相即



 それは、青空広がる、気持ちのいい朝。
 シリウス号が、追い風を受けて海の上を快走している時のことだった。
 洗いたてのシーツを広げていたヒロインは、ロイがシリウス号に侵入してきていることなど、知る由もなかった。
 そして、たまたま、一人で甲板にいたヒロイン。
 よくあることだったが、見張り台にいたハヤテは、前夜隣の部屋から聞こえてきた音のお陰で寝不足状態にあり、ウトウトと心地よい風に撫でられながら夢の中にいた。
 自分に気づいていないヒロインを見つけたロイが、ちょっと悪戯心を発揮して、シーツの裏に隠れる。
 前触れもなくヒロインの耳元に近づき、甘い声で「真珠ちゃん」と囁いてみた。
 たまたま、そこは、船縁のすぐそばだった。
 突然の耳元への囁きに、ひどく驚いたヒロインが、声もなく飛び退いた場所は不安定で。
 あっと、叫ぶ間もなく、頭から後ろへ倒れこむように海へ落ちた。
 ロイはあわててヒロインを追って海へ飛び込んだ。
 ほんのわずかな時間。
 シンが、航海室で航路の計算に集中した、わずかな時間。


 ふと、計算を終えたシンが、顔をあげた。
 立ち上がって、甲板を見渡す。
 洗濯物を干していたはずのヒロインの気配が、甲板に無かった。
「ヒロイン?」
 もともと、気配を消すなどという芸当がヒロインにできるはずもない。
 シンの足が、船室へ向いて、早足で動き始めた。
 部屋の扉を開け、一眺めして扉を閉める。トイレや風呂を一瞥して、ため息をつき、続いて、医務室をノックした。
「どうしたの? シン?」
 医務室内を見渡したシンが、念のため尋ねる。
「……ヒロインは、来ていませんね?」
「ヒロインちゃん? そうだね、ここには来てないよ」
 シンがヒロインを探しているのは珍しくもない。
 苦笑してシンを見たソウシが、いつもとちょっとだけ違う焦りを敏感に感じ取った。
「…私も探す?」
「できれば、倉庫と厨房をお願いします」
 真面目な表情のシンに言われて、ソウシが笑みを消す。
 焦りを隠さず、シンは甲板に戻ると、帆の向きを変えてシリウス号の速度を急激に落とした。
 呼びかけても返事のない見張り台を忌々しげに見上げたシンが、シュラウドを登る。
「ハヤテ。貴様……居眠りか」
 背筋が粟立つような恐ろしい殺気に、ハヤテが目を覚ます。
「シン?」
「ヒロインが甲板から消えた。お前、ここでいつから寝てた?」
「い、いつって…」
「邪魔だ、どけ」
 シンに容赦なく見張り台から引きずり出されたハヤテは、咄嗟にシュラウドのロープを掴み、甲板に落ちるのを免れた。
「ヒロインが消えたって、いったい…」
 望遠鏡を手にしたシンが、航跡の残る海面を振り返って後方確認する。
「……時間的には、まだ見える範囲のはずだが…」
 人影一つ、シンの持つ望遠鏡には映らなかった。
 その様子に、ハヤテもシンの行動の意味を理解する。
「え? 船にいねーの?」
「…………」
 答えずにシンは、甲板に降りて、船を止めた。碇を降ろす。
 流石に、リュウガが様子を見に甲板へやってきた。
「どした?」
 訝しげなリュウガに、硬い表情のシンが、事務的に告げる。
「ヒロインがこの船に居ません」
「は?」
「シン、倉庫にも厨房にもいなかったよ」
 ソウシが甲板にやってきて告げるのを聞いて、リュウガが眉を寄せた。
「居ねえ?」
「五分以上前から、気配がない。甲板で洗濯物が干しかけになっているので、海に落ちた可能性が濃厚です」
 相変わらず、硬質な表情と事務的な口調のシン。
「見張りはハヤテだったよね?」
 穏やかに問いかけて、ハヤテをみたソウシだったが、シンの「ハヤテは今、起こした」というシンの言葉に、笑みを深くした。
「…そう。ハヤテは寝ていて、見ていなかったんだ……。シン、とりあえず、同じ航路を引き返そうか」
 どこか不穏なものを纏ったソウシの言葉に、シンはリュウガを見た。
「ああ、船を戻したほうがいいな。全員、甲板へ出てヒロインを探す」
 険しい表情で、リュウガが告げる。
 大海の波間に落ちた一人の人間を、探す。
 それがどれだけ大変なことかは、全員よくわかっている。
 船が止まって騒がしいことで、ナギも甲板に出てきて、事態を悟った。
 指示が出る前に、早速碇を引き上げる。
「あ、あの……。いま、こんなカモメ便が…」
 甲板に出てきて事情を知り、船尾に向かったトワが、あわてたように引き返してきて紙をリュウガに渡した。
 トワの肩には、手紙を運んできたカモメがまだとまっている。
 見たリュウガが、口元に笑みを浮かべてシンに紙を渡す。
「トワ、カモメはどの方角から来た?」
「えーと、7時の方向です」
 シンが操舵場へ走り、舵輪を大きく回しながら言う。
「ハヤテ。さっさと見張り台へ戻れ。トワ、帆走方向クロースホールだ。調整しろ」
「あ、はいっ」
 完全な向かい風だと、帆船は前へ進めない。追い風で進んでいた今、7時の方向ならば、向かい風を利用して進めるギリギリの方向。ただし、速度を上げるには帆の調整が必要となる。
 シンに言われて、メインマストの帆の調整に向かうトワ。
 ソウシは既に黙って、フォアマストの帆の調整を始めていた。 
 碇を引き上げたナギも、言われる前にミズンマストの帆の調整を始める。
「今度は寝るなよ? リカー号にヒロインはいるらしいからな。さっさと見つけろ」
 すっかり出遅れたハヤテに、リュウガはそう告げて、もう1枚、調整可能な補助帆がある船首へ向かった。


「あんなへっぽこ航海士しか知らないヒロインは、男から本当に大切に優しく扱われる経験はないはずだ!」
 大声で、主張したロイの言葉に、思わず「そうかも…」と思ってしまったトワとハヤテ。
「そもそも、恋人の心は守るものであって、間違っても傷つけるものではないっ!」
 引き続き主張したロイの言葉に、つい「確かに…」と同意してしまったナギとソウシ。
「束縛して自分に従わせることは愛ではなくて愚かな利己主義だっ!」
 難しい言葉でしめくくるロイの言葉を、「それも一理ある…」と頷いてしまったリュウガ。
「……言いたいことはそれだけか?」
 ロイに銃口を向けたシンが、冷やかに応じた。
「だから、俺様がヒロインに本当の優しさと愛を教えてやって何が悪い」
「余計な御世話だ」
 甲板で洗濯干しをしてたはずのヒロインが、いつの間にか居なくなって半日。
 丁寧にも、カモメ便を飛ばしてきたロイを追って、シリウス一行は向かい風の中驚異的な速さでリカー号に追いつき、船へ乗り込んでいた。
「あの…私は大丈夫ですので…」
 リカー号の甲板に現われたヒロインを見て、シリウス一行が目を見張る。
 清楚なワンピースに淡いメイクをしたヒロインは、いつも以上に可愛らしく魅力的だった。
 けれども。
「……なんだ、その格好は?」
 シンの、この上なく不機嫌な声にヒロインは身を竦める。
「あ、あのー。海へ落ちてしまったのを、ロイさんが助けてくださって…服が濡れてしまったので、ファジーさんが着替えを…」
「そんな怒らなくても、いいじゃないか。あたいがヒロインのために買っておいた服を着せたんだ。ついでにメイクをしてあげたのさ。まったく、素直じゃないねぇ…もうちょっと、褒めるとかできないのかい?」
 ため息交じりに、ファジーはヒロインをシンの目の前に連れてくる。
「カモメ便を飛ばしたのは、あたいさ。ああ書いておけば、あんたは一目散に来るだろ?」
 ムフフフ、と笑ったファジーを睨みつけたシンだったが。
「……行くぞ」
 溜息をついてヒロインの腕を掴むと、さっさとシリウス号へ向かう。
「ああーっ。ヒロインっ! これから俺様が、本当の優しさと愛を教えてやると言っているのにっ」
 後を追いかけたロイの足もとに、銃弾が撃ち込まれた。
「………」
 その、あまりにギリギリの、危険な撃たれ方にロイが声を失った間に、シリウス号はリカー号から離れていく。
ロイを慰めるように、苦笑したファジーがロイの背をたたいていた。


「あの、ごめんなさい」
 頭を下げた可愛らしいヒロインに、優しい笑みを浮かべたリュウガが尋ねる。
「何があった?」
「洗濯干しをしてたら、シーツの影から突然ロイさんが出てきて、驚いて後ろへ逃げたら、海へ落ちてしまって…」
「原因は、ロイか。足の一本くらい、撃ち抜いておくんだったな…。もっとも、ハヤテが眠りこけていなければ、ヒロインが海に落ちることもなかったわけだな?」
 つぶやいたシンと、苦笑するリュウガ。
 ソウシ、ナギの咎めるような視線を受けたハヤテが、大いにうろたえる。
「わ、悪かったよ。気づかねぇで、寝てたよっ」
「……ハヤテは、おやつ抜きだな」
「ああ、おやつの代わりに、ちょうどいい薬があるから、飲みにおいでね?」
「…………」
 声にならない状態のハヤテを笑ったシンは、続きをヒロインに促す。
「そしたら、すぐにロイさんが助けて、小舟に引き上げてくれて…シリウス号に乗り込むために、ロイさんが持ってきた舟だったみたいなんですが…。それから、すぐリカー号について、ロイさんがいろいろと言ってたら、ファジーさんが来て、そのままファジーさんにお世話になってました」
「ということは、すぐにファジーのところへ行ったわけでもないんだ? ヒロインちゃん、大丈夫だった?」
 ソウシの言葉に、ヒロインがきょとん、と顔をあげる。
「大丈夫って?」
「ロイに変なことされなかった?」
 シンの様子を窺いながらのソウシの言葉に、ヒロインは笑顔で答えた。
「別に、変なことはされませんでしたよ? ロイさん、海に落ちたのを助けてくださったときから、とても優しくて、びっくりしたくらいです」
「え? ロイ、優しかったの?」
「はい。風邪をひくといけないからって、髪を絞ってくださったり…。言われる言葉も、なんだか嬉しくなっちゃうくらい優しかったです」
 ナギが、チラと目線だけでシンを見遣る。
「船長、事情確認はもういいですか?」
 無表情で言ったシンに、笑いを噛み殺しながらリュウガが頷いた。
「そうだな。話はわかった。とりあえず、無事で何よりだったな」
 シンが黙ったままヒロインの腕を引いて部屋に向かう。
「シンさん?」
 怒っているのか、呆れているのか、後ろ姿からはどっちともつかないシンの様子に、ヒロインも黙り込む。
「………」
 シンは無言のまま、ヒロインを部屋へ押し込んだ。



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