一日月


朔望月の夜。
かつて空を見上げると、いつもは月の光で存在を消されてしまう星が見えたものだった。
きっと、こんなに人工の光が蔓延した時代では、もう二度と目にできないだろう。
 新月。
それは、けっして月がいなくなったわけではない。僕らの目では、姿を確認できないだけだ。
その証拠に、ほら、月はあの方角にいる。
「今日って、何日だったっけ?」
「自分の携帯見りゃいーじゃん」
「あ、そっかぁ」
 月を必要としなくなった人々が、そんな会話を交わしながら、僕の前を通り過ぎて行く。
……そう、限りなく正確に近い暦を持った今の人々は、月を読み時を数える者など必要としないのだ。
 でも僕はまだ生きていた。月の司るものは不死と知恵、そして美。
月が存在するかぎり、僕は年老いることもなく、月を読み続けなければならない。長い年月の中で、僕は人ではなくなってしまっている。
「夜見、そんなところで何やってるんだよ。早く帰ろうぜ」
 月読神社の次期斎主、真樹が僕の袖を引いた。
「ああ、今行く」
 日本にある神話。
太陽神の名は天照大御神、対をなす月神の名は月読命。
おかしな話だ。月読は、月の化身などではないというのに。
 僕は月を読む者。だからツキヨミと呼ばれた。
暦を持たぬ人々に、時と日々の移り変わりを伝えるのが僕の役目。
 月読命は始め、かつての渡来系氏族、秦氏の氏神と思われていた。実のところ、僕は氏神なんかじゃない。ただ秦一族が、僕の血族だったのだ。
それがいつの間にか、日本の月神と呼ばれ、名前もツクヨミに変わっていた。僕を祭ったのは、月読神社。
「夜見は走るってコトを知らねぇのかよっ」
 ゆっくり歩き出した僕に、真樹の呆れたような声が届く。
どうしてこの時代の人々は、急ごうとするのだろう。
どんなに急いでも、時の流れは決して変わらないのに。
「歩いたところで、大した違いはないだろ」
「………。ったく、いつでもマイペースな野郎だよ。わかったわかった。終電にさえ間に合えば、家に帰れるもんな」
 真樹の態度は、口調ほど悪くない。
 月読神社の斎主は秦の嫡男が継いでいた。彼らが僕の姿を人として確認できるのは、28の年まで。以後、僕は彼らの視界から消えてしまうのだ。
「なあ、夜見。月はどこにある?」
 隣を歩く真樹が、前方の空を見上げながら、唐突に尋ねてきた。
「新月の度に、同じことを聞くんだな」
「そんなの、関係ないだろ。俺は今、月がどのあたりにあるのか知りたいんだよっ」
 恐らく真樹にとって、月がどこにあるかなどという事は、どうでもいい事だろう。しかし僕にとって、月に関する質問を与えられることは、存在を認められる事に繋がる。真樹はそれを承知していた。
「……消えたよ」
「消えたぁ? 嘘つくんじゃねえっ。あそこにあるのは何だよ」
 真樹の指は、正確に月の場所を指し示している。
「なんだ。見えているじゃないか」
 さすがは次期斎主だ、と続けた僕を、真樹は上目使いに凝視した。
「嘘つき」
「……嘘は言っていないつもりだ。月はあそこにあるのに、人々はその存在を消してしまっている」
 僕を上目使いに睨んでいた瞳が、暗く陰る。
「夜見はここにいるだろ。俺は夜見を消したりしないからな」
 これは、以前も言われたことがある台詞だ。
 どういう訳か、新月の度に僕は存在を否定される不安に脅えている。昔はこんなこと無かったのに。
「いずれ、真樹にも僕が見えなくなる」
「親父は見えなくても夜見の存在を認めてるぜ。それに、目に映るモノだけが真実じゃないってのは、じいさんの口癖だったしな」
 それを真樹の祖父に教えたのは、僕だった。今から57年も前のことだ。
「信志も同じことを言っていたよ」
「親父が?」
「ああ……」
 僕は、いつまで月を読み続けるのだろう。
 幾度となく繰り返した問いを、僕は今夜も考えていた。

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