分身
油断していた、というのも少しおかしい気がする。
基本的に信頼できる仲間なのだ。
シンはため息をついて、目の前の自分を見た。
鏡の向こうから抜け出たような自分が、やはりため息交じりに見返す。
「そういえば、妖精の国だったか、ハヤテが鏡から抜け出た自分と戦ったと言っていたが…」
ふと、航海室の窓に映り込む二つの影へ視線を移動した左右対称のシンが、言葉を続けた。
「俺は、違うらしいな。お互いの考えや感覚が手に取るように分かるが…」
「あはは。無事に、均等に分かれたね?」
変に明るいソウシを、二人のシンが同時に睨んだ。
「「ドクター…」」
わずかに怒りを含んだ二人のシンを見て、ソウシがにっこりとする。
「ほら、この間、マッサージをしていた時にシン、自分がもう一人欲しいって言っていたからね。分身薬を作ってみたんだよ」
確かにそんなことを言った記憶があった。
ヤマトには分身の術を使うニンジャという種族がいるらしいという話題から、説明せずとも意思疎通して安心して仕事を任せられる自分の分身が欲しいという話題になっ
た記憶がある。
「…飲む前に処理能力が倍になる薬だと」「言ってましたよね、ドクター?」
「さすがに、二人とも息がピッタリだね。お互いに感覚を共有しながら別々の場所で動けるはずだよ? 効果が切れたら、こっちのシンは消えちゃうからね?」
普段と逆、左目に眼帯をしているシンの肩を、ソウシが軽く叩く。
「なるほど。…それで、ドクター」「薬の効果が切れる時間は?」
探るように二人のシンがソウシを見た。
「私が試したときは、1ccで2分30秒だったからね。シンがさっき飲んだのは、100ccだよ」
「…つまり、理論上は250分」「4時間10分というわけですね?」
ソウシの説明から素早く計算したシンたちが頷いた。
甲板に出てすぐ、操舵輪を握っているシンを見つけたヒロインが、笑顔で駆け寄った。
「シンさん、夕食の準備が…あれ?」
言葉を切ったヒロインが、不思議そうにシンを見上げる。
「シンさん、眼帯、どうしたんですか? 逆ですよ?」
「ちっ…さすがに、この格好だとお前でも気付くか。気にするな。俺なら、今、食堂に入った」
「え?」
見返すヒロインは、シンに言われたことが理解できないという顔をしている。
「いいから、食堂へ戻れ」
「……はい」
しゅん、と残念そうに舵場から去って行ったヒロインだったが、食堂に戻ったとたん目を丸くした。
「シンさん、いつの間にここへ来たんですか?」
「お前が、無駄に甲板へ行った間に、だな」
既に座席についているシンが、事も無げに答える。
「そういやシンさ、さっき、俺が見張り台にいる時、すっげぇ変なことしてなかったか?」
「変なことだと?」
ハヤテの言葉に、シンが眉根を寄せた。
「船首でロープ引っ張っていると思ったら、船長の部屋から出てきてさ、航海室に入って行ったと思ったら、右舷のとこでなんかやってたじゃん」
ソウシが、ハヤテの言葉にくすっと笑う。
その様子を、ナギが怪訝そうに見て、さらにシンを見た。
シンが、呆れたようにハヤテに言い返す。
「ハヤテの見張りが、いかにイイカゲンなのかを露呈している言葉だな。居眠りでもしてたのか?」
「寝てねーしっ」
「しかし、トワの方が注意力も判断力もハヤテより上だな」
「はぁ? なんでそこでトワが出てくるんだよ」
トワは、見張り台に行っているので、食堂のこの場には居ない。
「事実を指摘しただけだ。間抜け」
「…んだと?」
シンの言葉に、ハヤテが机に手をついて身を乗り出した。
「ハヤテ。これをトワに届けてこい」
タイミング良く、ナギが準備したトワの夕食を、ハヤテの目の前に置く。
「えー、オレかよ、ナギ兄っ」
「………」
不満気なハヤテを、ナギが黙って見下ろした。
「……わかったよ…」
渋々、ハヤテは食堂を出ていく。
「そういやシン、あっちの食事はいいのか?」
面白そうに笑って眺めていたリュウガが、不意にシンに尋ねた。
「俺がここで食べていれば、必要ありませんね」
「ほう。便利なもんだな。…おい、ソウシ、まだあるのか?」
リュウガは感心した様子でソウシに目をやる。
「何に使うつもり? リュウガには必要ないよね?」
「船長は、やめた方がいいですね。危険です。今、軍や海賊に逢っても、俺は殆ど戦えませんから」
「…そうなのか?」
「それどころか、嵐に遭ったら舵すらとれませんよ、今の俺では」
自嘲気味なシンを、ヒロインが心配そうに見た。
「……どういうことだ?」
黙って、会話から状況判断をしようとしていたナギが、どう考えても元凶と考えられるソウシを見た。
「あはは…。聡いね、ナギ。分身薬を作ったんだけどね。思考力は共有できているからいいんだけど、体力的な面に問題あることが、シンのおかげで判明したんだよ」
ソウシの言葉を聞いたヒロインが、あっと声を上げた。
「…分身薬って…もしかして、だから、シンさん眼帯反対だったんですか?」
「眼帯反対?」
ずっと厨房にいたナギは、ここにいるシンしか見ていない。
「…ああ。ドクターの薬で作られた俺の分身は、見た目が分かりやすくてな。その上、腕力が半分以下で舵をとるのも一苦労だ」
「という報告を聞いてね。分身が大ケガをしたら、それは本体のダメージにもなるからね。分身薬は封印することにしたよ」
ソウシがリュウガに言い聞かせるように宣言する。
「……シンは大丈夫なのか?」
心配そうに、ナギが訊く。
「薬の効力はあと2時間の予定だ。その間に何かあったら、コイツを頼む」
シンがヒロインを指差しながら真面目な瞳でナギを見た。
「……」
ナギが黙って頷いた。
見張り台に上りながら、ハヤテはトワに声をかけた。
「おい、トワ。飯だ」
ひょこりと顔をのぞかせたトワが、嬉しそうな顔になる。
「ありがとうございます」
そして、ハヤテの肩の向こうへふと視線をやった。
「シンさんは、お食事まだなのかな? さっき、ヒロインさんが来てましたけど、手ぶらでしたし…」
「は? シンなら、食堂で食べてるぞ?」
「ああ、そういうことなんですね」
どこか納得したようなトワの視線を追うように肩越しに振り返ったハヤテが、舵場に人影を見る。
「…あれ……まさか、シンか?」
「? シンさんですよ? 本当に、びっくりですよね。さすがは、ソウシ先生です」
トワの言葉に、ハヤテが険しい表情になる。
「どういうことだ?」
「え? 今日、シンさん、お二人居ますよね? ソウシ先生の薬で、二人になったそうですが、最初は僕も本当に驚きました」
「聞いてねーぞ。シンが二人だと?」
「あれ? ハヤテさん、見張り台から見ていて気付かなかったんですか?」
食堂でシンに間抜け呼ばわりされたことと、トワの言葉。ハヤテの中で、納得の符号が合う。
「くそっ…」
トワに押しつけるように運んできた夕食を渡すと、ハヤテはするすると見張り台を下りて舵場に立つ人影に向かった。
「おいっ、シンっ」
駆け寄ってくるハヤテに、舵を握っているシンが面倒臭そうに答えた。
「なんだ? 間抜け」
「……なんだじゃねぇよ。二人になっているなら、最初からそう言えっ」
「わざわざ言うことでもないだろう。それに、この通り、一目で区別がつく」
「区別?」
その言葉に、訝しげにハヤテは舵を握っているシンを見た。
「………」
どことなく違和感があるのは確かだが、声も姿も性格も、まぎれもなくシンである。
「……どうしようもない間抜けだな。船長やトワだけでなく、ヒロインも一目で見破ったぞ」
明らかに馬鹿にしたような笑みも口調も、いつものシンと一緒だった。
何かが違う感じはするのに、それが何なのか判らない。
「……その目は、節穴か?」
あきれ返った様子のシンが、ため息をついた。
「う…うるせーな。どっからどうみても、てめぇは、シンそのものじゃねーか」
「当たり前だ」
付き合いきれないとばかりに、シンがハヤテから視線をそらして前方を見る。
その横顔に、ようやくハヤテの中の違和感が反応した。
「あっ…待てよっ。てめぇ、眼帯が…」
もう一度自分の方を向かせようと、ハヤテが強引にシンの肩を引く。
「バ…」
いつもなら、ありえない。
不意をついたわけでもないのに、抵抗もなく、目の前のシンが簡単にハヤテに引かれるままに体を回転させて、床に尻もちをついた。
「…っ」
痛そうに顔をしかめたシンが、ギロリとハヤテを睨む。
「あ…わりぃ」
「バカが。さっさと、食堂へ戻れ」
背後から、もう一つのシンの声がして、ハヤテはいつの間にか後ろに立つシンと、目の前で座り込むシンを見比べた。
並べてみれば、いつものシンがどちらなのかは、一目瞭然だった。
「まさか、ダメージは2倍とはな…」
ハヤテが居なくなっても、座り込む自分を見下ろして、シンはため息をついた。
「…疲れやすいわけだ」
座り込んだシンが、自嘲的に呟く。
「舵が重いのは参るな」
「あの程度のハヤテに振り回されるというのは、致命的だ。金輪際、あの薬は御免だな」
その前に…。
ふと、二人のシンが視線を交わした。
翌朝、ヒロインが不安そうな表情で、医務室を訪れた。
「おはよう。どうしたの? ヒロインちゃん」
「あの……シンさんが、ぜんぜん起きなくて……こんなこと初めてで…」
「ああ、そのことね。昨日、一人に戻ったシンに確認したんだけど、分身一人当たりのダメージが2倍。元に戻ると感覚的には4倍になっているということだったんだ。
かなり体力消耗した様子だったし、きっと、お昼頃には目覚めると思うから、心配いらないよ」
「…そうなんですか。よかったぁ…」
明らかに、ほっとした様子のヒロイン。
「それより、ヒロインちゃんの体調は大丈夫? 昨日は随分早く眠っちゃったみたいだけど」
「…あ、はい。だ……大丈夫ですっ」
途端に、耳まで真っ赤になって少し慌てた様子のヒロインに、ソウシは苦笑して告げた。
「分身薬はいろいろと危ないから、もう作らないつもりだけど……ヒロインちゃんがお望みなら残りを渡すよ?」
「え?」
「効果と分量はシンも心得ているからね。もっと……欲しい?」
艶めいた笑みで問いかけるソウシに、ヒロインが無意識に後ずさった。
「い、いえ…。私はいらないです…」
「本当に?」
頷くヒロインを見て、ソウシがくすっと笑う。
「そう。なら、残りの薬は一緒に捨てちゃおうか。ヒロインちゃんを二人にする、というのも面白そうだと思ったんだけどね」
ソウシが、大瓶を持って医務室の外へ出る。
「私を二人に? 冗談ですよね?」
船縁まで後をついてきたヒロインを振り返ったソウシが、にっこり笑った。
「……ほら。ヒロインちゃん」
残りの薬を手渡されて、ヒロインがソウシを見上げる。
「君が海に捨ててくれるかな? このままだと、使いたくなっちゃうからね」
ソウシは、誰が、とは言わなかった。ヒロインも特に気にしない。
「あ、はい。じゃ、捨てますね」
ためらいもなく、言われたままに海へ瓶の中身を捨てたヒロインを見て、少し残念そうにソウシが微笑む。
「…もったいねぇな……」
舵場に立ってその一部始終を見ていたリュウガが、本当に残念そうに呟いたが、その声は誰にも聞かれることなく風に流れて行ったのだった。
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18歳以上の大人です