北信地方の行事    

  (峯村内輪会(先祖祭り)については、このページの最後に記載してあります。)  TOPへ戻る  Personalpageへ戻る

 

【お日待ち】

 「お日待ち」と言う行事は百科事典によると、全国にいろいろな形で残っているようです。

 ここでは、北信地方の一角、長野市の東部に位置する「保科」の地に今も受け継がれている「お日待ち」の行事

について紹介します。この保科には、「お日待ち」以外にも各部落には、昔から受け継がれ今もまだ残っている行

事がありますが、ここ十数年の間に徐々に変化し、今では、やめてしまったり、簡素化してしまったりしている部落も多

いようです。

 この「お日待ち」は、毎年正月15日に行われ、道祖神(=道陸神:どうろくじん)信仰が基になっており、行事の中

心は「どんど焼」と夜の集会です。

 正月15日の朝は、どんど焼の山つくりから始まります。この地方では、正月の松飾りは、15日の朝取り外します。

子供たちは、朝のうちに各戸をまわって松飾りを集めてきます。昔は松飾りも、松や竹などをふんだんに使い、これら

を集めただけで大きな山ができたのですが、近年は、自然破壊の防止や簡素化で、量が減少し、これだけでは「焚

き火」程度の山になってしまいます。また、昔は「若い衆」が山つくりをしましたが、今ではそんな組織もなくなり、結

局、育成会,PTA,や組の役員がつくっています。

  どんど焼の材料の不足分は、大人が組の山から伐りだしてきます。山の芯にする雑木や、燃えるときに景気のよ

い音を立てる竹を伐ってきて、松飾りと一緒に円錐形に形よく仕上げます。

  どんど焼の点火は「お日待ち」の当番が夕方、人が集まってから行います。火は30分ほどで燃え尽きますが、燃

えた後の炭火(おき)で餅を焼いてたべると風邪をひかないと言われ、それぞれ家から持ってきた餅を焼いてたべま

す。餅を焼くため火に近づくと熱いため、釣り竿のように、棒の先に針金をたらし、それにアルミホイルに包んだ餅を結

びつけて焼く方法が、ポピュラーとなっています。

昔は、このどんど焼の火を火種にすると、魔除けになると言われ、みんな先の燃えている棒を家に持ち帰り、いろりや

かまどの火種にしたようですが、今ではいろりもかまどもなくなり、みなが帰った後、当番が火を消しています。

  夜の部は、当番の家で行われます。各家の代表が席に着き、宴会が始まります。女子供はこたつで、お茶やジュ

ースでおしゃべりに花を咲かせます。宴もたけなわの頃、「悪魔祓い」と称して、道祖神に対して、神楽が奉納されま

す。当番の家の主だった者は上座に並び、獅子舞を見守ります。その後は無礼講で、大人も子供も花札,トランプ,

隠し芸等に興じます。

昔は、本当に夜が明けるまで、飲んだり騒いだりしていたようですが、今では1月16日は、必ずしも休みではなく、ま

た他に娯楽も多いことから、11時頃には皆引き上げていきます。

  二十数年に一度まわってくる「当番」は、現在の生活様式では、かなりの負担となっており、歳を経るごとに、この

行事(夜の部)を継続していくところが少なくなり、何年か後には過去の語りぐさとなりそうです。

 

(参考)

【日待】(ひまち)……小学館 大日本百科事典より

  「お日待」といって、氏神祭とは別に村の住民が順まわりに当番となって、祭りをいとなむのをいう。日はまちまちで

あるが、月の15日・23日という例が多い。正月・5月・9月の15日に日待をする土地も少なくない。

  群馬県吾妻郡では一部落が数組に分かれて、毎月一五日にお日待を行い、神酒をあげ、飲食雑談して夜を明

かすという。埼玉県北足立郡では10月15日の収穫の終わったころにお日待をする。

  正月のお日待は小正月の15日にする土地が多く、神主を招いてお祓いをする例もある。月の23日に集まるもの

は二十三夜待といい、夕方からお籠もりをし、翌朝日の出を拝んで解散する。宿は順番またはお堂などを使う。

  日待には宗教的な講の形式をとっているものがある。京都府下の各郡では伊勢講をおこない、お伊勢さんの軸を

かかげて日待をする。これは正月にする例が多く、くじを引いて伊勢への代参者をきめる。また、日待は雨乞いのため

に臨時におこなうこともある。

 

(保科のどんど焼とお日待ち)

 

手前にある男根の形をした石塔が道祖神です。あまりのリアルさにびっくりします。

 

 

 

【おかのえ】(つめど)(庚申講)

 北信地方には、今でも庚申講が残っておりますが、このページでは、長野市東部の「保科」の庚申講を紹介しま

 す。

  保科の庚申講は、単に「講中」とも呼ばれ、よその庚申講とは趣を異にし、お葬式に深く関わっています。昔は、

埋葬が土葬であったため、お葬式には、お墓の穴掘りを始め、人手を多く要したので、これらの作業を仲間内(庚申

講の仲間)で助け合うという、互助の考え方から生まれた、生活の知恵でもあります。

今では、葬儀社が一切を行ってくれるため、仲間内でしなければならない「作業」は何もありませんが、昔は人が亡く

なるとお墓の穴掘り,棺の手配,輿の準備や飾り付け,野辺送りに使う小道具つくりがあり、また、家からお墓まで輿を

担ぐことも必要でした。これらを講中の人たちが行ったわけです。

  葬式が火葬となり、葬儀社や自治体がやってくれるようになってから、講中も大きく変わりました。人が亡くなると、

当番の人(家)は講中のみんなへ出棺の日時を連絡し、当日は出棺の30分ほど前になると、寄せ鉦をならし、出棺

を知らせます。各家では、代表の者が、葬式の家へ集まり、焼香をしおまいりをします。最近では、勤め人が多くなり、

平日の葬式では女性の出席が多くなっています。

  出棺では、家から霊柩車までの数メートルを何人かで運びます。今では、この数メートルの棺の移動が、講中の唯

一の「作業」となっています。霊柩車を講中のみんなで見送り、解散します。

  これとは別に、全国的に行われてきた行事と同じ「集会」もあります。年一回、講中全員が「おかのえ」または「つめ

ど」と称し、夜、当番の家に集まり、おまいりをした後、いっぱいやります。

  講中の当番の家では、暮れも近くなってくると、日をきめて講中の人たちを集めます。お茶をのみながら人が集まる

のを待ち、みんな揃ったところでおまいりをします。「おまいり」は、広げると3メートルほどの輪になる大きな数珠の外側

に、みんな車座になって座り、年長者の念仏(なみあむだぶ)と鉦に合わせ、「なみあむだぶ」と唱えながら、数珠を互

いに左から右へ回します。これを「数珠回し」と称します。念仏を100回ほど(108回かも知れません)唱えて終わりま

す。

  あとは、酒が出て懇親会となり、宴もたけなわの頃、例によって「北信流」の盃ごとが行われ、その後しばらくの間

飲んでから、解散となります。遅くとも11時頃にはみな帰り、徹宵語り明かすことはないようです。

 

(参考)

【庚申信仰(おかのえ講)について】

  中国から伝わった暦は十干十二支といわれ、十干の一旬を甲乙丙丁戌己庚辛壬葵で示した。これを二等分し

木火土金水の五行という天運に配すると、甲乙は木に当てはまる。更に甲乙を兄弟として甲を兄(え)、乙を弟(と)と

した。庚申の庚は五行では金(かね)、兄弟の分け方では兄(え)に属するので、かねのえ 即ち、カノエと呼ぶように

なった。この兄弟の分け方が日本では「えと」と称し、中国では陰陽道(おんみょうどう)といわれる。また、十二支は子

丑寅…で表されるが、元は天界を区切る単なる符号にすぎなかった。これを1年12カ月の各々に当てたのであるが

子丑寅…は鼠牛虎…の動物を連想させ、様々な民間信仰を産むに至った。

五行   木(き)        火(ひ)      土(つち)          金(か)       水(みず)

 陽陰    ○    ●     ○    ●      ○    ●       ○    ●       ○     ●  

十干   甲  乙   丙  丁   戌  己   庚 辛    壬  葵

兄弟 兄(え) 弟(と)  兄(え) 弟(と) 兄(え) 弟(と)  兄(え) 弟(と)    兄(え)弟(と)

十二支  子,  丑,  寅,  卯,  辰,  巳,  午,  未,  申,  酉,  戌,  亥

  十干十二支(略して干支:えと)の組み合わせは、例えば 甲子(きのえね)、甲丑(きのとうし)、丙午(ひのえう

ま)、戊辰(つちのえたつ)、庚申(かのえさる)…というように組み合わされ、60通りの呼び名がある。61番目に元に

戻ることから61歳(満年齢では60歳)を還暦として祝う習慣がうまれた。また、日を表すのに数を用いず、申の日とか

戌の日と呼ぶ習わしもあり、庚申信仰は庚申(かのえさる)の日に行われるのが従来であった。いずれにしても、干支

(かんし)の暦法は陰陽五行思想に基づき、天の運行がすべてを支配し、人間の一生をも決めてしまう呪術(うらな

い)的要素が強く表れている。三国志で有名な軍師諸葛孔明は、呪術の才に長けていたともいわれる。このような古

代中国の民間信仰をもとに、儒教や仏教の影響を受け、道教という自然宗教が発生することになる。道教は現世の

幸福や長生きなどの、現世利益を主な目的としている。

  この道教では、人間の体内にいる三尸(さんし)が人間の早死にを望んで、庚申(かのえさる)の日の夜に人が寝

ると、体内から抜け出して天帝にその人の罪を密告し、天帝はそれを知ると怒ってその人を早死にさせるから、長生

きするためには庚申の夜は身を慎んで徹夜せよと説いている。その徹夜を守庚申(しゅこうしん)と呼ぶ。

  日本では特に江戸時代、修験道や神道でも独自の庚申信仰を説きだしたので、全国的に盛んになり、各地に

庚申堂や塔が建てられ、庚申講が組織された。神道では猿田彦大神を、仏教では青面金剛を本尊とする場合が多

い。ほかにも他の神仏を本尊とする例も多い。現在でも全国のあちらこちらで広く庚申講が結ばれているが、次第に

廃れつつあり、徹夜するところは殆どなくなっている。

  三尸(さんし)とはどういうものかよく分からないが、三匹の虫が常に体内に宿っているとする三尸説に基づく。三尸

の代わりに、見ざる聞かざる言わざるの三猿の像の掛け軸を祀る地方もある。また、天帝とは仏教では帝釈天を指し、

三尸虫を帝釈天の使者である青面(しょうめん)金剛とする場合もある。一般的には村内・縁者が集まって、仏教的な

音楽や念仏行道が行われたが、次第に信仰より娯楽的な要素が強くなっていった。

 

――(弘文堂「日本民俗事典」より抜粋)――

 

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【峯村内輪会】(先祖まつり)

 峯村姓は全国的に見ると、非常に少ない苗字ですが、北信・東信地方には、峯村姓が数十戸ある地域がいくつ

かあります。長野市の保科の地域もその一つで、ここの峯村一族は、今でも毎年きめられた日(2月2日)に各家の家

長が総本家に集まり、「先祖祭り」と称し先祖の法要を営んでおります。この峯村内輪会は、明治29年2月2日に設

立され、平成8年4月には峯村内輪会100周年と銘打って、菩提寺(廣徳寺)において大々的に法要会が営まれま

した。現在、会員は24戸で、昔からほとんど変わっていません。

  この峯村一族は、源氏の後裔、保科氏から出たと言われ、郷土史研究家によってルーツが調べられ、今ではか

なり信頼度が高いという系図もできております。参考までに、その一部を記します。

 

源氏保科家の系譜および峯村家の先祖

 

清和天皇――貞純親王――経基王――満仲――頼信――頼季――満実――遠光――光平――光長――清長

――忠長(保科太郎)――長直――光朝――盛長――貞長(民家に降り屋号を峯村と改む。現峯村家の先祖。)

 

峯村内輪会名簿

峯村文治(総本家)

峯村友男   峯村嘉一   峯村孝夫   峯村浩明   峯村芳子   峯村文夫

峯村定雄   峯村貞美   峯村 豊    峯村唯一   峯村周治   峯村嘉守

峯村信也   峯村  敏   峯村ぜん   峯村幸登   峯村睦月   峯村 実

峯村  聰   峯村文則   峯村日十六  峯村辰一郎  峯村善保

保科地区外進出者名簿

峯村伊和男  峯村巌雄   峯村英重   峯村金男   峯村茂樹   峯村純夫

峯村収一   峯村幸枝    峯村昭雄    峯 村孝二  峯村福督    峯村和男

峯村友和   峯村泰志   峯村仲夫   峯村克巳   峯村喜美登  峯村吉美

峯村正三   峯村元枝

 

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