PART1

山を登るのも好きだが、山の本を読むのも大好きだ。
以前はどんなジャンルの本も手にしていたが、今は山の本にしか興味がない。山の本の中でも、特にそばに置いておきたい本しか買わなくなった。でも欲しかったら少々高くても買ってしまうという一種の病気にかかっている。


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写真は私の山の本棚の一部で、大まかに作家順に並べている。図鑑や地質の本も一緒に数えると、400冊ぐらいになる。でもこの棚は奥行きがないので、大きな写真集や雑誌類は別の棚にしまっている。古いヤマケイなど数えたこともないから全部で何冊あるのか自分でも知らない。

新刊はもちろん、古本も好きだ。値段の高い古本では、『八千米の上と下』というヘルマン・ブールの書いた本で、8000円というものもある。ネットの古本店で探して買うわけだが、お店もちゃんとわかっていてそれなりの値段をつけている。8000円出してもホイホイ買ってしまう、私みたいな慢性活字中毒者をちゃんとねらってきているのだ。

でも、この本の時にはさすがに迷った。山仲間のIさんやKさんに相談したこともある。そうしたら、お2人とも「迷わず買った方がいい」と言って下さった。そのことばに背中を押されて買った本だったが、やはり手に入れてよかったと思う。名著だ。おもしろい。保存の状態もなかなか良好だった。こうなると骨董屋と同じで、よほどのお金でも積まれないとこの本は手放さないだろう。

そんな私の「山の本棚」を見てつれあいはこう言う。
「こんなに山の本ばっかり集めてどうすんのよ。あなたが先に死んだら、この本みんな売るけど、いい? ていうか、山の本なんか売れないでしょうから捨てるしかないわね。」

「あのね、ぼくがあなたより先に死ぬのには異論はないけれど、あなたにはわからないかもしれないけどさ、売れば高く売れる本も中にはあるんだから、簡単にみんな捨てるなんてことはしないでね。」
と懇願する。

いや、高く売れるとか売れないとか、そんなお金の問題ではなくて、ヘルマン・ブールやエドワード・F・ノートン、ワルテル・ボナッティーなどの名著は、いつになっても必ず誰かが読み伝える本だと思うから、私が死んだらまた古本屋にもどさなくてはいけないと思う。
そうでないと、これらの名著が絶滅してしまう。

8000円の古本というのは、それだけ貴重で値打ちのある本だからであって、それを購入した人間は、たとえ自分が死んでも、その本を守る義務を負う、と考える。私は死んでもいっこうに構わないが、この貴重な本がこの世からなくなることは悲しい。自分はどうでもいいけれど、中アのコマウスユキソウがなくなるのは悲しいのと同じだ。

人間の道楽というものはおしなべてそうだと思うが、その値打ちは本人にしかわからないものだ。私もつれあいも壷や花瓶などの骨董品にはまったく興味がないから、100万の壷であっても欲しいとは思わないし、あっても置き場に困る。

私からすると山の本と壷は天地ほども違うが、つれあいにしてみれば同じ感覚なのだろう。だからゴミ同然に見える。

どうやってもこの大きな溝は埋められないので、山の本を買ったらそーっと棚に入れることにしている。増えているのを悟られないように。

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