不安



「今日、ソウシ先生にからかわれちゃいました…ソウシ先生って…ちょっと怖いですね」
 眠る前、ヒロインがポツリ、とシンに言った。
「からかわれた?」
 問い返したものの、ヒロインの返事は無い。
 聞こえてきた規則的な寝息と安心しきっている寝顔に、シンは問い詰めることをやめた。
「ドクターが、怖い?」
 シン自身は、人当たり良く優しいソウシが、かなりの食わせ者であることを知っている。
 しかし、そんなソウシが、自分を含めて年下の船員を心配し、大切にしてくれていることも、知っている。
 時折、兄がいたら、こんな感じだったのではないか、と思うことがあるくらいに。
 だから、一目置かざるをえない存在なのだが。
 女性には底なしに優しいソウシが、ヒロインに怖いと思われるようなことをするだろうか。
 どんなに怒っていても、笑顔を絶やさないようなソウシが。

 シンの脳裏に、数日前の満月の宴でのソウシが甦る。
酒に酔ったソウシは、シンから見れば、男の顔でヒロインの頭を撫でていた。  
ヒロインはよく判っていないようだったが。
 …ヒロインが、ドクターの『男』を意識した? まさかな…
 どこか違う気がする。
 なんとも言いようのない不安が、シンの心に根を下ろす。
 腕の中にいるヒロインを抱きしめて、シンは目を閉じた。


 朝からずっと、ナギの手伝い、トワの手伝い、とヒロインは相変わらずくるくると動き回っている。
 シンは甲板に出て様々なポイントで測深を繰り返しながら、そんなヒロインを目にして口許を緩めていた。
 洗濯も干し終わった様子のヒロインは、船室へ向かう。
 おそらく、今度は医務室でソウシの手伝いをするのだろう。
「どうだ?」
 船長のリュウガが、横へやってきて、測鉛を引き揚げるシンの手元を覗き込んだ。
「海の色の割には浅いですね。これだけの水深があれば、座礁することはないでしょうが…」
 確認した水深を、海図に書き込むためにメモして、顔をあげる。
 一瞬、リュウガがシンの横で、ふっと笑った。
「やっぱり、俺はお前に付くべきだな」
「……船長?」
 突然、何のことだか意味不明なことを言われて、シンが面食らう。
「こっちの話だ」
 リュウガは、暇そうに航跡を眺めながら、船尾へ歩いてゆく。
 何について言っているのだろうと、その後姿を見送る。
 思い当たることはなかったが、なんとなく不安が膨らんだ気がした。

 それから、しばらくして。
「シンさんっ」
 船室から出てきたヒロインが、いきなりシンにぶつかるように抱きついた。
「おいっ……なんだ?」
 ぎゅーっと抱きついてきて顔をあげたヒロインは、屈託のない笑顔で。
「えへへ。なんでもありません。このあと、航海室のお掃除でいいですか?」
 なんでもないと言いながら、いきなり抱きついてきた行動はかなり違和感がある。
 ヒロインの手も、シンの服を掴んだままだ。
 こんな場所なのに、思わずシンに抱きついてくるようなことが、何かあったに違いないのは確かで。
「何があった?」
 シンが真面目に見下ろせば、みつめられたヒロインが視線を泳がせて、シンから離れる。
「あ、すみません。朝からなんかずっと忙しくて……シンさんを見たら、つい…」
 顔を赤らめて俯くヒロインは、本当に理由が見つからないらしい。
「…航海室の掃除してろ。あと一箇所測深したら、俺も行く」
「はいっ」
 ヒロインの様子に、何か引っかかるものがあるけれど、はっきりしない。
 言いようのない不安。
 予定より早めの場所で測深を終えて、シンは早々に航海室へ向かった。


「そういえば昨日、ドクターにからかわれたと言ってたな」
   掃除をしているヒロインにシンが言うと、予想外の答えが返ってきた。
「あ、はい。そういえば、昨日も、からかわれましたね」
「昨日も?」
「あっ、実は今日も、からかわれちゃったんです…」
 笑顔でちょっと頬を染めたヒロインの反応に、シンは嫌な予感がした。
「なんて、からかわれた?」
「昨日は酔ったソウシさんのことを言ったら、急に熱があるかどうか確かめられたんですけど、今日は実験のお手伝いしてたら、そんなに試し飲みしたいのって、言われちゃいました」
「………」
 その説明のどこが『からかわれた』なのか、シンは理解に苦しむ。
 何をもって、ヒロインがそれを『からかい』だと思ったのか、与えられたキーワードでシンは考え込んだ。
 急に黙りこんだシンを、ヒロインは手を止めて訝しげに見る。
「ちょっと来い」
 険しい目をしたシンが、ヒロインを招き寄せた。
「…? はい」
 きょとん、としてシンの目の前に立ったヒロインをシンは覗き込んで、コツンと、額を合わせる。
「えっ……」
 驚いて間近のシンを見たヒロインが、真っ赤になった。
「…熱があるかどうか、確かめただけだ」
 すっと離れたシンの目は、険しい。
「あ、あの……」
「ドクターみたいにからかっただけだ。俺に、キスでもされると思ったのか?」
「…お、思ってません……」
 俯いたヒロインは、耳まで赤い。思ったのだな、と満足すると同時に、脳裏に浮かんだ仮説が正しそうだと判断する。
「で、今日は、どう、からかわれたって?」
 ヒロインの反応から、たぶん、シンの推測が間違っていないと確信して、どんな行為でからかわれたのか問う。
「……薬品を混ぜるお手伝いをしてたら、すごくいい匂いになったので、おいしそうですねって言って…ソウシさんが、笑って、そんなに試し飲みしたいのって…」
 間近で覗きこまれた目がちょっと怖くて固まったら、からかっただけだよ、と言われたのだと、ヒロインは説明した。
「馬鹿がっ」
 説明を聞いたシンが、ヒロインの頭をポカリ、と叩いた。
「いたぁ……」
 手でおさえて見上げると、先程よりは険しさの緩んだ視線が見下ろしている。
「まったく、お前は……」
 ふと、シンは一瞬言葉を切ってから、続けた。
「……お前、それは、ドクターにからかわれたんじゃなくて、怒られたんだ。ドクターは、笑って、目で怒るからな。お前、怒られたことも解ってなかったのか」
「えっ? そうなんですか? ソウシさん、怒っていたんですか?」
「ドクターの目が怖かったんだろ? お前、ハヤテやナギにからかわれて、怖くなるのか?」
「いえ…」
「ドクターもそんな本気で怒っていたわけじゃないから、からかったことにして許したんだろうな」
「そうかぁ…。ああ、じゃあ、謝らないとっ…ソウシさん、何を怒ったんだろう???」
 シンが、かすかに舌打ちして、続ける。
「謝る必要ない。理由はともかく、せっかく収まったドクターの怒りを、呼び覚ますつもりか? ああみえて、ドクターは怒りだすと船長も敵わないんだからな」
「わ、わかりました。寝た子を起こすなってことですねっ」
 意外にも、ある意味、ものすごく的確な返答がヒロインから発せられて、シンは苦笑する。
 シンの解説を、何の疑いもなく納得して掃除を再開したヒロイン。
 ヒロインが怖いと感じた本当の理由も、甲板で思わずシンに抱きついてきた理由も、シンには、理解できてしまった。
 それは、わざわざ、鈍いヒロインに教えることでもない。
 むしろ教えない方が、いい。
 ただ、漠然とした不安がシンの中に残った。


夕食を終えて、シンは測鉛を持って甲板に向かった。
 昼間、予想外に浅い海だったので、もう一度安全確認のために、測深してみるつもりだった。
 浅い海には、座礁の危険が伴う。
 測深は何度でも繰り返しながら進んだほうがいい。
 しばらくすると、ヒロインがやってくる。
「片付け、終わったのか?」
「はい。ナギさんに、今日はもういいって言われました。シンさんは、何しているんですか?」
「水深の測定だ」
「お手伝いします?」
「いや。もう終えた。あとは数値を海図に書き込むだけだ」
 その時、船室の扉が開いて、ソウシが顔を見せた。
「ヒロインちゃん、薬品をこぼしちゃったんだけど、少し手伝ってもらっていいかな?」
「あ、はい。すぐに行きますね」
 呼ばれて振り返ったヒロインは、何の疑いもなく医務室へ駆けていく。
 漠然とした不安を感じて引き留めかけたシンが、黙って見送った。
 昼間、何も気づいていないのを利用してせっかく言いくるめたのに、まさか、気をつけろとも言えない。
 なんとなく浮かんでくる嫌な想像を振り払って、航海室で海図を広げる。
 測深の数値を、図面上に書き込み、計算して線を引いていると、不意にリュウガが扉を蹴り開けて入ってきた。
 リュウガの手には…寝ているヒロイン。
 驚いて立ち上がったシンに、リュウガが言う。
「おい、こいつ、へばってたぞ。…頼まれて片付けた薬品は、濃度の高いアルコールだそうだ」
 航海室のソファにヒロインを置いて、リュウガは腕を組む。
「ソウシの野郎、ちょっと悪戯が過ぎるな」
「本当に悪戯…ですかね?」
 不信に満ちたシンの言葉に、リュウガは苦笑した。
「お前に、へばったこいつをよろしくって言ってたから、悪戯だろ。…少しばかり、やり過ぎな気もするが」
「タチの悪い悪戯ですね。……それで、どうしてまた船長がこいつを運ぶことに?」
 リュウガを見るシンの眼差しは、それはそれは不信感に満ちている。
「たまたま、ソウシのとこへ行ったんだよ。俺の部屋へ帰りがけに届けてやったが、あのまましばらくアルコール充満した医務室に寝かせといて、ソウシが運んできた方が良かったか?」
 じっとリュウガを見つめたシンが、不意に目をそらして礼を言った。
「いえ…。ありがとうございます」
 シンは、昼間、甲板でリュウガに言われた意味が、今更ながら判った気がした。
 リュウガは、何か知っているのだろう。
「心配すんなってのも何だが、悪いようにはしねぇよ」
「?」 
 また、今のシンには意味不明の言葉を言って、去っていく。
 きっと、後になって、判るのかもしれない。
「心配事は意識したらきりがない…」 
 苦笑したシンはヒロインを抱きあげて、航海室を出た。
 眠っているヒロインからは、アルコールとやたら甘い匂いがした。




 酒のグラスから口を離したリュウガが聞いた。
「きっかけは、なんだ?」
「酔った俺に、ドキドキしたんだってさ…」
 どこか悲しげな瞳で、グラスの中の液体を回すのは、ソウシ。
「ドキドキねぇ…」
「試してみたくなるよね?」
 もしかしたら、揺れるかもしれない、と。
「やっとまともな恋した奴だぞ。そりゃ酷だろ」
「そうかな? 俺だって…初…うーん、どうかな…」
「…玄人相手に散々練習してるだろうが」
「フフフ。なら、シンだってナギだって、練習してるよね?」
「まぁ…な。でも、アレの知る男は、まだシンだけだ」
「それだけじゃないよね?」
「何が?」
「シンに、誰か重ねてない?」
「………俺は…本気の恋で身を滅ぼした野郎を何人も見たからな…。珍しく、上手くいった奴には、期待してんだよ」
「どうだかなぁ…」
「ああ見えて、シンもまだまだ若ぇからな…」
「あははは。子供だな、と思うことはあるけど……それは……俺もシンのこと言えないからね…」
「お前に欲が出てきたのは悪かないが、えげつねぇのは、ダメだ」
「それは、船長命令?」
「そうだな」
「船長命令じゃ仕方ないね。どうせなら、もう少し、シンをいじめたかったんだけどな…」
 リュウガが大笑いする。
「笑い事じゃないよ。昨夜のシンの仕返しは…」
「やられっぱなしで終わらねぇのが、シンの面白れぇとこだな」
「他人事だと思って…リュウガもされてみたら?」
「ははは。アイツは、俺相手にゃそういう仕返しはやらねぇだろうな」
 二人は、朝まで飲み明かした。




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18歳以上の大人です