監禁
殺風景な部屋の中で、シンはため息をついた。
「無理か……」
石造りの壁で囲まれた狭い部屋。
床に寝転がると、頭と足先が壁に触れるような狭さだ。
部屋の隅に小さなトイレがある以外、何もない。
壁の一部だけ鉄格子になっていて、その隙間からパンと水を入れるようになっているらしい。
そのくせ、やたらと高い天井。一部が窓のようになって、明かりがさしこんできている。
「誰かが助けに来るのを待つしかないな…」
武器も服も奪われ、足枷のつけられた素足に下着、シャツを一枚羽織っているだけのシンは、背中を庇うように座り込んだ。
羽織っているシャツに多くの血が滲んでいるが、背中の裂傷は手当て済みだ。
「ま、本来、海賊は捕まったら即縛り首だからな…生きているだけでもマシか」
殺されることはない、と判っている。
シンをここに監禁した人間の目的は、シンを意のままにすることであって、命を奪うことではない。
「だからと言って、あんな女の奴隷にされて玩具になるのもな……」
先ほど、シンの背中に鞭を振った女と、その周りに媚びへつらう奴隷たちを思い出して、シンは暗い表情をした。
明らかに、麻薬に侵されていると判る奴隷たち。
奴隷たちを傷つけ、虐げることに喜びの表情を垣間見せていた女主人。
あの様子では、奴隷もすぐに不足するだろうと、容易に想像がつく。
次々と、新たな奴隷が必要になるわけである。
しばらくの間、シンは暗い表情で考え込み、水とパンに手を伸ばした。
慎重に匂いを嗅ぐ。
「チッ…水も麻薬入りか。口にしたら終わりだな…」
ある程度は予測していたのか、たいして落胆した様子も見せずに、シンは鉄格子の向こうへ水とパンを蹴り出した。
「シンさんっ…」
仲間に助け出されたシンは、駆けてきたヒロインを優しく抱きとめた。
「お前の描いた人相書き、あの女にそっくりだったな。お陰で助かった。ありがとうな」
あえて距離を置いた、どこか疲れたような声に、抱きついたヒロインが訝しげに顔を上げる。
「ドクター、話がある」
「シンさん?」
シンの視線に、何かを感じ取ったソウシが、頷いて医務室へ向かう。
「お前は、先に部屋へ戻っていろ」
抱きとめていた身体を押しのけ、突き放すようなシンの言葉に、いいようのない悲しみと不安がヒロインの心に影を落とす。
ヒロインを助けるために、港町で役人に拘束されたシン。
けれど、助けに行った港町の牢屋にシンの姿はなかった。
役人と一緒にいた金持ちの貴族が、役人に金を払ってシンの身柄を引き取っていったのだと分かるまでに、一日。
その貴族の館を探しだすまでに、一日。
館に侵入し、囚われていたシンを救い出すまでに、一日。
それは、シリウス海賊団だからこそできた迅速さだったが、海賊王をもってしても三日もかかる困難な事態でもあった。
離れていたのはたった三日間。けれど、長かった三日間。
「…シンさん?」
もう一度呼びかけた声に、背中を向けたシンは、何も答えずに医務室へ入って行った。
「………」
言葉もなく医務室の扉を見つめるヒロインの肩に、ナギがそっと手を置く。
実際に貴族の館に侵入し、シンを連れ出したのはナギ。
女主人と対峙したのはリュウガ。
逃げ道を切り開いたのがハヤテ。
「ナギさん……」
「心配すんな…。三日間、飲まず食わずだったらしいからな。栄養のあるもん、作って食わせてやるか」
ナギの言葉にそっと頷いたヒロインは、促されて厨房に向かった。
「おい、ハヤテ。舫綱、外してこい。あの女の息がかかった奴等が追ってくる前に、さっさと出港するぞ」
医務室へ消えたシンと、厨房へ向かうヒロインを、暗く厳しい眼差しで眺めたリュウガが、コートをはためかせて舵を握る。
身軽なトワがマストに登って、次々とガスケットを解いて帆を広げてゆく。
シリウス号はゆっくり沖に向かって進み始めた。
「トワ。倉庫の奥にあるバラスト部屋の一つを、空っぽにしてくれないかな?」
出航してしばらくたって、ソウシは倉庫を訪れた。
「はい…でも、中のバラストはどうしますか?」
船底で、船の安定を支えるバラスト。
「あれって、いくつか袋につめてあったよね。とりあえず、左右に振り分けて、一つだけ残しておいて。それから、どこかに鎖や鉄枷なかったっけ?」
ソウシが倉庫の中を物色しはじめる。
「鎖と鉄枷ですか? いったい何に…」
「うーん、なければロープを使うところなんだけど、ロープだとたぶん、抜け出ちゃうと思うんだよね」
「抜け出る?」
「そう。シンて、ロープワーク得意でしょ?」
にっこり笑ったソウシの言葉に、トワが目を丸くする。
「え? シンさんに鉄枷つけるんですか?」
「本人の希望だし、私もその方がいいと思うからね」
「だって……シンさん、さっき戻ってきたばかりじゃないですか」
トワの言葉に曖昧に頷いたソウシが、埃だらけの鉄枷を引っ張り出した。
「あった、あった。これは、昔、ナギが処刑されそうになった時のだっけ? トワ、この鍵、なんとかできそう?」
「はい、それなら、たぶん針金でなんとかなるはずですけど…ソウシ先生、シンさんの希望って……?」
あのシンが自ら鉄枷を付けたいと言うなんて、絶対にありえないとトワは認識している。
シン自身が倉庫にきて、他の者に鉄枷をつけると言うのなら、容易に納得もできるが…。
「食事の時に、みんなに説明するね。…そんなに大量じゃないはずだから、二日か三日くらいでなんとかなると思うんだけどね…。きちんと洗った方がいいかな、この鉄枷。じゃあ、バラストの方、よろしくね?」
曖昧な表情でトワを見て応えたソウシが、鉄枷を手に倉庫を出ていく。
トワは黙って見送った後、微かに首をふり、倉庫の最下層、バラストの移動に向かった。
「麻薬っ? ヤバくね?」
ソウシの言葉に、ハヤテが眉根を寄せた。
「幸い、シンはできる限り摂取しないように心掛けたみたいだから、禁断症状がおさまって、丸一日再発しなければ、大丈夫だと思うんだけどね…」
シンが異変に気づいたのは、捕らわれた翌日。
ひどく痛み出した背中の傷に、自分では見えない傷の深さを自覚した時。
シンが水もパンも拒絶していることを、無駄な足掻きだと嘲笑った見張り番。
震える手足と、にじみ出てくる脂汗に思うようにならない身体。
何かに捕らわれた思考。
傷の手当だと入ってきた数人に捕えられて、傷に塗りこまれた薬。
塗布され、しばらく経つと、急速に消えていった痛みと、ようやくぼんやりと戻ってきた思考。
傷の手当に麻薬が使われていると理解することは容易だった。
そして翌日、再びシンの身体に訪れた、薬の効果が切れた症状。
見計らったように、再び行われた傷の手当て。
「確かに、麻薬と言ってもクスリだからね。痛み止めで使うものも、あることは、あるんだ…。ただね……正直、何をどのくらい使われたか、私にも判らないんだよ」
「……あれは、アヘンじゃねーな」
リュウガがぽつりと言う。
「え?」
聞き返したソウシに、リュウガはため息をついてから、女主人に対峙した時のことを語った。
「明らかにオカシイ奴等がいたんでな。アヘンかって呟いたら、あの女自らが、アヘンはいろいろと使い物にならなくなるから、捨て駒にしか与えねぇ、とさ。シンはどう見ても捨て駒扱いじゃなかったからな…」
「なら、痛み止めの一種かな…多少の依存性がある……」
「…だろうな……。話は分かった。シンのことは、ソウシとナギで頼む」
「えっ…」
ヒロインが驚いたようにリュウガを見た。
「あのー、私も…」
「だめだ」
強く断固とした否定。
「でも…」
「ヒロインは、倉庫への立ち入り禁止。船長命令だ」
「そんなっ、私だって、シンさんのためにいろいろしたいですっ」
立ち上がって食い下がったヒロインを、リュウガの厳しい視線が捕えた。
「すいません、ヒロインさん…。あの、カギ閉めますね……」
申し訳なさそうなトワの声と共に、閉ざされた扉の向こうで、施錠される音がした。
ヒロインが膝を抱えてうずくまる。
「シンさん……」
また会えなくなってしまった名前をそっと呟く。
と。
壁の向こうの部屋から、ハヤテの声が聞こえた。
「ま、ナギ兄とソウシさんがやってくれるんだから、心配いらねーって」
「………」
「オレもさ、バカやって船長に部屋から出るの禁止されたことあるけどさ、その…えっと…、いろいろ仕事やんなくてよくなるし、ちょうどいい休みだと思えばさ…。それに、こうやって話はできるし…」
「………」
「ナギ兄やソウシさんからシンの様子聞いてさ、オレが教えてやるよ。そんなヤバくないって言ってたし、シンもすぐ治るって……」
壁の向こうから聞こえてくる声だけで、一生懸命、考えをめぐらせながら話しているハヤテの姿が浮かんでくる。
「あの…ありがとうございます。ハヤテさん…よろしくお願いします」
ようやく返答したヒロインに、壁の向こうの声は、明るく「まかせろ」と答え、去っていった。
リュウガの決定に対して、抗議したヒロイン。
船長命令でも、そんな命令は聞けないと、自分もシンのために食事の世話だけでもしたいと、引き下がらなかったヒロイン。
ならばお前だけ船を下りるかと聞かれ、ヒロインは言葉を失った。
一人で船を降りるなんて、できるわけがない。
結局、船長命令に逆らった罰として、部屋から一歩も出るなと厳しい表情のリュウガに告げられてしまった。
ヒロインは部屋を見渡す。
「……そうだ…」
机の引き出しから紙を取り出したヒロインは、何か決心したかのように、ベッドに座り込んだ。
カタカタと指先が勝手に動くのを感じて、シンは手のひらを握りしめた。
例えようのない、漠然とした不安が、自分の周囲を包み込もうとしている気がして、身を縮める。
どうしてこれほど身体が不自由なのかと、訝しく視線を自らの腕に向ける。
重い枷が腕の自由を奪っているのが見えた。
床から染み出してきた何かが、足に絡みついて自由を奪っているような気がする。
ここは…どこだったろうか。
仲間に助けられたような気がしたのは、幸せな夢か幻だったのだろうか。
名前も知らない何かを、シンの身体が求めている。
欲しい。
なんと呼んで求めればいいのか、知らない。
なんと言えば与えられるのかも、判らない。
ただ、今までは、こうなれば、何者かがシンの許へやってきて、与えていった。
背中がドクドクと鼓動に合わせて欲している。
「くっ……」
身を縮めて漏らした声に、近くにいた何かが反応した。
「シン?」
聞き覚えのあるような、ないような、不明瞭な声が名前を呼ぶ。
「見張り…か? はやくしろ…」
視界がぼやけて、影しか認識できない。
「シン?」
覗きこんできた影を、シンは枷のつけられた腕でなぎ倒そうと、攻撃した。
「おっと……」
シンの攻撃を易々と避けた影が、腕を掴んだ。
「離…せ」
影を睨みつけながら、渾身の力で、ひどく重い足を蹴りあげる。
「うわっ…びっくりしたなぁ……一袋じゃだめだね。もう一袋足しておこうか?」
掴んでいた腕を放し、蹴りを避けた、にこやかな影。
シンの目に映った蹴りあげた足には、ロープが幾重にも巻きつき、重石が入っているらしい袋が結わえられていた。
認識した途端に、足がひどく重くなり、音を立てて床に足が落ちる。
じっとりとした汗が、首すじを伝っていく感触がした。
「どう…なってる?」
「幻覚かな? 声は聞こえている?」
「げんかく?」
何度目を凝らしても、焦点がうまく合わず、相変わらず人影はぼやけている。
「水でも飲んでみる?」
警鐘が鳴った。
「水?」
水は危ない、と自分の声がする。水とパンを口にしたら終わりだ、と自分が警告する。
「ふん…誰が飲むか…」
シンの答えに、人影の雰囲気がどことなく変わる。
「その水を飲んだら、与えてやってもいいよ。…欲しいんだろ? ほら…」
身体を引き起こされ、手枷と掌の中に水の入ったグラスが置かれる。
「それを自分で飲むなら、欲しいものをやる……」
ゆっくりと、いい聞かされる魅惑的な言葉に、シンの視界が揺れた。
仲間に助けられたような気がしたのは夢だったか…という絶望と、何かを欲する身体。
グラスに勝手に引き寄せられてしまう、自分の唇。
ダメだ、と警告し続ける自分の声。
目を閉じたシンは、不自由な手でグラスを傾けた。
「まったく…感心しちゃったよ……」
食堂で、水の入ったグラスを指先でつついて水面を揺らしながら、ソウシが苦笑した。
ナギはシンの食事を持って倉庫へ行き、トワはヒロインの食事を持って行っている。
食堂にいるのは、ハヤテとリュウガとソウシの三人。
苦笑するソウシの脳裏に、しばらく前のシンの姿が焼き付いていた。
どこか記憶が混濁しているのか、ソウシを認識していなかったシン。
麻薬が含まれていると判った水とパンは、口にしなかったと語ったシンの、言葉の真偽を試したくなったのは、ほんの出来心。
正気を失っている時に命じられたら、本人の意志に関係なく、口にしていた可能性はあると考えていた。
だから、その水を飲めば、欲しいものをやる、と言ってグラスを渡してみたのだ。
おそらくは禁断症状で苦しんでいるのだろうシンに。
途端に、大人しくなってグラスを見つめたシンだったが。
目を閉じ、唇の手前でグラスを傾け、中の水を全て床に捨てたシンは、どこか焦点のあわない瞳でソウシを見上げて不敵に答えた。
「こんなもの飲むくらいなら、狂い死にした方がマシだ」
そして、かすかな笑みすら浮かべて、空になったグラスをソウシに投げつけたシン。
そんな出来事を語るわけではなく、思い返しているソウシに、リュウガが尋ねる。
「見通しはどうだ?」
「うん。大丈夫じゃないかな。さっき、たぶん、今日最初の禁断症状だったと思うんだけど…正気を奪われても、シンはシンだねえ…」
食事をかきこみながら、聞き耳をたてているハヤテが怪訝な顔をする。
そんなハヤテのことを承知しながら、ソウシは続きを語った。
「薬の誘惑よりも、自己暗示の方が勝っているから、自力で抜け出すと思うよ。明後日には、完全に普通のシンに戻っているんじゃないかな…」
「なら、そんなに心配するこたぁ、ねーな」
リュウガが頷いて、食事を食べ始める。
「ご、ごちそうさまっ」
おもむろにハヤテが立ち上がって、走るように食堂を出ていった。
「早速、ヒロインちゃんに報告かな?」
「だろうな。で、マジなところどうなんだ? 今のは、ヒロイン用の報告だろ?」
ソウシがため息をつく。
「ヒロインちゃんを隔離して正解、かな。今のシンは、手負いの獣だよ。船底に穴を開けたりしないか、ヒヤヒヤしちゃった」
「ほう…獣ね。シンのことだから、そのへんの女より、キレイだったろ?」
「リュウガ? 笑いごとじゃないよ?」
「…手負いの虎や狼で、本当に強いヤツはな、見惚れるほどキレイだぞ。特に、敵意むき出しで睨みつけてくる目が合った時なんか、ゾクゾクしやがる」
「確かにね……」
グラスを投げつけてきたシンの姿が脳裏からなかなか消えないソウシは、リュウガの言葉にそっと頷いた。
鼻腔をくすぐる久しぶりの香りに、シンはふと眼を開けた。
「起きたか…。食えるか?」
ひどく空腹なのは自覚するが、目の前の光景に、シンは身体を起こして自分の周囲を見渡す。
「……どした?」
「ナギ? ここは…」
「俺たちの船の、船底だな」
「…どっちが夢だ?」
憮然としたシンの問いに、ナギがああ、と納得したように微笑した。
「たぶん、こっちが現実だ」
食事を乗せたトレーを、シンの目の前に置く。
「飯くらい、自分で食えよ?」
言われて初めて、シンは自分が手枷をしていないことに気づいた。
「なぜ外した?」
「男に食わせてやる趣味はねぇ」
ナギが鎖鎌を片手に持ったまま、シンの横に座る。
もし暴れだしたら、ナギの鎖鎌が即座にシンの自由を奪うのだろうと納得できる所作だった。
「ドクターは?」
「食堂で食事中だ」
スープを一口、胃の中に落としたシンが、笑みを浮かべる。
「なんだ?」
「ナギの味だ。夢じゃないらしい」
ようやく、現実の確信が持てた様子で、シンがスープを飲みほす。
視線を天井に向けたナギが、口を開いた。
「…ヒロインな、お前がここを出るまで、部屋で謹慎処分だ」
「そうか……船長が?」
「まあ…な」
シンが肩を揺らして喉の奥で笑った。
「アイツ、馬鹿だから、簡単だったろ?」
ナギも苦笑する。
「……食事はトワに運ばせてる。ハヤテが、やたらとはりきって、情報収集してるな…」
「ったく。あのバカ……」
シンも上を見上げた。
「……ヒロインが居るのは、この真上辺りか……」
シンもナギも、船の構造は知り尽くしている。
衣服の胸元を強く握りしめたシンが、小さく舌打ちした。
「…?」
心配げに視線を移動したナギに、シンが苦笑混じりで呟く。
「大丈夫だ。………これは、ヒロインの禁断症状だな……」
ナギが憮然とした表情でシンの背中を小突いた。
「……っ」
傷の痛みに眉をしかめたシンが、ナギを睨む。
「…あまりに隙だらけで、つい、な……。さっさと食え。残すなよ?」
シンを見返したナギが、口元をゆるめて言った。
トワやハヤテからもたらされる情報では、船倉に隔離状態のシンは、経過良好だということだった。
たぶん今夜あたりにはシンに会えるだろうと、今朝ハヤテが壁の向こうで語っていたのを聞いている。
ガチャガチャと施錠を解除する音に、ヒロインは手にしていた紙を慌てて毛布の中に隠した。
昼食にはまだ早い時間。
挨拶もなく、扉が開かれて当たり前のようにシンが室内に急ぎ足で入ってきた。
「シンさんっ…」
驚いて凝視するヒロインをチラリと一別したシンが、タンスから衣服とタオルを出す。
「…行くぞ」
「え?」
つかつかと扉に向かうシン。
「どうした? 早く来い」
戸口で振り向きざまに誘われて、ヒロインは慌ててベッドを下り、足が止まった。
「どうした?」
「あの…シンさん? どこへ…。その…私、部屋から出るのは……」
「なら、そこにいろ」
ふい、と視線を廊下の向こうへ向けて去って行こうとするシンの動作に、ヒロインは思わず追いすがる。
「ま、待ってください、シンさん」
シンの口元に微笑が浮かんだが、ヒロインの視界にそれは入らなかった。
黙ってヒロインの腕を掴んだシンが向かった先。
扉の中に入るしばらく前から、ヒロインが慌てだす。
「あ、あの…シャワー? え? あのっ…お風呂ですか?」
「一緒に入るのが嫌なら、ここで待っててもいいが…」
脱衣場まできて上着を脱いだシンが、ヒロインに背中を向ける。
「さすがに、自分では届かないんでな。……取ってくれ」
シンの背中。傷跡を覆うように貼られているガーゼ。
「え? あ……」
ようやく自分が連れてこられた理由を悟ったヒロインが、そっとシンの背中に手を伸ばす。
ガーゼの下の傷はようやくふさがっていて、色の違う薄く新しい皮膚に覆われていた。
「うそ…こんな……」
その傷の深さの名残を初めて目にして、ヒロインが声を失う。
ヒロインの反応に、チッと舌打ちしたシンは、不機嫌そうに一人、浴室へ入って扉を閉めた。
すぐに、シャワーの水流の音だけが、浴室に満ちる。
「……あ。あの傷じゃあ、自分で洗ったりするのも大変なんじゃ…」
ふと思い当ったヒロインが、おそるおそる声をかける。
「あのー…。シンさん、お背中、流しますか?」
シャワーの音が止み、浴室の扉が開いた。
眼帯を外し、髪を解いたシンが、立ち尽くしているヒロインを見て、フッと鼻で笑う。
「…その格好でか? もう少し色っぽい格好になってから誘ったらどうだ?」
「ど、どうせ私は、色気のない、チンチクリンですからっ」
「入れ」
シンに誘われて、ヒロインは腕まくりをして浴室に入った
濡れて肌にまつわりつく服を見下ろしたヒロインが、降り注ぐシャワーの中で抗議する。
「シンさんっ」
「背中を流すと言うのは、誘い文句だろう?」
「違いますっ。本当に、背中洗うの大変かなって思って……」
ヒロインの腰に腕を廻して抱き寄せたシンが、耳元で囁く。
「傷はとっくに塞がっている。薬のおかげで、痛みを感じることもなく、な。…お前が心配する必要はない」
「でも……」
シンの両腕が、背後から包み込むようにヒロインを抱きしめた。
シャワーの温かい湯が、シンの髪や肩を伝い、ヒロインの衣服に浸み込み、流れる。
倉庫から出てきたばかりシンが、言葉にしない、言葉にできないものが、湯と一緒に流れてくるような気がして、ヒロインはそっと目を閉じた。
流れ落ちる水音が、二人をそっと包みこんでいた。
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18歳以上の大人です