二十四日月


 月暈の翌日は雨になるという言い伝えは、ただの迷信ではない。それなりの経験に基づいている。科学的にも立証されていると言った方が、現在は信憑性があるようだが。
 しかし、月が姿を現すころ、雨雲はとうに去っていた。
 雨が洗い清めた空。月の光を帯びて清浄な空気が満ちる。
遠い昔の人々は、そこに神を見ていた。
今は……変化を感じとる人はいても、神を見る人は皆無に近い。
 月の出と同時に目覚めた僕は、中庭を通り母屋にある真樹の部屋へ忍び込んだ。
「真樹、おいで」
 呼びかける。それだけで、眠っていた真樹は僕に同調してしまった。些細なきっかけを与えただけで、ここまで思いどおりになる魂も珍しい。類い希な能力の持ち主と言ってしまっていいかどうか…不安だ
「あれ? 夜見じゃん、何か用?」
 この鈍さは、彼の美点だろうか欠点だろうか。
「真樹……、足元を見たか?」
 僕と真樹の下にあるのは、眠っている真樹の体。
「なんで、俺が?」
 この冷静さは、理性だろうか愚鈍の証しだろうか。
「真樹の魂魄から、僕に同調した魂だけを取り出した。一種の幽体離脱だよ。月を見せようかと思ってね」
 魂は意識の領域。魄は無意識の領域。
「月を見るだけなら、こんなことしなくたって……」
 近ごろの人間は、幽体離脱程度では、たいして驚かないらしい。
「そうだな、人の目で見るには、こんなことをする必要はない。しかし、神の目……僕の目から見える月は、ちょっと違うんだ。見たくないか?」
 好奇心にうなずいた真樹を、外へ連れ出す。
「真樹。埴輪は、知っているな?」
「あの間抜けな顔していたり、継ぎ接ぎだらけだったりするやつか? 人間の代わりに古墳に埋められたとかいうじゃん」
 そう、埴輪は人間の…身代わりだった。
「そうだな。墓に埋めた男性体の埴輪は残っていてもおかしくない。……でも、真樹。もっと昔、埴輪は壊すために作られたんだ。女性の身代わりとして」
 月が光と闇を行き交うリズムは、時を知らせた。
時は生きるリズム、つまり、命のリズムだった。
だから、命を育むものには月の力があると……女性の体内には消えた命を取り戻す力があると、人々は考えた。
 実際、人間の妊娠期間は二八〇日〜二九〇日。
ちょうど月の満ち欠け十回分だ。
「女性体の埴輪は、月に祭った後バラバラに砕かれ土に埋められたんだ。再び大地が芽吹き、実るように。埴輪が使われる以前は、当然人間の女性が同じ目にあっていた」
「……要するに、生け贄? そりゃ、ま、土に肥料を埋めるんだから、実りはよくなるよな。…ってことは、『月読が女神を殺したら、その死体から穀物が実った』とかいう話も、そういいかげんじゃないわけか。実際、月のせいで生け贄になったんだし。でも、生け贄になった人は浮かばれないよな」
 なぜ僕がこの話をしたのか、真樹は理解していない。
「真樹、今、月を見てごらん」
「………」
 真樹には、見えただろう。悪意のような闇と、塗り潰されそうな月の姿。
「な……」
「神の目は、何を想っているかで、見え方が変わる。今の真樹のように、『月のせいで生贄になった人は浮かばれない』と考えていれば、そんな光景が見える」
 僕と同調した魂は、神に近い目をもっている。
「……真樹、人々の生活にとって、月は不必要のものになりつつあるんだ。現在の人々の中には、ここ数年、月を見た記憶がない人間もいる」
 真樹の魂を僕の体内に取り込み、月を見上げる。
 斎主の信志が真樹に見せたいと言ったのは、今、真樹が見ている光景。
いつも僕の目に映っている、僕の中の月の姿。
「うそだろ。…おま…え、毎日こんな…の…………」
 今にも何かに消されてしまいそうな、頼り無く儚く美しい月。美しすぎて悲しい月。目を離したら消失してしまいそうで、不安で、いつまでも眺めてしまう。
 月が重要だった時代を知り尽くしているから、些細なことでも、僕は月が不必要になったと痛感する。その結果が、視界に現れる。
 体内にいる真樹の影響で、僕は何十年も忘れていた涙を流していた。

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