雲海



「やっかいだな…」
航海室でシンが呟いた。
先ほど確認した気温、湿度、風力の数値を脳裏で計算式にあてはめながら、複数の海図を繰る。
「よう、シン。外は……面白いことになってるぜ」
言葉とは裏腹な、厳しく問うような視線。
ノックもなく航海室を訪れたリュウガ船長に、シンは黙って頷いた。
「停船します。碇を下してください」


「うわぁぁっ、すごいー♪」
能天気なヒロインの歓声が航海室まで届く。
「すごい…こんなの、僕、初めて見ました」
ヒロインと一緒に甲板掃除をしていたトワが、戸惑うようにシリウス号を囲む大海を眺めた。
「あれ? いつの間にこんなことになったんだ?」
剣の修業をしていたハヤテが、二人の声に、周囲を見渡して驚く。
「あっ。ナギさんとソウシさんにも教えてこようっ」
航海室まで聞こえてくるヒロインの嬉しげな声に、シンは苦笑を禁じ得ない。
それどころではないのだ。
この海域で、こんな稀有な現象に見舞われるのは、危険なのだ。
空は、雲が厚く覆っていて、太陽の正確な位置を隠している。
海面には深い霧が立ち込めて、潮の流れを隠している。
風が無風に近いので、霧も積もるだけで、流れない。
浅瀬が点在する海域。
航海の目印とする海面色が読めない。
水平線も空と同化してしまって、正確な方角を判別できない。
今、この船がいる正確な位置を見極めなければならない。
より、正確な詳細な海図を、今までの水深記録と照合して作り上げなければ。
今は、無事に停船できたものの、すぐ真横が浅瀬の可能性はゼロではない。

「ナギさん、ほらほら、見て下さいっ!」
やけにはしゃぐヒロインの声だけが、対応策に勤しむシンの耳に届く。
もともと、他の船員の低めの声は、壁や扉を隔ててしまうと届きにくいのだが。
「ナギさん、よく知っているんですね。これ、雲海って言うんですか? 本当に、雲の海みたいですものねー♪」
ヒロインの反応だけで、どんな会話をしているのか判るのは、ありがたい。
「え? 雲海って、山からの景色なんですか? ソウシさんもよくご存じなんですね」
「ロマンチックですよね、ファジーさん。やっぱり、この景色…私、シンさんも呼んで来ます」
 …冗談ではない。
この海域を抜け出す航路と舵取りを秒単位で組み立てている最中なのに。
今はあんな嬉しそうにはしゃぐヒロインの相手は、到底できない。
「え? …今からですか? でも…。…。はい。じゃあ、よろしくお願いします、ナギさん」
航海室に籠るシンを察して、ナギが何やらヒロインを引き留めたようだ。


つくづく、いい仲間を持ったものだと、シンは口元をゆるめた。



無事に雲の中のような現象を抜け出して、一息ついたシンは、食堂に向かった。
夕食の時間はとうに過ぎていたが、ナギは食堂で待っていた。
「…あいつなら、部屋へ戻った」
卓上にシンの食事をさりげなく並べながらナギが言う。
「ああ。もう、こんな時間だからな。当然だ……フォアグラ?」
「…教えておいた」シンの好物料理の作り方を時間をかけてヒロインに。
「……助かった」あの時、あの無邪気に喜ぶヒロインを航海室から遠ざけてくれたことを。
言葉にしない言葉をお互いに受け取り合う。
食べ始めたシンを見下ろして、ナギの表情がふっと緩んだ。
「シンが碇を下すなんて、よっぽどだからな」
「ああ…。おかげで、この次は目隠ししてもあの海域をぬけられるようになったな」
穏やかな沈黙が食堂を包んだ。


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