月痕
有明の月が消えた昼間。
いつもと異なる空気が我の体内に満ちている。
優しい気遣いと心配と。
我は、海賊船の精霊、シリウス。
人には見えず、聞こえず、触れられぬ存在。
昨夜、高熱を出したヒロインは、部屋で舵主のシンに見守られて眠っている。
厨房ではナギが、米をわずかな塩と野菜のスープを加えた水でゆっくり煮込む料理を作っている。
医務室ではソウシが、何種類かの薬草を混ぜ合わせて、煎じる準備をしている。
氷を砕いていたトワが、届けるとナギに言って厨房を出て、船内を歩きはじめる。
シンの代わりに舵を握るリュウガ。
一人で甲板掃除をしているハヤテ。
『お前が寝込んだだけで、我の空気はこれほどに変わるのだな…』
我は、そっと眠っているヒロインの額に触れた。
眠っていたヒロインが、微かに瞼を揺らして、我を見返す。
ノックがして、トワが持ってきた氷を、シンが受け取る。
「ヒロインさん…どうですか?」
「変わりない……」
「あ、ナギさんが、あとでお二人の昼食を届けるそうです」
「…わかった」
部屋の入口で会話が交わされている間も、じっと額に触れている我を見つめているヒロイン。
いや、実際には、我がいる天井を見ているだけなのだろう。
海賊達の海や船への想いから力を得た我。
人の病を癒す力など持ち合わせていないが、突然、理由も分からず高熱を出せば、海賊達同様に我も心配になる。
『いつまでも眺めていないで、眠れ…』
額から手を離した我を、ヒロインの視線が追いかけてくる。
「だれ?」
微かな問いに、我が驚く。
氷をサイドテーブルに置いたシンが、眉根を寄せてヒロインを覗き込んだ。
「ヒロイン? どうした?」
「…知らない人がそこに…」
「人?」
薄く開かれたヒロインの視線を追ったシンが、我をまっすぐに見た。
「誰もいない。気にするな」
「……ありがとう…」
微かに囁いたヒロインが目を閉じて、眠りに落ちていく。
今のありがとうは、我に向けた言葉か、それともシンに向けたものか。
「…熱で幻でも見たか……」
シンが呟いて、氷水で冷えた布を絞る。
人は時折、不思議なことをする。不思議なことが起きる。
『そうか……我が人に見えたか……』
面映ゆさを覚えつつ、我はリュウガの傍らに立った。
リュウガの勘に頼る舵とりは、風任せ、波任せがほとんどだ。それでも、不思議なほどに危険は回避し、ほぼ、目的地に向かう。
『我の船長がおまえで良かった』
彼に届かない言葉だと承知で、風に乗せてみる。
「お? なんだ? いい風が吹いて来て嬉しいのか?」
風を受けて膨らむ帆を見上げて、リュウガが笑った。
海を進む速度が増す。
我なりに、大きく揺れぬよう願いながら、海面を進む。
やがて、ソウシが薬草を煎じる香りが、我の中に満ちていった。
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