水妖
湖の真ん中に、ヒロインが立っていた。
「なんで、こんなところにお前がいる?」
シンの声が水面に落ちる。
思わず踏み出したシンの足が、水に触れて波紋を広げた。
広がった波紋が、ヒロインの身体に触れて戻りながら湖面に模様を描く。
嬉しそうに微笑んだヒロインが、湖中に消えた。
もの哀しい音色が湖面に流れる。
「待て…」
シンの身体もまた、水中に消えた。
港で買い物をしていた時、人の良さそうな店番の老婆が、シンに忠告した。
「そこの若い兄さん、街の向こうにある湖に気をつけな。あの湖は、隻眼の男を呼ぶというからね」
「……それは伝説か?」
伝説には宝にまつわるものも多い。
情報はどこに含まれているか分からない。
「まあ、この街に伝わる伝説だね」
「ぜひ教えてくれ」
老婆から聞き出した伝説は、隻眼の旅の楽師と、街娘の悲恋物語。結末は、街娘の亡骸と共に今でも湖底に沈む『黄金のヴァイオリン』で話を閉じた。
「…黄金のヴァイオリンか……」
「あの…シンさん、探しに行くとかしませんよね?」
話を一緒に聞いていたヒロインが心配そうにシンを見上げる。
「もうすぐ夜になるからな。宿に戻るぞ」
シンは行くとも行かないとも答えなかったのだが、ヒロインは、ほっとした表情で返事をした。
伝説の話では、街娘の魂が楽師の大切な楽器を抱いて、水底から隻眼の恋人を呼ぶのだという。
実際のところシンは隻眼でもないし、楽師でもないのだから、呼ばれることはない…はずだ。
それに、今回、港で集めている宝の情報は『太陽の弓』なのだから、この伝説はあてはまらない。
求める宝の明確な手掛かりが掴めないまま、その日もシリウス海賊団一行は、宿に集合した。
「結局、お宝の手がかりは無しか?」
リュウガが苦笑する。
「湖の伝説なら聞きましたが、特に太陽や武器が出てくることはありませんでしたね…」
「ああ、湖底に眠る黄金の楽器の伝説? それなら、私とナギも聞いたよ」
「オレたちは、武器屋回ったけど、どの店も知らなかったよな? トワ」
「あ、でも、鍛冶屋のおじいさんの話では、この港は昔、金鉱が近くにあって、わざわざ黄金で作った武器や楯も多かったということでしたよ」
話を聞いたリュウガが考え込む。
「よし、明日も各自情報収集だな。その湖の伝説についても、もう少し調べてみろ。『太陽の弓』は、月を操ると言われているからな。黄金とも関わりがあるかもしれな
い。まあ、今日のところは、飲め」
宿での宴会は深夜まで続いた。
翌日、ヒロインはもの哀しい歌で目を覚ました。
ふと起き上がると、先ほどまで確かに耳に届いていたはずの歌が聞こえない。
宿の室内には、シンの姿も無かった。
「?」
ノックの音が聞こえた気がした。
目の前の扉を開けると、優しい雰囲気の女性がにっこりとほほ笑んだ。
「?」
「迎えにきたの…」
どこかで会ったことがあるような気がした。
「やだ? 覚えていないの? アクアよ。昨日、迎えに行くっていったじゃない」
あ、そうだ。昨日、街で出会った人だ、と思いだす。
街で声をかけられて、意気投合して、一緒にお昼を食べた。
アレ? お昼はシンさんと…この人と…コノ人ト一緒ニ食ベタ。
今日は、街で一番景色のいいところに案内してくれると約束…知らない…約束シタ。
ヒロインの記憶が、意識の目を盗んで、パズルのように組み合わさり替わっていく。
「支度できてるよね?」
今目覚めたばかりで、支度はできて…いない…イル。
手を引かれて、歩きだす。
「おい、ヒロインどこへいく?」
後ろからシンの声がして、肩を掴まれた。
これは、知らない男の人…違う、シンさん…知ラナイ。
違う、知ってる、シンさん…知ラナイ、知ラナイ、知ラナイ。
「離してください」
拒絶の響きがヒロインの口から洩れた。
「ヒロイン?」
「私に触らないで」
断固とした拒絶の意思を含んだ言葉に、シンの肩を掴んでいた手が、驚いたように緩んで止まる。アクアが嗤った。
「今のうちに逃げないと、捕まっちゃうわ。一緒に逃げましょう?」
強く手を引かれて、足が動き出す。
でも、あの人は…それほど怖くない…トテモ怖イ。
「待てヒロインっ」
怖イ。恐ロシイ。逃ゲテ。離レテ。
身体が伸びてきた手に囚われる。
「やだぁっ。助けてシンさんっ」
咄嗟に出てきた言葉が、意識から消える。
「は? どうした?」という声は聞こえた…聞エナイ。シンサン、イナイ。知ラナイ。
助けを求めたのは、目の前のアクア。助けて。捕まる。助けて…。
ヒロインの身体を捕らえた力が増す。
逃げられない。捕まった…。
捕マエタ。
ヒロインの身体が、アクアに引かれて空へ飛んだ。
「すごいっ。魔法?」
驚いたヒロインが、辺りを見渡す。
「そうよ。これは魔法なの」
にっこり微笑むアクアは、街の空を飛ぶ。
やがて、キラキラと黄色い月を映す広い水面に降り立った。
「お友達は、本当に久しぶりなの。ゆっくりしていって」
アクアに誘われて、ヒロインは月光の中に沈んだ。
もう眠っているだろうと思いながらヒロインの部屋に向かうと、暗闇の中で廊下に立っている人影を見つけた。
間違えようのない人影。
「おい、ヒロインどこへいく?」
シンは声をかけて、ヒロインの肩を引いた。
「離してください」
即座に、拒否の色が濃い声が答える。
「ヒロイン?」
少し意外な返答に、振り向かないヒロインの後姿を見る。
何か怒っているのか拗ねているのか。声から全く読み取れないなんてことは、珍しい。
「私に触らないで」
シンに向けられた断固とした拒絶の意思が伝わってきて、不用意にヒロインの肩に置いてあった手を浮かせた。
ヒロインが自分を拒絶している、という出来事に、一瞬、シンの思考回路が混乱する。
何か自分は、またヒロインをひどく傷つけることをしただろうか、と。
愛しい存在に明らかな拒絶をされて、シンの中の何かが、酷く痛む。
その隙に、ヒロインが廊下の奥…今は不在のはずだが、ナギとソウシが泊まる予定の部屋へ向かって歩き出す。
「待てヒロインっ」
思わず、去ろうとする身体を後ろから抱き締めていた。
腕の中で、ヒロインが逃れようと、シンの腕を押しのけようとするのが伝わり、更に心の奥が傷む。
「やだぁっ。助けてシンさんっ」
「!!っ は? どうした?」
ヒロインの発した声に驚いた瞬間、腕の中にいる抵抗が一気に消えて、重みが加わる。なぜ、自分に助けを求めるのか。
シンはぐったりと眠っている様なヒロインを抱きあげる。
「おい、ヒロイン?」
眠っている、にしては少し様子がおかしい。
かるく頬を叩いても、身体を揺さぶっても、何の反応もない。
「どうしたの? 今、ヒロインちゃんのすごい声がしなかった?」
シンの背後からソウシがやってきて、ぐったりとしているヒロインを見る。
「とりあえず、ベッドに運ぼうか。ヒロインちゃん、真っ青だ」
ソウシの後ろには、ナギも駆けつけて立っていた。
ベッドに横たえたヒロインの腕をとって、ソウシが眉をひそめる。
「何があったの?」
「ドクターの部屋へ向かおうとしているヒロインを引き留めたら、突然叫んで倒れたんです」
「………なんだろう…すごく嫌な……呼吸はやけに浅くてゆっくりだし、心音もとても弱い……」
「そんなばかな」
ソウシから奪う様にヒロインの手をとったシンが、その冷たさに愕然とする。
「そんな、さっきまでは…」
「……うん。おかしいね」
「湖の魔物…」
ナギがぽつりと言った。
シンが、呟いたナギを見る。
「お前も聞いたんだろ、湖底に眠る黄金の楽器の伝説。あれに、こんな様子なかったか?」
「確かに…でも、まさか……」
頷いたソウシに、シンは唇を噛んで呻くように二人に言った。
「そんな話は聞いていない。俺達が聞いたのは、旅の楽師と、街娘の悲恋物語だ。街娘が、楽師の金持ちから贈られた黄金のヴァイオリンを盗んで、湖で溺れ死に、今で
も楽師を呼ぶという話だった。楽師に会えるまで、罪を犯した娘の魂は解放されないと…」
ナギとソウシが顔を見合わせた。
「私たちが聞いたのは、黄金の楽器を持つ湖の魔物が、月夜に奏者を求めて街をさまよい、魂を奪っていくという話だよ。魔物に魂を奪われた者は、水のように冷たい身
体になって死んだように眠り続ける、と…。魔物の気に入った演奏をできた奏者は戻ってくるけれど、できなかった者は戻ってこないって…」
微妙に似通った異なる伝説は、一部に事実を含む口承伝説が多い。
「…魔物は本当だということか」
ナギが唸るように言う。
「だとしても、コイツは楽器の演奏なんかできない」
シンが、冷たいヒロインの頬に触れた。
呼吸はしているものの、すでに人の体温ではない。
「ドクター、こいつをお願いします」
シンが黙って部屋を出た。
「待てよ」
ナギが追う。
「……湖へ行く。本当に魔物がいるなら、殺してくる」
「俺にも…つき合わせろ」
「勝手にしろ」
二つの影が、街はずれの湖に向かった。
真夜中の湖面は、暗く静かだった。
ナギが辿りついた時、暗い湖面には何も見えなかった。
「なんで、こんなところにお前がいる?」
湖の畔に立ったシンが、真っ暗な湖面に向かって、悲しい声で問う。
ナギには見えない何かが見えているようだった。
「待て…」
シンの身体が一瞬にして、水中に消えた。
「おいっ」
波紋が消え、跡形もない。
「くそっ…」
もしも魔物がいるのだとしたら…。
ナギはその場に座り込んで、静かな湖面を見つめた。
ヒロインは月明かりの射す広い場所で、アクアと楽しく話していた。
ふと、名前が呼ばれた気がして、不安になる。
「今、誰かが…」
「あら、よそ見しちゃだめよ。ねえ、このヴァイオリン見て」
いつの間にか、月明かりでキラキラと輝く楽器をアクアが抱えている。
「綺麗……」
月光を反射する楽器は、金色に輝いているように見えた。
「これはね、私の大好きな人の形見なの。私が意地悪して隠しちゃったから、あの人困って困って…殺されてしまったの……」
「え?」
アクアが悲しそうに楽器を構える。
「聞こえる?」
弾く動作をするのに、何の音も響かない。
「…どうして?」
「鳴らなくなってしまったの。この音が鳴れば、きっと私は大好きな人に会えるはずなの。こんなに、大好きな人を思って弾くのに、まだ足りないの。ねえ? あなたの
好きはどのくらい? 自分の命よりも大切な好き? ちゃんと音が鳴るかしら?」
大好きな人…。
ぼんやりとしたヒロインの意識に、自分を呼んでいる面影が浮かんだ。
『なんで、こんなところにお前がいる?』
あ、シンさん。
シンさんがいる。
シンさんが来ている。
大好きなシンを見つけて、ヒロインが微笑む。
「さあ、弾いて御覧なさいな。あなたの大好きを聞かせなさい」
アクアに手渡されたヴァイオリンを、ヒロインは見下ろした。
楽器の演奏なんてしたことない。
これは、どうやればいいのだろう。
「弾き方も知らないの? それじゃあ、話にもならないわね」
アクアが見下したようにヒロインを笑う。
「俺が代わりに弾く」
ヒロインの手から、すっと楽器が奪い取られた。
驚いて振り返ったヒロインの背後に、いつの間にかシンが立っていた。
「シンさん……」
先ほどのアクアのように、シンが楽器を構える。
金色に光る棒が、ヴァイオリンの上を滑りだす。
「あ…」
ゆったりとした、でも、聞き覚えのあるメロディーが一面に響き渡った。
アクアが目を見張る。
「音……あの人の音が聞こえる……」
広がる音の波に、月光の波が重なり、世界が揺らいでいく。
「やっと会えた。あの人と同じ血を持つひと…」
まるで泡がはじけるような音がして、ヒロインは何かに弾かれ、ベッドの上で目を覚ました。
シンが姿を消した湖畔で、ナギは待っていた。
どこからともなく、メロディーが聞こえてくる。
「は? 俺たちの団歌か?」
やがて、月明かりを映したような水が湖面に盛り上がり、はじけ飛ぶ。
シンが楽器を持って現れた。
「おい、大丈夫か?」
ため息をついたシンが、ナギに楽器を手渡す。
「これが、月のヴァイオリンと太陽の弓、だそうだ。…宿に戻る」
シンが走っていく。
「……忙しい奴だな」
きっと、ヒロインは助かったのだろう。
ナギは、シンに手渡された楽器を眺めた。
「太陽の弓って……。武器じゃなくてこっちの弓かよ…」
それにしても。
ナギは、宿に向かって歩き始める。
この楽器を持ち帰るあたり、本当にシンは魔物を退治したのだろう。
あの団歌は…シンが弾いたのだろうか。
「まあ、探してた宝をちゃっかり持ち帰るあたりは、いかにもシンらしいよな」
宿では、ナギが『太陽の弓』を持っていると聞いて、ハヤテやトワが心待ちに待っていた。
Triangle againへ戻る
18歳以上の大人です