柑子色



このところ、寒暖の差が激しい日々が続いていた。
朝から、ヒロインが幾度か咳をしている。
「……いいから、ドクターに診てもらえ」
厨房に手伝いに行ったヒロインだったが、風邪気味の咳をしているとナギに見抜かれ、扉の外へ少々強引に追い出された。
『そう落ち込むこともないぞ』
肩を落として医務室に向かうヒロインの傍らに立って、我は彼女に聞こえぬ声をかける。
我は船の精霊シリウス。
我が声は、人に届かないことのほうが多い。
ヒロインのいなくなった厨房で、ナギは鮮やかな柑子色の果物を手にとった。
おそらく、風邪気味のヒロインに配慮したメニューに変更したのだろう。
医務室では、船医のソウシがにこやかにヒロインを迎え入れる。
「確か、昨夜はシンが一晩中舵取りしていたよね? ヒロインちゃん、きちんと寝た?」
「えーと…。シンさんに寝るように言われて、日の出前には…」
『あれは、寝たとはいわないな』
ヒロインの答えに、我は苦笑する。
船医も、睡眠不足だということはすぐに察したようだ。
「じゃあ、風邪薬を出すからここで飲んでいきなさい。この前、港で仕入れた、風邪の初期によく効く薬だから」
そう言ってソウシが薬棚から手にとった錠剤は、淡いレモン色をしている。
『あいかわらず、邪気のない顔で嘘をつく』
我は、船内で起きた出来事はすべて知る存在。
その錠剤が、風邪薬ではないことを知っている。が、同時に、今のヒロインに必要な薬であることも知っている。
「えーと、水は…」
「ああ、これは、舌の上で溶かして飲む薬だから。はい、あーんして」
疑いもなく素直に口をあけたヒロインの舌の上に、ソウシが錠剤を置く。
「溶けてなくなるまで、そのまま口を閉じていて」
これまた素直に頷くヒロインに、ソウシは思い出したように言った。
「ああ、あと、よく効く代わりに、ちょっと眠くなることもあるけど……」
言い終わらぬうちに、ヒロインの体がぐらりと傾く。
「……っと。大丈夫だよ。ゆっくり眠るといいよ」
ソウシは、力の抜けたヒロインの身体を抱きとめ、耳元で囁く。そのまま彼女を抱き上げて、医務室の寝台へそっと寝かせた。
『お前が作った即効性の睡眠薬…効き目は昼ごろまでか』
確か、以前トワで試した時は、一錠で半日ほど眠っていたはずだ。
睡眠不足だったせいもあるだろうが、ヒロインもあっという間に眠ってしまった。
「あんまり素直だと、イタズラしたくなっちゃうな…」
不意に、ぽつりと呟いて、ソウシがヒロインの髪を撫でた。そののま指先を頬から首筋へと這わせる。
「……ん。シンさん…」
一度はくすぐったそうに身を捩りながらも、動きを止めたソウシの手へ擦り寄るヒロイン。
その幸せそうな表情に、ソウシがため息をついて寝台から離れた。
徹夜明けで厨房へヒロインの様子を見に行ったシンが、医務室へ向かっている。
手には、ナギが作った柑子色のジュース。
ヒロインが飲むのは、昼過ぎになってしまうだろう。
医務室へ近づいてくるシンの足音に、ソウシが静かな笑みを浮かべた。
『徹夜明けのシンをからかいすぎるなよ?』
我の忠告は、ソウシの耳へは届かない。
一悶着始まりそうな気配に、我はリュウガが立つ見張り台へ移動し、ため息をついて空を見上げる。
「…心配いらねぇよ」
勘のいいリュウガの独り言は、我以外の誰も聞くことなく、風に流されていった。


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