七日月


 七日の上弦月が目の前に浮かんでいた。
弓月。
僕の心が変化してゆく。目覚めが近い。信志は上手く封じてくれるだろうか。
「夜見、ごめんな。こんな風になるなんて、俺、考えもしなかったんだ」
 周囲にほとんど関心を払わず、虚ろに空を見上げていた視界へ、真樹の姿が現れた。
 やはり、何も理解していない。これから起こることを知っているなら、僕に近づくという行為はできないだろうから。それとも、知ったうえで?……。どちらでもいい。今の僕には、もう関係ないことだ。
 今まで眠っていた残酷な感情が、僕を支配しかけている。願わくば、真樹を傷つけぬように……。
「……我を汚した者は、おまえか……?」
 怒りが、感情を、心を支配してゆく。
「夜見? 目が……」
 驚愕と畏怖の強く残る声。この者を引き裂いてしまいたい。もう二度と生きてゆけぬように、傷つけてしまいたい。
「この罪、その身で償ってもらおう。さあ、来るがいい」
 強く引き寄せる。掴んだ腕がかすかに震えているようだ。真樹が抱いているのは、恐怖。
 今、僕の瞳はあの月と同じ色をしているだろうから。真樹の恐怖が……心地よいと思ってしまう。悲鳴が聞きたいと考えてしまう。
「どうやって欲しい? 泣き叫ぶまで手足の骨を折ってやろうか? 喉をかみ切って血を啜ってやろうか?」
 なんと楽しいのだろう。笑いが込み上げ止まらない。もう僕には止められない。
「夜見っ、ふざけるのはやめ……」
 逃れようとする真樹の肩を捕らえ、表情をのぞき込む。
「何故我に逆らう? おまえはいずれ斎主となる者であろう? 人から受けた我の汚れは、おまえでなければ、清められぬぞ」
 その時、静かな声が聞こえた。
「弓月夜見の君、真樹を御離し下さい。清めは私が行います」
 信志の声だった。左手に持っているのは、白銅の鏡。年齢を超えてしまった斎主が、目に見えなくなった神を映し出す鏡。
「鏡に頼らねば我が身を見ることもできぬ者など、いらぬ」
「それは時の為したこと。望んだものでないことは、誰より承知の君が、何をおっしゃる。……真樹、よく見ていろ」
 鏡を祭壇に立て掛け、斎主は不快な言葉を紡ぎ始めた。
月読荒御魂宮祭祀祝詞。
「ひいふうみいよういつむうななやあこうまでみちてひいまでかえるめぐりはたえずひとはさるともゆみつくよみのきみにはあたわずといひたもうみはしらのみこと……」
 真樹に触れていた部分から、痛みが広がる。
肌の隙間から得たいの知れない者が割り込んでくるような苦痛。
それは真樹を突き離しても消えず、体内を埋めてゆく。
「………っ……」
 動くこともできない痛みに耐え切れず、今まで僕を支配していた荒魂の心は去って行った。
 信志が黙って、見えないはずの僕を抱き上げる。
斎主の触れた部分から、痛みが静かに引いていった。
「……信志。今のうちに清めを……」
 斎主は頷いて本殿へ向かう。
 清浄の儀式は、その夜、月が沈むまで続けられた。

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