昔々のこと。 古代ローマ帝国において、未練があると勇敢な戦いができないから、という理由で、兵士の婚姻が禁じられた時期があった。 その際、その禁を破り、兵士の結婚を祝福したのが、当時はまだ新興宗教であったキリスト教の司教であったヴァレンティヌスである。 ヴァレンティヌスはその後帝国に捕らえられ、拷問の末撲殺されたが、その殉教した2月の14日は「聖ヴァレンティヌスの日」とされた。 その後その日はローマの伝統的な「ユーノー祭」とも結びつき、恋人にプレゼントを贈る日となる。その風習が日本に伝わった際、製菓企業の販促キャンペーンに利用され、女性が愛しい男性にチョコレートを贈る日になったわけだ。まあ、最近は愛しい人に限らず、お歳暮やお中元と似たような意味合いが生じてしまっているような現実も見受けられるが。 ともあれ。 バレンタインデイというのはいろいろと商業的思惑が途中でそんなふうに混入してはいても、一応はれっきとした謂われのある聖者の日であることに違いはないのだ。 それじゃあ。 ホワイトデイってのは何だよ。 ナニか? 一人の相手を取り合った末に銃殺されたアメリカ人男性ホワイト氏(享年42)の命日か何かか? それに、ホワイトデイってのは何を贈るのが正しいんだよ。ホワイトチョコか? マシュマロか? クッキーか? 教えてくれよ石村萬盛堂。 ほぼ一月前に思い人から手作りのチョコレートなど受け取るという幸福を享受した代償として、前島響は頭を抱えて悩んでいたのであった。
「…それで…どうして、わたしなんですか…?」 折り入って話がある、と、一つ屋根の下に住んでいるにもかかわらずわざわざ喫茶店になど呼び出されたはつえは、おちつかなげに周囲をきょろきょろ見回していた。 「…ふみさんやかなこさんに知られたら、どうなると思う?」 「気持ちはわかります。けど…」 ふみは何か言いにくそうにもじもじしていたが、やがて意を決したように、こっそりと響の左斜め後方のテーブルを指し示した。学校帰りとおぼしき近所の女子高校生が駄弁っている。 「あれが?」 「今、あのテーブルにチョコパ運んできたウェイトレスさん。ふみお姉ちゃんです」 「げっ!?」 あわてて周囲を見回す響。すぐにそのウェイトレスを見つけた。ふみとは似ても似つかない女性だったが、響と目があった途端、この上なく不自然に目を逸らした。その態度が、はつえの言葉が正しいというなによりの証拠となった。 「…かなこお姉ちゃんが諜報用擬装をしてますから、見た目じゃわからないと思いますけど…」 「…じゃあ、かなこさんも…」 「はい。偵察機か何かでどこかから様子を探ってると思います。さすがにどこからかまではわかりませんけど。 …この間、バレンタインのとき、響さんと伊倉さんの様子を探ろうとしたの見破られて、本気になっちゃったみたいですから…たぶんセントラル・インテリジェンス・エージェンシーの人でも、見破れないと思いますよ」 「・・・・・・」 響は深く深くため息をついた。 「響さん…あの…わたし、なんて言ったらいいかわかんないんですけど…」 「…わざわざ来てもらってごめんね、はつえちゃん。何でも好きなもの頼んでいいよ」 諦めたように、響はそう言った。できたはつえは、レモンティを一杯頼んだだけだった。 「…それに、響さん。わたしたちはお互いの場所はわかるようになってますから…相談相手に選んでくれたのは嬉しいんですけど、相手がわたしじゃお姉ちゃん相手に看板立ててるのと一緒ですよ」 『ああっ、はつえ、余計なことをっ』 『だってホントのことだもん』 脳裏に響いてきた声に、脳裏で答えるはつえ。やはりかなこは会話を聞いていたようだ。 「でも、響さん。せっかく相談してくれたんだから、せめてお姉ちゃんたちのことはわたしがなんとかします。これから少なくとも半日の間は、響さんは、何か機械を通しては知覚できなくなります。電話とか通信機器は使えなくなりますから気を付けてくださいね」 「え? そんなことできるの?」 「わたしの“かくれんぼステルス”です」 『ああっ、はつえ、また余計なことをっ!』 『いいかげんにしないとダメだよ、お姉ちゃん…』 性格のためあまり目立たないが、実ははつえにだってこの“かくれんぼステルス”のほかにも“おにごっこブースター”“ちゃんばらブレード”等々、物騒な装備はたくさんある。本当に戦闘用のかなこに比べればさすがに性能では多少劣るが、それでもかなこのセンサー類を半日ごまかすことくらいはできるのだ。 …レモンティ一杯分の働きとしては出来過ぎだろう。
はつえの“かくれんぼステルス”の効果に姉二人が地団駄を踏んでいる間に、響は大学構内に向かっていた。直接自宅に尋ねていけるほど親しい女友達はいない(この前までは夏海がそうだったが、彼女は「女友達」ではなく「恋人」になってしまった)が、普通に話すくらいの相手だったら何人かあてがある。構内だったら彼女たちに出会う可能性はなくもないだろう。 案の定、所属しているSF研究室の部室に行ってみると、女性が一人でぽーっと本を読んでいた。響は彼女のことを知っていた。同じSF研の茂森明日美という女性だ。カラオケなど歌が上手で、速水という男性と付き合っていたところ、例のだんごな歌が流行ったせいで「うたのおねえさん」というあだ名をつけられた。略して「おねえさん」である。歌の流行りが過ぎ去った今でも、本人が文句を言わないこともあってか、あだ名だけはそのまま残っている。 「あ、来てたんだおねえさん」 「んあー、前島くん。おはよー」 …ただ、彼女にはうたのおねえさんっぽいさわやかさはカケラもないのだが。 「なあおねえさん、ちょっと相談があるんだけど」 「なあにー」 「おねえさん、バレンタインに、おにいさんにチョコあげた?」 当然、おにいさんとは彼女の相方である速水君のことである。ちなみに彼の方もやっぱり歌は上手なのだが、茂森と違ってホントにさわやかな「うたのおにいさん」といった風情の青年だ。例の三兄弟な歌が流行らなかったとしても、「うたのおにいさん」くらいのあだ名は付いていたかもしれないほどに。あるいは茂森がちっともそれっぽくない上に流行も過ぎているというのに今でも「おねえさん」呼ばわりされているというのは、彼との付き合いは相変わらずだ、というのが理由なのかもしれない。なお、SF研のメンバーではない。 「あげたよー」 茂森と速水は、響&夏海とは交際歴が違う。茂森の性格もあるのかもしれないが、彼女はごくごく平然と答えた。 「…お返しってさ、どういうモノ期待するもんなの?」 「そっかー、夏海ちゃんからもらったんだねー」 「えー、あ、うん…まあ、そう」 照れる響の様子など気にもしないで…というより、さっきから目は本の文章を追い続けていて響の方など向いていないのだが…茂森は平然と答えた。 「私はねー、といちー」 「は? といち?」 「そー。あげてから一月経ったから、三割増しー」 「…高利貸しかよ…」 「倍返しとか三倍返しとかいうより良心的だよー」 そう考えてみれば倍返しだの三倍返しだのは高利貸し以上に非道な行為なのかもしれない。だが…。 「そーゆーもんじゃないんじゃないか?」 「それじゃー、前島君、夏海ちゃんに三倍返しする?」 「うーん…三倍返しって言ってもな…」 何の三倍返せばいいのやら。なにしろモノは手作りだ。材料費の三倍…じゃ、申し訳なすぎる。 「あー、手作りかー。そりゃ困るよねー」 「なんでわかったっ!?」 「まるわかりー」 「ううう…」 「そうだねー、前島君と夏海ちゃん、趣味がよく合ってるから…前島君が好きなもの渡せば、夏海ちゃんも喜ぶと思うよー」
相変わらず本から目を離しもしなかったが、初めて茂森がマトモなことを言った。 「そんなのでいいのか?」 「そんなのがいいと思うよー。冗談抜きで、夏海ちゃんって金目のモノもらって喜ぶコじゃないもの。そう思うでしょ?」 「確かに…」 決して似合わないわけではないのだが、夏海にアクセサリだの何だのの類を送るということには結構な違和感があった。茂森の言うとおり、夏海も喜ばないだろう。 「…参考になった?」 初めて、茂森が本から目を離して、響の方を向いた。響は微笑んで、うなづいてみせた。
…とまあ、響が普通の大学生だったなら、このまま話は真っ当に進んでいったのかも知れない。だが、彼の周りには最高の味方であると同時に最高の厄介者である二人がいるのだ。 「もう、はつえったら余計なことをー」 はつえのほっぺをむにっと引っ張ってどこまでのびるか挑戦しながら、かなこが顔だけはにこにこしながら言った。 「えうー、だって、やっありだえだお、あんなこと…」 ほっぺを引っ張られているせいで少し言葉がヘンになっていたが、それでもはつえは言うべき事は言った。 「でもね、はつえちゃん。響クンと夏海ちゃんはまだ始まったばかりの大切な時期なの。失敗しないように見守っていてあげないと」 「おけーなおへわだとおおう…」 「あー、はつえったら冷たいんだ」 ようやくかなこがほっぺを放してくれた。かなこが本気で引きちぎろうとか思っていたのならともかく、そうでなければ頑丈なはつえにとっては痛くもかゆくもない。でもやはり気分のいいものでもない。 「まだ何かするつもりなの…?」 「もちろん」 即答する姉二人。ため息をつくはつえ。 「響くんにね、一番素敵な贈り物をさせてあげようって思ってるんだよ」 「一番素敵な、贈り物?」 「女の子が一番ほしいものは、やっぱり頼りになる素敵な王子様なの」 「…はい? おうぢさま?」 ふみの言葉に、一瞬はつえの頭脳が停止した。 「…そ…そーかなー…」 再起動したはつえは顔中一杯に疑念を浮かべ首をかしげる。今時…でなくて昔でも、実際に「おうぢさま」なんぞ夢見てる女性などいるものなのだろうか。 少なくともはつえ自身は、白い馬にまたがってぱからっぱからっとか走ってくるヒトとお近づきになりたいとは思わなかった。 ましてやこの場合の「女の子」とは、「あの」夏海である。間違ってもそんなことはなさそうだ。 「それにね…贈る方の、響くんみたいな男の子たちは、女の子はそういうの夢見てる、っていう夢を、見ていたいものなの」 「…そうなんだ…」 さすがに男心の話になるとはつえにわからない。 …が、はつえは気づいていなかった。そんなもの、ふみにだって実はわかってないのだ。結局のところ、はつえはふみに丸め込まれただけなのである。 「…で、それはわかったけど…結局、どうするの?」 「ふふん。ま、古典的な手だけどね…」 ニヤリと笑ったかなこが、自分の背後を示した。先程からミョーな幕が下がっていてその向こうがよくわからず、気になってはいたはつえは、奥をのぞき込んで一瞬で表情を引きつらせた。 ぬるん。 「ビビビっ…」 「ネズミ男?」 かなこのワケのわからない茶々をまるっきり無視して、はつえは姉にくってかかった。 「B兵器て言ったって、シュミ悪いにも程があるよお姉ちゃんっ!!」 「ふっふーん」 かなこはこの上なく上機嫌だった。 …悲しいことに。
そもそも、響や夏海の通っている大学は、今はもう春休みだ。だから、二人とも毎日通学してはいない。とはいえ二人とも校外でもいくらでも会っているし、そうでなくてもサークルにはちょくちょく顔を出していてそこで会ったりもしている。 ただ、やはりサークルで会うというのは偶然で、行ったからといって必ずしも互いに会えるわけでもないし、互い以外の誰かに会うこともある。 この日も夏海がサークルに行ってみると、そこに響の姿はなかった。まあ別に響目当てに来たわけでもないし、会いたければ直接会いに行けるのだからそれはいいのだが。 「あー、夏海ちゃん、おはよー」 部室にいたのは相変わらず茂森だった。相変わらず本から目を離さないのに、何故か入ってきたのが誰だかは間違いなく言い当てる。ちなみに茂森はいつ来てもほとんどの場合部室におり、「住んでるんじゃないか」という噂さえ立っている。サークルの名簿には一応彼女の住所も載ってはいるのだが、そこに連絡してもまずつかまらないせいもある。 「あ、明日美ちゃんやっぱりいたんだ」 「まーぁねー」 返事をすると、茂森は目こそ逸らさなかったものの、ページをめくる手を止めた。 「ねー、夏海ちゃん」 「ん?」 「この頃さー、前島君に会ったー?」 「…そういえば今月に入ってからは会ってないなあ。どうして? 前島くんに何か用でもあるの?」 「うぅん。私は昨日会ったー」 「そうなんだ。前島くんがどうかしたの?」 そう聞く夏海を、本から目を上げた茂森が見た。茂森がちゃんと相手の顔を見て話すこと自体珍しいので、夏海は首をかしげる。 「教えてあげないよっ。じゃん」 三角形のスナック菓子みたいなことを言って茂森は微笑んだ。 「…明日美ちゃん、古い…」 と、突っ込みつつも、茂森が相変わらずニコニコしているのを見て、夏海はピンときた。 「あ、んー…」 「しあわせものー」 かすかに赤らんだ夏海の頬を見逃しはしなかったが、茂森は本に目を戻しながら言った。視線を逸らしつつもまだ笑っているところをみると、夏海が感づいたことには気づいたのだろう。 「あっ、明日美ちゃんだって似たようなモンじゃないのよぅっ」 「まーぁねー」 どちらかといえば夏海と響よりも、茂森と速水の方が公認されている感は強い。ただ、それだけに今更茂森が速水とのことをどうこう言われてたじろいだりすることはないのだが。 「夏海ちゃん、その様子だと、ひょっとして初めてー?」 「・・・・・・」 沈黙がわかりやすい肯定だった。 「うーふふーふふー」 イヤな笑い方をする茂森。 「楽しみだねー、当日。二人きりでしょー?」 「えー、あー、うん…」 照れ続ける夏海だったが、そこでふと思い当たった。一月前は響の機転で見抜いたものの、今回もまず間違いなくかなこたちがちょっかいを出してくると思っていいだろう。 「どしたの?」 突然心配そうな顔になった夏海を見ても、茂森は別段そんな彼女を気遣うような様子も見せなかった。 「あ、う、ううん、なんでもない、なんでもないよ」 「大丈夫だよう、前島君ならきっと優しくしてくれるからー」 「…何の話よ…」 茂森はどうも著しい勘違いをしているようだったが、それはそれでいいのかもしれない。まさか、決戦兵器に狙われている、などとも言えないだろうから。 今度は何を仕掛けてくるのやら。まあ一筋縄ではいかないのだろうが。想像して夏海はため息をついた。
が。 かなこがそんな夏海の想像などはるかに超越していたのに気づいたのは、当日の朝になってからだった。 その日、約束通り響に会おうと、夏海が自宅を出たところ…。 ぬるるん。 「はえ?」 一瞬、夏海は我が目を疑った。 それがもう少し別の姿をしていたなら、夏海も冷静にかなこのことを思い出せていただろう。が、そいつのその姿に、生理的嫌悪感の方が先立った。 「きいいぃーやああぁー!!??」
「響さぁーん!」 出かけるべく身支度をしていた響の部屋に、血相を変えたはつえが飛び込んできた。 「ど…どうしたの?」 「…冗談だとばっかり思ってたのに…とにかく、早く伊倉さんの所に行ってあげて下さい!」 「夏海…何かあったのか?」 「おね…」 そこまで言った途端、背後からぽん、と肩を叩かれ、はつえは口を閉じた。振り向くと、表情を引き締めたふみが立っている。 「よくわからないけど、夏海ちゃんが大変なんでしょ? ここでいろいろ話してるヒマはないんじゃない?」 「そう…なのかな、なんかよくわかんないけど…」 戸惑ったまま、それでもふみに押し出されるようにして、響は部屋を出て行った。 あまりにも慌ただしかったので、響は気づかなかった。 真面目な顔のふみの、目だけは思いっきり笑っていたことに。 「お姉ちゃん…」 「ダメよはつえちゃん、二人の邪魔をしちゃ」 「…二人って…ふみお姉ちゃんとかなこお姉ちゃん?」 「もちろん違うわよ」 満面に笑みを浮かべるふみ。 「・・・・・・」 いつも思うのだが、どうしてふみといいかなこといいこうも行動に迷いが無くて自信たっぷりなのだろう。はつえは少しうらやましくなったが、同時にこうはなりたくない、とも思ったのであった。
とろろとか、納豆とか、オクラとか、モロヘイヤとか、なめことか、そういうぬるぬるしたものが、夏海は嫌いだ。 夏海は小さい頃から、機械をいじるのが好きだった。 少女時代のある日、夏海はうち捨てられた古い古い耕耘機を見つけた。それは夏海にとって格好のオモチャに見えた。 工具の類などもちろん持っていなかったが、そのトラクターの点検口はそんなものを使わなくてもつまみをひねることで開くようになっていた。嬉々としてその蓋を開けた途端…、 中にはナメクジの群れが、びっしりぬるぬるぬるぬる…。 「いいぃぃーやああぁぁー!!」
そんな幼少時のトラウマのせいで、夏海は粘液質のモノを見ると恐慌状態に陥ってしまう。 そうでなければ、こんなモノ、一目で犯人がわかるはずだ。 だから、そんなトラウマのない響は、その現場にたどり着いた途端、すべてを悟った。 「・・・・・・」 そう、そんな突拍子もないもの、他の誰が用意できるというのだ。 「きゃーきゃーきゃー、いやーいやーいやー、たーすーけーてー!!」 ぬるるるん。 「…何やってんだ…?」 無論、それは目の前で錯乱している夏海に向けた言葉ではない。その張本人に向けたものだ。 「あー、あー、まえじまくぅぅん、たすけてえぇぇ!!」 どうにかこうにか、夏海は響を知覚したようだ。 響も、夏海が大のぬるぬる嫌いだということは知っている。それに、小学生でもあるまいしサディストでもないし、好きな相手に意地悪して楽しむ趣味は持ち合わせていない。が、そのあまりの非現実的な光景に、すぐに夏海を助けなきゃ、という具合に思考回路がつながらなかった。 なにしろ、夏海は…大型犬くらいの大きさのあるナメクジのような生き物に、のしかかられていたのだから。
「うふふふふ…! どおよあたしのB兵器、水陸両用ウミウシの『ぬるはちくん』は!」 「すんごく趣味が悪いと思う」 そんな二人の様子を映し出すディスプレイの前で得意満面にふんぞり返るかなこの言葉を、はつえは一言で切って捨てた。 「それになんなの、『ぬるはちくん』って」 「七つの試作品を経て完成した八番目で、ぬるぬるしてるから」 「満州族の中華帝国とかとは関係ないのよ」 ふみもどうも悪ノリしているようだ。 「大丈夫、別にヘンな毒とかあったりゾウも蹴散らす怪力があったりするわけじゃないから。ただ気持ち悪いだけよ」 「それで充分だよ…」 「あ、でも、やろうと思えばイクラちゃんをぺしゃんこにすることくらいならできるけど?」 「絶対ダメ」 「それを防ぐのが、響クンの役目なの」 ふみがにっこり笑っていった。はつえは深くため息をつく。もうため息を何回ついたか、数えることなど諦めていた。 「そんなのだったら、別にあんな悪趣味なもの作らなくたって、かなこお姉ちゃんの諜報用カモフラージュでチンピラか何かになってからめばいいだけじゃない」 「ダメよそんなありきたりなのじゃ。ヤラセかと思われちゃうじゃない」 「あんなもののほうが、よっぽどお姉ちゃんの仕業だって思われると思う」
その通りだった。 響は頭痛に耐えるように頭を抑え、軽く振ると、懐から何か取り出して、唇に当てた。
「…あ」 珍妙な音が聞こえた。 「笛ねえ」 「ほら、呼び出しだよ、お姉ちゃん」 それは、バレンタインのときかなこが響に渡した、あの笛の音だった。 「二人がぴんちになったら、助けに行ってあげるんでしょ?」 「・・・・・ーっっっ!!」 かなこはとてつもなく悔しそうな顔をした。
「まったくもう!!」 夏海は、ここまで怒った響を初めて見た。 結局、自分が引っ張り出されてはもう仕方ないと思ったかなこによって「ぬるはちくん」はあっさり引っ込められ、夏海は開放された。 そしてその途端、響はやってきたかなこを別人のような大声で怒鳴りつけたのだ。まだおびえていた夏海が、何事かと我に返ってしまうほどだった。 そして響はそのままかなこを引きずって家にとって返し、ふみに対しても怒りを爆発させた。攻撃力では圧倒的に勝るはずの二人も、すっかり響の迫力に呑まれてしまい、ただひたすら謝り続けるしかなかった。はつえが一緒になって謝り、必死に取りなしたが効き目がない。見かねた夏海も仲裁に入らなければ、あるいは手が出ていたかも知れない。 結局このままではおさまりそうにないので、やむなくはつえが力ずくで、響を夏海の家まで連れて行ったのだ。そして後のことを任せたはつえも帰り、夏海と二人だけになったのだが、響はまだ怒り狂ったままだった。 「ねえ…前島くん…。もうそろそろ落ち着いてよ…」 「まあ…夏海がいいんなら、いいけどさ…」 言いつつも全然怒りはおさまりそうにない。さっきからこんな感じなのだ。 ふみとかなこが束になっても気圧されるほどの怒りだ。決して近寄りやすい雰囲気ではない。が、響が自分のためにそこまで怒ってくれている、と思うと、夏海はなんとなく嬉しくなって、響のすぐ隣に座り、彼に寄り添った。 「ありがと、あたしのために怒ってくれて。 でも、あたし、怒ってる前島くん、あんまりいつまでも見てたくない」 「でもさ…」 「いいの。でも、はナシ」 「ん」 ようやく、響は息をついた。 「なんか…ごめん、カッとなっちゃって」 「うん」 しばらく二人で黙っていたが、ふと、夏海が身じろぎした。 「どうした?」 「なんか…思わず忘れてちゃったんだけど…服も顔も…」 確かに落ち着いてみてみると、夏海はまだぬるぬるべとべとのままだった。 「…あ…えと…。お風呂入って着替えたいんだけど…待っててくれる?」 「ぅえ!?」 思わぬ展開に、目を白黒させる響。怒りが冷めやらず熱かった頭がまた一気に熱くなった。…もっとも、怒りがぶり返したわけでなく、逆に怒りなどどうでもよくなっていたのだが。 「…帰っ…ちゃう?」 「…いや…」 それから、二人とも、何も言えなかった。 そして…。
「…なんてことになってるはずなのにーッ!」 「反省の色がないよお姉ちゃん!」 さすがに今度は偵察機も偵察衛星も使えず、かなこはただひたすら想像をたくましくするしかなかった。が、それすらもはつえには不謹慎に感じられた。…というか実際不謹慎だ。かなこの「想像」は、高度なシミュレートであり、かなりの的中率を誇る現実予測なのだから。 「今日はお姉ちゃん二人とも、写経でもして反省して!」 「あらあら…私も?」 「当然です! ふみお姉ちゃんも共犯なんだから!」 「うー…」 冗談かと思ったら、はつえは本当に半紙と筆と墨と硯を二セット持ってきた。 「お経一つで許してあげます」 「ホントにやるの?」キッ!「…わかりましたやります」 不平をもらしかけたかなこだったが、はつえの射抜くような視線に貫かれ沈黙した。 「まあ、経文一つくらいで許してもらえるなら…」 いいか、と言おうとしたかなこの目前に、 ごろごろごろごろ… 文字通り山のような巻物が積み上げられた。 「あ…えー…と…はつえちゃん? これはいったい…」 「『大般若経』全600巻、これで一つのお経だよ」 「…般若心経じゃダメ?」 「略しちゃダメ」 「ちょっと…これは…」 さすがのふみも顔色が悪い。 「玄奘三蔵は一人で持って帰ってきたんだから」 「三蔵法師にはイヌサルキジがついてたんじゃなかったっけ?」 「助さん格さん八兵衛じゃなかったかしら?」 「悟空と悟浄と悟能ですっ。いいから早く!」 「ううう…」 しかし反省とはいえいきなり写経とは。はつえも何考えているんだ。などと思ってみても結局は自業自得だ。 しかし…大般若経はマジで長い。しかも軍事にも家事にもまったく関係がないから、かなこやふみのアタマにもインプットされたりはしておらず、マジメに見ながら写すしかない。なるほど、こうして考えると写経というのは二人にはいい罰なのかもしれない。 黒く埋めるべき白い半紙はまだまだまだまだ残っている。白い。白いなあ。 ああ、だからホワイトデーっていうのかな…。 どうやらオーバーヒートしてきたらしく、かなこはぼんやりそんなことを考えながら、ロボットのように(ロボットだが)ひたすら黙々と筆を動かすしかないのであった。
〈おしまい〉
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