夕月



夕方の朱い空に浮かぶ月を、夕月と呼ぶ。
紅と闇が互いに入り混じった模様を織りなす海を、我は斜め後ろからの順風を受けて、快速に滑る。
「クォータリーが、好きだな…」
舵主のシンが、ハンドログで我の速度を測りながら、呟いた。
『確かに、一番、身体が軽くなるな』
我の声は人間には届かない。
我は最も優秀な航海士と噂されるシンが操る海賊船の精霊、シリウス。
「え? 何が好きなんですか?」
砂時計を持つ、という簡単な手伝いをしていたヒロインが、きょとんとした表情でシンに聞いた。
「………」
シンの目が、砂時計の砂を見つめる。砂が落ちきったところで、シンは流したロープを回収し始めた。
「シンさん?」
「人が計算している時に話しかけるんじゃない。速度9.5ノットといったところか。速いな…」
「あ、ごめんなさい…」
途端に、ヒロインがしゅんと、小さくなる。
「クォータリー。斜め後ろから吹く風のことだ。上手く風を捕える船によっては、真後ろからの風よりも速度が増す。今のコイツがそうだ」
シンが小さくなったヒロインに説明しながら、我の船縁を掌で軽くたたいた。
「確かに、怖いくらいに速いですね…」
「リーフが必要か…」
『いや、我はこのままがいい』
「リーフ? 何かの葉ですか?」
シンの独り言のような呟きに、またも、ヒロインがきょとんとする。
チラリとヒロインを見たシンが、彼女のおでこを指先で弾いた。
「いったぁ…」
「ふん。リーフってのは、帆の一部だけをたたんで、風を受ける面積を小さくすることだ。それで速度は落ちる。いちいち、俺の独り言にまで反応しなくていい。…これから暗くなるっていうのに、速度が早すぎるからな……だが、コイツは珍しく速く走れて喜んでるようだから、しばらく様子をみるか。おい、ヒロイン。ナギの手伝いに行く前に、このハンドログ片付けておけ。俺は舵をとる」
「ハンドログって、この、速度を測るロープですよね?」
ヒロインが、確認をとって、ロープを整え始めた。
我は、メインマストの一番上に立って、朱と紺と黒がせめぎ合う空と、黄色く輝く月を見上げる。
身体いっぱいに浴びる風が、心地よい。
喫水間際の砕け散る波の感触が快い。
「……なんだか、嬉しそうだな」
我の姿も見えず、声も聞こえないはずのシンが、我の居るメインマストを見上げて笑った。
『風の船になった気分だ』
確かに、日が沈んで暗闇が満ちてしまえば、この速度は危険だろう。
いつしか夕陽の残照は、黄昏へと明るさを変えつつある。宵の明星が西の空に沈む前の輝きを見せる。
「速度を落とすぞ」
独り言のようなシンの言葉は、我に向けられた言葉。
少し残念な気分を残しつつ、我はシンに操られるままに速度を落としていく。
我の喫水で砕ける波の勢いも弱まる。
シンに言われた仕事を終えたヒロインが、厨房に入っていく。
今夜は十三夜。
縁起の良い月とされ、地方によっては満月ではなくこの月を祝う。
満月まであと一歩という月齢状態から、物事の成功を祈ると良いともされる。
『いつまでも海賊達の居場所でありつづけたいものだ…』
我は、マストの頂上で月を見上げ、人々には届かぬ声で呟いた。


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