悋気
「がんばって磨こうねっ!」
元気なヒロインの言葉に、トワは少し目のやり場に困りながら、答えた。
「はい。えっとー。それじゃあ、僕は向こうをやりますので、ヒロインさんは、こっちの方をお願いします。二手に分かれた方が、きっと、早く終わりますよね?」
あえてトワは、ヒロインに背中を向ける形で、甲板を磨き始めた。
なぜなら、やる気満々のヒロインは、腕を肩までまくりあげ、ズボンも太ももまでまくりあげ、素足で水をかけた甲板を四つ這いになって磨き始めたからだった。
露出した手や足も、まあ、多少は問題なのだが、それ以上に大きな問題は、ヒロインが膝と両手を床についた状態にあった。
ヒロインの正面に立つと、実は胸元がかなり奥まで目に入る…という、体勢なのだ。
この事実に、ヒロイン本人が全く気が付いていないのだけれど、トワも何と言ったらよいのか判らず、結果、離れ離れに背中合わせ、という位置関係になったのだった。
たぶん、シンが通りかかれば、何か言ってくれるだろうとトワは思うのに、こういうときに限って、航海室に籠ったままのシンは姿を見せなかった。
「はぁ……」
ため息をついたトワの目の前を、バケツと釣竿を持ったナギが歩いていく。
「っ…」
ナギに警告の声をかけようと思ったトワだが、ヒロインにも聞こえる状況で、気の利いたセリフが浮かばずに、そのまま黙って見送った。
一生懸命甲板の板を磨いているヒロインの後姿を一瞥して、明らかに一瞬、足を止めたナギ。
もしかして、何かヒロインに忠告してくれるのかと一瞬期待したトワだったが、ナギは無口のまま不自然に顔を海へ反らし、ヒロインから離れた場所に座り込んで釣り糸を垂らした。
「やっぱり、ナギさんにも言いにくいですよねえ…」
トワは独り、小さく呟いて、甲板磨きを続けた。
「あれ? いつの間に…」
甲板を磨いていたヒロインは、離れたところでナギが釣り糸を垂らしているのを見つけて、立ち上がった。
軽い足取りで、ナギの傍らに向かう。
「ナギさんっ」
「…なんだ?」
海面に視線を向けたまま、ナギが答えた。
「今日、おやつにヤマトの『すあま』を作ってみようと思うんですけど…」
「わかった。材料出しておいてやる」
「ありがとうございま…」
ヒロインが礼を言い終わるまえに、竿が大きくしなった。
意外と大物が釣れた手ごたえに、ナギが立ち上がり、獲物の動きに合わせて竿を上下左右にゆらす。
「ナギさん、頑張ってっ」
すかさず、傍らで応援するヒロイン。
ナギの竿を掴む腕が凹凸を増し、魚と格闘している様子を、拳を握りしめてヒロインは見守った。
やがて、見事に釣りあげた魚にヒロインは歓声をあげる。
「うっわぁー。大きーいっ! 太くて長いですねっ。ナギさん、すごいです! でも何か、コレ、ぬるぬるしてますね…」
離れたところで甲板を磨いていたトワの耳に、ヒロインの言葉が入ってきた。
一瞬、驚いたように手を止めてナギを見たトワだったが、すぐに首を振って、甲板磨きに戻る。
釣った魚を入れたバケツの中をかがんで覗き込むヒロインを、何気なく見下ろしたナギが、慌てて視線を逸らした。
その気はないのに、モロに見えてしまった服の奥の胸のふくらみ…。
思わず、額を抑えて、溜息をつく。
「ねえねえ、ナギさんっ。この魚は何に料理するんですか?」
無邪気に尋ねてくるヒロインに、ナギは目線を手にした針と釣餌に向けたまま、答える。
「鱗のない、長い魚だから、たぶんアナゴの一種だろ。開いて、蒲焼にでもするか?」
「えっ。蒲焼ですかっ。すごくおいしそうですねー」
再び海中に投じて、背中に感じた気配にチラリとナギが視線を横にすれば、まだ、かがんで蒲焼に調理予定の魚を眺めているヒロイン。
「おい、そんな格好で何してる?」
トワにしてみれば、ようやくなのだが、シンが甲板にやってきて、ヒロインに声をかけた。
「あ、シンさんっ。このお魚、蒲焼になるそうですよ。楽しみですよねっ」
笑顔で振り返ったヒロインを、シンが歩み寄って腕をとり、立たせる。
「お前は、風呂掃除でもしてたのか?」
「いえ、甲板を磨いて…」
「その格好でか?」
シンが、ヒロインが気づかない程度の怒りを纏う。
「はい。膝をついて、丁寧に磨こうと思って…」
「お前の力じゃ、たかが知れてる。大人しく、デッキブラシを使え」
「え? でも、やっぱり、膝をついてゴシゴシとやったほうが、絶対綺麗になると…」
「ちょっと来い」
シンは強引にヒロインを引っ張って航海室へ連れていく。
二人が姿を消すと同時に、シンからあからさまにぶつけられていた目に見えないモノから解放されたナギが、溜息をついた。
「おう。太くてでかいの釣れたって?」
入れ替わるように、リュウガがナギの横に立つ。
「船長?」
「シンと話してたら、ヒロインの声が聞こえてきたからな。シンの野郎、顔色変えて出ていったぞ」
腕を組んで、肩を震わせながら笑うリュウガ。
「?」
なぜ、それほど笑い転げているのかと、訝しげにリュウガを見たナギに、ますます面白そうになった表情が答えた。
「ま、自分の恋人が、『大きくて太くて、ナギさんすごい』とか言ってるの聞こえてきたら、穏やかじゃいられねーよな」
ナギの動きが、ピクリ、と止まった。
「おまけに、『コレ、ぬるぬるしてます』とか言われた日にゃ、な」
まさに笑いの止まらないリュウガ。
「ソウシまで、医務室から顔だして見てたぞ」
「………あり得ませんから」
憮然とした表情で言うナギに、リュウガは肩を叩く。
「ま。それでも、シンにとっては、ナギが最強の脅威ってことなんだろうな。シンに高く評価されてて、良かったな」
「高く評価?」
いきなり何を言い出すのかと、向けられた視線に、リュウガは肩眉をあげた。
「なんだ、ナギも解ってねーのか? 嫉妬ってのは、自分のものが奪われるかもしれないっていう惧れだからな。認めている相手にほど、激しい嫉妬を感じるものなんだよ。お前ら、二人そろってまだまだ青ぃな」
はっはっは、と高く笑いながらリュウガはナギに背中を向け、船長室へ消える。
「………」
釣り糸を吸いこんでいる海面を眺めながら、いろいろな意味を込めて、ナギはため息をついた。
そして、甲板を磨きながら、全てを見聞きしていたトワ。
「…それって…もしかして、僕もシンさんに多少は認めてもらっている…ということなのかな…」
独り、そっと呟いた。
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