累及
朝食で集まった時のことだった。
「おはよう、ヒロインちゃん」
食堂に入ってきたソウシが、にこやかに挨拶をする。
「あ、おはようございます、ソウシ先生」
料理の皿を卓上に並べていたヒロインは、いつものように笑顔で応じた。
「今日も抱きしめたくなるくらい、かわいい笑顔だね」
「あはは…。そんなこと言ってくれるのは、ソウシ先生くらいですよ」
照れたように言葉を返して、ヒロインは厨房に料理の皿を取りに消える。
先にテーブルについていたシンが、チラリとソウシを見た。
「シンも、おはよう」
にっこり笑って挨拶するソウシに、他意は見えない。
「今朝は随分と機嫌がいいんですね」
シンの言葉に、ソウシはいい夢を見れたからね、と答えてテーブルに置かれたメニューに目を落とした。
ソウシが無駄にヒロインを褒めるのは、今に始まったことでもない。
昨日も、ソウシがまるで告白のような褒め言葉をヒロインに言っているのを、たまたま聞いたが…挨拶のようなもの、らしいから、無駄に嫉妬を煽られるのも馬鹿馬鹿しい。
シンは、そう自分に言い聞かせながら、再び皿を運んできたヒロインを見た。
ソウシの褒め言葉が嬉しかったのか、今、厨房へ行っている間にナギに褒められたのか。
どことなく鼻歌が聞こえてきそうだ。
自分以外の男に褒められているのも厭だが、それを喜んでいるのがまた気に食わない。
少しムッとした表情をしたものの、シンは平静を装って朝食を過ごした。
それでも、ささやかな不機嫌は、しっかりとヒロインに伝わったらしい。
時々、様子を覗うように、チラチラと見てくるヒロインにシンも気づいたが、気付かぬふりを続けた。
昼下がり、リュウガに航路の相談をしようと航海室を出たシンの耳に、ソウシとトワの会話が聞こえてきた。
「ソウシ先生は、褒め上手ですよね?」
「褒めるのは、上手というよりも、意識して言うことも重要なんだよ? 特に女の子は、褒めれば褒めただけ、可愛くなるからね。ヒロインちゃん、可愛くなったでしょ?」
「え? そうなんですか? シンさんと相思相愛になったからじゃなくて?」
「あははは。どうだろうね? でも、トワも、少しだけ意識してヒロインちゃんが可愛いって内容を挨拶に入れてごらん?」
「……そんなことしたら、シンさん怒りませんか?」
「自分の恋人が褒められて、怒ったりしないよ。シンはね、言葉より態度や行動ばかりで言うべきことも言ってないだろうから、ヒロインちゃん、些細な言葉でもとっても喜んでくれるよ? ヒロインちゃんが喜ぶことは、やってあげたいと思わない?」
「確かに、ヒロインさんの喜ぶことは…」
シンは不機嫌になりながら、船長室にたどり着く。
扉の中には、なぜかヒロインが居て、シンは驚いた。
「ヒロイン……」
訝しげに、リュウガを見る。
「あ? 古い地図の模写を頼んでただけだぞ?」
シンの視線を解したリュウガは、笑いながら言葉を続ける。それとも、ヒロインに話がある時にはシンの許可か必要なのか、と。
「…いえ……」
不機嫌さをそのままに、答えたシンを少し心配気に見遣るヒロイン。
「ま、そういうことだ。急ぐわけじゃねえが、早めに模写しといてくれ」
いかにも会話の続き、というリュウガの言葉に、シンから視線を外したヒロインは、頷いた。
「はいっ。わかりました。それじゃ、あの…私は、失礼しますね」
シンの様子を気にかけながら立ち上がったヒロインに合わせて、リュウガも立ち上がる。
「おいおい、肝心のもとの地図をまだ渡してねぇぞ」
「あっ…。す、すいませんっ」
リュウガが棚から、端々が劣化した羊皮紙を取り出して、ヒロインに手渡した。
「これだ。崩れやすいから、気を付けて扱えよ」
「はい…。気をつけますっ」
生真面目な返事に、リュウガがフッと笑ってヒロインの頭に手を置く。
「?」
シンの鋭い視線に気づきながら、リュウガはそっと頭を撫でた。
「船長?」
きょとんとしたヒロインが、リュウガを見上げる。
「本当に役立つヤツだな、と思ってな……。頼んだぞ」
「はいっ」
ヒロインが、嬉しそうに笑顔になる。
「えと……。それじゃ、今度こそ、失礼しますね」
リュウガとシンに、嬉しそうな笑顔を向けて、古い地図と新しい羊皮紙を抱えたヒロインが去って行った。
シンは、黙って見送る。
「ご覧の通り、何もしてないぞ?」
リュウガは肩をすくめて、シンを見た。
「頭、撫でてましたけどね…」
「役に立つ船員を褒めただけだ。悪いことじゃない」
「……そうですね」
不機嫌な表情を取り繕うともしないシンに、リュウガは笑いを滲ませる。
「で? 航路に問題があったか?」
それでも、話題を航路にふれば、シンは航海士の顔になって、リュウガに話を始めた。
イライラが治まらない。
リュウガと話し終えたシンは、甲板で乾いた洗濯ものをとりこんでいるヒロインを見つけた。
トワと分担して、それぞれの部屋に運ぶらしい。
ヒロインの横で、トワが少し頬を赤らめながら何か言うと、途端に花が綻んだように照れ笑いをするシンの恋人。
何事にも素直で熱心なトワのことだから、早速、ソウシに言われたことを試してみたに違いなかった。
胸の奥で、チリチリと嫌な痛みが燻ってきて、シンは奥歯を噛んだ。
ソウシのような言葉は、気持ちの入らない演技でもなければ言えない。言いたくない。
先程リュウガと話して決めた航路の変更のため、風向きを確認して、早めに船の速度をあげる必要がある。
帆の向きを調整するために、ビレイピンが並ぶメインマストの近くまで来たとき、今度はソウシの声が聞こえた。
「気をつけてね? でも、そうやって失敗しちゃうヒロインちゃんも、私は大好きだからね?」
「…ありがとうございます。失敗しても好きなんて、本当にソウシさんしか言ってくれませんよ~。シンさんだったら、今、私、絶対、怒られてます」
ソウシの言葉よりも、やたらと実感のこもっているヒロインの返答に、シンは射抜かれたような心地がして、気配を潜めた。
「そうなの? 何事も、たまに失敗するから、いいのにね」
そう言って屈みこんだソウシは、彼女を軽く抱きしめて頬を寄ているようにも見える。
笑顔で、そんなソウシに応じているヒロイン。
「どうもありがとうございました。あ、医務室のものも混じっていますけど、どうします?」
「私の部屋のベッドの上に置いておいてくれるかな?」
「はい、わかりました」
どうして、医務室のものを、ソウシの部屋のベッドなどに届けなければならないのか。
ソウシの部屋へなど行かせない。
そう感じた時には、シンの足がヒロインを追っていた。
ソウシの部屋の扉を開けようとしているヒロインを呼びとめる。
「え? シンさん? 何でしょう?」
洗濯物を抱え持ったヒロインを、持て余したイライラした気分のまま、抱きよせる。
「あ…あの……。シンさん???」
ふわり、とヒロインの香りと微かな石鹸の匂いが鼻腔を刺激して、風呂上がりの恋人を思い起こさせた。
それまでの棘々としていた気持ちが、ふっと和らぐ。
コレハ俺ノモノ。
突然の行動に、ヒロインは訳が分からず、慌てていることに、シンはそこまできて、ようやく気付いた。
優しい言葉はなかなか言えない。けれど、いつでもこうして抱きしめることならできる。
そんな想いが、言葉にしないだけで、カケラも伝わることがない現実。
「おまえ、ドクターと話すと、どうしてそんなに嬉しそうなんだ」
伝わらないもどかしさは、声を無機質に変える。
「どうしてって…褒められれば、嬉しいじゃないですか」
「褒める? あれが? 馬鹿が」
あれで伝わらなかったのなら、いっそのこと、あれは無かった事にしてしまえばいい。
持て余す気持ちは、冷静さや判断力をひどく鈍らせる。
自分の思い通りにならないヒロインを目の前にすると、刹那的な考えが暴走していくことにも、気付けなくなる。
「さっきのドクターの言葉のどこが、褒め言葉なんだ?」
「え? 失敗しても大好きって、褒め言葉ですよね?」
シンの腕から逃れて、振り返ったヒロインが、まっすぐ見返してきた。
軽くからかって手放すつもりが、返された思いがけないまっすぐな言葉で、大きく狂う。
ヒロインの言葉がシンの中で反芻される『大好きは、褒め言葉』。そんな馬鹿な認識がどこにある? ならば、ヒロインがシンに向けて、寄せる波のように繰り返す『だいすき』という音の羅列は何なのか…。確認しないことには、手放せない。
「おまえにとって、『好き』は褒め言葉なんだな?」
「いえ、その、時と場合によるっていうか……」
言い淀むヒロインを、シンは見下ろした。
聞きたかった言葉が、戻ってこない。
気持ちを持て余して、余裕がなくなっている自分に聞かせたい言葉が、目の前の愛しい口から出てこない。
「なるほど。お前が、俺に恥ずかしげもなくぽんぽん言う言葉は、認識が、褒め言葉程度の軽い言葉だったわけか」
ゆっくり、確認するようなシンの口調に、ヒロインが赤くなって俯いた。
『好き』とか『愛している』という言葉は、とても重くて大切で。
たかが挨拶なんかに混ぜられないほどに重要な言葉だから、軽々しく口にしない。言わない。
それほどに大切にして想いを乗せても、まだまだ言葉では収まりきれない想いを伝えるのに不十分で。
触れて、抱きしめて、全身で愛しさを伝えるのに。
受け取る側が、褒め言葉程度の軽い認識でいたら、伝わるはずがない。
シンが伝えているつもりの想いの半分も、届いていない。
「…………」
黙ったまま、シンはヒロインに背を向けて、甲板に引き返し、帆走速度をあげる。
無表情で甲板に戻ってきて、淡々と仕事をすすめるシンを、ソウシが眉をひそめて眺めた。
しきりにため息をつきながら夕食の支度を手伝うヒロインに、ナギは内心、盛大な溜息をついた。
たぶん、昨日辺りからシンがやたらとピリピリしているのと、何か関係があるのだろうと思う。
結局、放置できない自分を自覚して、ナギはどっちみちのろけを聞くことになる心構えをし、ヒロインに話しかけた。
「言ってみろ」
「…え?」
「シンと何かあったんだろ? 見てりゃ判る」
あえて、視線は手元に落としたまま、ナギが切りだす。
「なんか、シンさん怒ってるみたいで、何を言っても相手にしてもらえない感じで…」
「怒らせたのか?」
「たぶん、きっかけは、あの会話のような気もするんですが…」
「どんな会話だ?」
ヒロインが、洗濯物を運んでいる最中の出来事を話す。
「それで、私がシンさんに恥ずかしげもなくぽんぽん言う、とか言われたら、急にものすごく恥ずかしくなっちゃって、私、そんなにいつでも大好きとか言ってたっけ?とか考えていたら、シンさん居なくなっていて…」
「………」
ナギが思わず手を止めて、ヒロインをまじまじと見た。
「言わなかったのか?」
「…え? 何をですか?」
きょとんとしているヒロインを見て、ナギがひどく真剣な表情になる。
「シンがなんて言ったって? もう一回聞いた言葉を言ってみろ」
「えーと…。私が、シンさんに恥ずかしげもなくぽんぽん言う言葉について言ってて、認識が、褒め言葉程度の軽い言葉だったわけか、だったと…」
ナギが悟ったシンの意図に、気付かないヒロイン。
「そう言われて、ヒロイン、お前は、シンに何も答えなかったのか?」
「……なんか恥ずかしくなっちゃって…、何も言えなかったんですけど…」
ナギは、頭がクラクラして抱えたい気分になった。
これはかなり、シンは傷ついたのではないか、と判り過ぎるほどだ。
無口なナギにとっても、自分の感情をさらけ出す『好き』といった言葉は、軽々しく言えない位置にある。
それこそ、挨拶なんかでは使えない。たぶん、シンもそうだ。
軽々しく言えないから、言う時には、精一杯の想いを込める。たぶん、シンも同じだ。
そうして大切にしている言葉が軽い褒め言葉程度にしか受け取られていないとしたら……。
「……。シンに言葉で言われただけか?」
「へ?」
「シンは、立って、何もせずに、会話してただけか?」
もう一点、ナギは確認しておきたいことがあった。
「あ、そういえば、後ろから急に抱きしめられて、びっくりしました」
「………」
ますますもって、最悪だとナギはシンを憐れんだ。
「ナギさん?」
黙りこんだナギを、心配そうにヒロインが覗き込む。
「あのー。私、そんなにマズイことしました?」
さて、どう話してやったらいいものかと、ナギは手を止めたまま、考え込んだ。
「シン、ちょっと話そうか?」
「別にドクターと話すことはありませんから」
チラリ、と一別して去ろうとするシンの腕を、ソウシが掴んだ。
「今のシンには、治療が必要だからね。医務室へ行こうか」
「治療?」
振り払おうとするシンの肘の関節を捕らえたままのソウシが、にっこりと笑って、ひきずるように医務室へシンを連れ込んだ。抗いかけ、労力の無駄を悟ったシンが、大人しく同行する。
「ヒロインちゃんと何があったの?」
「ドクターには関係ありません」
関節を捕えているソウシの手を、シンが外そうとする。
「残念ながら、関係あるんだよ。どう考えても、目論みと反対の結果が出ているからね。これじゃあ、ヒロインちゃんに申し訳なくて、話もできない」
「………」
医務室の中で、向かい合って立ったまま、シンが、静かにソウシを睨みつけた。
ほぼ同じ身長の二人は、目の位置もほぼ並行で合う。
「だから、シンがヒロインちゃんを怒るのは、間違っていてね……」
「もう、その件とは関係ありませんから」
ソウシが、すいっと視線を反らしたシンを覗うように見る。
一向に解放されない掴まれた腕に視線を移したシンが、渋々、言葉を続けた。
「俺の前で散々ヒロインを褒めて、トワにも褒め言葉を言わせて…俺にもヒロインを褒めさせようってことですか? 確かに引っ掛かりかけましたけどね…」
「………原因は、それだよね?」
「とにかく、それはもう関係なくなりましたから。ドクター、いい加減に離してください」
一向にソウシと視線を合わせようとしないシンに、ソウシは困ったなぁ、と呟いて肘の関節を捕える腕に力を込めた。
「…っ」
シンが眉をひそめる。
「あのねぇ、私が何を言ってもそれは『褒め言葉』だからと、ヒロインちゃんにしっかり言い含めておいたのは、シン、気づいてる?」
「……………」
「ほら。そこまで気付いていなかったでしょ?」
「……………」
「だからね、シンが何を言っても、ヒロインちゃんは、私の言葉は褒め言葉だと言い張ったはずなんだよ」
それは、褒め言葉にかこつけてヒロインにどんな言葉でも言ってしまえる仕掛けではあったが。
それが及ぼす弊害までは細かく考えに入れていなかった。
シンが、そこまで話を聞いて、大きなため息をついた。
伝えておくべきことが無事に伝わったことを確認して、ソウシはずっと捕えていたシンの関節を手放す。
掴まれていた肘をさすりながら、掌を開いたり握ったり繰り返す憮然とした表情のシンが、不意に。
無造作に握った拳を薙ぎ払った。
握りしめたシンの手の甲を頬で受け止めたソウシが、一歩後ろへ退いて、苦笑する。
「痛いなぁ……気が済んだ?」
「済むわけがないでしょう」
ソウシを殴った手の甲をさすりながら、シンが無表情で答える。
「湿布いる?」
「いりません」
不意をついての報復は、成功したものの、大した力は込められなかった。もっとも、単にソウシが避けなかっただけのような気もする。
「これに反省して、少しは自重していただけると助かるんですけどね」
「あははは……」
笑顔のソウシに背を向けて、シンは医務室を後にした。
シンが居なくなった医務室で、ソウシが頬を抑えて呟く。
「まあ、今回はね。随分、シンの心を傷つけちゃったみたいだしね…」
そこまでするつもりはなかったんだけどな……と、船医はため息をついた。
「あのー、シンさん……」
「なんだ?」
厨房でナギの手伝いをしているはずのヒロインが航海室へやってきて、シンはナギに何を入れ知恵されてきたのかと、入口を見た。
先ほどまで、無視している状態だったシンが反応したことに、やたら嬉しそうなヒロイン。
「えーと…その……。違いますから」
説明も何もかも省略しすぎた要件のみの言葉に、思わず、噴き出す。
「シンさん?」
「馬鹿か、お前は。そんな言葉で意味が伝わるのは、俺くらいなものだぞ」
ほっとしたような表情のヒロインが、シンの手招きに誘われて椅子の横へやってくる。
椅子に座ったままのシンが、身体を向けて傍らに立つヒロイン見上げた。
「まったく…。ドクターにそそのかされて、つまらないことするんじゃない」
「……ごめんなさい…」
いつものようにヒロインが俯いて下を向いても、その先にシンがいる。
「なんて言われたかった?」
「え?」
俯いているヒロインを、シンは座ったまま下から意地悪く覗き込む。
「えっと…その…」
「俺からどんな言葉が欲しかったか、正直に言ってみろ。そしたら許してやる」
覗きこんで見上げているシンの目は、睨んでいるようにも見える。
「その……。えっと…」
「そうやって言い淀んでいるお前は、もっと苛めてやりたくなるくらい、可愛い。まあ、俺の下で恥ずかしがっているお前が、一番可愛いけどな。たまには、こうして見上げるのも悪くない」
ニヤリ、と笑ったシンの言葉に、ヒロインが目を瞠った。
「まあ、夕食前だからな。苛めるのは、寝る時まで待っててやる。さっさと、厨房の手伝いに戻れ」
シンが視線と身体を海図に戻して、ペンを執った。
「…はい」
ヒロインが、耳まで真っ赤にして、航海室を出ていった。
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18歳以上の大人です