濃霧



 指先を何度か引っ張られて、ふと目を開けたヒロインの前に、少し不機嫌そうなシンの顔が映った。
「? シンさん?」
「起きたか……まあ、いい。寝てろ」
 指先に絡んでいた黒い紐が取られるのを、なんとなく視界の隅に見る。
「馬鹿だな、お前は…」
 なんとなく言われた意味が分からず、でもまだ重い瞼を閉じかけた視界に、シンの露わになった肩が映る。
 そのまま、目を閉じかけて、思考がようやく反応した。
「あ…れ?」
 ヒロインから離れかけていたシンが、引き留めるような声に、再び屈みこんで、覗き込むように顔を近づける。
「どうした?」
 やっぱり、どこか不機嫌そうな顔。
「シンさん…服は?」
「何だ、覚えてないのか?」
 なんとなく重だるい手を自分の胸に動かしたヒロインが、自分は服を着ていると確認する。
「?」
「…ったく。いいから、寝てろ」
 付き合いきれないとばかりに、ヒロインを覗き込んでいたシンが、身体を起こす。
 茫としたヒロインの視界が、ベットから離れて立ち上がるシンを見上げ、裸体なのは上半身だけなのを確認する。それと…。
「? シンさん、眼帯…」
「お前が、取ったんだろうが」
 苦笑交じりに見下ろされて、ヒロインの思考が混乱した。
 ノックの音がして、シンの返答に扉が開く。
「…ああ、悪いが、ちょっとヒロインを看ててくれ。…流してくる」
 扉が閉まる音がして、ヒロインの視界に覗き込むように映ったのは、別の顔。
「ナギさん?」
「起きたのか? 水、飲むか?」
「?」
 優しく見下ろされて、ヒロインは不思議そうにナギを見上げる。
「あの…シンさんは?」
「ああ、流しに行った。すぐ戻るだろ。身体、起こせるか?」
「?」
 ヒロインの表情から、事態をよく理解できていないと悟ったらしいナギが、シンと似たような苦笑を浮かべた。
「どこまで覚えている?」
「?」
 ナギの言葉に、まどろんで混乱していた思考が、再び動き出す。
 今日は、何があっただろうか…。
 目覚めようとしたせいか、欠伸が出てきて…微かな気持ち悪さに襲われた。
 水が欲しい…。
身体を起こすと、めまいがする。
「ほら…」
 ナギに渡されたグラスを受け取って、口に運ぶ。
水を何度か嚥下すると、ゆっくりと、しばらく前までの記憶が戻ってきた。
「えっと…」
 まだ、どこか世界が回っている。
今夜は満月で、宴をやって、甘くておいしいお酒があって…。
 いつものように大声で笑うリュウガ。楽しげなトワと、笑っているハヤテと、歌うソウシと…。
 そういえば、歌い終わったソウシに薬草を手渡された気がする。
「私、お酒飲みすぎました?」
 ずいぶん、はっきりとしたヒロインの声に、ナギの苦笑が和らいだ。
「ああ。シンが戻ってくるまで寝てろ」
「?」
 ヒロインの手にあったグラスを、取り上げるように受け取ったナギが、横になるように促す。
 言われるままに、再び横になったヒロインは、先ほど目にしたシンを思い出す。
 何したっけ???
霧がかかったような記憶。
 どうして、シンさんは裸だったのかな……服、どうしたんだろう……。
なんとなく胸に残る、気持ち悪さ。
 一瞬、晴れわたった記憶に、ヒロインは慌てて身体をおこした。
「おい……」
 突然、起き上がってベッドを下りようとしたヒロインに、少し驚いたようなナギが声をかける。
「ナギさんっ、シンさんどこですか?」
「だから、シャワー室だろ」
「シンさんに、謝らなきゃっ」
 立ち上がってはみたものの、頭が重くて、身体がだるくて、走りたいのに思うように走れない。
 扉に向かおうとしたのに、何故か扉の無い壁にたどり着いてしまう。
「馬鹿っ、おま…」
 ナギがヒロインの腕をつかみ、肩を支えてベッドに座らせた。
「だから、シンはすぐ戻るって」
「だって……。シンさんに、嫌われちゃう。謝らなきゃ…」
 涙があふれてくる。
「……思い出したのか」
 溜息混じりのナギの声に、ヒロインは手で涙をぬぐいながら、頷いた。


 あれほど飲みすぎるなと言ったのに困った奴だ、と思いながら、シンはシャワー室を出た。
 そのまま甲板へ向かい、濡れたコートを索具の一つに留める。
「災難だったね? ヒロインちゃんは大丈夫?」
 いつの間にか気配を消してすぐ近くに立っていたソウシ。
シンは至極不機嫌な視線を返した。
「そもそも、ドクターがあいつに変な薬草を渡したのが原因でしょう?」
「あはは…あれは、酔いにくくなる薬草で、酔わない薬草じゃないんだけどね…ちょっとヒロインちゃんに勘違いさせちゃったかな?」
 意図的に勘違いをさせたのがバレバレなソウシ。
「………」
 黙って睨みつけたシンは、ソウシに背中を向けて船室へ向かう。
「でも、あの薬草を飲んだのなら、酔いが醒めるのはかなり早いと思うよ。身体が処理できない過剰摂取分は全て排出されたはずだから…たぶんね」
 背後から聞こえてきた声を無視して、シンは甲板を後にした。
「……チッ」
 今、起きている出来事の全てがソウシの想定内にあると言われたようで、面白くない。
 船室の前に立って扉を開けようとすると、ナギの声が聞こえてきた。
「そもそも、俺ならあの程度で嫌ったりしない…ぞ」
 その言葉だけで、自分が居ない室内で何があったのかおおよその見当がつくシンは、ヂリヂリとする心を精一杯静めて、自分の部屋の扉を開けた。
 部屋に戻ったシンを「あ…」と言ったきり、言葉なく見つめるヒロイン。
 自分の役目は終わったとばかりに、掴んでいたヒロインの腕を放し、立ち上がって出ていこうとするナギ。
 おそらく、ヒロインが部屋を出て行こうとしたのを、ナギが腕を掴んで引き留めたのだろう、と推測はできるが……。
「油断も隙もねーな」
 すれ違いざまの、不機嫌なシンの言葉に、ナギが苦笑する。
「そんなに心配なら、俺に頼むな」
「…ふん。なら、タイミングよく水持ってくるな」
 シンの応答から伝わる、言外の感謝と信頼と嫉妬と懊悩。
いろいろなものを受け取って、苦笑を深めながら、ナギは部屋を出た。
「………」
 ヒロインが俯き、部屋に沈黙が満ちる。
「あの…シンさん…」
「なんだ?」
 不機嫌そうなシンの声に、俯いたままのヒロインが、ぴくりと身をこわばらせる。
「その……ごめんなさい…。あの…、服とか…本当に、ごめんなさい……」
「気にするな。もう洗って干してきた」
「でも……。あんなことしたら、もう嫌われても仕方ないけど……あの…すいません。私、なんてお詫びすればいいか…。怒ってますよね? 私、部屋、出て行った方がいいですか?」
 頭の上に心底あきれたようなシンの溜息が落ちてきて、ヒロインは顔をあげた。
「馬鹿か、お前は」
 怒ったような目で見据えられて、ヒロインの身がますます固くなる。
「ドクターに騙されたお前が、飲みすぎた酒を吐いたくらいで、なぜ俺がお前を嫌わなきゃならない。しかも、部屋を出て、どこへ行く気だ?」
「っ、すいませんっ!」
 叱られた反射のように頭を下げたヒロインが、はたと思い当ったように再び顔をあげた。
「え? 騙された?」
「ドクターに確認した。あの薬草は酒に酔いにくくなるだけで、酔わないものじゃない。しかも、あの薬草を使うと、飲みすぎた酒を全て吐くらしい。つまり、お前が吐いたのは、あの薬草のせいだな」
「でも……私、シンさんの服に…」
「あれは不可抗力だ。気にするな」
 気分が悪くなったヒロインを、シンが抱えたから、シンの服が汚れたのだ。
 他の人間がヒロインを抱えて服を汚すより、何倍もマシである。
 すっかり肩を落としているヒロインは、酒の影響が微塵も感じられない。
「…確かに、ドクターの言うとおり、酔いは完全に醒めたらしいな」
 シンに言われて、ヒロインはいつの間にか、身体の重さもめまいも消えていることに気づいた。
「あれ? …本当だ」
 かすかな頭痛もおさまり、世界がはっきりとしている。
「…その様子なら、大丈夫そうだな」
 腕を組んだシンのからかう様な笑み混じりの声。
「あ、はい。大丈夫みたいですっ」
 頷いたヒロイン。
 その元気そうな様子に、シンは喉の奥でククッと嗤い、そっと囁いた。
「本当に、馬鹿だなお前は…」
 満月の夜はまだ、半分も過ぎていなかった。




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