呼名
「よーし、明日は全員、呼び捨ての日にする」
夕食を食べている時、突然リュウガが言った。
「呼び捨て?」
ハヤテが、怪訝な顔をした。
「おう。船内に新たな風を吹き込んでみようと思ってな。明日は全員、それぞれを名前で呼び合え」
「名前でって、リュウガ、とかハヤテ、とか?」
ソウシが笑いながら確認する。
「そういうことだ。特に、ヒロインとトワ。明日は、『さん』だの『先生』だの『船長』は禁止だ。気をつけろよ」
「えええーっ」
早速トワが、呼び捨てなんてできないかもしれないと、悩みはじめた。
「『ドクター』も禁止ですか?」
シンがリュウガに確認する。
「ああ。名前の呼び捨て以外は禁止だ。シン、『お前』も使うなよ?」
リュウガがニヤリと笑う。
「あははは。明日は、みんなに名前で呼び捨てにされるんだ。面白そうだね。じゃあ、私をうっかり呼び捨てし損ねた人には、薬の実験体になってもらおう」
リュウガの提案に、面白がって便乗することをソウシが宣言する。
「げっ…。実験体かよ…。おい、トワ、がんばれよ」
ハヤテが、トワの背中をたたいた。
「人の心配より、ハヤテ、『ナギ兄』も禁止だからな」
リュウガが釘をさした。
「あ、おはようございます、ナギさ…」
厨房にやってきたヒロインが、不意に言葉を切り、ナギは苦笑した。
「ほら。こっちの人参、みじん切りにしろ」
「はい、わかりました」
ヒロインの包丁が、トントントントンとリズムを刻みだす。
「なんだか、もう、私、朝からすごく変な感じなんですけど…」
「そうか?」
「シンさ…に、朝からあんなに名前呼ばれたの初めてです」
「?」
「だって、話す言葉の最初か最後に、必ず名前呼ばれるんですよ? なんか、うれしいけど、ものすごくやりにくくて…」
食堂に珍しくソウシが現われる。
「おはよう、ナギ、ヒロイン」
「あ、おはようございます、ソウシせ……」
ヒロインが慌てて言葉を切る。
「ん? 何? せ?」
「…せ…せいがでますね、朝から」
慌てて、不自然にヒロインが言葉を続けた。
「おしい。ギリギリセーフかな。まだ、誰も実験体にならないんだよね」
「………」
いつもの無口な反応のナギ。
「まあ、今日はまだまだ始まったばかりだものね」
くすくすと笑いながら、ソウシは食堂を出ていく。
「な、なんか、今日は気が抜けませんね、ナギさ…」
「プッ……。気が抜けないと言った先から、余計な言葉ついてるぞ」
「あ、す、すいません」
ヒロインのこの調子だと、シンも随分朝から楽しかったのではないかと、ナギには容易に推測できる。
朝食が始まると、機嫌のいいシンは、口許に薄笑いを浮かべたまま絶好調だった。
「ヒロイン、そこのパン取ってくれ」
「はい、シンさ…」
「ん? 審査が何だ?」
「…どうぞ、パンです、…シン…」
「ヒロイン、食事が終わったら、どうする予定だ?」
「え? いつものとおりですよ。ナギさ…」
「渚がどうした?」
「いえ…その、ナギの手伝いをして、ソウシの手伝いをしたあとで、航海室へ行けばいいですか?」
笑いながら、ソウシが二人の会話に加わる。
「ヒロイン。今日は独りで医務室の掃除しておいてくれる? 私はトワと甲板で作業する予定なんだ」
「あ、はい、わかりましたソウ…シ…」
「ヒロイン、馬鹿だな。変なところで切ると、実験体にされるぞ。あの男はソウシ、だ。ちゃんと覚えておけ」
「お、覚えてます。馬鹿にしないでください、シ…シン」
「指針? なんのことだ?」
「相変わらず、シンは意地悪だね、ヒロイン。私は、そんな意地悪しないから大丈夫だよ? 安心して名前呼んでね」
「あ、はい…」
「ヒロインは気を抜くとあっという間に実験体になるのが目に見えているからな。医務室の掃除が終わったら、ソウシにできるだけ会わないように航海室へ来い」
「こらこら、シン。そういう入れ知恵を堂々とされると、私もわざわざヒロインに会いに行っちゃうかもしれないよ?」
「ソウシ、ヒロインに用もないのに会うのはやめてください」
「はははははは。朝から、楽しんでるな。いやあ、シンの言葉は、具体的に名前が入ると、随分印象が違うだろ、ヒロイン」
リュウガが、笑いながらヒロインの肩に腕を回した。
頷いたヒロインを無視して、シンが即座に応じる。
「リュウガ、勝手にヒロインに触らないでください」
「なんていうかさ…シンの言動って……こんなだったっけ?」
ハヤテが目をぱちくりさせて、シンとヒロインを見る。
「具体名が入ったから、判り易くなっただけだろ」
まあ、意図的に言ってる言葉も随分とあるが…と内心付け足しつつ、ナギは苦笑した。
昼も過ぎて午後になると、トワやヒロインも呼び捨てに馴れたようだった。
「ヒロイン、乾いた洗濯物、取り込むので、たたんでもらっていいですか?」
「いいよ。配るのも私がやるからね? トワ」
「あ、はい。よろしくおねがいします」
甲板で、にこやかに交わされる会話。
「ヒロイン、足下気をつけろ。そこに釣り餌おいてあるから、蹴るんじゃねーぞ」
「あ、はい。大丈夫です、ナギ」
船長室から出てきたリュウガが加わる。
「なんだ。半日で、随分と違和感なくなったな、ヒロイン」
「せん…リュウガっ。ヤダ、それ、たたんでいる最中なのに、踏まないでくださいよ」
「川柳が?」
「リュウガ。……シン、みたいなことしないでください」
なんだかんだで、いつも以上に皆がヒロインをかまっている。
たとえ、ゲームのようなお遊びでも、ヒロインから親しげな名前で呼ばれるのは、誰もが悪い気がしないのだから、当然といえば当然なのだ。
唯一、シンだけは、ヒロインが馴れて話すようになるのと比例して、不機嫌さを増しているようだった。
「あのさ、ヒロイン」
今度は、ハヤテがヒロインに話しかける。
「なんでしょう?」
「それ、それだよ」
「は?」
「朝から、すっげえ違和感あったんだけどよ。やっぱ、名前呼び捨てで丁寧語がいけねーんだよ」
「ま、それもそうだな」
リュウガがハヤテの言葉に同意する。
「よし、ヒロインとトワ、呼び名にあわせて、その丁寧語もやめろ」
「えっ、えええーっ。でも、急にそんな…」
「ナギにはそこで聞こえてるし、ソウシとシンにも、伝えておくから、まあ、遠慮するな」
「え、遠慮って…」
「だめだよ、リュウガ。そんなにハードル高くしたら、二人とも話さなくなっちゃうよ」
いつの間にかソウシがやってきて、リュウガを嗜めた。
「えー、せっかくだから、もっとくだけた感じにしたほうがいーじゃねーか」
不満げに言ったハヤテを、ソウシが覗き込む。
「な、なんだよ」
「ハヤテ、嬉しいのは判るけど、あまり面白がってヒロインをいじめちゃだめだよ? これは、ゲームなんだから、勘違いしないようにね? ヒロインはハヤテのものじゃないよね?」
どことなく恐ろしげな雰囲気のソウシに、ハヤテは後ずさり、目を泳がせる。
「あ、そ、そーだ。風呂そうじの当番だった」
一目散にハヤテは逃げていく。
「ソウシ、お前が怒ることかよ? シンならまだ判るが…」
ため息をついたリュウガが、トワとヒロインを見下ろした。
「ま、要は、今日くらいそんなに遠慮するなってことだ。俺らを呼び捨てにして好きなこと言えるのを楽しめ。無理するこたねーけどな」
リュウガが語っている最中に、ナギの竿に、手ごたえがくる。
「おい、トワ、手伝え」
「あ、はいっ」
いつになく、竿がしなっていた。
「何? 大物?」
ナギが引く竿の先をソウシが眺めて、ニコリとする。
「釣れたら、たまには私が料理してみようかな?」
「ドクターが?」
「え………」
動きが止まるトワ。
「………っ」
ナギが、はっとして口に手をやった影響で、竿が海に落ちた。
「ナギ。フフフ。ちょっと医務室へおいで」
にこにこにこにこにこ……。
「はっはっはっ。ソウシは油断大敵だな。まあ、殺されることはないから大丈夫だ、ナギ」
リュウガが爆笑した。
「大丈夫ですか?」
夕食の準備を手伝っているヒロインが、欠伸を繰り返すナギを気遣った。
「くそっ…眠ぃ……」
ソウシいわく、効果は一時間の睡眠薬だったが……実際のところナギは三時間眠り続け、目覚めてからも欠伸と眠気が続いていた。
何がいけなかったんだろう? と呑気につぶやいていたソウシは、ナギが目覚めてから医務室に籠って薬の作り直しをしている。
「あの、私が調理しますから、ナギは、やること教えてください」
「……。そこの野菜切って、煮込んで…」
ヒロインが言われたとおりにしてナギを見れば、棚に寄りかかった体制で、ナギはうとうとしている。
「お、起きてください~」
「…あ、わりぃ……」
そんなこんなで、なんとか食事の支度を終えたナギだった。
夕食が始まる。
「今日はなかなか面白い一日だったな。はっはっは。ん? なんだ、ソウシはどうした?」
「あ、手が離せないそうなので、僕が医務室へ運びます」
トワが、ソウシの分を持って食堂を出ていく。
「そういえば、ナギもいねーじゃん」
ハヤテが、辺りを見回した。
「それが…私がテーブルに食事を運んでいる間に、厨房で眠ってしまわれて…」
ハヤテが厨房を覗き込むと、座り込んで棚に背を預けたナギが、眠っている。
「うわっ。珍し……。マジに寝てるじゃん」
「ソウシの実験で睡眠薬飲まされてたからな。ナギのことだ。意外と、精神力で起きて調理したのかもしれねーな。いいから、そのまま寝かせとけ」
リュウガが棚から酒を取り出し、自分で注いで飲み始める。
「……ん? どうした? シン」
椅子に座ったまま、黙りこんでいるシンが、欠伸をした。
「そういや今日、昼過ぎからシンは航海室に籠りきりだったな?」
「…ええ…まあ……」
「へえ。だから今日は、ぜんぜんシンを見かけなかったんだ。ずっと籠ってるなんて、珍しくね?」
「………」
シンが欠伸を噛み殺す。
「…大丈夫ですか?」
隣に座ったヒロインが、既視感を感じながらシンを見た。
「なんか…さっきまでのナギ…みたいですけど…」
「………」
「………」
ヒロインの言葉に、リュウガとハヤテが、ちょっと驚いたようにシンを見た。
「チッ…バカが…」
呟いたシンが、三人から目をそらす。
「え?」
「あぁ?」
「ん?」
微妙な沈黙を最初に破ったのは、目を丸くしたリュウガだった。
「なんだ、シン。てめえも、ソウシにやられたのか」
シンが、ため息をつく。
「マジで? シンが?」
「…悪かったな」
機嫌悪そうに欠伸を殺すシン。
ハヤテが笑いだす。
「信じらんねー。一番、ありえねえと思ったのにっ」
シンが席を立った。
「あ、ご飯は…」
「部屋で寝る」
ヒロインの問いにも答えず、至極不機嫌かつ眠そうなシンが食堂を出ていった。
「…あー。……なんか、悪り、ヒロイン」
「いえ…」
ハヤテとヒロインが黙り込む。
「はっはっは。まあ、気にするな。ナギもシンも、薬の効果が切れれば、食うだろ。ヒロイン、あいつらの夜食残しておいてやれ」
「はい」
「さあ食うか。ハヤテ、食い終わったら、ナギを部屋に運んでおいてやれよ」
「それはいいけどよ、…トワ、遅くね?」
「案外、食事運んで行ってソウシにやられたかもしれねーな」
実際その通りだった。
いつもより格段に少ない人数で、夕食は始まる。
なんだか会話も弾まず、黙々と食べる。
結局、リュウガが「これで、呼び捨ては終わりだな」と言ったとき、その場で聞いていたのは、ハヤテとヒロインだけだった。
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18歳以上の大人です