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第一幕 「絆」 後編

「…何なんだ、まったく…ッ!」
 カディルはこの上なく不機嫌だった。
 あれから数日、自分の一人目の相手が決まった、という話は聞いた。が、それが誰なのか、ハミトに聞いても側近に聞いても誰も教えてくれない。ただ、皆一様に微笑んで、心配要らない、絶対に気に入るから、と答えるだけだ。
 カディルは次の皇帝として、政治にも祭事にも通じているが、自信を持って言える。このことには政治的な意味も儀礼的な意味も何もない。皆カディルをからかっているだけだ。相手が誰だか知って、驚くカディルを楽しみにしているのだ。気分が悪い。
 もう一つ気分が悪いことがあった。それを愚痴って聞かせることができる唯一の相手、リュヤがあのとき部屋で会って以来一度も姿を見せないのだ。親衛隊員なのだから皇宮の中にはいると思うのだが、まるで避けているかのようにカディルの前に現れない。当然リュヤの耳にもカディルの相手が決まったことは入っているはずだ。リュヤならからかうなり祝うなり、何か言いに来ると思っていたのに。そしてリュヤなら、巧くすれば他の人が隠しているカディルの相手について聞き出せると思っていたのに。リュヤまで一緒になってカディルをからかっているのだろうか。ますます気分が悪い。
 そしてそのように気分の悪い数日を過ごしているうちに、とうとう結婚の当日になってしまった。相手が誰だか知らないが、これではあまりいい気分で迎えられそうにはない。とはいえ…。
 この国のしきたりでは、大々的な華燭の典よりも先に、夫婦になる二人はともに一夜を過ごすことになっている。そして結ばれた二人を、翌日皆で祝う、というわけだ。だから、カディルも衆人環視の中ではなく、まず二人きりで花嫁と会うことになる。皇太子であるカディルといきなり二人きりにされる花嫁は、まず間違いなくがちがちに緊張していることだろう。ましてや、皇太子の花嫁に選ばれるような女性が、房事に慣れているなどということはありえない。
 夜の寝室に初めて男と二人きり。しかも相手は皇太子。その状況だけで同情に値する。確かに自分の機嫌は悪いが、それでも花嫁に八つ当たりだけはするまい。カディルはそう誓った。

「・・・・・・」
 居心地の悪い時間がのろのろと流れていった。カディルにしてみても、実は女と夜の寝室で二人きりなどというのは初めてだ。別にやったってよかったのだろうが、彼はそこらの侍女などに手を付けたり、ということを今までにしてきてはいない。緊張しているのはカディルとて同じことなのだ。何かをして気を紛らわせようにも、部屋はすっかり花嫁を迎える準備が整えられてしまっていて何もできない状態だし、いつ花嫁が来るかわからないこの状況で部屋から出るわけにもいかない。落ち着かずにそわそわしていると、音もなく静かに扉が開かれた。ただそれだけで心臓が飛び跳ねてしまった自分を、カディルは少し情けなく思った。
「失礼いたします」
 まず入ってきたのは、今までに見たこともない侍女だった。それに続いて、色とりどりの飾りのついた豪奢な衣装をまとった花嫁が、うつむいたまま姿を現す。この国の花嫁衣装は顔を隠すヴェールがあるものなので、まだ顔つきも表情もわからない。
 花嫁を案内すると、侍女はもう何も言わず黙礼して、また音もなく扉を閉めた。カディルはなんとなく、逃げ道が断たれたような気分になった。
「…こちらへ」
 自分の声が自分のものに思えなかった。やたらと乾いてかすれている。
「・・・・・・」
 花嫁は黙ってうなづくと、カディルの方に歩み寄ってきた。思いの外足取りはしっかりしている。全然、ではないものの、あまり緊張もしていないようだ。自分が内心混乱しきっているのに、そんな花嫁の様子がカディルは少しシャクだった。
 ちょうど手を伸ばせば届く距離で、花嫁は立ち止まる。何かしなければ。カディルは本気でしきたりを呪った。どうしてどうでもいいところには細々と取り決めがあるくせに、こういう状況でどうすればいいかはほとんど決められていないんだ!
 それでも、動揺に押し流されそうになっている知識の中から辛うじて為すべきことを引っ張り出すことに成功するカディル。そう、まずはヴェールを外さないことにはどうしようもない。
 意を決し、ヴェールに手をかけた。柔らかい布がそのとたんに波打つ。手がひどく震えている。…情けない情けない情けない!
 それなのに花嫁は身じろぎ一つしていなかった。何と落ち着いていることか。これは別に自分が気を遣う必要もないだろう…などと落ち着いたことは考えられなかったが、ともあれ、カディルは思い切って、ヴェールをばっ、とめくり上げた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 花嫁とカディルの目がまともに合う。一瞬、カディルの思考が停止した。思考回路がつながると、カディルは相手の顔を不躾なほどまじまじと見つめる。そして、
「うぉわあぁぁっ!!?」
 驚きの声を上げて飛びすさった。別に、相手が逃げ出したくなるほどの醜女だったとか、そういうわけではない。ただ、
「あ…あやー…。な、何も、そんなに驚かなくても…」
 ものすごく見知った、それでいて思いもよらなかった相手だった、それだけのことだった。
「リュ…リュヤ…」
 思わずへなへなと絨毯に座り込むカディル。まさかここで文句の一つも言いたかったリュヤが登場するとは想像もしていなかったのだ。
「おいおい…。タチが悪すぎるぞ、何だよこりゃあ…。こんな時に冗談なんて…いくら俺でも、怒るぞ…」
 本当は、状況が整理できるまで、ちょっとだけ現実から目を逸らしたいだけだった。
 冗談だなんて、カディルも思っていなかった。
「…冗談じゃ…ないんだよ…」
 だから、リュヤが小さな声で、しかしはっきりとそう答えても、ああやっぱり、と思っただけだった。
 ずっとずっと一緒にいたから、気づかなかった…いや、あえて考えないようにしていたのかもしれないが…、リュヤは帝国の有力な家臣の娘だ。皇室とのよしみを通ずるため、皇太子に嫁いだところで何らおかしいことはない。そして、ずっと一緒にいたリュヤならば、ハミトも側近も自信満々に「絶対気に入る」と言い切っていたのも納得できる。
「それとも…カディル、あたしじゃ…イヤだった?」
「え?」
「あたしは…父さんからこのお話聞いた時、すごく驚いたけど…それよりももっとずっと、すごくすごく嬉しかったんだよ。
 生まれが生まれだから、あたしの結婚は絶対に政略結婚だと思ってて…好きな人のお嫁さんになるなんて、ただの夢だと思ってたんだよ。
 これだって、政略結婚って言えばそうなんだけど…でも、でもね」
 そこまで言ったリュヤは、カディルにもう一度歩み寄った。当然、もうカディルは逃げなかった。
「まさか、カディルのお嫁さんになれるなんて、思わなかった。
 夢って、かなっちゃうこと、あるんだね。あたし、ずっと…あっ」
 リュヤはそこで言葉を失った。突然、カディルが自分を抱き寄せたからだ。
 驚いた表情を浮かべながらも熱の籠もった視線を自分に向けるリュヤの耳に唇を寄せ、カディルはささやいた。
「俺…、俺も…。
 ずっと一緒にいてくれたお前のことが、前から大好きだったんだ。これからもずっと、一緒にいてほしい。
 お前が后になってくれて、本当に、本当に嬉しいよ」
 言葉が終わると、それに答えたのは、
「…ぐじゅっ」
 ヘンな音だった。
「ゴメンっ、カディルっ…。服っ…汚しちゃうかもっ…うぐっ」
 見ると、リュヤはその大きな目に、文字通り目一杯、涙をたたえていた。それをこぼさないように必死に耐えているようだ。
「…泣くほど嬉しいのかよ」
 わざと、ぞんざいに言ってみた。いつもの二人に戻りたかったのかもしれない。
「だってあたし…っ…、あたし…だってっ…、カディルのことっ…大好き、だったんだもんっ…。諦めてたのにっ…、ホントに、ホントに好きな人とっ…ずっと、一緒にいられるんだよっ…。嬉しくないわけ、ないよっ…あ」
 言い終わった途端、リュヤの瞳から一粒、涙のしずくがこぼれ落ちた。
「泣いちゃったっ…ゴメン、カディルっ…」
「別に、謝らなくても…」
「だって、服…汚しちゃう…」
 涙で濡れるくらいでそんな大げさな、とカディルは思ったが、改めてリュヤの泣き顔を見て納得した。化粧が涙で崩れ始めている。
「やだっ、見ないでよっ…。泣いちゃったからっ…ヘンな顔に…なっちゃってるんだからっ…」
「気にするな。化粧なんておかしくなったら落としちまえよ。別に今更すっぴんのお前見たってガッカリしたりしないぞ。
 …お前は、知らない相手の所に来たんじゃないんだから」
「…うん!」
 もう涙をぬぐおうとはせず、しかし心からの笑みを満面にたたえ、リュヤはうなづいた。そんな彼女を見て、再びカディルの心臓が高鳴る。今度は先程までとは違う。
「…大体、なんでそんな化粧なんてしてんだよ」
「だって…あたし、お嫁さんだもん。お化粧くらいしてもらえるよ。
 …ヘン…かな」
「ああヘンだ」
「あやー…。やっぱりそっか…。あたしにお化粧なんて似合わないよね…」
「いや。似合いすぎてヘンだ。まるで女みたいだ」
「あたし、女だよ?」
「…今までは俺にとってお前は、『女』である前に『リュヤ』だったんだよ。男だ女だってことあんまり意識してなかったからな。
 でも…そんな顔されると、嫌でも、お前が女なんだな、って思う。女扱いしたくなる」
 普段すっぴんのリュヤしか見ていないカディルにとって、化粧をしたリュヤはそれだけで刺激的だった。たぶんリュヤのことだ、濃い化粧は自分で嫌がったのだろう、花嫁のものにしてはものすごく薄化粧だったが、それが幸いして涙で崩れてもさほどひどい有様にはなっていない。濡れたように赤く光っている唇を見ているだけで、カディルの動悸が速くなってきた。
「…あたし、女なんだから…女扱いして、当たり前だよ」
 カディルはその言葉に、困り顔で頭をかいた。普段だったら冗談なのだろう。普段だったらカディルも冗談ですますだろう。だが…。
「…今がいつだか、わかってるか?」
「結婚式の前の夜」
「…ここがどこだか、わかってるか?」
「カディルの部屋」
「結婚式の前の夜に、俺の部屋で、『女扱い』されるってことがどういうことか、わかってるか?」
「・・・・・・」
 夜目にも、そして、薄いとはいえ白粉と頬紅を塗っていてもわかるほど、リュヤの頬が赤く染まった。口をつぐんだまま、小さくうなづく。
「…だって…あたし、そのために…ここに来たんだもん…」
「…そりゃ、そうか…」
 無意識のうちに逃げる口実を探していたのかも知れないが、もうどうにもならないようだ。意を決したカディルは、左腕をリュヤの背に回したまま、右腕を彼女の両脚に回し、一気に抱き上げた。
「きゃっ」
 声を上げたリュヤは、カディルの上半身にしっかりしがみつく。花嫁衣装の生地はかなり分厚いのだが、それでも激しいリュヤの鼓動が伝わってくる。自分のも同じように伝わっているんだろうな、と思うとやたら気恥ずかしくなり、カディルはつい乱暴に、リュヤを寝台に放り出してしまった。
「あ…」
 一瞬、ほんの一瞬だけ、リュヤの表情におびえが走る。リュヤは瞬時にそれを笑みで覆い隠したが、カディルはその一瞬を見逃さなかった。
「あ…すまん…」
 見られた、と悟った途端、リュヤの顔から笑みが消える。そして、少し震える小さな声で言った。
「ねえ、カディル…。こういうこと、聞いてもいいのかあたしよくわからないんだけど…」
「ん?」
「カディルってさ、皇太子殿下だよね? 少しくらいのことなら、無茶したって許されるよね?」
「そういうのは好きじゃないが、まあ、そうだろうな」
 何を聞きたいのか、リュヤの意図がはかりかね、首を傾げるカディル。リュヤはそんなカディルから目を逸らし、ぼそぼそと何かつぶやいた。
「…の…とか…たこと…の?」
「何?」
 大きな声では言いづらいことなのだろうか。カディルが顔を近づけると、蚊の鳴くような声でリュヤはもう一度言った。
「皇宮の…侍女とかに…手をつけたりしたこと…あるの?」
「は?」
「だって…あたし、こんなこと…」
 ぼそぼそ言い続けるリュヤの言葉には答えず、カディルはぶっきらぼうに言った。
「…うまくいかないかもしれないが…文句は後で聞くから」
「…うん…」
 リュヤは静かに目を閉じた。後のことは、カディルに全部任せることにした。正直、これから何をどうするのか、リュヤはあまりよく知らないのだ。
 最後に何がどうなるかくらいは、子供でもあるまいし、知っている。そこに至るまでにいろいろある、ということも、一応は知っている。しかし、その「いろいろ」が具体的にどういうものなのかは全然知らない。
 正直に言って、怖い。でも、カディルならきっと、ひどいことはしないだろう。そんな風に思っていた、そのときだった。
「リュヤっ!」
 鋭い声とともに、カディルがいきなりリュヤをベッドから突き落とした。
「きゃあぁっ!?」
 幸い、ベッドから落ちても下は毛足の長い絨毯だ。痛くはない。が、この状況でそんなことをされて驚かない方がどうかしている。
(何? 何なの? こ、これって、こういうものなの?)
 しばらく思考が停止していたが、
 ひゅッ。
 鋭く風を斬る音で我に返った。…刃物がかわされた時の音だ!
「カディル!」
 あわてて起きあがると、カディルはベッドの反対側に転げ落ちており、ベッドが大きく斬り裂かれていた。そして、そのベッドの上に立っていた何者かが、向こう側のカディルに跳びかかっていく。
「ちぃッ!」
 前述したとおり、カディルに対する暗殺未遂は今までにも数回起きている。だから普段であれば、カディルはいつもその覚悟はしていた。が、今回は状況が悪すぎる。いくらなんでも新枕のそのときまで襲撃に備えてなどいない。リュヤが巻き添えを食わないようにベッドから突き落とし、自分も転がり落ちて刃をかわすのが精一杯だった。
 しかも皇太子と新皇太子妃の房中の様子を探ろうなどという不敬者もいないため、周囲には警護の者もいない。考えてみれば暗殺者が襲撃をかけるにはもってこいの夜だ。
 それでも、カディルとて温室育ちの皇太子、というわけではない。初陣も済ませたれっきとした武人なのだ。立て続けに繰り出される凶刃をかわすと、ようやく体勢を立て直した。
「く!?」
 しかし、そのときにはカディルは壁際まで追いつめられていた。
 曲者は、既に成功を確信したのか、笑みを浮かべてじりじりとカディルの方に歩み寄ってきた。その姿を見て、カディルは今回の暗殺の手口を知った。相手は、リュヤがこの部屋に入ってくるとき付き添ってきた侍女だったのだ。変装したか以前からこの日のために潜入していたか、いずれにせよずっと機をうかがっていたのだろう。
 標的は丸腰、しかも周りにいるのは標的以外には花嫁だけ。確かに、千載一遇の機会だろう。
 しかし。
「たあぁーっ!!」
 最後の凶刃を振るおうとした曲者は、突如肩口に痛烈な衝撃を受け、たまらず得物を取り落とした。驚愕の表情を浮かべて振り向くと、そこには花嫁衣装のままのリュヤが、厳しい表情で構えをとっていた。
「馬鹿な…」
 曲者も呆然とする。無論、以前から機をうかがっていたのだ、花嫁が親衛隊員であるリュヤ、ということくらいは心得ていた。しかしいくら親衛隊員であっても、重たく大げさな花嫁衣装を着たまままともに戦えるとは思っていなかったのだ。だからこそカディルがその衣装を脱がせる前に実行に移ったというのに。しかもリュヤは、あの衣装をまとったまま、曲者にカカト落としを食らわせたのだ。ヘタな打撃で刃を持ったままの曲者をカディルの方に突き飛ばさないようにという考えなのだろうが、そう簡単にできるものではない。カカト落としということは、動きにくく重い衣装を着たまま、打撃点の上まで足を上げなければならないのだから。
 しかしリュヤは、カディルの妹をも守ることを考えた父親に、影姫…守る相手が女性である場合の影武者と考えてくれればいい…としての技術を仕込まれていた。その際、ドレスや正装などの動きにくい服で、しかも武器なしで戦う術を身につけていたのだ。これは当然そう一般的な武術ではない。曲者が予想していないのもムリはないことだった。
 とはいえ、曲者とてプロの暗殺者だ。反対側の袖に仕込まれていたナイフを取り出すと、今度はリュヤに斬りかかった。いかに訓練を受けたとはいえ、影姫としての実戦は初めてであるせいなのだろうか、見る間にリュヤの衣装が斬り裂かれていった。今のところすべて紙一重でかわし、体に刃は触れていないようだが、それも時間の問題に思えたその瞬間、
「はっ!」
 裂帛の気合いがリュヤの口から漏れると、斬り裂かれ帯状になった衣装があたかも蛇の群のように曲者に襲いかかったのだ。衣装を斬り裂かせていたのも、影姫の武術の一つだったのである。そこは敵も然る者、ほとんどはかわされたものの、やはり想像もつかない攻撃に襲われたせいだろう、一撃を顔面に受け、もう一撃で得物を絡め取られる。そしてひるんだ瞬間に、横からカディルの拳が飛んできた。身動きが取れなくなっていた曲者は為す術もなく一撃を受け、吹っ飛ばされる。その拍子に絡め取られたままの得物も奪われてしまった。
 曲者はここではっきり失敗を悟った。そもそも今が好機だったのは、丸腰のカディルと一対一、しかもこちらは不意打ちという前提があってこそだったのだ。こちらも予備の武器まで失い、決して弱くはないカディルも既に戦う体制を整え、その上役に立たないと思っていたリュヤは花嫁衣装のままでも一騎当千の強者だった。これは読みが甘かったとしか言いようがない。そうなれば長居は無用、囚われでもしたら依頼主にまで累が及ぶ。決断した曲者の行動は早かった。
 ばきいッ!
 閉ざされていた鎧戸を体当たりで破ると、曲者は窓の外へ飛び出した。幸か不幸かこの部屋は一階だ。逃走にはおあつらえ向きだった。
「…大丈夫だったか、リュヤ…」
 しばらく身構えていたカディルだったが、曲者が逃走したのを確認すると、ようやく大きく息をついた。
「あたしのことより…カディルは? 怪我、しなかった?」
 絡め取って奪った得物に案の定毒が塗ってあるのを確認すると、リュヤは心配そうに聞いた。かすり傷一つでも、命に関わるおそれがある。しかしカディルは笑って首を振った。リュヤもまた、大きく息をついた。
「さて、どこの手の者か…。まあ、明日考えるか…」
「もう、今夜は大丈夫なのかな?」
「わかってるだろ、相手は手練れだ。しくじった時には引き際はいいよ」
 今は政権がハミトからカディルに移ったばかりの微妙な時期だ。いかにハミトがまだ健在だといっても、跡を継いだはずのカディルが討たれれば帝国は当然大混乱に陥る。時期的にも危ない時期ではあったのだ。曲者がリュヤを見くびるというミスをしなければ、殺されていても不思議はなかった。カディルは自分の油断を呪った。
「悪かった、リュヤ…俺のせいで…」
「覚悟はしてたよ。今までにカディルが何度も襲われたことも知ってたし…そんなカディルの近くにいることになったんだからね。
 へへ、大丈夫。あたし、自分のことくらい守れるし、カディルの足手まといにはならないし…こんな時、きっとカディルの役にも立てると思うから。気にしないで」
 現に今リュヤは見事に戦って見せたのだから、説得力がある。しかしそのせいで衣装はもうボロボロだ。影姫の武術のために自分が意図してやらせたこととはいえ、さすがにリュヤは世にも情けない顔をした。
「あややー…。ごめんねカディル、あたし、全然花嫁さんらしくないよね…」
「まあな。だけど」
 沈んだ顔のリュヤを、カディルはしっかりと抱きしめた。
「最高に、リュヤらしいよ。言ったろ? ずっと一緒にいてくれたお前が来てくれて嬉しかった、って。お前はお前らしくしててくれ。その方が俺も安心だ」
「…うん…ありがと」
「さて」
 身を離して、カディルが苦笑しながら言った。
「お前と一緒になれるのは嬉しいんだが…今夜はもう無理そうだな」
「そうだね」
 部屋の窓の鎧戸は曲者に破られてしまっているし、ベッドも斬り裂かれている。そして何より、二人とももうそんな気分ではなくなってしまっていた。
「…今夜は、別の部屋に行こう」
 そう言った時、外の騒ぎを聞きつけたのだろう、親衛隊員達がようやく駆けつけてきた。
「いかがなさいました、殿下」
 そしてその中に一人だけ、いやにのんびりしている老人がいた。ハミトの代から皇室に仕えている家臣にして執事、ニザームである。余人であればこんなとき落ち着いていれば怪しまれもするが、彼に限っては例え戦場で最前線に立って敵と刃を交えていても落ち着き払っている人物なので別にカディルも不審には思わない。それにニザームは筋金入りの皇帝派閥で他の有力家臣に敵もいるので、こんなところでカディルが暗殺されて混乱でも起ころうものなら自分までどさくさで狙われかねない。家臣の中では最も信頼できる有能な老人、いわゆる「じい」である。しかし、
「おやおや殿下、初めからいささか乱暴が過ぎるのではございませぬかのう。斯様な御趣味の持ち主であらせられたとは、いやいや、じいにもわかりませなんだ」
 いきなりニザームは、ボロボロになったリュヤを見て真顔でそんなことを言い出した。しばらく何を言われたかわからなかったカディルだったが、その意味を悟ると怒りだか羞恥だかで顔を真っ赤にして怒鳴った。
「じいッ! バカなこと言うんじゃないっ!」
「ほっほっほっ。冗談でございますよ。殿下とリュヤ様に別の部屋、ですな? 曲者に追っ手も差し向けております。…そちらは不首尾に終わるかとは思いますがのう」
「ああ、すまん」
 このあたり、冗談は言っていてもさすがにニザームは優秀だ。カディルが頼もうとしていたことは、すべて察して手配済みらしい。
「では、後の始末をいたしますので、じいは失礼いたしますぞ。
 …おお、そうそう。殿下とリュヤ様にはまことに申し訳ございませぬが、華燭の典は明日予定通り執り行わせて頂きます。その様子からして新枕もまだお済みではないと察しまするが、既に大々的に触れてしまったこと、延期したりしますれば民も不審に思いましょう」
「…そうだな、そうしてくれ」
「移って頂く部屋には申し訳ございませんが警護を付けさせて頂きます。そちらで新枕というわけにはいきますまいが…ご容赦頂きたい」
「…そんなことまでじいは心配しなくていい」
「ほっほっほっ。差し出口が過ぎましたな。では、今度こそ失礼いたします」
 ニザームは軽口を叩いていたが、これから最も忙しくなるのは彼だろう。不敬ともいえる冗談も、それに気を遣わせないためのニザームなりの配慮だったのかもしれない。
「まったく…じいの奴…」
 それがわかっていたから、カディルは苦笑してそんな悪態をつきながらも、心の中でニザームに感謝の言葉を贈っていた。
「さて、リュヤ。いろいろあったが…明日は式だ。部屋を移って休もう」
 振り向いたカディルは、リュヤが少し頬を染め、うつむいてもじもじしながら上目遣いでこちらを見ていることに気づいた。
「…どうした?」
「…あの、さっき、ニザーム様が仰ってたこと…」
「ん?」
「カディルが、そーゆー趣味の持ち主だって…。えーと、あたし…、もし、カディルがそういうの好きなら…その…」
「・・・・・・」
 カディルは思わず頭を抱えた。
「じいの冗談を真に受けるなッ!」
「あ、あややっ、ごめんカディルぅ」
 手を振り上げて殴るフリをすると、リュヤは頭を抱えるような格好で走って逃げ出した。見ていて自然と笑みがこぼれてくる。
  あのとき寝室で自分を守ってくれただけではない。今こうして命を狙われた直後にもかかわらず気分が軽いのも、リュヤのおかげだろう。カディルは、リュヤがこれからも近くにいてくれることを、そして、リュヤとの間に確かな絆があることを、本当に嬉しく思った。


〈第二幕「敬」に続く〉

あとがき

 えあー。そんなワケで「ダリュスサーデ」の第一幕の後編をお届けいたします。もっと早くあげるつもりだったのですが…おかしいなあ…。
 ともあれ、どうやらこのお話の方向性が決まっちゃいましたね。
「ダリュスサーデ」の方向性は、寸止め(笑)。いえね、実は最初に第一稿書き上げたときには、寸止めしてなかったんですよ(苦笑)。でもま、よい子も安心お上品サイトの掲載作品としてはこれが限界かなと。つか、よい子でもこのくらいなら見てもいいかななどと(笑)。年齢制限がない商業作品でも、これよりヤバいのいくらでもありますし。
 前編あとがきでも書いたとおり、基本コンセプトは「同時攻略したギャルゲー」なので、次回以降も女性キャラ増えます。よろしければ、お楽しみに。
 …次回以降も寸止めですけどね(笑)。

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