十七日月
夜、少し遅くなってから、いびつな月が海面に昇る。
我は海賊船の精霊、シリウス。
宴の夜以来、我は船医ソウシの様子が気になっている。
船長リュウガも、我と同じように心配しているらしく、船長室より甲板で過ごす時間が増えている。
保たれていた均衡は、1人が崩すと徐々にまわりへ派生していく。
「ヒロインちゃん、薬品をこぼしちゃったんだけど、少し手伝ってもらっていいかな?」
「あ、はい。すぐに行きますね」
甲板で航海士のシンと話していたヒロインが、医務室へ駆けていく。
シンがヒロインの手を掴みかけて、見送って、何か考えを振り払うように首を振った。
ミズンマストに背中を預けて甲板を眺めていたリュウガの表情が曇る。
この船内は我が体内。
そんな我は、船内の出来事は全て把握せざるをえない。
たから、船医が故意に薬瓶を落としたことも知っている。
「なんだか、甘い匂いしますね……」
「香水を作ろうと思ったんだけど……ごめんね、ヒロインちゃん。この毛布も少し薬品がついたみたいなんだ。甲板に運んで、明日洗ってくれるかな?」
「はい、判りました」
毛布を抱えあげたヒロインが、足元をよろめかせた。
「おっと」
ソウシがヒロインを背後から優しく抱きとめて、くすっと笑った。
「気をつけてね。溶剤にアルコール使ったから、あまり毛布に顔を近づけないで。酔っちゃうよ。うーん……やっぱり私が運んで来るから、ヒロインちゃんは机や床を拭いていてくれるかな?」
「はい。すみません…」
ヒロインの頬が微かに赤いのは、室内に充満している空気に含まれたアルコールが原因だ。
『窓は閉めるな』
我の警告は、ヒロインに届かない。
ソウシが居なくなったあとで、ヒロインはまず卓上を拭き、部屋主がわざわざ開けておいた窓を閉めてしまう。
『…これが狙いか?』
入口に戻ってきたソウシの笑みが深くなった。
ずっと様子を眺めていたリュウガが異変を察して医務室に向かっている。
「昼間、教えたよね? 薬品がこぼれたりしたら、できるだけ窓は開けておくようにって。やっぱり、忘れちゃった?……いけない子だね」
船医が意識のないヒロインを抱きあげて、髪に頬を寄せる。
「ねえ、なんでシンなのかな? 君は、シンじゃなきゃだめなのかな?」
我だけがよく知る、時折、この部屋に溢れる想い。
「……おい。………。ヒロインは俺が届けて来る」
甘ったるい香りが充満している室内に入ったリュウガは、多く語らずに、ヒロインを船医から取り上げた。
「船長が? 危ないなぁ…」
「今のお前より、よっぽどマシだ」
ソウシは苦笑する。
「うん。じゃあシンによろしく」
窓と扉を開け、あっさりとリュウガを送り出した。
あっという間に、室内に充満していたはずの、渦巻く想いも消える。
リュウガはため息をついて、航海室へ向かう。
「おい、こいつ、へばってたぞ。…頼まれて片付けた薬品は、どうも濃度の高いアルコールらしい」
船長に抱きあげられて運ばれたヒロインを見たシンが、なぜか先程のソウシと同じ表情をしている。
今は、何事もなかったように、医務室を片付けている船医のソウシ。
『波紋が複雑になったな…』
昨日、無自覚にソウシの心のスイッチを押してしまったヒロイン。
海賊達のそれぞれの想いが、微妙に重なり複雑な跡を我が体内に残す。
あの、空にかかる、いびつな月のように。
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