白蛇



きっかけは…あまりに些細。
雨の降り始めた街中を駆けていたヒロインは、まったく見覚えのない風景に、ふと立ち止まった。
「え? うそ……」
商店街の一角で恋人のシンと言い争いをした。
いや、言い争いにもならない状態で、ヒロインの提案が一方的に却下された。
いつものことと言えば、いつものことで。
ただ、その時は、素直に受け入れる気分ではなくて…。
港の船へ戻ろうと思った。
シリウス号では、トワが一足先に船に戻っているはずである。
「シンさんの分からず屋っ!」
拳を握り締めてヒロインが言った言葉に、目の前に立つ腕を組んだシンが、ちょっと驚いたように片眉をあげたのは、見た。
「…おまえな……」
「シンさんの馬鹿っっ!!」
伸ばされかけたシンの手を払いのけて、ヒロインは港へ向かって走った…つもりだった。
立ち止まって見渡す景色は、初めて見る。
周りを見渡しても、停泊している船のマスト一本、見えない。
雨が降り始めているせいか、人影も無く、海の匂いがする潮風も感じられない。
あきらかにそこは、港ではなかった。
「やだ…戻らなきゃ……」
雨足が次第に強くなる。
きた道を急いで戻ったつもりだったが、見覚えのある場所に出ることはできなかった。
それどころか、気づけば民家や店らしきものもなく、野菜畑が延々と続く道を歩いている。
「……どうしよう…」
道端に立っていた大木を見つけたヒロインは、その木陰に入り、座り込んだ。


馬鹿と言い残して走っていくヒロインの後ろ姿を、シンはため息をついて見送った。
ヒロインは港の方向へ走り去っていく。
確か、トワが一足先に船に戻ったはずである。
港までの曲がり角は二つ。いくらなんでも、間違うこともないだろう。
治安もそう悪くない平和な街である。
そもそも、ヒロインが行きたいと言った店は、商店街の外れにある。
それに比較的遅くまで開店しているので、すべての用を済ませて一番最後に立ち寄っても大丈夫なのだ。
一方、シンが必要としている店は腕は良いが気難しい職人の店だった。
下手をすれば昼前に閉店してしまう。
その理由を説明せずに一方的に却下を告げたのは、我ながら意地悪だったとは思う。
ただ、却下しておいて、後で希望の店へ連れて行ってやれば、ヒロインは、とても喜ぶだろうという考えもあった。
「……ったく」
一瞬、追いかけようかと足が向いたが…まずはさっさと用を済ませようと、シンは目的の店へ向かった。
まさか港に向かったヒロインが、二つ目の角を曲がり損ねるとは、予想もしていなかった。


「おねぇさん? どうしたの?」
声をかけられて、ヒロインはふと顔を上げた。
トワよりも少し幼い感じのする男の子が、傘をヒロインにさしかけて立っている。
「えーと…ちょっと道に迷っちゃって…」
「道に?」
「あの…港はどこ…かな?」
ヒロインの言葉に、男の子は目を丸くした。
「…港へ行くの?」
「うん…というか、港から来たはずなんだけど…」
話し始めたヒロインの胃が、ググゥ…と鳴く。
「……お腹すいてるの? お昼、食べる?」
「え?」
「おねぇさんも、おいでよ。一緒にお昼、食べよ?」
笑顔で誘いながら、男の子がヒロインの腕を掴んで引く。
腕を掴まれた瞬間ゾクリと背筋が震えた気がしたが、雨に濡れた寒さのせいかもしれなかった。
雨は止む気配がない。
それどころか、遠くで雷鳴も鳴っているような気がする。
「ここに居ても港へ行けないよ。おねぇさん、こっち。こっち」
傘をヒロインに手渡すと、男の子はぐいぐいと前に立って畑の中を歩き始める。
「ちょっと待って…勝手に畑に入ったら……」
「いいから、急いで。こっち…」
いくつかの畑を横切った先に、巨石が積み重なった空間が現れる。
その巨石の下へ潜り込むような位置に、木の扉があった。
「ここ。僕の家だよ。入って」
ヒロインが促されるままに扉をくぐりかけた時、雷鳴が近くで鳴り響く。
「きぁあっ」
その雷鳴の大きさに思わず悲鳴をあげると、男の子がくすりと笑った。
「ここなら、大丈夫。だって、僕の家だもの」
家の中は、程良く温かい。
「僕の母さんの服、貸してあげる。濡れた服は脱いで」
白く長いドレスのような服を持ってきた男の子に、ヒロインは遠慮がちに言った。
「え…でも…勝手に借りちゃ悪いよ」
「母さんはね、もう居ないんだ。父さんもね。だから、遠慮しなくていいよ? だって、考えてみてよ。その服で家の中を動き回られたら、僕の家が、水浸しになっちゃ う」
確かに、ヒロインの服からは、ポタポタと水滴が垂れている。
「えーと、じゃあ、ちょっと借ります…」
着替えたヒロインに、男の子はニコリと微笑んで告げる。
「雨が止んだら、きっと港から迎えが来るよ?」
「え?」
問いかけたヒロインに男の子は黙って微笑んだまま、香草が入ったスープを差し出した。
「冷えた身体が温まるよ?」
「?」
心地よくスパイスの効いたスープは、確かに体内に入るとほかほかと熱を持っていく。
指先まで温まると、ヒロインは次第に眠気に襲われた。
「寝ててもいいよ。ここは僕が居るから大丈夫」
それがどういう意味か確認もできずに、ヒロインは眠りに落ちていった。


気難しい職人との交渉が難航したシンは、昼も随分と過ぎ、激しい雷鳴の後、本格的に雨がザーザーと降り出してようやくシリウス号へ戻った。
他の仲間はシンよりも先に船に戻っていたらしい。
一人で戻ってきたシンを見て、不思議そうにソウシが尋ねた。
「あれ? ヒロインちゃんは?」
「先に戻っている筈ですが……トワは?…」
シンの答えに、ソウシがすっと眼を眇めた。
「トワは、厨房でナギの手伝いだよ。ヒロインちゃんはシンと出かけたきり、まだ戻らないからね…」
「………そんな馬鹿な…」
シンが反射的に船室へ走る。
船室には確かに、ヒロインの戻った気配は無かった。
「念のため聞くけど、シン、ヒロインちゃんが船に向かったのはいつ?」
後を追ってきたソウシが、至極真面目に尋ねる。
「……昼前です。トワが一足先に戻ってその次くらいでしたか…」
「ねえ、シン。私は、トワと同じくらいに船に戻ったんだ。それから昼過ぎまで甲板にいた。でも、ヒロインちゃんは戻ってこなかったよ?」
「………」
疑うような眼差しでソウシを睨んだシンに、ソウシは真剣な表情で告げた。
「私の話が信じられない? 全員に確認して、船内捜索してみる? ……この街は広場から扇状に道が広がり、横道が走っている。一つ角を間違えると、思いもよらない 方向へ行ってしまうよね? ヒロインちゃんと別れたのはどこ?」
「……ちっ」
港までの曲がり角が二つの場所から走って行ったヒロイン。
一つ目の角を正しく曲ったのは確認している。つまり、間違えたのは二つ目の角。
「…探しに行ってきます」
ソウシの問いに答えることなく、シンは街へ駆け出していった。


名前を呼ばれた気がして、ヒロインが目を覚ますと、心配そうに覗き込んでいるシンと目が合った。
「あ……シンさん?」
途端に、強く強く抱きしめられて、呼吸が苦しくなる。
「シンさ…苦し……」
「ったく、お前は。なんて場所で寝てやがる」
ヒロインを抱きしめて表情を隠したまま、シンが絞り出すような口調で言う。
「え?」
言われている意味も分からず、ヒロインは視界に映る空を見上げた。
雲が流れ、薄紫色の空が垣間見える。
陽はかなり傾き、オレンジ色に染まりかけている。
ヒロインの首筋に触れるシンの髪が濡れて冷たい。
「……雨、止んだんですね」
「お前、道に迷ってこんなところで雨宿りしてたのか」
ようやくシンの腕から解放されたヒロインは、改めて周囲を見渡した。
巨石が積み重なり、ちょうど人が一人寝れる程度の隙間。
唯一風雨を遮り乾いた空間。
「あれ? あの子は…」
「あの子?」
「はい。白い服を着た男の子で…その、向こうの道沿いにあった大きな木の下で雨宿りをしていたら、ここへ連れて来てくれて…」
「大きな木だと?」
シンが眉根を寄せた。
「はい。結構、大きな木で、目印になるかなーって感じだったんですけど。雨宿りできるのって、あの木くらいしかなくって…」
「それは…お前をここへ案内してくれた子供に感謝だな」
シンが、ため息をつく。
「へ?」
「アレのことだろ」
シンが示した畑の遥か向こうに見えるモノを見て、ヒロインは目を丸くした。
「そんな、もっと大きな木で…」
「ああ。ここに来る途中、そのへんの畑で仕事していたやつに聞いたんだが、あの木は、今日の昼頃、落雷に遭ったらしい。見事に二つに裂けているな。もしあの下で雨 宿りをしていたら、命はないぞ?」
「だって……そんな……。ここ、あの子の家だって…」
「眠りこけて夢を見たのか? 人が雨の中探してやっている時に、呑気なやつだな」
シンの言葉に、ヒロインは再度周囲を見渡した。
木の扉は、どこにもない。
何より、着替えたはずのドレスのような服がない。
着ているのは自分の服である。
すっかり乾いている服ではあるが……。
「シンさんは、どうして私がここにいると…」
「そんなの、お前が、二つ目の角を曲がり忘れたと仮定して道を辿ったら、この辺りについただけだ…」
シンは言葉を微妙に濁した。
雨の中、通りの先々で、先を駆けていくヒロインの幻影が見えたような気がした。
勘としか呼べないようなものが働いたのは、事実である。
そして、ふと、この積み重なった巨石の隙間へ何かが入って行ったような気がしたのだ。
けれど、そうした不確かな出来事についてシンは、語らなかった。


「白神様?」
繰り返したヒロインの言葉に、リュウガは肩をすくめた。
「ああ、この街で祀られている守り神みたいなもんだな。あの遺跡だろ?」
「遺跡…ですか?」
シンが、それは気付かなかったと、少し悔しそうに呟く。
「お宝は特に何もないがな。俺が聞いた話では、街の人間は白蛇の巣だと信じていたぞ。招かれざる者が行くと、蛇に咬まれて大変なことになるらしい。よく無事だった な、二人とも」
「蛇の巣…」
ヒロインが、今更のように蒼白な表情になる。
「ああ、でも別の女の話では、白神様ってのはもともと人間と蛇の間の子供で、優しいそうだ。白神様に助けられたって話は、街中のあちこちにあるらしい」
「もしかして、私…その白神様に助けられたんでしょうか?」
リュウガがヒロインの言葉を聞いて、笑みを浮かべる。
「そうかもな」
「言われてみればあの子、とっても不思議だった気がします…優しくて可愛い男の子だったんですけど、結構、力が強かったというか…」
「……ふん…馬鹿馬鹿しい。行くぞ、ヒロイン」
シンがヒロインの言葉を打ち切って、船長室から早々に立ち去ろうとする。
事の次第を報告に来ただけなのだ。
「あ、待ってください」
ヒロインが慌てて後を追う。
「こりゃ、今夜も荒れるかな…」
不機嫌そうに立ち去っていくシンと、その後を追いかけるヒロインを見送って、リュウガはそっと溜息をついた。




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