サハラの旅 アルジェリア・ニジェール・ナイジェリア


タマンラーセットからはヒッチハイク


 1988年末、昭和が終わろうとしていた頃です。アルジェでは暴動が発生していました。今から考えるとある種の兆しだったのでしょう。しかし、外国人対象のテロが頻発するようなことはまだありませんでした。アルジェリア人自身を含め、たくさんのツーリストがサハラ砂漠を移動していました。






留学先のイタリアから帰郷するナイジェリア人学生 ニジェールのマラーディにベースのあるトレーラー  マグレブ三国を旅してきたドイツ人が話してくれたものです。モロッコは最悪、チュニジアはまあまあ、アルジェリアはいいとこだと。見ず知らずの人の家に泊めてもらい、町を案内してもらいながら本当にいいところだと思ってました。ある日突然「浪花節だよ人生は」が流れてきたこともありました。周囲はターバンの人ばかり。不思議な一日ではありました。



9時から5時のあいだ荷台は熱風地獄でした
マラーディのトラック隊(アルジェリア−ニジェール間)
運転手はモーリタニア人、メカニックはマリ人


タマンラーセットのヨルバ料理屋
 当時、ナイジェリア北西部にあるソッコトに滞在するため、地中海沿岸からわたしは移動中でした。コワーイ師匠のすすめもありましたが、スーダンサーヘル地帯に沿って東西に広く話されているハウサ語が、南北ではどこから通じるのかを確かめたかったのでした。1910年代に行政官が書いたハウサの風俗習慣の本には北アフリカとのつながりを示すトリポリの資料が出てきます。しかし、リビアはビザの発給がきびしそうだったのでアルジェリアを選びました。




ガルダイヤのハウサ語話者、元気かな? ガルダイヤでははやくもハウサ語で会話ができ、意外にブラックアフリカは近いのかななんて感じながら、バスを乗り継いで南下していきました。イン・サラーからタマンラーセットへの車中ではアガデスからやってきたハウサ商人やヨルバ人に出会いました。おかげでアルジェリアでナイジェリア料理を食べることもできたのでした。 (続く)




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