苦難
ある宝の情報を求めて立ち寄った港。
四泊五日で宿に泊まることになった初日の夜だった。
宿の自室に戻ったナギは、ベッドに座り込んで、暗闇を見据えていた。
背中を丸め、腿に肘をついて、考え込むように手を合わせる。
シン達の隣の部屋になった時点で、覚悟はしていたはずだった。
背中を向けた壁の向こうから、物音が聞こえてくる。
物音だけで、隣の部屋で何が為されているか、嫌でも判ってしまう。
今、隣にいるシンとヒロインは恋人同士なのだから、一緒の部屋に泊まって、その部屋の中でお互いの愛を確かめ合っていたとしても、文句は言えない。
自分が断ち切れない想いを寄せている相手が、既に幾度もシンに抱かれていることは当然知っている。
けれども。
物音に次第に甘い声が混じるようになってくると、勝手に身体が疼いてくる。
想いを寄せる女の、甘やかな声を聞いて、何も感じないはずがない。
睨むように暗闇を見据えているナギの表情にも、どこか雄の色が漂い始める。
「………」
いま、あいつはどんな顔しているんだろう。
そんな疑問が浮かんできてしまうのを、理性で抑えつけ、静かに、微動だにせず待つ。
どこか欲望が入り混じった視線で闇を見つめる彫像のように。
衣服が擦れる微かな刺激も許さず、身に降りかかる恐ろしいほどの誘惑が通り過ぎるのを。
自らの動きを禁じること以外に何もできずに。
壁を通した声が、ますます甘味を帯びて、高くなる。
耳を塞げばいいのだろうが、それは自尊心が許さない。
逆に、聞こえてくる物音を愉しんでしまえばいいのだろうが、それも自尊心が許さない。
どちらの行動も選べずに、じっと、身体と心を留める。
止まったままのナギは、呼吸をしているかどうかも怪しい。
苦しいのは、この状況なのか、それとも呼吸が止まっているためなのか。
まるで永遠に続くかに思われた時だったが、ひときわ高い嬌声とともに、終わりを告げる。
ナギが、はぁーっと、長いため息をついた。
ある宝の情報を求めて立ち寄った港。
四泊五日で宿に泊まることになった二日目の夜だった。
うとうと眠りかけていたナギは、壁の向こうで始まった恋人達の営みに、舌打ちした。
ベッドに身を横たえて、固く目を閉じて眠りにつこうとする。
その姿は、何かに祈っているようにも見える。
目を閉じたナギの脳裏に、昼間の出来事が甦る。
今朝会ったヒロインの首筋には、シンが残した印があって、ナギは自分の巻いていたバンダナをヒロインに渡した。
ヒロインは赤くなって、礼を言って受け取り、一日中ナギのバンダナを身に付けていたはずだ。
あのバンダナは、まだ戻ってこない。
もしかしたら、今頃、シンの手によって、解かれているのかもしれない。
きっと、シンにしてみたら、一日中ナギのバンダナを身に付けているヒロインなんて、面白くないはずだ。
けれども、そんなことには頓着せずにいたであろうヒロイン。
だからだろうか。
聞こえてくるヒロインは、しきりに「嫌」という単語を連発している。
ナギとて、それが、シンを拒んでいる言葉とは違うことは判る。
おそらくは、恥ずかしい、という意味で使っているのだろう、と。
「っ……」
やたらと声だけ鮮明に聞こえてくるせいで、煽られていく自分を戒めるように、ナギは唇をかんだ。
うす暗い中で、どうしても目を閉じたままでいられず、正面の暗闇を睨みつける。
今になって、さも耐えきれないというように部屋を出て階下の酒場へ行くのは、癪に障る。
しらんぷりをして眠ってしまうには、聞こえる音が生々しすぎる。
今夜も、苦悶の時間が訪れたことに対するあきらめと、この程度で堕ちたりしないという理性を宿した瞳で、ナギはゆっくり息を吐き出す。
いつしか、ヒロインの声はこの上なく甘く響いている。好きな女の甘い声だ。嫌でもいろいろ浮かんでしまう。
ナギは今日買ったばかりの煙草を手に取ると身を起こし、窓辺へ移動し、窓を開けて外の空気を吸う。
夜気が体内に燻り続ける本能を宥めてくれる気がした。
窓辺まで来れば、漏れ伝わる声も遠のく。
聞こえない、とまではいかないが、幾分マシだ。
紫の煙が、夜空に広がっていくのを、ナギは黙って眺めた。
ある宝の情報を求めて立ち寄った港。
四泊五日で宿に泊まることになった三日目の夜だった。
静かな隣に安堵しつつ、ナギは立ち寄った書店で手に入れた珍しい料理のレシピを眺めていた。
まだ、隣は無人。
シンとヒロインが、夕方、仲良く二人で出掛けて行ったのは、知っている。
どこへ行ったか知らないが、ヒロインがすごく嬉しそうに、眩しく笑っていたのは、目が離せなくてよく覚えている。
そんなナギの視線を牽制するように、攻撃的な気配をチラリと見せたシンに、ナギは今更ながら苦笑する。
静かな夜。
ここ二日間の寝不足もあって、ナギは前日よりずっと早めにベッドに横になった。
穏やかな眠りに落ちていく。
真横から、拗ねて怒っているようなヒロインの声が聞こえた。
珍しい…とナギは思う。
ヒロインが怒りを表すことは、あまり見た記憶がない。
いつも能天気に、明るく笑っているのに、どうしたんだ…と、何か言葉に憤りをのせているヒロインに手を伸ばす。
ダンッ…と。
自分が触れていた壁に何か打ちつける音がして、ナギは、弾かれたように起き上がった。
「…いい加減にしろっ」
少し押し殺したシンの声が、壁のすぐ向こうから聞こえる。
ヒロインがすすり泣いている声が、壁を通して響いてくる。
足音…シンが、部屋を出ていく音がした。
壁一枚向こうで、おそらく、壁にもたれるか寄りかかるようにして、ヒロインが泣いている。
誰にも慰めてもらえずに、一人で泣いている。そう察すると、ナギも身を起こして壁に背を預けた。少しでもそばにいてやりたくて。
「ヒロイン……」
泣き声が響いてくる壁に背中を預けたまま、ナギは小さく呟いた。
すぐそばで嗚咽する声に、今すぐにでも抱き締めてやりたい衝動が身体を駆け巡る。
実際にそんなことをしたら、抱きしめるだけで済まない事は、重々承知している。ここに壁があってよかった。
ナギは、きつく目を閉じて隣の部屋へ行こうとする身を戒める。
「……泣くな……頼むから、泣くな…」
声を殺して、ナギはそっと囁く。願うように、慰めるように、何度も囁く。
ヒロインに聞こえないように。
「泣くんじゃねーよ……」
切ない願いのようなナギの囁きは、壁を超えることなく全て部屋に留まるはずだった。
「……ナ…ギ…さん?」
壁に耳でも寄せて泣いていたのか、届いてしまった言葉に、ナギは苦笑する。
「……うるせぇっ。泣くんじゃねぇ……寝れねぇ」
心外に伝わってしまった戸惑いと喜びを隠して、怒ったように声を発するのが精いっぱいだった。
「……ごめ…ん、なさい…」
ヒロインの泣き声が止む。こんな泣き止ませ方は、心外だった。できれば寄り添ってやりたいけど。
壁の近くにまだヒロインの気配があることを感じながら、ナギは壁に背を預けて目を閉じた。
ある宝の情報を求めて立ち寄った港。
四泊五日で宿に泊まることになった最後の夜だった。
ナギは部屋へ戻らずに、酒場で独り、グラスを傾けていた。
昨日、トラブルがあったシンとヒロイン。
昼間ナギはヒロインの話を聞いてやり、仲直りする方向へヒロインをしむけた。
状況から、効果的な苦言を、シンへ呈してある。
早々に二人が仲直りする確信はある。
今夜は、昨夜のことも併せて、二人がより睦まじい一夜を過ごすことは、想像に難くない。
自分で意図的に創った状況でありながら、グラスを傾けるナギの表情は暗い。
飲んでも飲んでも、アルコールはどこかに消えてしまうようで、一向に酔える気配がない。
「そんなんじゃ、酔えねーだろ」
隣に、珍しく独りのリュウガが座った。
「………」
ナギは、視線をグラスに落としたまま、黙して応じる。
「ったく……なんて顔してやがる?」
「………」
黙ったままグラスを傾けるナギに、リュウガが苦笑する。
「ナギ、ちょっと付き合え」
ナギからグラスを取り上げると、外へ出るように促すリュウガ。
「…娼館なら行きませんよ」
ぽつりと言ったナギに、苦笑しきりのリュウガは腕を組んで、更に誘った。
「なんでお前らは、揃いも揃って、俺が誘う場所は娼館だと決め付けるんだか…娼館じゃねーよ、いいから、来いや。おまえじゃないと、意味がねーんだよ」
しぶしぶ、ナギはリュウガに続いて店を出る。
娼館が立ち並ぶ通りにやってきて、ますます胡乱気な眼差しを投げかけるナギに、リュウガは「違うって」と嗤いながら、帽子と肩に羽織っているコートを外し、抱え持った。
それだけで、不思議なほどにリュウガの印象が地味になる。
「ここだ」
通りの奥にひっそりと佇む飲食店は、他の客もなく、年老いた店主が独りいるだけだった。
「じいさん、久しぶりだな」
店に入るリュウガの声音も、いつもと雰囲気が違い、どこか地味だ。
「………若造か? 見違えたな?」
昔馴染みらしい店主が目を細めた。
「店、閉めるんだって?」
「聞いたのか? いつこの街へ戻ってきていた?」
「四日ばかり前だよ。明日には発つんだが、最後に、じいさんの味、覚えとこうと思ってな」
リュウガと店主との会話から、ナギは自分じゃないと意味がない、と言われた理由を悟った。
「ナギ、このじいさんはヤマトの出身でな、モツ二という料理が絶品なんだよ」
目の前に出された煮込み料理は、奥深い複雑な味付けをされている。
とろけるように柔らかな内蔵肉。舌に残る辛味と野菜の甘み。
ナギの意識は、心に巣くっていたやりきれない想いを打ち捨てて、一気に調理法や利用した調味料への興味へ向かう。
「じいさん、使われた材料全部当てたら、この店の料理のレシピ全部くれてやってもいいって、言ってたよな?」
リュウガの言葉に、店主は大笑いする。
「えらく昔の話を覚えてるもんだ。材料を全部当てた奴はこの十数年、ひとりもいなかったぞ」
「コイツ、当てるぜ?」
「ほう? できたら、料理レシピに、この店にあるヤマトの酒を全部つけてくれてやるさ」
できるものならやってみろ、と笑う店主は、ひどく嬉しそうにリュウガを見返した。
「……よし、乗った。ナギ、頼んだぞ」
「………材料は、調味料も含めて?」
ナギの言葉に、店主は当然と頷く。
「さすがに、調味料の産地までは言わんでいいぞ。若造にゃ無理だろ」
「豚の腸肉と、玉ねぎ、大根、長ネギ…みりんじゃなくて、ヤマトの辛口の酒を使って……味噌、砂糖…昆布出汁いや、椎茸との合わせ出汁……唐辛子と…」
「ほう? ヤマトの食材を知ってる男か。若造、面白い男を連れてきたな?」
料理をもう一度味わい、考え込むナギと、嬉しそうな店主を眺めて、リュウガは密かに微笑した。
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18歳以上の大人です