三元



なんだか変だな、と感じた。
特に何が変なわけでもない。まさに、人間の言う気のせい、という範疇に入るだろう。
きっかけは、舵に手を置いて、上空を列なして飛んでいく渡り鳥を見てからだ。
小さく一言だけ呟いたのは、我だけが聞き取れた。
「忘れていたな…」
それから、何も言わない。
いつものように、淡々と、確実に我の進路を安定させ、航路をとっていく。
我は、船の精霊シリウス。
そして、先ほどから我が気にしているのは、この船唯一の航海士シン。
我が感じ取った違和感を、次に感じ取ったのは恋人のヒロインではなく、トワだった。
それは、シンが、ほつれかけていたクリューラインに気づいて、倉庫へ補修を言いに行ったとき。
トワはいつものように棲みついているネズミに餌を与えていた。
いつもなら、苦笑して何か一言告げるだろうシンが、このときは黙ってトワを眺めた。
「? シンさん? あの、何か用ですか?」
「…ああ、ミズンマストのクリューラインがだいぶ解れている」
「あ、わかりました。補修しておきますね」
トワの答えに、シンは頷いて倉庫を去った。
その後ろ姿は、特に機嫌が悪そうでもなく、いつもと何も変わらない。
それでも、トワは不思議そうな表情でシンの後ろ姿を見送り、ロープの補修道具を持って甲板に出た。
「………」
黙々と作業をするトワ。
シンも、淡々と順調な航行を続けていく。
不意にトワが、シンに話しかけた。
「シンさん、どうかしましたか?」
「何が?」
「いえ、何もなければ……気になることでもあるのかと思っただけですから…」
「……たいしたことじゃない…」
それきり、会話が途切れる。
『何を気にしている?』
我の声は、人間には届かない。
「あ…、渡り鳥さんだ。おーいっ、がんばってねー」
先ほどとは別の渡り鳥の群れが、上空を飛んでいく。
空を見上げる形で作業していたトワが、いち早く見つけて手を振る。
シンも、空を見上げて再び渡り鳥を見送る。
群れの最後尾の一羽は、列から遅れて高度も下げているのが見て取れた。
「あの鳥さん、大丈夫でしょうか……」
「……渡りのできない鳥は、生きていけない。人間が手出ししても、結果は同じだ。弱い者には死が訪れてしまう…」
シンが、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
「……それでも、救えるのなら、助けたいと思いませんか? 疲れ果てて冷たい海に落ちて溺れ死ぬより、温かな腕の中で死ぬ方が幸せだと思います」
「……昔、あの鳥の雛を育てたことがある…」
シンが、苦笑した。
「巣がネコに襲われてな。雛の二羽と親鳥らしき一羽は食い散らかされていたが、雛の一羽だけ無傷で草陰で助かっていたのを見つけた。しばらく眺めていたが、親鳥が戻って来る気配もなくてな。つい、拾って羽も生えそろっていないそいつの世話をした」
上空を通過した渡り鳥の群れが、遠ざかり見えなくなる。
懐かしいような優しい苦笑を浮かべたシンが、話を続けた。
「当時俺はまだ子供だったが、その雛が渡り鳥だということはわかっていた。別れがつらくならないように名前もつけず、ただオマエと呼んで羽が生え揃い、羽ばたきができるようになるまで順調に育てた」
「…さすがシンさんですね。じゃあ、その鳥さんは無事に仲間のところへ戻れたんですね」
トワが感心したように言ったが、シンは表情を曇らせた。
「いや……その頃にはすっかり俺に慣れてしまってな。羽ばたいて腕に乗ってきて餌を食べることはよくあったが、いつまで経っても「オマエ」が飛び立つことはなかった。人間に育てられた雛鳥は、飛ぶということを誰からも教えられず、知らないままになってしまった」
「………」
トワは黙りこんだが、我は新たに知ったことに感心した。
『なるほど、そういうものなのか? 鳥は産まれたときから飛べるものではないのだな…』
魚たちは、産まれたときから泳ぐことを知っているが、鳥は親から飛び方を習わないと飛べないようだ。
「…仲間の鳥たちが旅立っていく頃に明らかに様子がおかしくなってな…おそらく寒くて風邪でもひいてしまったのだろう…そのまま死んでしまった。救っても、結果は変わらない」
自嘲気味なシンの言葉に、トワが反論した。
「でも、その鳥さんは、シンさんに救われなければ、羽ばたくことも知らずに死んでいましたよ。それに、もしかしたら、シンさんのそばにずっといたかったのかもしれません」
「………」
シンは何も答えずに、視線を再び青い空へ向けた。
医務室からソウシの呼び声がして、急いで作業を終わらせたトワがシンに挨拶をして医務室へ走っていく。
「……オマエを手放したくなくて、結局、あのとき俺は、飛び方を教える方法を調べようともしなかった…。まったく…我ながら進歩がないな」
しばらくして紡ぎ出された悲哀のこもった呟きは、我だけが聞いていた。
『そうでもないぞ? 少なくとも我は、ヒロインを何度か故意に船から降ろして故郷へ戻してやろうとしていたことを知っているからな』
心地よい風が左舷から吹き抜ける。
「…風向きが変わったな……」
一瞬にして、航海士の顔に戻ったシンは、先ほどトワが修復したばかりのクリューラインを早速引くのだった。


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