錯視



 もしもあの時…。
 過ぎ去ってしまってから、どんなに悔やんでも悔やみきれないことはたくさんある。
 せっかく助かった命を無駄にするなと諭され、ようやく気付いた一つの真実。
 あの時に死ななかった自分は、今更、死んでも、もう遅いのだ。
 死ぬのなら、あの時にしないといけなかったのだ。
 なぜ、自分だけ助かってしまったのか。
 どうして原因を作った自分だけが、一緒に行けなかったのか。
 …罰に違いない。
 これはきっと、皆が自分を恨んで、罰を与えているのだ。
 許されたら、行けるだろうか。
 自分の為ではなくて、他の理由があれば、同じ場所に行けるだろうか。
 もうこれ以上、恨まれることがないように…。
 もうこれ以上、他の命を奪うことがないように…。
 いつか、許されますように…。
「許される日が来るとは、到底思えないけどね」
 自嘲気味に浮かべた微笑。
 ふと、遠い昔に聞いたことのある歌声が、どこかから響いてきたような気がして辺りを見渡す。
「ドクター、耳を塞いでっ!」
 突然足元の甲板から、シンの声と銃声がして、ソウシは何事かと声が聞こえた方向を振り向いた。
「…つかまえた」
 ソウシの目の前に立つ女の子が、手をのばして、にっこりと笑う。
「ヒロインちゃん?」
 反射的に微笑みを返したソウシに、その子は、甘えるように抱きついてきた。
「ドクターっ」
 一瞬、自分を呼ぶ声がしたような気がしたが、遠く消えていった。


 部屋の扉をノックする音に、ふとソウシは目を覚ました。
「ドクター、起きてください」
 シンの声が扉の向こうでする。
「朝食の時間です」
「ああ、ごめん。今、行くから…」
 シンは、扉を開けることなく、去って行く。
 身体を起こそうとしたソウシは、自分の横に居るぬくもりに驚いたように手を止めた。
「ヒロインちゃん…?」
 んー、と眠そうな…でもどこか誘う様な甘い声をあげたヒロインが、寝返りをうつ。
「ヒロイン…ちゃん?」
 薄目を開けてソウシを見たヒロインが、幸せそうに笑った。
「おはようございます」
「おはよう。どうしてここにいるのかな?」
「え?」
 ソウシの言葉に、起きあがったヒロインは、窓の外を見て慌てだす。
「ああーっ。今日こそ、ナギさんのお手伝いっ、行かなきゃ…っと、その前に、着替えなきゃっ。どうしてもっと早く起こしてくれないんですかっ」
「いや、私も今さっき、シンに起こされたところだから…」
 当たり前のように、ソウシの箪笥から自分の着替えを取り出して着替え始めるヒロイン。
 反射的に、ソウシは着替えを始めたヒロインから視線を外した。
 シンの名前に、全く反応しないヒロイン。
 なんとなく、違和感を感じる、共同生活を匂わせる自分の部屋。
「それって、もしかして、もう朝食ができていて、呼びに来たってことですか?」
「みたいだね」
 気が抜けたように、ヒロインがへたり込む。
「ヒロインちゃん?」
「また、みんなにからかわれちゃう…」
「からかわれる? どんなふうに?」
 ヒロインが、顔を赤らめて俯いた。
「だから…その…。昨日の夜のこととか…」
「昨日の夜?」
 昨夜は、何があっただろうかと考えを巡らせはじめるソウシを、ヒロインが怪訝そうに見た。
「ソウシさん?」
 昨日、自分が何をしていたか、ソウシは思い出せなかった。


「部分記憶喪失?」
 リュウガが、腕を組む。
「うん…我ながら、原因も分からないんだけど…ここ最近、自分が何をしていたか覚えていないんだよね。みんなのことや医学のことは分かるんだけど…。だから、教え てくれないかな? とりあえず昨日、私は何していたっけ? 何か実験でもしてたかな?」
「俺に聞くより、ヒロインに聞いたらどうだ? 自分の恋人のことまで忘れたわけじゃねーだろ?」
 リュウガの言葉に、ソウシが苦笑する。
「やっぱり、彼女は私の恋人なんだね」
 リュウガが目を眇めてソウシを見た。
「…覚えてなかったのか?」
「うーん…、すごく愛しいし、大切だよ。傷つけたくないから、なんとなく合わせているんだけど…私はその…彼女とどのくらいの仲だったか分からないんだ。朝、自分 の隣に居るのを見て、驚いちゃったくらいだから…」
 困ったとき特有のしぐさで、言いにくそうに語るソウシに、リュウガは笑みを浮かべる。
「そりゃ確かに、自分を女にした男が、そのことまで忘れているとなったら、傷つくわな」
「…あ、やっぱり…。そうだったんだ?」
 なんとなく、ヒロインの様子や、仲間の様子から、察していたことではあったが、実感がない。
「ま、お前も手を出すまでに、随分と……そうだな、なんとなく、あの頃に戻った感じだな」
「あははは……」
 自分では覚えがないのだから、なるほど、そうなのだろう。
「ま、そういうことだから、ヒロインに関しては、遠慮するこたねーだろ。昨日な…特に実験しているのは見なかったぞ。夕方、甲板でシンと随分話し込んでいたようだ が…」
「シンと?」
「内容までは知らねーよ。直接、シンに聞いてみたらどうだ?」
「そうだね…」
 溜息混じりに船長室を出たソウシの目に、甲板で干されているシーツの傍らに立つヒロインが見えた。
 深刻そうな表情で、シンと話をしている。
 シンの口が『ドクターが』と動くのを確認して、二人の話題が自分のことだと確信したソウシは、気配を消して二人に近づいた。
「昨夜は普通だったぞ。あまり、ヒロインをからかうなと、釘をさされたけどな」
「やっぱり、今朝からですよね…」
「なんだ、ケンカしたわけじゃなかったのか」
「してませんっ。ただ、様子が変なだけで……なんか、よそよそしいというか…」
 聞こえてきたシンとヒロインの会話。
 ふっと、シンの気配が良からぬものになる。
「お前、ドクターに嫌われたんじゃないか?」
「ええっ?」
「または、愛想が尽きたとかな」
「そんなっ…」
 言葉とは裏腹に、シンの手が、優しくヒロインに伸ばされる。
「ドクターに捨てられたら、俺がいつでも慰めてやるぞ?」
「その必要はないよ」
 ソウシの声に、はっと手を止めたシンが、振り向いた。
「ドクター…いつの間に……」
 二人の間に割って入ったソウシが少し厳しい目でシンを見、それからシンの言葉を半分近く信じていそうなヒロインを見た。
「不安にさせてしまったんだね、ごめんね。こんなことなら、きちんと話しておいた方が良かったね」
 大切なヒロインに歩み寄って、そっと抱きしめる。
 胸を締め付けるような切なさと苦しさと喜びと…。
 静かに去ろうとするシンの気配を察して、ソウシが呼び止めた。
「…ちょうどね、シンにも話があるんだ。昨夜、私と話をしたよね?」
 ヒロインの肩に手を置いて、ソウシが立ち止まったシンを見る。
 実は昨日までの記憶がないと事情を話したソウシに、二人はひどく驚いた顔をした。


「同じことを繰り返して思い出すというのは確かにあるけれど…みんなに悪いよ。それに、自分の行動を覚えていないだけで、処置や治療には影響が無いし、ここ最近の みんなの健康状態は、きちんと記録してあるから、問題無いよ?」
「でも……」
 みんなに頼んで、昨日と全く同じ一日を過ごせば、記憶がもどるのではと提案したヒロインが、不満げな表情になる。
「一昨日、ナギが熱を出したんだね。昨日には下がったけれど。ハヤテは昨日も、擦り傷を作ってる。あとは…」
 自分で書き留めていた記録に目を通したソウシが、くすっと笑った。
「そうか、昨日はちょうど生理が終わったところだったんだね」
「えっ、うそっ。そんなことまで、記録しているのっ」
 真っ赤になったヒロインがソウシの手から用紙を奪い取る。
「冗談だよ。でも、アタリでしょ?」
 いちいち記録しなくても、ヒロインの身体のリズムは知っている。
 耳元で囁くと、ますますヒロインは可愛い反応をする。
 この子が自分のものだったら…という考えが浮かんできて、ソウシは苦笑した。
「あ、そっか…我慢しなくていいんだっけね?」
「え?」
「あんまり可愛くて、欲しくなっちゃうってこと」
 そっと告げて耳にキスをし、顎にキスをする。そして、唇をそっと重ねてすぐに離れた。
「…ソウシさん?」
 あまりに素早く離れていったソウシを、ヒロインが不思議そうに見る。
「何だろう……。私はヒロインちゃんにそう呼ばれていたっけ?」
 まるで、初めて触れたように心が震える。
 違う呼ばれ方をしていたような気がする。
 自分を見上げるヒロインの瞳には、親愛や敬愛の情はあったけれど、恋愛の情があっただろうか。
 いつも自分に笑いかけるのは、とても罪作りな無邪気なもので、彼女はいつも別のものを焦がれた瞳で見つめていなかっただろうか。
「…何か思い出したんですか?」
 心配げに自分をうかがい見るヒロイン。
 こんな、心配と気遣いに満ちた表情は、何度も見た覚えがある。
「そんな心配そうな顔をしなくて大丈夫だよ。これ以上ヒロインちゃんに触れたら、我慢できなくなりそうだから…昼間は嫌でしょ?」
 ヒロインの髪に指を絡ませてフフフと笑ってみせる。
「それって…」
 どちらかといえば鈍いヒロインにも、意図した言葉は伝わったらしい。
「また、夜ね?」
 ソウシの言葉に、耳の先まで真っ赤にしている栗色の頭が、コクンと頷いた。
 ヒロインが欲しい。抱きたい。それは確かな自分の感情。
 けれど、ヒロインに触れる度に得体のしれない罪悪感が生じる。
「それまでに、記憶を取り戻すような薬を作ってみるね」
 記憶に関する薬…。
 そういえば昔、恩師がそんな話をしていたような気がする。
 何かを思い出したかのように一冊の本を手に取り、項目を探しだしたソウシを見ていたヒロイン。
「昨日と同じお茶、入れてきますね」
 そう言って、ヒロインは医務室を出ていった。 


 翌日、ソウシが甲板で海を眺めていると、声が聞こえてきた。
「ドクターっ」
左の真横で呼ばれたような気がして、ふと横を見る。
 誰もいなかったが、右側にいつのまにか立って、ソウシのように海を眺めているシンがいた。
「シン? 呼んだ?」
「何ですか? 浮かない顔ですね?」
 どうやら、呼び声は空耳だったらしい。
「うん…何だろうね…何かが違うんだよ」
 なんとなくまとわりつく違和感を不思議に感じながら、ソウシが答えた。
「ヒロインがですか? 記憶がですか?」
 部分的に記憶がないことが、違和感の理由なのかもしれないが、確証もない。
「…そうだな……。みんな、かな。この船の全てが、何か違うんだ…昨日作った薬も、失敗だったみたいだ…」
 クククと、喉の奥でシンが嗤う。
「シン?」
「俺も、違うというわけですね?」
 確かに、先ほどのソウシの言葉は、そういう意味になる。
「……望んだ世界だろう? 何が不満だ?」
 シンの睨みつけるような鋭い眼差しに、ソウシがはっと息をのんだ。
「シン?」
 この眼差しは、幾度となく見たことがある。
 ヒロインが来てから、時折、シンが見せるようになった激しい感情のこもった視線。
 ナギと自分には、比較的多く向けられる視線。
「シンじゃ…ない?」
 良く見れば、ソウシの目の前にいるのは、シンとは似つかない風体の老人だった。
「ソウシさんっ、何が気に入らないの? 私、ソウシさんの言うとおりにするからっ…」
 駆けてきて抱きついた柔らかな身体。栗色の髪。
「君は…誰?」
「また忘れてしまったの? ヒロインよっ」
 愛しい声と姿に、ソウシが苦笑する。
「そうだね、私の恋人になったのなら、あの子はそう呼んでくれるのだろうね。でも、違うんだよ…」
「何が違うの? 私が好きなのは、ソウシさんなのっ。ソウシさんだけが好き。ソウシさんが居てくれたら、それだけでいいのっ」
 ヒロインが涙を流しながら訴える姿を切なげに眺めたソウシが、見まいとするかのように目を閉じた。
「ほら、違う。私の好きなヒロインちゃんはね、そういうことは言わない子なんだよ……」
「私がソウシさんを好きになっちゃいけないの?」
 ヒロインの姿が揺らぐ。
「嬉しいよ。本当に、あのヒロインちゃんが私を選んだのだとしたら。多分、離せなくなる…。でも、君は違うよね。……こういうやり方は、よくないよ?」
「貴様、大切な俺の娘を拒むつもりか」
 老人の怒りと嫉妬のこもった声に、ソウシはそっと目を開けた。
 何もない空間に立っている老人と、泣き崩れている栗色の髪の女の子。
「そう…か。君は…人魚?」
 老人の足は、黒い鱗で覆われ、女の子の足もまた、栗色の鱗で覆われている。
「ソウシ先生っ、やだっ、目を覚ましてっ!」
 聞き覚えのある泣き声が届いてくる。
 そう、あの子は、自分を医者扱いする。
 まだ、一人の男として見てくれない。
 自然と、ソウシの口元に微笑が広がった。
「教えて? どうすれば私は戻れるのかな?」
 優しく問われた栗色の髪の人魚が、手を差し伸べる。
「望んだ世界への拒絶と現実への渇望を…」
「ああ、なるほどね。まだ私の中に、君たちが叶えてくれた世界への未練があるから戻れないんだね」
 ソウシが人魚の手を取って、そっと口づけた。
「ありがとう。素敵な夢を見させてくれて。でも、私は、現実も嫌いじゃないんだ…」
「優しい拒絶ね」
 掌への口付けを受けた人魚が、涙を流したような気がした。


 ソウシが目を開けると、自分を心配げに見下ろしている仲間が見えた。
 その表情が、どれも安心したものに変わる。
「よかったぁ…」
 ソウシの手を握っていたヒロインが、本当に安堵したようにソウシの手を抱きしめる。
「うーんと……」
 ちょっと困ったように、手に触れる温かな胸のふくらみを感じつつ、視線をシンに向けた。
「こら、いい加減ドクターの手を解放しろ」
 シンが、ヒロインをソウシから引きはがす。
「私はどうしたのかな?」
 とりあえず、ソウシは視線をリュウガに向けた。
「夜中の見張りしてて、魅入られたんだよ」
「ああ、やっぱり人魚の歌声だったんだ?」
「覚えてんのか? 美人だったか?」
 腕を組んでいたリュウガが笑う。
「そうだね、可愛い子だったよ。それに、優しい子だったかな。お願いしたら、帰り方を教えてくれたしね」
「人魚まで誑しこむとは、流石にソウシだな」
 リュウガが声をあげて笑いだす。
「ヒロインちゃん」
「はい?」
 ソウシに手招きされたヒロインが、きょとんとした顔で近づいた。
 ソウシが手をのばしてその背中を抱きしめ、素早く額にキスをする。
「へ?」
「っ…」
 意味不明とばかりに、きょとんとしたままのヒロインと、強引にヒロインの肩を掴んで自分のもとへ引き戻したシン。
「私を呼んで、手を引いてくれたお礼だよ」
 にっこりとしたソウシを、シンの厳しい眼差しが見返す。
「礼なら、言葉だけで十分でしょう?」
「でも、言葉だけじゃ伝わらないかなって思って。ヒロインちゃんが呼んでくれなかったら、帰れなかったのは確かだからね」
「まあ、礼くらい大目に見ろや、シン」
 リュウガが苦笑する。
「なんか、とってもおなかすいたな…」
 ソウシが呟くと、ナギが黙って医務室を出ていく。
「…三日間、眠ってましたから……」
 黙って睨むシンの代わりに、トワが説明する。
「え? 三日も? 一晩で帰ってきたつもりだったんだけどな…」
「一晩は、人魚と楽しんできたわけだ」
 ソウシの言葉に、再びリュウガが笑い声をあげたのだった。




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18歳以上の大人です