国立長野病院循環器科
これからカテーテルアブレーションを受ける人のために
最終更新日:平成16年4月11日
 
国立長野病院
 
 
「自己紹介?」
私は1977年に第2内科に入局し、1997年までの20年間を信州大学でお世話になった。私の医局時代を1983年のOben(オーベン)外勤までの初期と1984年以降医局に帰ってからの後期に便宜的に分類する。その間、海外留学、内地留学もせず、従って、私の循環器診療は、全くのNative Shinshuである。最初の2年間は大学で初期研修をさせて頂いた。初期研修は、消化器、循環器、血液、糖尿病の患者を見せて頂いたが、右も左も判らない私をよく指導してくれた先輩(Oben(オーベン))が、私の数少ない、医学は言うに及ばず、私の人生の師匠である。この頃心臓カテーテル検査を先輩から教えて頂いた。一年間の外勤を終え、教授は小田先生から古田先生に変わっていたが、1980年に医局に帰ってから、犬に慢性膵炎を作る仕事を命ぜられた。この仕事を2年かけて行い、6年目に再び外勤した。後期医局時代は、医局に帰って1年でチーフの先生が外勤され、1985年から循環器班を教授に任されたことから始まる。全国levelの循環器診療をやらなければならない、兵隊さんを集めなければならない。今の若い先生ならノイローゼになるかもしれないが、元来optimisticな性格の私は暢気なものであった。Tomorrow is another day。Gruntig(グルンティッヒ)の世界最初のPTCA施行に遅れること9年の1986年、大学でもPTCAを行い、Borgreffe(ホルグレッヘ)の世界最初の高周波Catheter ablation(カテーテルアブレーション)に遅れること3年の1990年、大学でもCatheter ablation(カテーテルアブレーション)を行った。勿論現在でも私淑している師匠の力を借りてである。仲間が兵隊が増えてくると、その面倒もみなければならない(学問も私事にも)。1990年頃が医局で最も楽しかった時代であった。よく学びよく遊んだ。私も若かった。全国levelに近い循環器診療が大学以外でもできるようになってくると、皆が全て大学に居られるわけではないので、今度はその病院へ循環器医を派遣しなければならない、その病院が一生懸命診療をおこなえば、症例数で大学は(少なくとも信州大学は)勝てないので、動物実験をやらなければならない。そんな風に考え方が変わってきた。大学は、研究機関であり、何らかのデータをださなければならない。大学で教えて頂いたChallenge精神と輪を座右の銘として、診療を行っている現在である(医療タイムス6/24/1998)。
 

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