白嵐
空の雲が、吸い込まれるように海へ向う、天の魔物を最初に発見したのは、シンだった。
「魔の嵐だっ、帆を降ろせっ」
緊迫した大声で告げる。
と、すばやく見張り台から下りて舵をとり、いっぱいに回す。
「くそっ、間に合えっ。時間がない、ハヤテ!! 帆のロープを切れっ」
「おうっ!」
その時までは、穏やかな海と晴れた天気だった。
ハヤテが剣で帆のロープを全て斬り終えるかどうか、くらいの短時間。
突然、
巨大な波と突風がシリウス号を襲った。
「被害甚大だが、沈没しなかったのは、シンとハヤテのおかげだな」
甲板の惨状を眺めながら、リュウガが言った。
「あれは…何だったんですか?」
びしょ濡れのヒロインが、震えながら尋ねる。
海は、穏やかさをとりもどしていた。
先程の暴風雨が嘘のようだ。
「魔の嵐。白の嵐とも呼ばれるがな。直撃なら、助からない。全員、海の藻屑だったな。…たまたま、かなり離れていたから、発見して舵をきる時間があった。船も、嵐の余波に軽く撫でられる
程度で助かったな」
シンが、折れたマストを見上げて言った。
「あれが、直撃じゃない?」
ヒロインが驚く。
「ダウンバースト…。空の雲が、一気に海へ落ちる気象現象だ。その衝撃で周辺に大波と暴風が発生する。90秒で消える、まさに魔の嵐だ。直撃は、上から叩きつける
秒速100メートル以上の突風だからな。直撃を受けた船は、一瞬で海底まで押し込まれて木端微塵、たとえ海軍の大型船でも直撃を受けたら助からない」
ヒロインに説明したシンは、睨みつけるように突風の来た方角を見た。
「シン、この近くにある島まで行けそうか?」
リュウガが尋ねる。
「近くの島ですか……このまま1日も潮に流されれば、島の近くまでは行けるでしょうが……島に着くには、潮の流れから抜け出す必要がありますね」
1日あれば、十分だ、とリュウガが不敵に笑う。
「マストは折れたし、帆は全部持っていかれた…トワ、船中から使える布を集めて臨時の帆を作れ。他の奴らは、マストの補強だ」
「「あいあいさー」」
みんなが忙しく動きだす。
「っと……シン、一緒に作戦会議だ。あと、ソウシ、しばらくヒロインを看てやれ」
シンがちらりと心配気にヒロインを振り返った。
ヒロインは自分でもよく分からないが、身体の震えが止まらない。
寒いわけではない。
自分もみんなの手伝いをしなくちゃいけないと思うのに、震える足が動かない。
「ヒロインちゃん、医務室行こうか?」
ソウシの優しい言葉に、情けない気持ちで頷きつつも、自分で歩けない。
「シン、ヒロインちゃんを医務室に運んでおくからね。船長との話が終わったら、来るんだよ」
ちょっとごめんね、とヒロインを抱きあげたソウシは、シンにそう告げて医務室へ向かった。
医務室に入ると、ソウシが椅子に座らせてくれた。
なぜ、こんなに震えるのだろうと、ヒロインは自分の手を見る。
なんだか、自分の身体じゃないような気がした。
「…怖かったんだね。とても、とても、怖かったんだよ」
ソウシが、言い聞かせるように言う。
「そんな…だって、嵐は初めてじゃないし…」
「そうだね」
ソウシが優しく頷いて、ヒロインの肩にタオルをかけた。
「風も波も、すぐに、何事もなかったみたいに…嘘みたいに…」
「そうだね………。でも、ヒロインちゃんは、とても怖かったんだよ。心と体のバランスが、くずれちゃうくらいに…」
「そ、そんなことないですよ、ただ、なんだか、震えが止まらないだけで…」
ソウシの表情が曇った。
「違うよ、ヒロインちゃん。震えているだけじゃないよ。さっきからずっと、ヒロインちゃんは泣いているよ」
「そんなこと…これは、濡れているだけで……」
自分の頬や顎から落ちる水滴があたたかくて、ヒロインは自分が涙を流していることを知った。
「な…んで?」
痛ましそうに、ソウシが震えるヒロインの手を取った。
「だから、とても怖かったんだよ。怖くて怖くて、ヒロインちゃんは、どうしたらいいかわからなくなっちゃったんだね」
ソウシに言われていることが、他人事のように聞こえる。
「私、怖かったんですか?」
答える自分の声も、他人の声のような感じがした。
「……今もヒロインちゃんは、とても怖がっている。大丈夫だよ、という声が届かないくらいにね」
「え? 大丈夫だなんて、ソウシ先生さっきから一言も言わなかったじゃないですか?」
ソウシの表情が、さらに切なげに曇る。
「言っているよ。何度も。何度も」
ノックの音。
「ドクター、ヒロインは?」
シンが医務室を訪れた。
「シンさんっ」
ヒロインが立ちあがろうとする…のに、足が言うことをきかない。
「私じゃ駄目みたいだ。シン、彼女を安心させてあげて。落ち着いて震えが止まるまで、抱きしめてあげるといい。私は、皆を手伝いに行くから」
ソウシが入れ替わるように医務室を出ていく。
「なんでそんなに震えているんだ?」
「……っ」
ヒロインの声が出ない。
自分の涙がとめどなく流れるのが、判る。
シンの腕が、包み込むようにヒロインを抱きしめた。
「もう大丈夫だ。…オレがここにいる」
背中をトントン、と優しくたたかれて、ヒロインの中に、温かいものが灯った。
「青空だったのに…突然何も見えなくなって…」
髪を優しく撫でてもらうと、身体が徐々に自分のものになっていくように思える。
「必死に掴まったけど、他のみんながどうなっているのか判らなくて…」
シンの胸に顔をうずめると、鼓動が聞こえた。
「シンさんも見えなくて、何が起こっているのかわからなくて…」
「もう、大丈夫だ」
抱きしめられて、離れていた身体が、ふっと自分の中に戻ってくる。
「大丈夫だから、怖がらなくていい。もう泣くな」
涙をふいてくれる優しい指先。
優しいキス。
「ヒロイン…」
また、優しいキス。
温かな腕。
優しく抱きしめてくれるシンのぬくもりに、ヒロインは震えも涙も止まっていくのを感じた。
「はぁ…」
マストの折れた部分に補強材を固定する作業を手伝っているソウシが、溜息をついた。
「どうした? ドクター?」
ナギが、珍しいこともあるものだと、ソウシを見遣る。
「うん。なんか、己の無力さをね…」
複雑な表情で呟くソウシに、ナギが笑った。
「ドクターは、薬の処方はできても、薬の働きができるわけじゃないだろ。どこが無力だよ。特効薬をちゃんと与えてるじゃねーか、ほらっ」
ナギの示した先には。
医務室から、笑顔で出てきてシンに手を振り、ありあわせの布を縫いつなげるトワの手伝いに駆けていくヒロインの姿があった。
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