覆面
月のない夜は暗い。
星の明かりは、海の水を照らし出すほどの強さはない。
暗い闇のような海。
遠く、水平線と天空線の交わるところが、闇の果てである。
真っ暗な海とは対照的に、暗い空にはたくさんの星が瞬いて見える。
船の道しるべとなる星が見える限り、どんなに暗く深い海の上でも迷うことはない。
海賊王が認める隻眼の航海士は、灯火を手にして暗い甲板を歩いてきた恋人を見て、訝しげな表情になった。
「いったい、何の遊びだ?」
「え? 遊び?」
布越しに不明瞭さの混じるヒロインの声が、不思議そうにシンの言葉を繰り返す。
灯火と夜食を手にした恋人の顔には、白く四角い布が鼻と口を覆っていた。
「……その覆面は、いったい何の遊びだ?」
最初の問いかけがヒロインに伝わらなかったのを悟って、シンは言葉を選び直して繰り返す。
月のない暗い夜に、灯火に照らし出された恋人は、顔の半分が白く四角い布に覆われていて、かなり異様な光景だった。
ところが、ヒロインはその異様さに全く気付いていないらしい。
「覆面? あ、コレ、覆面じゃなくてマスクですよ?」
恋人の明るくにこやかな返答に、シンは眉間に皺を作ってため息を吐いた。
「おまえな…。マスクをヤマトの言葉に訳すと、『覆面』または『仮面』だろう? 覆面でないなら、それは仮面か? いったい、なんのつもりでそんなモノをつけてい
る?」
シンの言葉に、ヒロインは意外そうに答えた。
「え? だから、マスクですよ? あれ? シンさん、マスク知りません? ちょっと風邪っぽいので、皆さんにうつしたらいけないと思って、ソウシさんからガーゼも
らって作ったんですけど…」
「…ヤマトの風邪のまじないか?」
「おまじないじゃありませんよっ ちゃんとした、感染予防なんですっ」
布越しの声の力説に、シンは改めて灯火に浮かぶ恋人の顔を見下ろす。
どう見ても、何かの冗談にしか見えなかった。
「そうか。シンは知らなかったんだ? でもまあ、そうだろうね…」
ソウシが、くすくすと笑いながら、岩のように硬くなったシンの首筋から肩甲骨を揉みほぐす。
夜が明けてから、ソウシに肩マッサージを頼んできた航海士は、徹夜の操舵で背中全体に疲れをため込んでいた。
「確かにヤマトの『マスク』はちょっと不思議な風習だね。一応、理にかなっているところもあるけれど……どうも、ここ最近の現象として、風邪が流行すると、ヤマト
では、みんなそろってあのマスクをつけて生活するらしいよ?」
ソウシの言葉に、港ですれ違う人間が全員白く四角い布で顔の半分を隠している光景が思い浮かぶ。
どこかの宗教団体ではあるまいし、どう好意的に想像しても、異様だ。
「……ヒロインは感染予防だとか言い張ってましたが…」
うんうん、と頷きながらソウシがシンに同意する。
「私が最近読んだ新しい医学書では、ヤマトのマスクについても注目していてね…明確な効果は実証されていないようだよ?」
ならばやはり、まじないや迷信の類いなのだろうと、眠気がやってきた思考の中でシンは考えた。
くす、とソウシが笑みを浮かべる。
「徹夜明けでしょ、シン。眠っていいよ。朝食にはちゃんと起こすから」
そういえば今朝のヒロインは、あのマスクをつけて厨房に行ったようだったな、と肩の疲れが解きほぐされる中でおぼろげにシンは考える。
あの顔を見て、ナギはいったい、どんな反応をしたのだろう。
いや、夜食を持ってきた時にマスクをしていたのだから、もしかしたらナギは昨夜、すでにあの妙な覆面を目撃していたはずか…。
次第に規則的な呼吸になっていくシンの背中から手を離して、ソウシはふっと表情を曇らせた。
「まったく…。自覚はあるんだろうけど…意地っ張りだね。シン、ここのツボがこんなに冷え切っているのは、風邪をひき始めている証拠だよ? 熱だってあるのに…」
無防備に寝入ったシンを見下ろして、ソウシはため息をつく。
「まあ、シンの体力だから十分な睡眠がとれればある程度は回復すると思うけど…」
ヒロインとシンが、同じタイミングで風邪をひくのは、あまりにも当たり前のことである。
同じ部屋で一つのベッドに寝起きしているのだから。
コンコン、と遠慮がちなノックがする。
顔半分を白い布で覆ったヒロインが、医務室を覗いた。
「あ、シンさん居た…」
どうやら、シンが部屋に居ないのを見て、探していたらしい。
「おはよう、ヒロインちゃん。どうしたの?」
「あ、あの…朝食の準備がもうすぐできるんですけど……シンさん、どうかしたんですか?」
「ああ、肩こりのマッサージ治療で、ちょっとだけ眠ってもらったんだよ。すぐに起きると思うよ?」
体調が万全のシンなら、これほど無防備に眠ることはない。
「それより、ヒロインちゃん、喉の調子はどう?」
「マスクのお陰か、昨日より痛くないです…でも、咳は結構出ちゃうんです…ケホっ」
ノドの痛みと咳の症状があるヒロイン。
微熱があるシン。
ヒロインの気配と会話に、眠りに落ちたはずのシンの意識が、急速に覚醒してくるのを看取って、ソウシは苦笑した。
一日が終わる夜。
「おい、ヒロイン。もういいかげん、その覆面を外せ」
少し苛立った口調で、シンがヒロインに言った。
「覆面じゃなくて、マスクなんですっ。それに、これ外したら、シンさんに風邪うつっちゃう…ゲホっ」
「そんなモノ、つけていてもいなくても一緒だ」
いつになく不機嫌そうなシンに、ヒロインは断固としてマスクを外そうとしない。
「お前、まさか、そのマスクとかいう覆面の下に、何か隠しているんじゃないだろうな?」
「はい?」
予想もしなかったシンの疑いに、ヒロインが目を丸くした。
「いったい、マスクの中に何が隠せるっていうんですか? 何も隠していませんっ」
「なら、一度、外してちゃんと顔を見せてみろ」
「そ、それはダメです。だって、シンさんに風邪がうつったら、大変です」
ちっ、と舌打ちしたシンは立ち上がると上着を羽織って部屋の扉を開けた。
「あ……、と。シンさん、どこ行くんですか?」
「お前の言い分はよく分かった。そこまで言うなら、俺は航海室で寝る。その風邪が治るまで、航海室にも俺にも近づくな」
シンに睨むような眼差しで宣言されて、ヒロインは小さく頷く。
「はい…」
その素直な承諾を、怒りにも似た表情で見下ろしたシンは、何も言わずに部屋を去って行った。
「……」
独り部屋に残され、寂しげに肩を落としたヒロインの耳に、ガタン、バタン、と別の部屋で扉を開閉する音が届く。
「……シンさん、怒っちゃったな…」
ポツリと呟いたヒロインは、のろのろと眠る支度をした。
「…明日、謝れば許してくれるかな……」
そう簡単には、許してくれないような気配がする。
「……ヒロインちゃん、起きている? シンのことなんだけど…」
静まり返った部屋に、扉の向こうからソウシの声が聞こえて、##NAM1##は、はっと顔を上げた。
「ソウシ先生?」
慌てて扉を開けると、微笑したソウシが人差し指を立てて静かに、と囁く。
「シンは、医務室で寝ているから心配しなくていいよ?」
「え?」
きょとんとしたヒロインに、今度はソウシが戸惑った表情をした。
「あれ? もしかしてヒロインちゃん、気付いていなかった…のかな?」
失敗しちゃったかなぁ、と困った時特有の片手を首の後ろに回すしぐさをして、ソウシが苦笑する。
「シンさん、どうかしたんですか?」
「うーん…とね。朝から微熱はあるみたいだったんだけど…夜になって、結構熱が高い様子でね…今、薬を飲ませて医務室で眠らせたから、ヒロインちゃんは心配しない
で今夜は部屋で眠ってね。…君も風邪をひいているから、くれぐれも、医務室へ来て看病なんてしちゃだめだよ?」
ソウシに優しく諭すように言われて、ヒロインは唖然と立ち尽くす。
「そんな……だって、ぜんぜん……」
言われてみれば、不自然だったことは色々と思い当った。
ただ、自分が風邪をひいていて、シンにうつさないようにと気にするあまり、気付けなかっただけで。
「シンは意地っ張りだからね。今回は、ヒロインちゃんも風邪をひいていたから仕方がないよ。今夜は、ゆっくり眠って、ちゃんと治して?」
宥めるように、優しくソウシがヒロインの背中を撫でる。
そうして、くす、と笑った。
「ああ、今夜ちゃんと眠れば、明日の朝には、完治しているよ。ヒロインちゃんは、シンと違って風邪のツボが温かくなっているからね」
「?」
言われた意味が分からずにソウシを見上げたヒロインに、悪戯っぽい笑みが告げる。
「明日の朝起きたら、シンの看病においで」
「……はい」
「マスクはもう必要ないと思うよ?」
信頼する医者の言葉に、ヒロインは頷いた。
体調不良の自覚はあった。
認めたくは、なかったが。
ヒロインがマスクを外したら、キスでもして、無駄な心配なんか必要ないと、告げるつもりだった。
けれど。
予想よりも頑なな恋人の態度に、忍耐力の方が切れてしまった。
ならば、と部屋を出て。
おそらくは熱のせいだろう頭痛と苛立ちに、医務室で頭痛薬をもらってから、航海室へ行こうとした。
どうせ、ドクターはとっくにこの不調に気づいている。
敏くて優秀なドクターだから、朝から体調不良を知っていながらも黙ってくれていたのは判っていた。
けれど、医務室に入ってから不覚にも記憶が曖昧だ。
朝日の眩しさに目を覚ますと、傍らで心配そうな表情をしたヒロインと目が合った。
「………」
「あ……」
目が合った途端、嬉しそうにしたくせに、困ったように目を泳がせ始める。
あの、邪魔な覆面は、どうやら外したらしい。
「……言いたいことがあるなら、さっさと言ったらどうだ?」
精一杯の不機嫌を装って声をかけると、ヒロインの後ろでドクターが笑いだした。
「本当に、素直じゃないなぁ、シン。それとも、部屋に私もいるのが気に入らないのかな?」
それもある。
「じゃあ、ヒロインちゃん、私は朝食に行ってくるから、シンのこと、よろしくね?」
ドクターが、気を利かせて医務室を出て行き、俺はヒロインを呼び寄せる。
「…ったく、相変わらず、お前はバカだな」
呼ばれて覗き込んできたヒロインを、俺は抱えて引き寄せた。
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18歳以上の大人です