糠雨
その身が細くなるにつれ、月が夜空に上る時間は明け方へと移動する。
半月を過ぎたあたりから夜空に星だけが輝く時間が増す。
晴れ渡った月のない夜空は、普段見ることができない小さな、細かな星の光を映し出す。
粉砂糖を散りばめたように幽かに輝く小さな星たち。
霧のように降る雨を糠雨と呼ぶように、霧のように細かく広がる星を糠星、と呼ぶ。
我は、夜空に白くけぶる星の流れを見上げた。
「ナギは、星を数えたことある?」
甲板で始まった、リュウガ曰くソウシが船に乗った記念日の宴。
グラスを傾けたソウシが、つまみを置いて目の前に座り込んだナギに訪ねた。
「………」
黙って見返した表情に、ソウシはくすくすと笑う。
「それって『あるよ』って顔だね。いくつまで数えたことある?」
「…1813」
「随分数えたね」
具体的な数を答えたナギに、ソウシは感心したように微笑んだ。
「……俺のいた山では、星のことを『天の羊』と呼んで、眠れないときに数えるものだったから…」
「なるほどね……。私もね、数えたことあるよ…海に出たばかりの頃にね……でも、いつも100を超えたあたりでどうでもよくなってしまってね…」
ソウシが星空を見上げた。
我は彼らが乗る船の精霊、シリウス。
月のない満天の星が、ソウシの記憶の何かを刺激したようだ、と我は感じた。
我は、ナギとソウシの目の前に立つ。
我の姿は、彼らに見えない。
「人の目は不思議だよね。同じ景色のはずなのに、気分が違うだけで、見える世界が変わる…」
ソウシがいつまでも夜空を見上げているのを訝しく思ったのか、ナギも夜空を見上げた。
「……」
「確かにね…別のものを見るには、今、見えているこの景色を捨てないといけないよね…」
「?」
視線を戻して、ますます、訝しげなナギに気づいたソウシが、苦笑を浮かべて、ようやく手元のグラスに視線を落とした。
『そうか…あの言葉は、お前にそれほど残ったか…言った本人は、気にも留めていないというのにな…』
我は、少し離れた場所で座り込んで、グラスを少しずつ傾けながら笑顔でシンと話しているヒロインを見る。
昼間の、ソウシとヒロインの会話。
遠ざかる島に、たまたま生じた虹。
「ずっと見ていることができたらいいのにね」
そう言ったソウシに、ヒロインが返した言葉。
「でも、この景色をあきらめるから、別の景色が見れるんですよね?」
「え? どういうこと?」
意外そうな表情でヒロインを見ていたソウシ。
そんな細かなことに気付かない彼女は、笑って答えていた。
「お話の絵本を読んでくれたおじいちゃんが、よく言っていたんです。次のページが見たかったら、今のページはあきらめなさい。両方見ることはできないのだからって。旅の景色もそうだったって。どんなに景色のすばらしい街があっても、それをずっと見ていたら、別の街は見ることができない。だから、その時に見えていたものは、ずっと眺めることをあきらめて、旅立つことで、もっと美しい景色や珍しいものに出会えるって」
そうだね、と曖昧に頷いて微笑んでいたソウシだが、何か思うものがあったようだ。
「星を数えるくらいしか、することが思いつかなかったんだよね…。今じゃ、そっちのほうが思いもつかないけどね」
ソウシが、一気にグラスを空ける。
横目で見たナギが、酒瓶をトン、とソウシの前に置いた。
ソウシがその瓶を見て、目を丸くする。
「この酒…まだあったの?」
「……船長命令で、仕入れておきました」
ソウシの視線が、今度はハヤテやトワに語りながら笑うリュウガを、捕える。
視線に敏感に気付いたリュウガが、ふとソウシを見た。
「なんだ?」
「覚えててくれたんだ。ありがとう」
「おう。まぁなっ!」
笑ったリュウガが、続きを若手二人に語りだす。
「………」
黙ってナギは自分のグラスを傾けたが、次の瞬間、手を止めた。
ソウシが、酒瓶から直接、一気飲みを始める。
「ドクター?」
ナギの驚きぶりから考えるに、それなりに強い酒…なのだろう。
「…うん。久しぶりにやると、ちょっとキツイねー。なんか、歌いたくなってきたなー」
結局、一気に瓶を空にしたソウシは、楽しそうに団歌を歌い始めた。
我は時々音がひどく外れる歌声を聴きながら、船首に立つ。
どの海賊も同じ。
大きな別れを経て、今、我のもとに出会い集っている。
『…そういえば、船長が何人も交替した古船が、別れは出会いのルールだと言っていたな…』
我の言葉は人間に届くことなく、海に溶けて消えていった。
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