだったとする。それを受け手側に「25°」 と伝えた時に再現された角度が15°であれば結果的に上手く伝達された訳で、それはそれで「25°」という主観的事実は正しかったことになる。

この25°が人それぞれ異なるのは当然なので、ある人は10°と言うかもしれないし、ある人は27°(^^)と言うかも。又ある人は・・・・・。

しかしこれがなかなか上手くいかない。精神面でも肉体面でも様々なファクターがストレートな伝達を妨げるからだ。脚が屈みつつある時は抜重状態にも拘わらず、加重状態と感じるのはけっこうあることだし、2G150Kgの荷重が板に掛かっているのに「この部分では荷重を抜く」と表現したり、 体重より軽くなるにも拘わらず「加重する」というような表現は実際多い。

客観的事実は一つであっても、それを感じる主観は無数にある。受け手側の波長が送り手側のそれと相性が良ければ 再現性が良くなる。つまり上手くいくということだろうし、その人にとって良い教師ということになる。

優れた指導者はこの主観を対象に合わせて変化させる能力(相手方の波長の見極め)に秀でていると思う。八○尾根スキースクール教師の中にこういう教師が一人居る。残念ながら私はそうではないし真似は出来ないが、実際彼の指導を受けると劇的に上達する例が多い。

今やどんなネーチャンも一つは持っているだろうブランド物のバッグ程度に成り下った「シドーイン」のカタガキでは無く、「スキーは楽しい病」を蔓延させる真の指導者(スーパースプレッダー)が大勢現れることを願っているし、勿論自分も努力するつもり。

力ず
2003/06/01


こんな状態が冷静且つロジカルな滑りな訳が無い。ましてやカッコーなんか気にしてる余裕なんかこれっぽっちも無い。頭の中は空になっている。本当はいつも空なんだけど(^^;

ただ一つだけ実感出来るのは力ずくで板を押さえ込もうとしている指先と踵の存在かな?

時には頭から深雪に潜ってみるのもオツなものです。兎に角その気になれば免許無しで誰でもやりたい放題大笑いで自然の恵みを満喫出来る乗り物です。
スキーわっ

実験 片足立ち
2003/05/30

腰に手をあてて片足立ちをする時に足の指を床から離して立つのと、全部の指を(特に親指と小指)をしっかり床につけて立つのとではどちらが安定して長時間立っていられるか?実験してみてください。そしてバランスを保つ為に自分の指がどのように動き又どんな力が掛かるかも確かめてみてください。

以前足の指で「インソールを引っ掛けるつもり」というようなことを書きました。これがスキーの操作に有効だということも。
なんとなくブーツの中に足が入っているのではなく、やはり意識して雪面をつかむ感覚が必要なのではないかと思います。


指導員V
2003/05/30

カタガキについてゴタクを並べている訳ですが、今年も指導員や準指導員の資格を取得した人は大勢いると思います。
S○Jが発足してから、そして指導員検定会が始まってから何年経つのか、又資格取得者が何人いるのかは知りませんが、きっと凄い数になるのだろうと思います。毎年安定して増え続ける資格取得者がいる一方で、スキーヤーが激減している現状をS○Jはどう感じているのでしょうか?

常識的には指導者が増えれば入門者も増える、あるいは入門者が増えるから指導者も必要になると考えるのは間違いなのでしょうか?資格を取得した方々は何をしているのでしょうか?。


指○員U
2003/05/28

マットー(^^;なスキーヤーがもう少しいろんな所をもっとマシに滑りたいと思った時に、参考にしようとした書物等の内容や指導者の言葉があまりに難解で意味不明だったりするとバ○はスキーなんかコンリンザイ上達出来ないんじゃないかと落ち込む。

人生においてスキーはやる価値があるし、その価値を何処に見出すかは人それぞれで良いのだが、日本人って何かのムーブメントが起こると必ず「一部の人」が現れてある種の価値観を主張し、そしてそれがあたかもマジョリティーであるかのような振る舞いをする。ファッションにしても個性々々と言いながら、実はそのカテゴリーでの差異でしかなく、傍目には皆同じに見える。

ごく普通に「スキーをすること」が楽しい人が圧倒的に多いにもかかわらず、スキー関係の雑誌や書物やビデオの内容が「一部の人」に向けたとしか思えない特殊な滑り方や、バッジテストや技○選に関するものが多かったり、又何かの資格取得が目的だったりするものが目に付く(今年はスクールに行く機会が多かったので)。

自分の存在を他者に認知されたいが為の正当性の根拠として個性という言葉が使われるのかもしれないが、仮にそうだとしたらスキーの技法や上手い下手にしたって単に個性の一つに過ぎないし、そのことで楽しさが左右されるものではないと思う。でなければ皆ヘルマンマイヤーやフェルナンデスオチョア、あるいはグスタフトエニやフランツクラマー、インゲマルステンマルク・・・古いか(^^;クラスの レベルにまで到達しないと満足できなくなる訳で、いくらなんでも現実的とは言い難い。

「一部の人」とはいえ、今のスキーシーンは雑誌等も含め多かれ少なかれ他者(例えば検定員や見物者、あるいはスキー仲間)に対しての「パフォーマー」を指向しているように感じてならない。つまり他人から認められて初めて満足出来るというタイプだ。バッジテストしかり技○選しかり。
勝手に盛り上がるのは大いに結構だが、カタガキなんかに興味の無いスキーヤーまで値踏みするのはやめてほしいものだ。

昔ホットドック(フリースタイルスキー)が流行り始めた頃、それを真似てヘリコプター(360度回るヤツ)をしたことがある。2〜3回目で成功したのだが何とも言えない虚しさを感じた。
「オレは一体何してるんだ?まだ普通に滑る技術に見切りをつけた訳じゃないのに」ってね。
スキーは自分自身の「エンタテイメント」にはなり得るものの、それ以上でも以下でも無いと思っている。

指○員でさえ勘違いの「エンタティナー」もどきが多いし、実際に指導する機会が無いにもかかわらず肩書きだけは取得しておく人がけっこういる。今の社会システムでは生きて行く上で肩書きが必要なのは認めるし、それが自分の収入を左右するものならなおさらだ。しかしスキーにはドーかな?と思うのはよけーなお世話か。

指○員研修会でもお上の演説を真剣に聞いている人達が多かったなー。あまりの真面目さに尊敬したよ。研修会は何年かに一度は出席しないと資格を剥奪されるそうだ。から 何回かは出席したが、こんなこと(〜ー〜)聞かされたり、絶対真似の出来ない(したくもない)デモの上手なお手本をバカズラぶらさげて見ている程暇じゃないので以来出席はしていない。毎年違う研修内容は免疫力の乏しい真面目な指○員にとって遺跡捏造で歴史が変わる以上に衝撃だろうな。
研修会でのマイナーチェンジ程度では誤魔化しきれなくなる筈だから、そのうち教程もフルモデルチェンジせざるを得くなると思う。

ちなみに研修会に参加しなくなってからも「スキー長○」の指○員名簿から名前は削除されていない。結局年会費さえ頂ければオンノジ、あわよくば研修会カマして会費もという魂胆ミエミエ。
年会費はスクールの報酬から強制的に差し引かれて支払われているみたいだが、自分ではS○Jの資格はとうの昔に喪失したつもり。スキーの場合無資格指導でタイホされた話は聞かないし、向上心は失っているのでカンケーないのだ。

指○員、それもお金を頂いている以上指導される側を上達させてナンボだから、早く自分のレベルまで引き上げ、あるいは自分を超える高みに押し上げてやるのが優れた指導者なんだと思う。ところが多くの指○員は常に指導される側より技術的上位にいると考えている(そう感じてしまう)フシがある。もしそうであればスキーはやがて衰退していくしかないだろう。
ドーしてか?
マットーな指導者達は充分理解しているはずだ(^^)。

イマジン・・・
2003/05/19

斜度40度、気温マイナス12度、快晴、無風、前日の雨から一転して冷え込んだ斜面は青白く凍って光っている。
水の流れた痕が縞模様になってブッチャー (昔のプロレスラー)の額のようだ。
沢状で陽陰の狭い斜面には所々岩が露出してい、500m下部はカールになって陽の当たる平らな斜面が広がっている。が、その先は断崖。

こういう状況は大抵滑る気にはならない、というより常識的には滑ってはならないが、もしカールまで無事に滑り切るとしたら何が重要か?

技術か?道具か?勇気か?運か?ノーガキか?はたまたカタガキか(^^)?。

特定のパラメーターで語られる技術論はそれはそれで面白い。しかし想像を超える変数を提示された時に辻褄をあわせるのは難しい。

イマジン・・・・
長いオフシーズンこんなことを考えたりしていると今の技術論や道具に対して別の見方が出来るようになるカモ・・・。

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