国立長野病院循環器科
これからカテーテルアブレーションを受ける人のために
最終更新日:平成19年11月19日
 
国立長野病院
 
 
「上田原古戦場に思いをはせて」

現在、小生は、新居を建て、転居し、上田市下之条の地に居る。司馬遼太郎の“街道をゆく”の書き出しを真似てみた。新居の屋上からは、兵者どもが夢の跡の上田原古戦場が一望できる。上田原合戦の折り、武田信玄は、小牧城から連なる倉升山に陣を構え、一方の村上義清は、半過岩鼻(はんがんいわばな)の隣の天白山に陣を構えたと伝わっている。ゴールデンウイークに暇をみつけて、半過岩鼻(はんがんいわばな)の頂上にある千曲公園に登ってみたが、倉升山はもとより、北から南に流れる千曲川に抱かれる様に存在する砥石城から葛尾城までが手に取るように一望できた。新居三階の屋上からも、倉升山と半過岩鼻(はんがんいわばな)が180度の方向で一望でき、両雄がどのように思慮を巡らし、合戦の戦略をたてたのか、わくわくしながら、夜景の中、瞑想に耽っている。当時は、現在の様に住宅も建っていなかったであろうし、千曲川とその河川敷ももっと広かったであろうから、5Kmの両陣間を隔てて、死を、明日の生を念じ、誓いながら、“凛”として対峙したのだろう。この近くには、板垣信方や雨宮刑部の墓もあり、上田原合戦の激しさが思い量られる。現在放送されている某放送局の“風林火山”に触発されて、小生も、“熱く燃えている信州”各所を歩く事とした。

信玄が、上田原古戦場に到着するのに辿ったコースを逆行した。まず、自宅を出発し、信玄が戦勝を祈願したと言う生島足島神社を訪ねた。

この神社は、初詣に子供のお宮参りにと何回も訪れているが、今回は、いつもより荘厳に小生を迎えてくれた。

続いて、長久保城跡を横目に見ながら、大門峠へ向かった。上田原合戦の折、信玄は、諏訪上原城から雪深い大門峠を越えてきた為、疲れていたと言う。峠では、峠の標識の隣に天保と刻まれたお地蔵様を見つけた。

江戸時代の天保の飢饉の時に作られたお地蔵様がこんなところに残っていると思うと何か大きな発見をした気分となり、感無量であった。

大門峠から茅野市に降り、上原城跡を探した。諏訪平は、“風林火山”の幟一色であり、比較的容易にこの山城の麓の屋敷跡に辿り着いた。

この城は、諏訪頼重亡き後、板垣信方が城代として君臨し、山麓の屋敷があった辺りは、板垣平とも呼ばれていた。

その板垣信方も上田原合戦で死んでしまった。屋敷跡から山頂近くまでは、車の乗り入れが可能で、下車後、山頂城跡まで20分間山道を登った。城跡は、観光化されておらず、何も無い。在るのは、石と木と草の自然だけである。武田軍と諏訪軍が織り成した兵どもが夢の跡は、松尾芭蕉が名文句を残した平泉と同様自然だけであった。

諏訪湖を含めた諏訪の街が一望出来、戦略的に重要な位置にこの城があった事が伺えた。更に、諏訪氏終焉の城であり、山本勘助と諏訪御料人が初対面したとされる桑原城跡に足を延ばした。やはり“風林火山”の幟が山城の麓までの行き方を教えてくれた。

麓から山頂城跡までの30分程の余り整備されていない山道を登ると城跡に辿り着いた。山頂城跡にあったのは、やはり自然だけであった。“国敗れて山河あり”の杜甫の漢詩を思い出した。諏訪の街を眼下に望む絶景と、達成感に伴って掻いた汗を乾かす爽やかな風と、勘助と諏訪御料人を思うRomanticな思考が、私を“幸せな”気分にしてくれた。本当に、“幸せ”とは主観的なものである。軒並ぶ呼び込みがいる売店も、そこで売っているジュース一本なくとも、主観的思考で幸せになれる。メーテルリンクの“青い鳥”は、隣の庭にあったそうである。第一日目は、これで終了し、蓼科温泉で疲れた足を癒す事とした。

温泉とアルコールに誘われた快い眠りの中で、夢をみた。八幡原の古戦場は、遠すぎる。葛尾城の山城も一昨年登った。砥石城は近すぎる。それならば、上田原合戦の前年に信玄が戦った佐久地方に寄り道してから上田古戦場に戻るほうがよい。夢は、そんな内容であった。

冬季閉鎖後開放間もない、299号線ロマンチック街道を峠超えし、佐久中込に辿り着いた。中込に“熱い信州”は無かった。“風林火山”の幟は、一本も立っていない。信玄が、佐久では殺戮の限りを尽くしたと聞いていたが、その故なのか。思考錯誤しながら、内山城跡麓に辿り着いた。やはり山城である。幸いにして、看板はあったので、山頂まで30分と記されている山道を登り始めた。登り始めて、数分で道は、獣道に変わった。さらに、登山を続けると、道はますます急勾配と成った。同伴伴侶は、音を揚げて、途中で帰ろうと言う。山頂に到着した時に感ずる爽快感があるから山に登る。体を虐めた後に味わう快感が、たまらないので、スポーツやトレーニングをする等と言う無理な理由付けをして、私の体を駆動させ、やっと山頂城跡に辿り着いた。

山頂から見る景色は、私の故郷衣笠城跡からのそれと同様で、城の主となった錯覚に陥った。“坂東武者の名をとめし、衣笠城跡西に見て…. ” の横須賀高等学校校歌を、自然と、口ずさんでしまった。信玄が、殺戮の限りを尽くして降伏させた志賀城跡は、地元の人に聞いても所在は、分らなかったし、看板も立っていなかった。過去の忌まわしい歴史を封印しているとさえ感じてしまう。幸いなことに、城跡に建ったと思われる雲興寺にまではようやく辿り着いた。これ以上の詮索は出来ないと思い、佐久の地を後にした。

三方ヶ原の合戦に勝利した信玄が、上京を諦め、撤退し、死亡したとされる伊那駒場の地を、一昨年、偶然にも訪れることができたが、信玄は、信州の地で、己の生涯を輝かせ、そして、散っていったとつくづく感ずる。もしかしたら、諏訪御料人を愛したと同様に、科濃の国をも愛していたのかも知れない。科濃の国に対する郷愁が、信玄の死に場所を科濃とさせたかもしれない。今回の旅は、小生に、井上 靖の“風林火山”と新田次郎の“武田信玄”をもう一度読み返さなければならないと感じさせ、上杉謙信ではなく、上田原合戦のもう一方の科濃の勇者である“村上義清”も平等に再読、評価しなければならないと考えさせてくれた。

 
   

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