酒場



 カラン、とグラスの中にある氷が澄んだ音を鳴らした。
 火をつけたばかりの煙草を指に挟んだまま、冷えた酒を一口喉へ送り込む。
鼻腔を刺激したアルコールの熱さが、喉を滑り落ちていく。
追いかけるように、アルコールの仄かな甘さが、舌に残った。
 高い酒は、味わいに深みが出る。
「………」
 運ばれてきた酒の旨さを確認してから、ナギはグラスを置いて、煙草を銜えた。
 特に依存していたわけではなかった煙草が、最近は必需品になりつつあった。
 煙草の煙は、ざわつき焦れる身体の奥をうまくなだめて鎮めてくれる。
 カウンターの片隅で独り、煙を眺めながら、耳に届いてくる酒場の喧噪を聞き流す。
「で、そいつらが大ボケの野郎で…」
「俺の女がいってやったのによう、あいつときたら…」
「知り合いから聞いたが、…向こう街の屋敷があるだろ? そこによ、…」
「ウサギの耳をこう掴んでだな、それから俺は…」
 カウンター近くにいる見知らぬ男共の話は、どれも耳に留めるほどのものでもない。
 一服、一服と煙を飲むたびに、身体が冷えていく。
 店の奥、貸切状態になっている大テーブルの人だかりでは、騒がしい声と女たちの笑い声。
 煙草を一本吸い終えて、今、店の中で最も騒がしい場所の状況を確認し、ナギは静かな溜息をついて、グラスを手に立ち上がった。
 カラ、カラン、と手の中のグラスが、いい音をたてた。


「何飲んでる?」
 グラスを持ったナギが、ヒロインの横に座った。
「あ、ナギさん。あれ? いままで何処に?」
「…向こうのカウンターに居た」
 ヒロインが、嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
「………」
 ナギがわざわざ、席を移動した理由は、一人ぼっちで大テーブルに背を向けてグラスを抱えたヒロイン。
 ヒロインの背中合わせの椅子には、彼女の恋人シンが居る。
 居るとはいっても、女たちに囲まれて、大人の言葉遊びをしつつ、酒場の女たちが持っている情報を探っているわけで。
 独占欲の強いシンは、こんな状況でも恋人を身近に置いておこうとする。手の届く場所に束縛して、ヒロインを傷つける。
 背後にいるシンが、ヒロインの横に座ったナギに気づき、警戒と信頼を絡ませているのが判った。
「それ、ぜんぜん飲んでね―な」
「飲んでますよ? あれ?」
 ヒロインが、訝しげにナギを見る。
「ナギさん…煙草吸ってました?」
「匂うか?」
「いえ、それほどでは…」
 身体の芯を鎮めてくれる煙草。
その作用の代償は、嗅覚と味覚が鈍感になること。
 二人の背後では、女たちのさざめく様な笑いと媚びた会話が聞こえる。
 ある意味とても残酷な、けれど、もしかしたら一番安心な位置。
「ヒロインはどっちがいいんだ?」
「え?」
「聞こえる方が安心できるか? 聞こえない方がいいか?」
 ナギが親指で後ろのシンを指した。
 ヒロインが、にこりと笑う。
「そうですね、聞こえないと、いろいろ勝手に想像しちゃうから、聞こえた方がまだマシです」
 微妙な言い回し。マシだけれど、平気ではない、と。
「強くなったもんだな」
 笑みが漏れて、つい、ナギの伸びた手がヒロインの頭を撫でた。
「そうかな?」
えへへ、と照れたように微笑むヒロイン。
 背中合わせの背後から、チリチリと攻撃的な気配がするが、まだこの程度なら無視していて大丈夫だと、判断がつく。
 机に置いてあるグラスの中で、解けた氷が動き、またカラン、と澄んだ音をたてた。
 音に惹かれてか、ヒロインがナギのグラスをみつめる。
「飲んでみるか? これで、あのジョッキ8杯分と同じ値段だったぞ」
「そ、そんなに高いんですか、コレ…」
 カウンターで酒の注文するとき、ナギは量より質、の気分だったのだ。
 この酒場で一番単価の高い酒。
「あ、あの、じゃあ、ちょっとだけ味見を…」
 興味津々にグラスに手を伸ばし、両手でグラスを持って少しだけ傾ける。
 そんな仕草が可愛らしくて、目を奪われる。
「…おいしい……」
 舐めるように味見し、チラリとナギを見てくる瞳が、生き生きとしている。
 ナギが背後のシンを覗いつつ、目で促してやると、ヒロインがコクコク、と楽しそうに、数口ほど飲んだ。
 氷も程よく解け、飲みやすくなっているのだろう。
 もう一度ナギを見て、更に飲もうとするヒロイン。
「こら、全部飲むな」
 ナギは笑って、ヒロインの手からグラスを奪い返す。
「全部って…こんなに強いお酒、そんなに飲めませんよ。でも、すごくおいしくて、飲みやすいですね」
「まぁ…な」
 背後のシンの気配が、ピリピリとしたものに変わる。言葉にするなら『人の女に勝手に酒のませるな』といったところだろうか。
「なんだか、ナギさんがくれるものって、おいしくないものがないですね」
「あ? 何、ややこしい言い方してんだよ」
 卓上に置かれた、ヒロインがほとんど手を付けていなかったグラスをナギが取って、一瞬、傾ける。甘ったるくぬるい、果実のジュース。
「おま…これ飲んでたのか?」
「はい。何か?」
「…ちょっと待ってろ」
 ナギはカウンターで、この地域の湧水でもある微炭酸硬水と氷を受け取って、ヒロインの隣へ戻った。
「?」
 顔に『何をするんだろう』という疑問を貼りつけたヒロインが、ナギを見る。
これまた可愛らしくて、自然と笑みが浮かんでしまう。
 氷が入ったグラスに、ぬるくなった果実のジュースを注ぎ、硬水を加える。さらに、ナギの酒を少し足して、軽く混ぜてやった。
「ほら、こっち飲んでみろ」
 手渡したグラスを傾けたヒロインが、目を輝かせる。
「うわあ。すごくおいしいです」
 ヒロインの弾んだ声。
 背中合わせのシンが、こちらの様子をうかがっている気配は笑えるほどよく伝わってくる。
「ジュース、おまえが注文したのか?」
「あ、はい。甘いのが飲みたいなって思って…でも、なんか甘過ぎでした」
「カダボの果実のジュースだな。この辺りじゃ、砂糖やシロップ代わりに使われることも多い実だ。たぶん…船長達と一緒に注文したから、酒で割るつもりだと思われたんだろ」
「あ、そうだったんですか…どおりで、甘いけど飲みにくいと思った…」
「アホ。そういう時は、飲めそうな別のを追加で注文しろ。今、絶対、こいつもそう思ってるぞ」
 どうせ、こちらの会話は漏らさず聞いているシンなのだ。
 指で背後の男を指せば、ヒロインが笑いながら、
「それもそうですね。すいません」
 と応えて、チラリと肩越しにシンの後姿を見た。
 客なのだから、口に合わなければ、別の品物を注文すればいい。そういったことができないヒロインは、やはり一人で放置しておけない、と思う。庇護欲、とでも言えばいいだろうか。
 喉が渇いていたのだろう、ヒロインが美味しそうにコクコクとグラスを傾けていく。
 空いたグラスに、今度はジュースと硬水を入れてやって、美味しそうに飲むヒロインを笑った。
 背後で聞こえてくる会話の流れから、そろそろだな、とナギは判断する。
「ヒロイン、行くぞ」
「え?」
「大丈夫だ」
 ヒロインを連れて席を立ち、酒場を出る。
 外に出て10秒と経たずに、シンが酒場から出てきて「行くぞ」と当たり前のようにヒロインの腕を引いた。
「あれ? シンさんっ」
あきらかに、ヒロインの声が明るく弾む。
「…でも、あの女の人達は?」
 シンが、女を買う気がないことをあからさまにして、次々と掌をかえしたように冷たく応じていたことに、肝心のヒロインは相変わらず気付かない。
「お前は…いったい何を聞いていたんだ?」
 酒場の女との駆け引きが分からないヒロインに、理解しろというのも難しいだろう。
 宿に戻っていく二人を見送りながら、ナギは煙草を灯す。
 ヒロインが笑っていれば、それでいい。
 余計な欲望は、全て煙と一緒に吐き出してしまいたい。
 ヒロインと間接キスで飲んだ酒をもう一度味わいたい気がして、ナギは独り、酒場に戻った。



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