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風姿花伝について

 『風姿花伝』という書物は、能の大成者世阿弥元清が、子孫への庭訓として父観阿弥の教えを忠実に整理記述した能の伝書です。いかにして上達し、いかにして人気を得、それをいかにして一生涯保つかと言うことを、実際に即し、具体的に、微にいり細を穿って、あらゆる角度から説いている本です。能ばかりでなく、人生訓としても、今日なお充分実用的な、価値ある書物です。

 世阿弥は、数多くの論著を残していますが、この風姿花伝は、世阿弥の最初の能楽論で、応永7年世阿弥38歳の時に、第一から第三までの主要部分を著しました。一条竹鼻で勧進猿楽を演じた翌年です。彼としても、ようやく自分というものが確立してきたその自信と、父観阿弥への追慕の情と、更には子孫を思う気持ちと、そうしたものが合わさってこの著作となったのでしょう。

 この書は、次の七篇に分かれています。うち第一・第二が基礎篇、第三が応用篇とでも言うべき内容となっており、ここまでが応永7年にできました。第四もおそらくこれと前後してまとめられ、その後、数度にわたって書きつがれたものと思われます。

  第一 年来稽古条々 (年代に応じた稽古のあり方と、役者自身の修行法・心構え)

  第二 物学(ものまね)条々 (各役に扮する演技の方法)

  第三 問答条々 (実際の上演について起きがちな問題の一問一答)

  第四 神儀云 (神事としての能の歴史・神話)

  第五 奥義云 (芸能人の生き方)

  第六 花修云 (能の創作と本質、芸術心)

  第七 別紙口伝 (芸の魅力・舞台効果の本質についての考察)

 

(風姿花伝抜粋)

 

年来稽古条々

 

七歳

一、  この芸において、大方七歳をもて初めとす。この頃の能の稽古、必ずその者自然といたす事に、得たる風体あるべし。舞・働きの間、音曲、もしは、怒れる事などにてもあれ、ふと仕出ださん懸りを、うち任せて心のままにせさすべし。さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず。余りにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能物ぐさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり。ただ、音曲・働き・舞などならではせさすべからず。さのみの物真似はたとひすべくとも、教ふまじきなり。大場などの脇の申楽には、立つべからず。三番・四番の、時分のよからんずるに、得たらん風体をせさすべし。

 

十二三より

 この年の頃よりは、はや、やうやう声も調子にかかり、能も心づく頃なれば、次第次第に物数も教ふべし。先づ童形なれば、何をしたるも幽玄なり。声も立つ頃なり。二つの便りあれば、わろきことは隠され、善きことは愈々花めけり。おほかた、稚児の申楽に、さのみに細なる物真似などは、せさすべからず。当座も似あはず、能も上がらぬ相なり。ただし、堪能に成りぬれば、何としたるもよかるべし。児といひ、声といひ、しかも上手ならば、何かは悪かるべき。さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてすべて易きなり。さる程に、一期の能の定めにはなるまじきなり。この頃の稽古、易き所を花に当てて、わざをば大事にすべし。働きをも確やかに、音曲をも、文字にさはさはと当り、舞をも、手を定めて、大事にして稽古すべし。

 

十七八より

 この頃は又、余りの大事にて、稽古多からず。先づ声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、懸り失せて、過ぎし頃の、声も盛りに、花やかに、易かりし時分の移りにて、手立てはたと変わりぬれば、気を失う。結局、見物衆もをかしげなる気色見えぬれば、恥かしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。この頃の稽古には、指をさして人に笑はるるとも、それをば顧ず、内にて、声の届かんずる調子にて、宵暁の声を使ひ、心中には願力を起して、一期の堺ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止るべし。総じて、調子は声よりといへども、黄鐘・盤渉をもて用ふべし。調子にさのみかかれば、身なりにくせ出でくるものなり。又、声も年寄りて損ずる相なり。

 

二十四五

 この頃、一期の芸能の定まる初めなり。さる程に、稽古の堺なり。声もすでに直り、体も定まる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身なりなり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向ふ芸能の生ずる所なり。さる程に、よそ目にも、すわ上手出で来たりとて人も目に立つるなり。もと名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも、一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、ぬしも上手と思ひ初むるなり。これ、返す返す主のため仇なり。これもまことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の、一旦の心の珍しき花なり。真の目利は見分くべし。この頃の花こそ、初心と申す頃なるを、極めたる様に主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説とし、至りたる風体をする事、あさましきことなり。たとひ、人も賞め、名人などに勝つとも、これは、一旦珍しき花なりと思い悟りて、いよいよ物真似をもすぐにし定め、名を得たらん人に、事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。

 されば、時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花におきて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、この頃の事なり。一公案して思ふべし。我が位の程々よくよく心得ぬれば、その程の花は一期失せず。位より上の上手と思へば、元ありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。

 

三十四五

 この頃の能、盛りの極めなり。ここにて、この条々を究め悟りて、堪能になれば、定めて天下に許され、名望を得べし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふ程なくば、いかなる上手なりとも、いまだ真の花を究めぬ仕手と知るべし。もし究めずば、四十より能は下るべし。これ後の証拠なるべし。さる程に、上るは三十四五までの頃、下るは四十以来なり。返す返す、この頃天下の許されを得ずば、能を究めたるとは思ふべからず。ここにてなほつつむべし。この頃は、過ぎし方をも覚え、又、行く手の手立てをも覚ゆる時分なり。この頃究めずば、この後天下の許されを得ん事、返す返す難かるべし。

 

四十四五

 この頃よりは、能の手立、大方変るべし。たとひ、天下に許され、能に得法したりとも、それにつきても、善き脇の仕手を持つべし。能は下らねども、力無く、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそ目の花も、失するなり。まづ、勝れたらん美男はしらず、よき程の人も、ひた面の申楽は、年寄りては見られぬものなり。さる程にこの一向きは欠けたり。この頃よりは、さのみに、細かなる物真似をばすまじきなり。おほかた似合ひたる風体を、安々と、骨を折らで、脇の仕手に花を持たせて、あひしらひの様に、少な少なとすべし。たとひ脇の仕手なからんにつけても、いよいよ細かにみをくだく能をばすまじきなり。何としても、よそ目花なし。もし、この頃まで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。それは、五十近くまで失せざらむ花を持ちたる仕手ならば、四十以前に天下の名望を得つべし。たとひ天下の許されを得たる仕手なりとも、さ様の上手は、殊に我が身を知るべければ、なほなほ脇の仕手を嗜み、さのみに身を砕きて、難の見ゆべき能をばすまじきなり。か様に我が身を知る心、得たる人の心なるべし。

 

五十有余

 この頃よりは、大方、せぬならでは、手立あるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申す事あり。さりながら、真に得たらん能者ならば、物数は皆々失せて、善悪見所は少しとも、花は残るべし。

 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽仕り、その日の申楽、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそその頃、物数をばはや初心に譲りて、安き所を少な少なと、色へてせしかども、花はいや増しに見えしなり。これ真に得たりし花なるが故に、能は、枝葉も少く、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

 

物学条々

 

 物真似の品々、筆に尽し難し。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。およそ何事をも残さずよく似せんが本意なり。しかれども、又事によりて、濃き薄きを知るべし。先づ国王・大臣より始めて奉りて、公家の御たたずまひ、武家の御進退は、及ぶべき所にあらざれば、十分ならんこと難し。さりながら、よくよく言葉を尋ね、しなを求めて、見所の御異見を待つべきをや。その外、上職の品々、花鳥風月の事わざ、いかにもいかにも細かに似すべし。田夫野人の事にいたりては、さのみにこまごま賤しげなるわざをば似すべからず。仮令、樵夫・草刈・炭焼・塩汲などの、風情にもなるべきわざをば、細かにも似すべきか。それよりなほ賤しからん下職をば、さのみには似すまじきなり。これ上つ方の御目に見ゆべからず。もし見えば、あまりに賤しくて、おもしろき所あるべからず。このあてがひをよくよく心得べし。

 

 およそ女懸り、若き仕手の嗜みに似合う事なり。さりながら、これ一大事なり。先づ、仕立見苦しければ、さらに見所なし。女御・更衣などの似せ事は、たやすくその御振舞を見る事なければ、よくよくうかがふべし。衣・袴の着様、すべて私ならず、尋ぬべし。ただ世の常の女懸りは、常に見なるる事なれば、げにはたやすかるべし。ただ、衣・小袖のいでたちは、おおかたの体、よしよしとあるまでなり。舞・白拍子、又は物狂いなどの女懸り、扇にてもあれ、かざしにてもあれ、いかにもいかにも弱々と、持ち定めずして持つべし。衣・袴などをも長々と踏みくくみて、腰膝は直に、身はたをかなるべし。顔の持ち様、仰のけば、見目悪く見ゆ。うつぶけば、後姿悪し。さた、首持ちを強く持てば、女に似ず。いかにもいかにも、袖の長き物を着て、手先をも見すべからず。帯などをも弱々とすべし。されば、仕立を嗜めとは、懸りをよく見せんとなり。いづれの物真似なりとも、仕立悪くては、よかるべきかなれども、ことさら、女懸り、仕立をもて本とす。

 

老人

 老人の物真似、この道の奥義なり。能の位、やがてよそ目に現はるる事なれば、これ第一の大事なり。およそ、能をよき程究めたる仕手も、老いたる姿は得ぬ人多し。たとへば、樵夫・汐汲のわざ物などの翁形をしよせぬれば、やがて上手と申す事、これ誤りたる批判なり。冠・直衣、烏帽子・狩衣の老人の姿、得たらむ人ならでは似合ふべからず。稽古の劫入りて、位上らでは、似合うべからず。又、花なくば、おもしろき所あるまじ。およそ老人の立ち振舞、老いぬればとて、腰膝をかがめ、身をつむれば、花失せて古様に見ゆるなり。さる程に、おもしろき所稀なり。ただ大方、いかにもいかにもそぞろかで、しとやかに立ちふるまふべし。ことさら老人の舞かかり、無上の大事なり。花はありて、年寄りと見ゆる公案、精しく習ふべし。ただ老木に花の咲かんがごとし。

 

ひためん

 これ又大事なり。およそ、もとより俗の身なれば易かりぬべき事なれども、不思議に能の位上らねば、直面は見られぬものなり。先づこれは、仮令、その物その物によりて学ばん事、是非なし。面色をば、似すべき道理もなきを、常の顔にかへて、顔気色をつくろふ事あり。さらに見られぬものなり。ふるまひ・風情をば、そのものに似すべし。顔気色をば、いかにもいかにもおのれなりにつくろはで持つべし。

 

物狂ひ

 この道の第一のおもしろづくの芸能なり。物狂の品々多ければ、この一道に得たらん達者は、十方へわたるべし。繰り返し繰り返し公案の要るべき嗜みなり。仮令、憑き物の品々、神仏・生霊・死霊のとがめなどは、その憑き物の体を学べば、易く便りあるべし。親に別れ、子を尋ね、夫に捨てられ、妻に後るる、か様の思ひに狂乱する物狂ひ、一大事なり。よき程の仕手も、ここを心に分けずして、ただ一偏に狂ひ働く程に、見る人の感もなし。思ひ故の物狂をば、いかにも物思ふ気色を本意にあてて、狂う所を花に当てて、心を入れて狂へば、感も、おもしろき見所も、定めてあるべし。か様なるてがらにて、人を泣かする所あらば、無上の上手と知るべし。これを心の底によくよく思ひ分くべし。

 およそ、物狂ひのいでたち、似合ひたる様にいでたつべき事、是非なし。さりながら、とても物狂ひにことよせて、時によりて、何とも花やかにいでたつべし。時の花をかざしにさすべし。

 又言ふ、物真似なれども、心えつべき事あり。物狂ひは、憑き物の本意を狂ふといへども、女物狂ひなどに、あるは修羅・闘諍・鬼神などのつく事、これ何も悪き事なり。憑き物の本意をせんとて、女姿に怒るぬれば、見所に合はず。女懸りを本意にすれば、憑き物の道理なし。又、男物狂ひに女などの寄らん事も、同じ料簡なるべし。所詮、これ体なる能をばせぬが秘事なり。能作る人の料簡無き故なり。さりながら、この道に長じたらん書き手の、さ様に似合はぬ事を、さのみに書く事はあるまじ。この公案を持つ事、秘事なり。

 又、直面の物狂ひ、能を極めてならでは、十分にはあるまじきなり。顔気色をそれになさねば、物狂ひに似ず。得たる所なくて、顔気色を変ゆれば、見られぬ所あり。物真似の奥儀とも申すべし。大事の申楽などには、初心の人斟酌すべし。直面の一大事、物狂ひの一大事、二色を一心になして、面白き所を花に当てん事、いか程の大事ぞや。よくよく稽古あるべし。

 

法師

 これは、この道にありながら、稀なれば、さのみの稽古いらず。仮令、荘厳の僧正、ならびに僧綱などは、いかにも威儀を本として、気高き所を学ぶべし。それ以下の法体、遁世・修行の身にいたりては、抖そうを本とすれば、いかにも思ひ入りたる姿懸り、肝要たるべし。

 ただし、賦物によりて、思ひの外の手数のいる事もあるべし。

 

修羅

 これ又、一体の物なり。よくすれども、おもしろき所稀なり。さのみにはすまじきなり。ただし、源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能善ければ、何よりもまたおもしろし。これ、殊に花やかなる所ありたし。これ体なる修羅の狂ひ、ややもすれば、鬼のふるまひになるなり。又は舞の手にもなるなり。それも曲舞かかりあらば、少き舞かかりの手遣ひよろしかるべし。弓・胡ろく をたづさへて、打物をもてかざりとす。その持ち様つかひ様を、よくよくうかがひて、その本意を働くべし。あひかまへて、鬼の働き、又舞の手になる所を用心すべし。

 

 およそ、この物真似は、鬼かかりなり。何となく怒れるよそほひあれば、神体によりて、鬼かかりにならんも苦しかるまじ。ただし、はたと変れる本意あり。神は舞かかりの風情によろし、鬼はさらに舞かかりの便りあるまじ。神をば、いかにも、神体によろしき様に出立ちて、気高く、ことさら出きものにならでは、神といふ事はあるまじければ、衣装を飾りて、衣文をつくろひてすべし。

 

 これことさら大和の物なり。一大事なり。およそ怨霊・憑き物などの鬼は、おもしろき便りあれば、易し。あひしらひを目がけて、細かに手足を使ひて、物頭を本にして働けば、おもしろき便りあり。真の冥途の鬼、よく学べば、恐しき間、おもしろき所さらになし。真は、余りの大事のわざなれば、これをおもしろくする者稀なるか。先づ本意は、強く恐しかるべし。強きと、恐しきは、面白き心には変れり。そもそも鬼の物真似、大いなる大事あり。よくせんにつけて、おもしろかるまじき道理あり。恐しき所、本意なり。恐しき心と、おもしろきとは、黒白の違ひなり。されば、鬼のおもしろき所あらん仕手は、究めたる上手とも申すべきか。さりながら、それも、鬼ばかりよくせん者は、ことさら花を知らぬ仕手なるべし。されば、若き仕手の鬼は、よくしたりとは見ゆれども、さらにおもしろからず。鬼ばかりよくせん者は、鬼もおもしろかるまじき道理あるべきか。精しく習ふべし。ただ鬼のおもしろからむ嗜み、巌に花の咲かんが如し。

 

唐事

 これは、およそ格別の事なれば、定めて稽古すべき形木もなし。ただ肝要、いでたちなるべし。又、面をも、同じ人と申しながら、模様の変りたらんを着て、一体異様したる様に、風体を持つべし。劫入りたる仕手に似合ふ物なり。ただ仕立てを唐様にするならでは、てだてなし。何としても、音曲も、働きも、唐様といふ事、真に似せたりとも、おもしろくもあるまじき風体なれば、ただ一模様心得んまでなり。この異様したると申す事など、かりそめながら、諸事にわたる公案なり。何事か異様してよかるべきなれども、およそ唐様をば、何とか似すべきなれば、常のふるまひに、風体変れば、何となく唐びたるさまに、よそ目に見なせば、やがてそれになるなり。

 

問答条々

(この章、省略)

 

神儀

一、 申楽、神代の初まりと言ふは、天照太神、天の岩戸の籠り給ひし時、天下とこやみになりしに、八百萬の神だち、天の香具山に集まり、おん神の御心を取らんとて、神楽を奏し、細男をはじめ給ふ。中にも、あまのうずめのみ子すすみ出で給ひて、さかきの枝にしでを付けて、声をあげ、ほどろ焼き踏みとどろかし、神がかりすと、謡ひ舞ひかなで給ふ。その御声、ひそかに聞えければ、おほん神、岩戸を少し開き給ふ。国土又明白たり。神だちの御おも、白かりけり。その時の御遊び、申楽の初めと云々。詳しくは、口伝にあるべし。

(これから後、省略)

 

奥儀

 そもそも、風姿花伝の条々、大方外見の憚り、子孫の庭訓のため注すといへども、ただ望む所の本意とは、当世この道のともがらを見るに、芸のたしなみはおろそかにて、非道のみ行じ、たまたま当芸に至るときも、ただ一夕の顕証、一旦の名利に染みて、源を忘れて流れを失ふ事、道すでにすたる時節かと、これを嘆くのみなり。

 しかれば、道をたしなみ芸を重んずる所、私なくば、などかその徳を得ざらん。ことさら、この芸、その風を続ぐといへども、自力より出づる振舞ひあれば、語にも及び難し。その風を得て、心より心に伝はる花なれば、風姿花伝と名付く。

 

(中略)

 

 私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心をやはらげて、上下の感を成さん事、寿福増長の基、か齢延年の法なるべし。究め究めては、諸道悉く寿福延長ならんとなり。ことさら、この芸、位を究めて、家名を残す事、これ天下の許されなり。これ寿福増長なり。しかれども、殊に故実あり。上根・上智の眼に見ゆる所、たけ・位の究まりたる仕手におきては、相応至極なれば、是非なし。およそ愚なるともがら、遠国・いなかの卑しき眼には、このたけ・位の上れる風体、及び難し。これをいかがすべき。この芸とは、衆人愛敬をもて一座建立の寿福とせり。故に、あまり及ばぬ風体のみなれば、又諸人の褒美欠けたり。このため、能に初心を忘れずして、時に応じ所によりて、愚かなる眼にも、実にもと思ふ様に、能をせん事、これ寿福なり。よくよくこの風俗のきはめを見るに、貴所・山寺・いなか・遠国・諸社の祭礼にいたるまで、おそなべてそしりを得ざらんを、寿福達人の仕手とは申すべきかや。されば、いかなる上手なりとも、衆人愛敬欠けたる所あらんをば、寿福増長の仕手とは申し難し。しかれば、亡父は、いかなるいなか・山里のかたほとりにても、その心を受けて、所の風儀を一大事にかけて、芸をせしなり。

か様に申せばとて、初心の人、それ程は何とて左右なく究むべきとて、退屈の儀はあるべからず。この条々を心底に宛てて、そのことわりをちちと採りて、料簡をもて、わが分力に引き合せて、工夫をいたすべし。およそ、今の条々工夫は、初心の人よりは、なほ上手におきて、故実・工夫なり。たまたま得たる上手になりたる仕手も、身をたのみ、名にばかされて、この故実無くて、いたづらに、名望程は寿福欠けたる人多き故に、これを歎くなり。得たる所あれども、工夫なくてはかなはず。得て工夫を究めたらんは、花に種を添えたらんが如し。

たとひ、天下に許されを得たる程の仕手も、力無き因果にて、万一少しすたる時分ありとも、いなか・遠国の褒美の花失せずば、ふつと道の絶ふる事はあるべからず。道絶えずば、又天下の時にあふ事あるべし。

一、 この寿福増長のたしなみと申せばとて、ひたすら世間のことわりにかかりて、もし、欲心に住せば、これ第一道のすたるべき因縁なり。道のためのたしなみには、寿福増長あるべし。寿福のためのたしなみには、道まさにすたるべし。道すたらば、寿福おのづから滅すべし。正直円明にして、世上万徳の妙花を開く因縁なりと、たしなむべし。

 およそ、花伝の中、年来の稽古より初めて、この条々を注す所、全く自力より出ずる才学ならず。幼少よりこのかた、亡父の力を得て、人となりしより二十余年が間、目に触れ、耳に聞き置きしまま、その風を受けて、道のため、家のため、これを作する所、私にあらんものか。

 

花修云

(この章省略)

 

別紙口伝

一、 この口伝に、花を知ること。先づ仮令、花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりきまふべし。そもそも、花と言うに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しき故にもてあそぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知る所、すなはち、おもしろき心なり。花と、おもしろきと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く頃あれば珍しきなり。能も住する所無きを、先づ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、珍しきなり。

  ただし、様あり。珍しきと言へばとて、世に無き風体をし出だすにてはあるべからず。花伝に出だす所の条々を、悉く稽古し終りて、さて、申楽をせん時に、その物数を、用々に従ひて取り出すべし。花と申すも、万の草木において、いづれか四季折節の、時の花のほかに、珍しき花のあるべき。その如くに、習ひ覚えつる品々を究めぬれば、時折節の当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体を取り出だす。これ時の花の咲くを見んが如し。花と申すも、こぞ咲きし種なり。能ももと見し風体なれども、物数を究めぬれば、その数を尽す程久し。久しくて見れば、又珍しきなり。

 その上、人の好みも色々にして、音曲・振舞ひ・物真似、所々に変りてとりどりなれば、いづれの風体をも残してはかなふまじきなり。しかれば、物数を究め尽したらん仕手は、初春の梅より秋の菊の花の咲き果つるまで、一年中の花の種を持ちたらんが如し。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、取り出だすべし。物数を究めずば、時によりて花を失ふ事あるべし。例へば、春の花の頃過ぎて、夏草の花は無くて、過ぎし春の花を、又持ちて出でたらんは、時の花に合ふべしや。これにて知るべし。

 ただ、花は、見る人の心に珍しきが花なり。しかれば、花伝の花の段に、「物数を究めて、工夫を尽して後、花の失せぬ所をば知るべし。」とあるは、この口伝なり。されば、花とて別には無きものなり。物数を尽して、珍しき感を心得るが花なり。「花は心、種はわざ。」と書けるもこれなり。物真似の鬼の段に、「鬼ばかりをよくせん者は、鬼のおもしろき所をも知るまじき。」とも申したるなり。物数を尽して、又珍しく出だしたらんは、珍しき所、花なるべき程に、おもしろかるべし。余の風体は無くて、鬼ばかりをする上手と思はば、よくしたりとは見ゆるとも、珍しき心あるまじければ、見所に花はあるべからず。「巌に花の咲かんが如し。」と、申したるも、鬼をば、強く恐しく、きもを消す様にするならでは、およその風体無し。これ巌なり。花と言ふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思ひ慣れたる所に、思ひのほかに鬼をすれば、珍しく見ゆる所、これ花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずるしては、巌ばかりにて花はあるべからず。

 

(中略)

 

一、 秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるが故なり。しかれば、秘事と言ふ事を現はせば、させる事にても無きものなり。これを、させる事にても無しと言ふ人は、いまだ秘事といふ事の大用知らぬが故なり。先づ、この花の口伝におきても、ただ、珍しき、花ぞと、皆人知るならば、さては、珍しき事あるべしと、思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひ珍しき事をするとも、見手の心に珍しき感はあるべからず。見る人のため、花ぞとも知らでこそ、仕手の花にはなるべけれ。されば、見る人は、ただ思ひのほかに、おもしろき上手とばかり見て、これは、花ぞとも知らぬが、仕手の花なり。さる程に、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立て、これ花なり。例へば、弓矢の道の手立てにも、名将の案はからひにて、思ひの外なる手立てに、強敵にも勝つ事あり。これ負くる方の目には、珍しきことわりに、ばかされて、敗らるるにてはあらずや。これ一切の事、諸道芸において、勝負に勝つことわりなり。か様の手立ても、事落居して、かかるはかり事よと知りぬれば、その後はたやすけれども、いまだ知らざりつる故に負くるなり。

 さるほどに、秘事とて、一つをば我が家に残すなり。ここをもて知るべし。たとへ現はさずとも、かかる秘事を知れる人よとも、人には知られまじきなり。人に心を知られぬれば、敵人油断せずして、用心を持てば、かへつて敵に心を付くる相なり。敵方用心をせぬ時は、こなたの勝つ事、なほたやすかるべし。人に油断をさせて、勝つ事を得るは、珍しきことわりの大用なるにてはあらずや。さる程に、我が家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯のぬしになる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず。

一、 因果の花を知る事。極めなるべし。一切皆因果なり。初心よりの芸能の数々は因なり。能を究め、名を得る事は果なり。しかれば、稽古する所の因おろそかなれば、果を果す事も難し。これをよくよく知るべし。

 又、時分をもおそるべし。こぞ盛りあらば、今年の花無かるべき事を知るべし。時の間にも、時男・時女とてあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、必ず悪き事、又あるべし。これ力無き因果なり。これを心得て、さのみに大事に無からん時の申楽には、立合勝負に、それ程に我意執を起こさず、骨をも折らず、勝負に負くるとも、心に掛けず、手をたばひて、少な少なと能をすれば、見物衆も、これはいか様なるぞと、思ひ覚めたる所に、大事の申楽の日、手立てを変へて、得手の能をして、精励を出だせば、これ又、見る人の、思ひの外なる心出で来れば、肝要の立合、大事の勝負に、定めて勝つ事あり。これ、珍しき大用なり。この程悪かりつる因果に又善きなり。

 およそ、三日に三庭の申楽あらん時は、指寄の一日なんどは、手をたばひてあひしらひて、三日の中に、殊に折角の日と覚しからん時、善き能の、得手に向きたらんを丹精を出だしてすべし。一日の中にても、立合ひなんどに、自然女時に取り逢ひたらば、始めをば、手をたばひて、敵の男時、女時に下る時分、善き能を揉み寄せてすべし。その時分又、こなたの男時に返る時分なり。ここにて能よく出で来ぬれば、その日の第一とすべし。

 この男時・女時とは、一切の勝負に、定めて一方色めきて、善き時分になる事あり。これを男時と心得べし。勝負の物数久しければ、両方へ移り変り移り変りすべし。ある物に曰く、「勝負神とて、勝つ神・負くる神、勝負の座敷を定めて守らせ給ふべし。弓矢の道に、宗と秘する事なり。」敵方の申楽よく出で来たらば、勝神あなたにましますと心得て、先づおそれをなすべし。これ、時の間の因果の二神にてましませば、両方へ移り変り移り変りて、又我が方の時分になると思はん時に、たのみたる能をすべし。これすなはち、座敷の中の因果なり。返す返す、おろそかに思ふべからず。信あれば、徳あるべし。

一、 そもそも、因果とて、善き悪しき時のあるも、公案を尽して見るに、ただ珍しき・珍しからぬの二つなり。同じ上手にて、同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつる事の、今又、おもしろくも無き時のあるは、昨日おもしろかりつる心慣ひに、今日は珍しからぬによりて、悪しと見るなり。その後、又善き時のあるは、先に悪かりつるものをと思ふ心、又珍しきに返りて、おもしろくなるなり。

 されば、この道を究め終りて見れば、花とて別には無きものなり。奥儀を究めて万に珍しきことわりを、我れと知るならでは、花はあるべからず。経に曰く「善悪不二、邪正一如。」とあり。本来より、善き悪しきとは、何をもて、定むべきや。ただ時にとりて用足る物をば善き物とし、用足らぬを悪しき物とす。この風体の品々も、当世の衆人・所々にわたりて、その時のあまねき好みによりて取り出だす風体、これ用足るための花なるべし。ここのこの風体をもてあそめば、かしこに又余の風体を賞翫す。これ人々心々の花なり。いづれを真とせんや。ただ、時に用ゆるをもて花と知るべし。

一、この別紙の口伝・当芸に於いて、家の大事、一代一人の相伝なり。たとへ一子たりと言ふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家家にあらず、続くをもて家とす。人人にあらず、知るをもて人とす。」と言へり。これ、万徳了達の妙花を究むる所なるべし。

 

(玉川選書……玉川大学出版部……「能の知恵」を参考にしました。)

 

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