揃組



「シンさん、どうぞ」
 紅茶の入ったカップをトレイに乗せて航海室へ持ってきたヒロインが、海図にデバイダーを滑らせるシンを嬉しそうに眺めた。
「そこに置いておけばいい…」
 視線を海図に落としたまま、紅茶の置き場所を指示したシン。
 カチャリ、とトレイを置く音がしたが、相変わらず自分に注がれたままの視線を感じる。
 ペンをとって暗算では面倒な計算式を進めながら、隣に立っているヒロインに声をかけた。
「どうした? 何か用か?」
 少し慌てたようなヒロインの声が応じる。
「あ、いえ……。邪魔ですよね? また後で来ますね?」
 シンが視線を手元に向けたままだったので、忙しいと判断したらしい。
「いや…」
 待て、という前に、扉の閉まる音がして、シンは秘かにため息をついた。
 ペンが導き出した数字を書き込み、顔を上げる。
 何か言いたげなヒロインのために、先にさっさと計算を終わらせてしまおうと思っただけだったんだがな…と、視線を置かれたカップに向ける。
 今まで見たこともない…つまりは新しいカップが、同じデザインの受け皿の上で、紅茶を湛え湯気をたてていた。


 意外に早く、ため息とともに食堂に戻ってきたヒロイン。
 ナギが肩をすくめ、温めてあったカップに飲みごろになったであろう紅茶を注いで、テーブルに置いた。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
 テーブルに肘をついたヒロインが、掌で包むようにカップを持ち上げる。
 そのまま、そっと数口のんで、えへへへ、となんとも幸せそうな笑みを浮かべた。
「…うれしそうな顔」
 苦笑したナギが、自分のカップを持ってヒロインの向かいに座る。
「そうですか? うふふふっ。紅茶、おいしいです」
「別にシンに隠さなくてもいいと思うけどな?」
「うーん。でも、あまり喜びそうじゃないかなって、気付いたので…いいんです」
 にこにこと、幸せそうに微笑んで紅茶を大切そうに飲むヒロインを、ナギが黙って眺める。
「………」
「あの…何か?」
 じっと見つめられていることに気づいたヒロインが、ふと視線を紅茶からナギに向けた。
「いや……」
 シンを想って幸せそうに微笑んでいるのは百も承知で、それでも、その笑顔を見られたことに幸せを感じてしまったナギは、少しぎこちなく視線を自分の手にしたカッ プに向ける。
 カップの中で揺らいでいた赤みを帯びた液体を、一気に喉へ流し込んで、ナギは視線を食堂の入口に向けた。
 人の気配はない。
 ヒロインと二人きりの時間。
 珍しくはないことだが、改めて意識すると、心がざわざわとして、どこか落ち着かない。
 調理中のように、何かすることがあるのなら、ここまで意識することもないのだが…。
「その…隠すってのは、やめといた方がよくないか?」
 他に思いつかなくて、もう一度、同じ話題を持ち出してみる。
「そうなんですよねー。どういうわけか、シンさんに隠し事って、私の場合、うまくいかないんですよね。だから、ナギさん、お願いしますね?」
 にっこりお願いされて、思わず頷きそうになるナギ。
 そういう話ではなく、ナギが言いたいのはシンに隠し事をすることそのものをやめるべきだという意味なのに、うまく伝わらない。
 どうやって言葉にすれば、この目の前にいるシンの恋人に、うまく伝わるのだろうかと、なんとなく困ったような気分でいると、ようやく人の気配が食堂に近づいてく る。
「ナギ兄ーっ、何か食い物ある?」
 薬草を粉末状にするというソウシの作業を手伝っていたハヤテとトワが、連れだって食堂へやってきた。
 トワが、空になった三人分のカップと菓子皿を持っている。
「あっ、まだあるじゃんっ」
 テーブルに置かれた菓子皿に目を輝かせて伸ばしたハヤテの手。
 すかさずパシッ、と軽く伸ばされた手を打ち払ったナギが、目でハヤテを制止した。
 厨房で自分からすすんで食器を洗おうとしたトワに告げる。
「トワ、そこの足もとの棚に置いてある、黄色い皿…」
「黄色? あ、これですね。ハヤテさんどうぞ」
 トワは、ナギの意図を正確にくみ取って、皿をハヤテに差し出す。
「え? オレ用? さっすがナギ兄っ」
 皿に乗っていたドライソーセージを嬉しそうに頬張りながら、ハヤテがヒロインの横に座った。
 先ほどハヤテに取られそうになったクッキーをヒロインが食べ、おいしいと言って笑顔を溢す。
 食堂内に、平和な、ほんわかとした穏やかな空気が満ちる。
 まあいいか、という気分になったナギが、いつになく穏やかな目で二人を眺めた。


 飲み終えたカップを持って、シンは航海室を出た。
 後で来ると言っていたヒロインだが、それをただ待っているのも時間の無駄である。
 厨房へ食器を返しに行くという口実ついでに、何か言いたげな様子だったヒロインの話を聞くつもりだった。
 食堂の前に立つと、中からハヤテの声とヒロインの楽しそうな笑い声がする。
 途端に、シンの胸の奥でチリチリと微かな燻りが生じた。
 努めて無表情に扉を開ける。
「食器か?」
 気配を察したか、扉の前に来ていたナギが、シンに手を差し出した。
「ああ…」
 ナギの手の上に持ってきたトレイを置き、ハヤテと並んで座るヒロインを目にして、シンの微かに眉根が揺れた。
「あっ、シンさんっ。もうお仕事終わったんですか?」
 シンに気づいたヒロインが席を立って、当り前のようにシンの目の前へパタパタとやってくる。
 それだけで、シンの胸の奥の燻りが薄れていく。
 ナギがテーブルの上にある食器をついでのように重ね持って厨房へ入っていき、ハヤテはもぐもぐと口を動かしながら、チラリとシンを見てすぐに視線をそらした。
 なんてことはない、日常の風景。
 のはず。
 なのに微妙な違和感を覚えたシンが、ヒロインを見下ろした。
「…何か、オレに隠していることがあるだろう?」
「え?」
 シンに言われて、あわてて背後のハヤテを振り返ったヒロインが、途端に口ごもる。
「えっと…その…」
 違和感が一気に確信に変わったシンが、ヒロインの顔を覗き込んだ。
「何を隠してる?」
「シンの飲んだ紅茶を淹れたのは、ナギ兄じゃなくてヒロインなんだとさ」
 ヒロインが、えっと驚いた顔になってハヤテを振り返った。
「こら、ハヤテっ」
 厨房から、ナギの嗜める声がする。
「そんなん、隠す意味がわかんねーし」
 そっぽを向いたハヤテに、あははは…と照れ笑いのヒロインがシンに向き直った。
「…と、いうことです……お茶、おいしかったですか?」
「特に不味いということはなかったな…」
「えへへ。よかったぁ…」
 何か誤魔化すような笑いを浮かべたヒロインに、シンの中で微かな違和感が残る。
「それだけか?」
「え?」
「隠し事は、それだけじゃないだろう?」
 更に追及するシン。
「えっと…」
 焦り出すヒロインに、厨房から、ため息混じりのナギの声が応じた。
「手順を間違えた。俺は蒸らせ、と言ったのに、すっ飛ばしたからな…シンの紅茶の香りが薄かったのはそのせいだ。これ以上いちゃつくなら、邪魔だから自分たちの部 屋へでも行け」
「す…すいません……」
 肩をすくめたヒロインの言葉は、シンに向けたものかナギに向けたものか。
「なるほどな…お前は、失敗作を俺に飲ませたわけか」
「失敗作というか…えっと…失敗に気づいたのは、さっき、ナギさんが入れてくれたお茶を飲んだ時で…」
「ほう? 俺よりも美味い紅茶をお前は飲んだわけだな?」
 シンの言葉に、ヒロインが小さな身を、一層小さく縮める。
 さて、この調子でどう苛めてやろうかと口元に微かな笑みを浮かべたシンが、ナギの放つ迷惑そうな気配を悟って踵を返した。
「シンさん?」
「来い」
 ハヤテやナギ、そしておそらくトワも厨房にいるだろう場所で見せつけるようにヒロインを苛めるのは、所有権を誇示するようで愉しさはあるものの、先にナギに釘を さされている。
 これ以上続けると、ナギを本気で怒らせる可能性もあると判断したのだ。
 ナギの怒りを買うことは、下手をすると数回分のおいしい食事を失うことにつながる。
 シンは、ヒロインを連れて航海室へ向かった。
 二人が出ていった食堂で、トワとハヤテが、ほっとため息をつく。
「…よくやったな」
 ナギが、ハヤテの前にドライソーセージをもう一本置いた。
「ほんっと、ヒロインって、シンに隠し事できねーな。これだけ苦労しても、結局、無理なんじゃね?」
 ハヤテの言葉に、ナギが苦笑する。
「ああ…時間の問題だろうな」
「あの様子だと……ヒロインさんが言うように、シンさんは喜ぶというよりは、不機嫌な反応になりそうですね」
 黙って成り行きを見守っていたトワが、ヒロインの使っていたカップを棚にしまい込みながら言った。
「性格悪りーんだよっ、シンのヤツっ。普通、好きな女が作ったモノや、用意したモノって、嬉しいんじゃねーの?」
「ああ…かなり嬉しそうだったな」
 ナギが苦笑する。
「アレが? ワケわかんねー」
「あっ、でも、僕も、シンさんが嬉しそうなのは分かりましたよ?」
 ナギに同意したトワを恨めしそうに見たハヤテが、ドライソーセージにかじり付いた。


 夕食の片づけを終え、ヒロインを先に部屋へ返して朝食のための仕込みをしていると、食堂にシンが現れた。
「?」
 特に不穏な空気を纏っている、というわけでもないものの、厨房のナギを窺う。
「何か用か?」
 出汁に使うための焼いて乾燥させた小魚をすりこぎで砕きながら、ナギは、黙って食堂に立つシンに話しかけた。
「…何かヒロインに頼まれたか?」
 的を得ない問い。
「ヒロインが何か言ったか?」
 ナギが質問で返答すると、シンは苦笑して腕を組んだ。
 お互いに、言葉以外で伝わるものがあるのは、気が合うということなのだろうか。
 しばらく考え込んでいたシンが、ふとナギを見て口を開いた。
「今日の紅茶のカップ……、ナギが新しく買ったのか?」
「………いや」
 ナギ同様に、シンも細かなことに目敏く気づく。
「だろうな。あのデザインはナギの見立てじゃない…。……紅茶を淹れたくなった、厨房を借りていいか?」
「…好きにしろ」
 ナギの許可を得て厨房にやってきたシンが、湯を沸かし、棚を見渡す。
「茶葉は上から二段目。茶器はその横の扉の中だ」
 シンに背中を向けたままのナギの言葉。
 茶葉を取り出し、茶器を取り出しかけたシンの手が止まった。
「あの、カップはどこだ?」
「カップなら、そこにあるだろう?」
 相変わらずシンに背中を向けたままのナギ。
「昼間のカップで、ぜひとも飲みたくてな。アレが気に入ったんだが、ここにないのか?」
「……自分で見つけるんだな」
 苦笑したナギが、手を止め、横へ移動した。
 それまでナギが立って隠していた棚の奥に、布巾をかけたカップと受け皿が双組置かれている。
「ククク…そういうことか…」
 納得したように喉の奥で哂ったシンが、棚から揃い組みのカップを取り出し、茶葉やポットと共にトレイにのせた。
「…おまえが嫌がると思ったみたいだな」
「馬鹿か、あいつは……」
 ナギの目から見て、どこか幸せそうな苦笑でトレイに乗せた、揃いのペアカップを見下ろしたシン。
「借りてくぞ」
「…あまり苛めるなよ?」
 ナギの言葉に、シンはフッと意地の悪い笑みを残して厨房を去っていく。
 ヒロインが購入した、紅茶のペアカップ。
 二人お揃いのカップだというだけで、やたら幸せそうに微笑んでいたヒロイン。
 シンがあまり喜ばないと思う、という、それだけの理由で、ナギはペアカップであることを隠すように頼まれたのだ。
 その辺のヒロインの思考回路が、なんというか…ナギとしても、いろいろと困るのだが。
 そもそも、表面上の態度はともかく、シンが喜ばないはずがない。
 あの様子なら、シンも、しっかりとヒロインの勝手な思い込みによる、おかしな誤解をとくだろうと確信できる。
「まあ、シンが厨房にやってきて、自分で見つけて持っていっちまったもんは、仕方ねーな」
 納得するように呟いて、ナギは仕込み作業を再開したのだった。




Triangle againへ戻る


18歳以上の大人です