サハラの旅 −続き−



黄昏のミナレット、ガルダイヤ   この7年の間の弾圧とテロルによって、アルジェリアはちょっと観光にいこうと思いたっていける場所ではなくなってしまいましたが、もし機会があればぜひ再訪してみたいところです。お世話になった人々がどうしているのかも確かめたいところです。


アルジェリア人医学生とフランス人学生、ガルダイヤのユース・ホステルにて1988




  1988年11月中旬、地中海に面したアルジェからバスに乗り、ガルダイヤに着きました。ガルダイヤではアルジェからやってきた医学生に案内してもらい、ミナレットまでいくことができました。



ヤンカリ鉱泉のステッカー   数日滞在してから南のイン・サラーへ移動しました。バスではユースホステルで出会ったフランス人の学生といっしょになりまして、その後サハラ越えの拠点だったタマンラーセットでも再々会することになりました。このアルジェリア−ニジェール−ナイジェリアの道程は当時、かなり定番のサハラ越えだったようで、ひじょうに遠い町へ移動してから知り合いのツーリストやプジョーの運び屋ドライバーに再開、再々会するということがよくありました。ナイジェリアのヤンカリでオーストラリア人ツーリストと出会い、鉱泉につかりながら、1000キロ以上北の町の知人の話題で盛りあがったこともあります。


イブラヒーム まるで煎茶道のような

  そうした話題の主にイン・サラーのイブラヒームさんがいます(右写真)。当時のイン・サラーのキャンピングではツーリストがたくさん宿泊していました。思いがけなくたくさんの人々と話をすることができ、自宅へ招かれて、おいしいお茶と夕飯をごちそうになりました。泊めてもらった夜にわたし風のオムレツをつくりましたが、お礼になったかどうかわかりません。タマンラーセットへ立つ朝、ライムとオレンジとトマトのたくさん入った袋をもたせてくれました。



オランダ人サイクリスト、イン・サラーのキャンプにて   イン・サラーのバスターミナルにはたくさんの乗客が野宿しながらバスを待っていました。アガデスからやってきたハウサ商人たちにもそこで会いました。荷物を屋根に固定してもらった頃には空席は見あたらず、ラゴスからやってきたヨルバ人のピーとジョンがつめてくれてようやくすわることができました。途中ミールストップやパスポートチェックが何度かありましたが、イン・サラーからタマンラーセットまでは早朝出発して夜半に到着するような旅でした。ヒッチハイクも試みましたが、プジョーのドライバからは断られ、トラックもつかまらないうちに、バスの出発日になってしまったのです。「浪花節だよ人生は」が突然流れだしたのは、そうやってトラックをジリジリ待っていたある日でした。

ピー、タマンラーセット   タマンラーセット行きバスは、バスとはいってもベンツのトラックに箱をつけたようなハードな構造で、アスファルト道路が荒れて石だらけの道なき道を走らねばならないときは、すわっていたはずなのに気がつくと立っているということがよくありまして、疲労困憊するわけでジョンとピーとウィアーザワールドを歌ってがんばりました。途中乗車のオラン出身の青年がつきあげるような揺れのなかでもずっと立ったまま元気に話をしていたのを覚えています。ナイジェリア人は他にも乗っていたのですが、パスポートをもっておらず、チェックポイントではジンバブエからやってきたからないんだと説明して通り抜けたようでした。ヨルバ人のピーが後で笑いころげていたのを思い出します。到着した夜はヨルバ人の家に泊めてもらい、キャンプへは翌日移動しました。

次のページへ

   戻る/ トップページへジャンプ/