微熱



「なんだ?」
 海図を上を走らせていたペンを止めて、シンがヒロインを見た。
航海室の掃除をしていたヒロインが、手を止めてシンを頻繁に見遣るのだ。
どことなく気遣わしげに。
「あ…いえ、なんでもありません…」
「なら、掃除に集中しろ」
 視線を海図に戻して、シンは舌打ちした。
自分が計算ミスをしたことに気づいたからだった。きっと、ヒロインに気を取られていたからだろう。ありえないようなケアレスミス。
 修正する手元に、再び視線を感じる。
「ヒロイン…」
「はい、何でしょう?」
「掃除は後でいいから、出てけ」
「え?」
「気が散る」
「ええっ?」
 ヒロインが掃除にやってきてからの短い間に、つまらないミスは、これで二度目。
シンは我ながら、何をやっているのかと、思わざるをえない。
「あの…邪魔しないので、ここで見ていちゃだめですか?」
「そもそも、そこにいるのが邪魔だ」
 ヒロインの視線を感じるたびに、どことなく調子が狂う。
これが、想い慕うような熱い視線ならともかく、ヒロインが今朝からシンに向けてくる視線は、色気のかけらもない。
 それなのに、今日に限って、何故か集中力が乱れる。
「……わかりました」
 ひどく淋しげに、ヒロインが部屋を出ていく。
 シンは、もう一度海図に向き直った。
 甲板からハヤテの声が聞こえてくる。
ヒロインの声が聞こえてくる。
「…………」
 失われた集中力は戻って来なかった。


 シンに航海室を追い出されたヒロインを見たハヤテが、声をかけた。
「おっ。ちょーどいい人手みっけ。ヒロイン、ちょっとこっち来いよ」
「ハヤテさん?」
 呼ばれるままにハヤテのところへ行くと、トワが広げた予備帆用のキャンバス布に、ラバーやパーム、フィッドなどの道具を使って、金属製の留め輪を縫いつけている。
「あれ? 帆の修理ですか?」
「違いますよ、ヒロインさん」
 確かに、キャンパス布は、帆にするには小さ過ぎる。ベッドに敷くシーツよりも少し小さいかもしれない。
「ヒロインさんも、反対側、手伝ってもらっていいですか?」
「いいけど。どうするの?」
「きっと、気に入ると思います」
 トワがにっこり笑うと、ハヤテも機嫌良さそうにロープを何本か長さをそろえて切った。そして、トワの縫いつけた留め輪にロープを通していく。
 ヒロインも、トワのを真似して、反対側に留め輪を縫いつけた。
「やっぱさー、人手が多いと速いよなー」
 留め輪に通したロープを、まとめて組み、縛りながら、ハヤテが言った。
「あのー…何ができるんですか?」
 手伝いながらも、ヒロインは自分が何を作っているのか、まだ分からずにいる。
「一番最初は、ヒロインに譲ってやるよ」
 ハヤテがロープの先をフォアマストの一番下の帆を巻きとるブームに括りつけた。
 キャンバス布にかなりの余裕を持たせながら、トワが反対側をフォアマストに括りつける。
「よし、ほら、乗ってみろよ」
「こ…これは…」
「ハンモックです。あ、気を付けてくださいね。特に乗る時は、バランス崩すとひっくり返りますから…」
 トワが、説明してくれたが…。
「ど、どうやって乗ればいいの?」
 ヒロインが、胸の高さで揺れる布を見て、二人に聞く。
「あ、そうか。初めてだと、1人で乗るのは難しいかもしれませんね。まってください、何か、踏み台になるようなもの…」
 トワが急いで辺りを見回すと、ハヤテが言った。
「あーもー。めんどくせーし、乗せてやるよ」
「へ?」
 ふわり、と横に抱きあげられたヒロインが、唖然とした一瞬で、キャンパス布の上に置かれる。
「…れ?」
「なんだよ?」
「いえ。あれがとうございます…というか、なんか…」
 ふわふわ、ゆらゆらとした感覚はとても不安定で、身体を起こせない。
「気持ちいいだろ?」
「いや…なんか、ちょっと怖いというか…」
「大丈夫ですよ。しっかり作ったから、二人くらい乗ってもびくともしないと思います」
「えーと、そういう怖いではなくて…ど、どうやって下りればいいですか?」
 ゆらゆらと不安定な布の中は、身体を起こしただけで、ひっくり返ってしまうような気がする。
 馴れないせいか、ハヤテとトワに注目されているせいか、なんとなく心もとなくて、すぐに降りたくなってしまう。
「ふつーに、降りればいーじゃん」
「ふ、普通?」
 ヒロインは、何をどうすればいいか分からず困ってしまった。と。
「とれぇなぁ、もう。ほら、おろしてやるよ」
 ハヤテがヒロインの腕を引いた。
「きゃわわわっっ」
 中途半端に腕を引く手が止まり、落ちそうになったヒロインが、必死にハヤテの腕にすがりついた。
「…なんだよっ」
 ハヤテの肩に、シンの手が置かれている。
「…勝手に、人の女に触るな」
「一人じゃ降りれないみたいだから、降りるの手伝ってやってるだけだろ」
「お前も、いつまでもハヤテにくっついてないで、さっさと降りろ。足から降りれば大丈夫だ」
 シンの声に、強い怒りを感じたヒロインが、片手をハヤテの腕に置いたまま、おそるおそる足を布から出して…ひっくり返りそうになりながら脱出した。
「トワ、さっさとブームに括ったロープを外せ。これじゃ、帆の向きが変えられないだろう」
「あっ、す、すいませんっっ」
 これは怒っているな、とよく判るシンの言葉に、慌てて、トワがロープを外し始める。
「せっかく作ったのに」
 抗議したハヤテを、シンが睨みつけた。
「相変わらずの馬鹿が。馬鹿すぎて、救いようがないな。場所を考えるくらいの知恵すら、皆無だろ。俺がいなかったら、お前は船を何回沈めていることになっているか、自覚もできないのか」
「…なっ…」
 肩を怒らせたハヤテと、ヒロインを一瞥し、黙って背を向けて舵へ向かうシン。
「あれ?」
 もっといろいろと怒鳴られると覚悟したヒロインが、拍子ぬけしてシンの背中を見つめた。
「シン…さん?」
 朝からずっと、ヒロインの心にひっかかる、シンへの違和感。
「やっぱり…シンさん、今日、おかしい……」
「はあ? 何言ってんだよ、いつも通りじゃん。嫌味で感じ悪りぃし」
「いえ…いつもなら、もっと怒っていろいろ言いませんか?」
「今、ボロくそ言ってたじゃん」
 ヒロインの感じる違和感。解してくれる仲間はいないが…。
「よし、トワ。ぜってー、シンが文句言えないとこに、このハンモックつけ直そうぜ」
 めげないハヤテが、甲板を見渡した。


 午後の穏やかな時間。
 厨房でチーズクッキーを焼いたヒロインが、シンを探していた。
 クッキーを焼く頃から食堂でトランプをはじめていたハヤテとトワは、ナギも誘ってヒロインのクッキーをつまみながら興じはじめた。
 部屋にも航海室にも、操舵甲板にも、シンの姿はない。
 ヒロインは船長室へ向かった。
「すいません、船長」
「なんだ? ヒロインか。どうした?」
「シンさん、来てますか?」
「いや…そういえば、昼過ぎから見てねぇな」
 船長の分のクッキーを渡して、ヒロインは医務室へ向かったが、やはりシンは居なかった。ソウシもいない。
「シャワーかなぁ…」
 物音の聞こえないシャワー室の扉を開ける。
「あっ、ごめんなさい」
 人影が見えて、慌てて扉を閉めると、すぐにソウシが顔をのぞかせた。
「ヒロインちゃん? 大丈夫だよ。掃除していただけだから」
「なんだ。そうだったんですか。シンさん、見ませんでしたか?」
「さあ…昼過ぎから見てないけど」
 ソウシにもクッキーを渡して、ヒロインは倉庫へ向かう。やはり、シンの姿はなかった。
「どこだろ…まさか、見張り台とか…」
 甲板に出て、メインマストを見上げる。見張り台にも人影は見えない。
「シンさん、どこいったんだろ…」
 一応、見張り台近くまで上りかけていたヒロインが、下を見下ろしてふと眼を留めた。
「え? ウソ…?」
 急いで下りて、フォアマストに向かう。
 シンに文句を言われない場所と、トワとハヤテがマストの左右のシュラウドにつないで設置したハンモック。その中に、シンが眠っていた。
「シンさん?」
 ヒロインの呼びかけに、はっと、目を覚ましたシンが、きまり悪そうに身を起こした。
「…お前だけか?」
「どうしたんですか、こんなところで…」
「なんでもない…」
 シンが、急いでハンモックから下りる。
「…もしかして、試したら眠っちゃったとか…あるわけないですよね」
「………」
 ヒロインは冗談で言ったつもりだったが。
「?」
「………」
「まさか?」
「……チッ」
「ほら、シンさん、調子悪かったから。ゆっくりお昼寝できて、よかったですね」
「……まったく。微熱程度で、なんともなかったはずなのに」
「あ、やっぱり」
 ジロリ、とシンがヒロインを見た。
「いつから気づいてた?」
「何をですか?」  
シンの体調が少し悪いことか、それともハンモックで眠っていることか。
「……いや、もういい。お前、しゃべるなよ?」
「シンさんが熱あって具合悪かったから、つい、トワくんとハヤテさんが作ったハンモックで眠ってしまったことなら、言いませんよ…いたっ!」
 ヒロインが、おでこを抑える。
「その口、何で塞いでほしい? ロープか? 猿轡か?」
「どっちも嫌で…んっ」
 キスに言葉を奪われる。
「口止め料だ」
 ニヤリ、と笑ったシンに、ヒロインは頬を赤くした。



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