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第二話:夏といえば、とりあえず海だから。
 
 伊倉夏海とは何者か、と聞かれたら、響はこう答えるだろう。
「うちの大学の工学部の学生だよ。俺と同じSF研に入ってる」
 では、その夏海と響はどういう関係か、と聞かれたら?
 照れながら、それでも響は話してくれるかもしれない。
「…うーん…。たぶん、彼女、ってことになる…んじゃ、ないかな?」
 その実、別に響と夏海の間に特別な何かがあったわけではない。深い関係になるどころか、告白したりされたりといったドラマティックな出来事のひとつもなかったのだ。
 とはいえ、講義の度に必ず隣同士になっていたり、休み時間もずっと一緒にいたり、サークルから二人きりで連れ立って帰ったり、特段の用事もないのに休日に待ち合わせをして同じ場所に遊びに行ったり…わかりやすく言えばデートなどしたり、誕生日やらクリスマスやらにプレゼントなど贈りあったりしているのだから、客観的に見ればつきあっているとしか見えないだろう。事実響は自分と夏海はつきあってるんだと思っていたし、夏海もおそらくそう思っているだろうと思っていた。
 だからこそ。
 響はまだ一度も、夏海を自分の下宿に呼んだことはない。
 ふみやはつえ…そして最近はかなこまで加わり、ちょっと目にはハーレム状態と誤解されかねない場所に、誰が彼女を呼ぼうなどと考えるだろう。
 理由はそれだけではなかった。
 最後に響にもう一つ聞いてみよう。夏海とはどんな人か、と。おそらく彼の答えに迷いはあるまい。
「一言で言えば、メカフェチだね。卒論のテーマは変形合体ロボらしいよ。冗談かもしれないけど」
 …かなこたちと夏海を会わせるのは、いろんな意味でマズい。
 響はそう思っていた。
 
「ねえねえっ、前島くんっ」
 まるでずずいっと顔を寄せて話されているような錯覚を響は覚えた。実際には夏海の声は受話器の向こうから聞こえてくるだけなのだが。
「これからそっち、行っていい?」
「えっ」
 精密機器をいじるのは大好きなくせに、いつも夏海は行動がいきなりで大雑把だ。無論B型であることは言うまでもない。
 耳を澄ませるまでもなく、受話器の向こうからは重々しいエンジン音が聞こえてくるし、通話音質も悪い。彼女が愛車…軽自動車を上回る1000cc近い排気量の、仮面ライダーの乗ってるスーパーマシンと言っても違和感がなさそうな単車で、しかも彼女自身の手によってフルチューン済み…に跨ったまま、携帯電話でかけてきているのは明らかだ。もしOKと答えれば、彼女はかなこたち3人はもちろんのこと部屋の雑誌一冊すら隠す隙も与えず超高速ですっ飛んでくることだろう。
「あ、うー…。でも、祐さん今電源切れてるよ」
「…森博士って、いつも研究してるか電源切れてるかなのね」
 下宿に来たことはないものの、夏海とて響と同じ大学に通っているくらいなのだから、マッドサイエンティスト森祐のことは知っているし、響がそんな彼女の研究室に下宿していることも知っている。ただ夏海が一般人と違うのは、「マッド」とはつくにせよ天才的なサイエンティストでありエンジニアである祐に憧れを抱いており、是非一度会いたいと考えているということだ。だから夏海は響に会いたいという理由だけでなく、祐に会いたいという理由でも研究室に来たがる。もっとも、先ほどの会話にもあったとおり、祐はいつも研究しているか研究疲れで寝ている…「電源切れてる」とはこのことだ…かのどちらかなので、まだ夏海は祐に会ったことがないのだが。
「ん、まあいいわ。森博士に会えなくても…夏休みになってから、前島くんにも会ってないし…ねぇん?」
 最後のところの夏海の声音はなんだかミョーに甘ったるかった。夏海との付き合いは大学に入ってしばらくしてからだから、そんなに短くもない。だから響は、こんな声を出す夏海が何か良からぬことを企んでいる、ということが、漠然とだがわかった。
「夏海」
「なぁに?」
「何を企んでんだ?」
「や…やあねえ、企むだなんて…。あたしはただ、前島くんにもしばらく会ってなくて、寂しいなあって…」
 案の定、問いただしてみると夏海はしどろもどろになる。どうやら体よく来訪をお断りできそうだ…と、響が密かに胸をなで下ろした、そのときだった。
「おーい、響くーん。姉さんがすいか切ってくれたんだけどさあ、一緒に食べないー?」
 ドアの外からかなり大きなかなこの声が聞こえる。
「…!」
 自分の血の気が引いていくのが、響にははっきりとわかった。今の声は間違いなく、夏海にも聞こえたはずだ。
「ま・え・じ・ま・くん?」
「は…はい?」
「今のは、誰かしら?」
 祐を恐れるあまり、この下宿には響の他には誰もいない…というのが表向きに信じられている事実だ。妙齢の女の子の声などするはずがない。
「手入れよ」
「は?」
「ガサ入れよ! 殴り込みよおっ!! 首洗って待ってなさいっ!!」
「ちょっ…ま、夏海っ!」
 ぷつっ。つーっ、つーっ、つーっ…。
 
「ふっふっふ。とうとうシッポを出したわね前島くん」
 先ほどまで声を荒げていたとは思えない上機嫌さで、夏海は携帯電話を仕舞った。
「さあ、この間のとんでもない女の子達のこと、今日こそはっきりさせるわよ!」
 スロットルを回すと、ぐぉぅん、と重々しい音が返ってきた。ご主人様同様、彼女の愛車もすこぶる上機嫌なようだ。
 
 無情にも電話が切れてから、ほんの一瞬だけ響は茫然としていたが、そんなヒマがないことにすぐ気づいた。
「ちょっとお? 響くーん」
 相変わらずドアの前で事情を知らないままのんきな声を上げているかなこを、
 ばたあんッ!
「うきゃっ!?」
 ドアもろともはじき飛ばすと、一目散に台所に駆け込む。
「あらあら。響クン、そんなに慌てなくても、全部食べたりしないわよ」
 状況を知らないのだから当然と言えば当然だが、ふみはいつも通りのんびりおっとり構えたままだ。が、一番何とかしなくてはならないのは、真夏でも一分の隙もなくメイド服を着込み、その上汗一つかいていないこのふみなのだ。
「ふみさんッ!!」
 響はいきなりふみに詰め寄ると、その両肩をがっしと掴んだ。
「やだわ、響クン。こういうのはちゃんと手順を踏まないとダメだって、お姉ちゃん思うの」
 見当外れなことを言いつつ頬など赤らめるふみには構わず響は続ける。
「着替えて」
「え?」
「いいから、早く!」
「そんな、急に言われても…」
「はつえちゃん!」
「あ、はいっ!」
 お行儀よくスプーンですいかを食べながらも、一体何が起こったのかとあっけにとられながら響を見ていたはつえが、声をかけられ飛び上がるように答えた。
「引きずってでもふみさんを着替えさせて。後で事情は説明するから」
 三姉妹の中で一番常識人のはつえなら、夏海の趣味を話せばふみの正体がばれるのはまずいということは理解してもらえるだろう。それにふみよりはつえのほうがパワーはある。適任に思えた。素直なはつえはきょとんとしながらそれでもうなづくと、
「行こう、お姉ちゃん」
 ふみの手を取った。ふみも状況はわかっていないようだったが、はつえと力比べをしても勝ち目がないことだけは充分理解していたので、大人しく彼女に従って台所を出ていった。
「ちょっと響くーん、なんなんだよ、もう…」
 それと入れ替わるように、むすっとした顔のかなこが台所に入ってきた。
 無論、響が全力でドアをぶつけたとしても、決戦兵器であるかなこに傷一つ付くわけもない。が、そうされてかなこがいい気分でいられるわけがないのも、また言うまでもない。不機嫌な顔で響を問いただそうとしたそのとき、低い振動音が響いてきた。
「…やっぱり、もう来たか…」
「え、何?」
「かなこさん、何も言わずに口裏あわせて。いいね? さもないと、君たち解体されかねないよ」
「?」
 首を傾げるかなこだったが、そこはかなこも決戦兵器、状況把握の能力はずば抜けている。
「つまり…」
 推論を口にしようとしたその時だった。
「まぁ〜えぇ〜じぃ〜まぁ〜くぅ〜ん♪」
 古式ゆかしい旋律の呼び声が響く。
「…お、おう」
 無駄な抵抗と知りつつも、響はドアチェーンをかけたままそっと隙間を開けてみる。なぜか満面の笑みをたたえた夏海が、やっぱりそこに立っていた。
「入れてくれないの?」
「そんなことないけど…。ちょっと急すぎない?」
「あたしに見られたらマズいものでもあるの? えっち本くらいなら気にしないわよ」
「…こっちが気にするんだよ」
「やっぱりそーゆー本あるのね」
「・・・・・・」
「それともビデオ? いっしょに見ようか?」
「…あのねえ」
「前島くんだってたぶん健全な成年男子なんだろうから、まあ、そういうのもいいんじゃないかとは思うわよ」
 そこまで朗らかな笑顔だった夏海の顔に、突然殺気が走る。夏海のメガネがなぜかきらりと陽光を反射し、彼女の表情を全く読めなくしてしまう。
「…別のオンナでもつくってれば、話は別だけど?」
「はうっ」
「さっきの声は、誰だったのかしら?」
「あうあうあう…」
 絶体絶命のピンチだ。相手が夏海なだけに、本当のことを言ったらそれもそれでヤバい。
「どうなの?」
 自分と夏海を隔てているのはドアチェーン一本。あまりにも頼りない。
(誰か…助けて…)
 思わず響が天を仰いで信じてもいない神様に祈りを捧げようとした、その時だった。
「響クン? お友達なの?」
 背後からのんびりした声がかけられる。時間稼ぎが功を奏し、ふみの着替えか終わったようだ。ごく普通のサマーセーターとスカートという姿になっている。
 その声がさきほど電話で聞いた声と違っていたため一瞬きょとんとなる夏海。浮気、くらいであればともかく、夏海も響がオンナを3人も4人も取っ替え引っ替えでウッハウハ…などという男だとは思っていない。その混乱が収まらないうちに、ふみが続けて声をかけてきた。
「上がってもらったら?」
 
「はい、どうぞ」
「あ…ありがとうございます…」
 この家にお客さんが来るなどというのは初めてのことだ。それがよほど嬉しいのだろう、ふみは満面の笑顔のまま、夏海にすいかを出してあげている。夏海は状況がまだ把握できていないのか、ばつが悪そうに座っている。かなこはそんな皆を見回すと、ふう、と一息ついたきり、あとはなにやら面白そうににやにやしているだけだ。
「はつえちゃんは?」
「響クンのお部屋、片付けてもらってるわ」
「いぃっ!?」
「お客さんが来るらしかったから。散らかっていたら困るでしょう?」
 確かに散らかっているのは困るが、はつえに見られるのもそれはそれで困るのだ。案の定、台所に戻ってきたはつえは、
「・・・・・・」
 無言のまま響を見ると、少し頬を赤らめながら目をそらし、そっぽを向いたまま自分の席に座ってしまった。
 そうして三人そろった姉妹たちを見て、ますます夏海は混乱を来す。
(ちょっと年上っぽい人に…同い年くらいの子。それに…中学生くらいかしら? もしこの人たちにみんな手を出したんだとしたら…前島くんの見方、ちょっと変えないといけないかも)
「ねえ、響クン。よかったらこの人のこと、紹介してくれないかしら」
「あ、うん。こいつは伊倉夏海、俺の…んー…」
 響は少し考え込むようにしてから、続けた。
「…友達」
 夏海はちらりと響を見る。
 響だけでなく夏海の方も、自分たちは付き合っているものだと思っている。とはいえ前にも述べたとおり、二人の間に劇的な何かがあったわけではないので、互いの気持ちを確かめたことは一度もない。だから、響が自分のことを「友達」というのを聞くのも初めてではない。普段はそれで抵抗もないのだが、何故か今は少し、寂しいような苛立たしいような複雑な気分になった。
「…そう」
 かなことはつえはただ笑っていたが、ふみだけは少し複雑な表情を見せる。が、すぐに明るい笑顔を夏海に向けた。
「よろしくね、夏海ちゃん。…あ、夏海ちゃんって呼んで、いいわよね?」
「あ、はい」
「私は森ふみ。森祐の姪です」
 迷わず言い切るふみを、かなことはつえはびっくりした顔で見る。そんな二人にふみはにっこり笑って目配せして見せた。
「それで、この二人が妹のかなことはつえ。はつえが夏休みになって、叔母さんのところら泊まりに来てるのよ」
 ふみの口調に迷いはない。よくもまあこんなデタラメを即座に思いつくものだと、その場にいた夏海以外の全員はぽかーんとしながらふみを見ていた。
「それじゃあかなこちゃん、はつえちゃん。あとは若いお二人にお任せして、私たちは退散しましょうか」
「…お姉ちゃん、別にお見合いじゃないんだから…」
「あら、でも私たちがお邪魔なのには違いないわ」
 はつえが突っ込んでもふみに動じた様子はない。ふふふ、などと意味深な笑みを浮かべると、はつえとかなこを伴って台所を出ていった。
 
「あの人、どういう人なんだろうね」
 姉妹の寝室に引き上げて、まずはつえが口を開いた。
「どういう人って…響くんの友達でしょ?」
 かなこが、何を言われたかわからない、といった様子で答える。そんなかなこに、先程の意味深な顔のまま、ふみが微笑みかけた。
「うふふっ、かなこちゃん。夏海ちゃんってまず間違いなく、ただの友達じゃないわよ」
「じゃあ、やっぱり?」
 はつえが首を傾げながら聞くと、ふみは笑って答えた。
「ええ。恋人さんでしょうね」
「こいっ…!?」
 大声を上げかけたかなこの口を、あわてて二人がふさぐ。
「声が大きいよ、お姉ちゃん…」
「ダメよかなこちゃん。二人が聞いたらヘンに意識しちゃうわ」
「…そ…そうなんだ」
 納得した顔のかなこを見、ふみは手を放す。その顔はまだ笑ったままだ。
「…お姉ちゃん。何か企んでいるでしょう」
 そんなふみに、不安げな顔のはつえが尋ねる。
「やだわ。企んでるだなんて」
 そう言いながらも楽しそうなふみ。
「ねえ、かなこちゃん。あの二人、友達だと思ったのよね?」
「あ…うん」
「かなこちゃんがそう思うのも無理はないわよね。私が思うに、あの二人まだ大した進展はないわ」
「進展…って?」
 首を傾げて尋ねるはつえに、ふみは少し考え込むようにすると、「まあ、もうそろそろいいわよね」などとつぶやくと、二言三言、はつえに耳打ちした。見る間に真っ赤になり、完全に沈黙するはつえ。
「何を話したの?」
「かなこちゃんみたいなハタチの女の子なら当然知ってることよ。
 ともかく」
 ふみはぐぐっと拳を握りしめ、あさっての方向を向いて一人燃え上がった。
「ここはひとつ、二人の恋の橋渡しよ」
「…どうして?」
「夏は燃え上がるような恋の季節だからよ」
「はあ?」
 かなこは完全についていけなくなっていたが、ふみはすっかりその気のようだ。
「…それで…何をしでかす気なの、お姉ちゃん?」
 ようやく再起動したはつえが諦めたように訪ねた。
「まさか、さっき教えてくれたようなことさせちゃうの?」
「ダメよはつえちゃん、こういうことには順序があるの」
「…そうなんだ」
「で? その順序だと、何から始めればいいの?」
 どうやらかなこも乗り気になってきたようだ。だんだん表情が明るくなってきている。
「やっぱりまずは、普段と違ったシチュエーションでしょう」
 何が始まるのかワクワクしているかなこと、ドキドキしているはつえを前に、ふみはもう一度、にっこり微笑んで見せた。
 
「・・・・・・」
 場所を響の部屋に移したが、夏海はただ黙って響をにらんでいるだけだ。響は何も言えず、やはり黙って夏海を見ていた。
「ねえ、前島くん」
「何?」
「あの三人…何者?」
「ぅえっ!?」
 いきなりの核心をつく問いに、珍妙な声で答える響。たたみかけるように夏海は身を乗り出してきた。
「森博士の姪御さんってホントなの?」
「…そ…そりはもちろん」
「声、裏返ってるわよ」
「・・・・・・」
 冷や汗を流しながら、響は必死に冷静になろうと務めた。その甲斐あって、なんとか考えがまとまってくる。
「じゃあ、あのみんなが何だって言うの?」
「…そ…それは…その」
 今度は夏海が口ごもる番だった。
 実を言えば、あの日夏海は、駅のホームでチカンをはたらいた不届き者を懲らしめていたかなことはつえ、そしてそんな二人と一緒にいた響を目撃していたのだ。無論、かなこやはつえがナイフを握りつぶしたり、それで象さんを作ってみせるところも。
 それだけ見れば誰だって、かなこやはつえが普通の人間でないことくらいはわかる。あのときふみはいなかったものの、あの二人と姉妹だと自ら名乗るくらいなのだ、同類かそうでなくても何か深い関係があると見て間違いないだろう。夏海も、彼女たちが、祐のオーヴァーテクノロジーに何らかの関係があるんじゃないか、という察しまでは付けた。
 が、だからといって、彼女たちが何者か、と聞かれたら、明確な答えは出せない。出せるわけがない。わからないからこそ興味を持って、ここに無理矢理乗り込んできたのだから。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 お互いの出方を探る気まずい沈黙。
(…話題、変えた方がいいかも)
 響のみならず夏海もそう思い、次の話題を考え始める。しかしそれを思いつくよりも前に、
「響くん、ちょっといいかな」
 ドアの外から、かなこが声をかけてきた。
「え? あ、うん」
 響の返事を聞いてから、かなこが部屋に入ってくる。そして、夏海の方も見ながら話し始めた。
「今、姉さんたちと話したんだけどさ。あたしたち、海に行くことにしたんだ」
「海?」
「うん、海。
 それでね、よかったら響くんと…えーと…」
「伊倉です」
 相手が自分の名前をまだ覚えていないのだ、と悟った夏海は、ついいつものように苗字で自己紹介をしなおす。
「イクラちゃん?」
 が、かなこは何か妙な勘違いをしたようだ。そう呼ばれた夏海は一瞬きょとんとしていたが、にこっ、と笑うと、
「ばぶぅ」
 と言ってみた。
 かなこは一瞬、夏海がどうしてそんなことを言うのかわからなかったが、ほどなくデータベースから該当データを発見する。そして、夏海が冗談を言っているのだと言うことを悟ると、
「えへへっ」
 笑って見せた。それにあわせて夏海も笑う。
「ええと…あ、それでね、よかったら響くんと夏海ちゃんも」
「あ、イクラちゃんでいいわ。何だか気に入っちゃったから」
「そう? じゃ、響くんと、イクラちゃんも一緒に行かない?」
「海に?」
「そう、海」
 しばらく、夏海は考え込む。そして、響とかなこを交互に見て言った。
「えーと。かなこちゃんだっけ?」
「うん」
「かなこちゃん、車の運転できる?」
 ちなみに、響は免許を持っていない。当然そのことは夏海も知っている。
「車? 任せてよ。普通車はもちろん自動二輪だって大型だって大特だってOKだよ。なんなら航空や船舶も大丈夫だけど。あたしに動かせない乗り物なんてないよ」
「へえ…すごいのね」
 夏海はぽかんとしながらも、素直に感心して見せた。一方で響は呆れる。今の言葉の中でかなこは一回も、「免許を持っている」とは言っていない。決戦兵器であるかなこのこと、やれと言われれば超音速ジェット機だってハミングしながら飛ばせるだろう。が、この間生まれたばかりのかなこがちゃんとした免許を持っているわけがない。おそらく偽造品くらい簡単に用意するだろうが。
「それじゃあさ、ちょっと遠くの海でもいいわよね」
「響くん、車に酔ったりしないよね? なら大丈夫だけど、どこかいい所知ってるの?」
「うん。あたしの実家。宿代もかかんないから何泊でもできるわよ」
 響は、夏海の家が海のそばだということは知っていた。何しろ彼女の名前だって、「夏」に「海」のそばで生まれたから、という極めて安直な理由でつけられたものなのだ。
「いいの? 響くんはともかくとして、あたしたち今日会ったばっかだよ?」
「だったら、お近づきのしるしってことで」
「うぅん…」
 かなこはしばらくためらっていたが、やがて、
「それじゃ、お言葉に甘えても…いいかな」
 遠慮がちに言った。
「もちろん」
 夏海は大きくうなづいた。
(そのほうが、正体を探るチャンスは多いもんね)
 そして人知れず、ニヤリと微笑むのだった。
 
 響は夏海のことをメカフェチだと思っている。そして夏海自身も、自分がそういう類の人間だということを自認している。彼女の指は染み込んだオイルのせいでどんなに洗っても黒ずんでいるのだが、年頃の娘であるはずの彼女は別段それを気にはしていない。むしろ、マニキュアなんぞ塗ってるよりも一芸に秀でた素敵な手だと自分では気に入ってさえいる。
 それほどまでに手を汚して一番多くいじっているのが、前にも少し述べた化け物じみた大型バイクだ。彼女はいじるだけでなく、乗ることも大好きである。だから、海に行く…彼女にとっては帰省する…ときにも、かなこが運転する車に乗ることよりも、自分のバイクで走ることを選んだ。
 そのことを、響は、本当によかったと思った。
 響自身は車の運転ができないため、かなこの車に同乗することになったのだが、その車の内装を見て彼は絶句してしまった。
「すごいでしょう? 外見は軽ワゴン車だけど、性能はボンドカーやマッハ号より上なのよ」
 にっこり笑ってふみが言う。
「姉さん、せめてナイト2000くらい言えない?」
 かなこが苦笑しながら言うが、彼女も上機嫌そうで、状況をわかっていないようだ。
「公道を走るのに、超音速乗用車なんていらないと思う…。
 普通の車…なかったの?」
 ただ一人、常識人のはつえだけは不安げな顔をしていた。
 一言で言えば…電子の要塞。見たこともない機械が内部のあちこちに搭載されている。ジャンプするとか、空を飛ぶとか、ミサイルを発射するとか、ロボットに変形するとか言われても信じてしまいそうな有様だ。しかもはつえの言葉を信じるなら…彼女のことだ、嘘はつかないだろう…、どうやら最高速度は音速を超えるらしい。夏海がこれを見れば、よけいな興味を抱くことはまず間違いないだろう。そして、このような祐の技術力を目の当たりにすれば、下手をするとかなこたちの正体も察しかねない。
 などと響は危惧していたのだが、起き出してきた当の祐は夏海の話を聞くと、
「いいじゃないか。興味があるなら、私の研究チームに入ってもらってもかまわんぞ。あの二輪を見る限り、腕も熱意もなかなかのもののようだ。彼女にであれば、かなこたちの正体を話してもいいな」
 などと言い出す始末。これでは夏海と祐を会わせるわけにはいかない。
「さ、さあ、少しでも早く行って遊ぶ時間を増やそうじゃないかーはっはっは」
「どうしたの、前島くん?」
 ドアを閉め祐を隠した響に、夏海が怪訝そうに声をかけてくる。
「な、なんでもない、なんでもないぞ、うん」
「そう? なら別にいいけど…」
 首を傾げながらも、ヘルメットを被り愛車にまたがると、夏海はもう細かいことはどうでもよくなったようだ。
「さ、行こっか!」
「ちょっと待って、母さんが…むぐぐ」
 せっかく起き出してきたのだから祐も一緒に行くものだと思っていたかなこが制止の声を上げようとする。が、はつえがあわててそれを止めた。
「ダメだよ、お姉ちゃん。ママを伊倉さんに会わせたら、わたしたちのひみつを得意気に話しちゃうよ、きっと…」
「別にイクラちゃんにだったら、教えてあげてもいいと思うけどなあ」
「それにね、かなこちゃん。お母さんはいつも薄暗い研究室に籠もってるから、強い日差しを浴びると灰になっちゃうのよ」
 状況がわかっているかは甚だ怪しいが、ふみも助け船をだしてくれる。
「…そうなの?」
「そういうことにしておこう」
 怪訝な顔のかなこに、響はいい加減な返事をした。
 
(森博士の車は、化け物かっ!?)
 高速道路を突っ走りながら、夏海は驚愕していた。
 何しろ夏海のバイクはもとよりパワーもスピードも並をはるかに上回っている。何も手を加えず排気量だけで勝負しても、軽自動車に後れはとらないはずだ。しかもこのバイクに夏海は何度も手を加えているし…無論、そのためかえって性能が落ちているということはない…、その上バイク特有の機動性を活かし他の車を巧みにかわして走っている。にもかかわらず、かなこが運転する車は余裕でぴたりと後ろについて来るのだ。
 そんな車の中では…
「あらあら。かなこちゃんも夏海ちゃんも、そんなに急がなくてもいいのに」
 助手席のふみが少し困った顔で言う。
「か、かなこさん、やっぱり速すぎるよ!」
 唯一生身の響だけが恐怖の声を上げる。
「何だよぅ、事故っちゃうとか思ってるの? 大丈夫だよ」
「そりゃ、みんなは平気だろうけど…万一のことって言うのはないとは言い切れないわけだし…」
「だから大丈夫だって。もしそんなことになったとしても、この車なら、対向車だろうが防音壁だろうが粉砕して無傷でいられるから。衝撃だってそんなにないよ」
「…お姉ちゃん…そういう問題じゃないと思う…」
 はつえの言葉は黙殺された。聞こえないふりをしているだけなのか、それとも助手席の後ろの座席から小さな声で言っただけの声が本当に届かなかったのかは定かではない。いずれにせよ自分の意見が聞き入れられないと悟ったはつえは、ため息をつくと横の響を見た。
「大丈夫ですか? お姉ちゃんが言ったこと、一応本当ですけど…」
「俺はいいけど…追い立てられて夏海が事故ったりしないかって、心配で…」
「あ。そうだね、それはあるね」
 当然だが、例えそんな風に見えたとしても、夏海のバイクは仮面ライダーのスーパーマシンではないのだ。対向車や防音壁を蹴散らして進むなどできるわけがない。そんなことになったら夏海がタダでは済まないだろう。響の言葉でそれに気づくと、かなこは少しスピードを下げた。いったん先行する夏海との間に距離が開くが、夏海もかなこたちをぶっちぎってかっとんで行こうなどとは考えていなかったらしく、あわせて減速してくる。それを見た響が、ほっ、と安堵のため息をつくと、それに気づいたふみが振り返った。
「うふふ。やっぱり、彼女さんのことは心配なのかな?」
「え? …あ、その…」
 赤くなってうつむく響を見て、ふみの顔が少し真面目になった。
「照れる気持ちは分からなくもないけど、こういうことって別に恥ずかしいことじゃないのよ。はっきり口に出した方がいいことも、あるわ」
「えっ…」
 一瞬何を言われたかわからない響に、ふみは改めて微笑みかけた。
 
 そして、出していたスピードからすれば幸運なことに、一行は無事夏海の実家に到着した。急いだ甲斐あってまだ昼前だ。
 響も夏海の実家に来るのは初めてだったが、海の間近にある、古いが大きくてしっかりした家だった。夏海の両親は日中は働きに出ているとのことで留守だったが、客商売もできそうなくらい愛想のいいお婆ちゃん…海恵さんという名なのだとか…が出迎えてくれた。その際海恵さんが響に、
「夏海のことをよろしくお願いしますねえ」
 などと言いだし、響を狼狽えさせ夏海を赤面させるという微笑ましい場面もあったのだが、まあ、それはともかく。
 昼食をとりしばらくゆっくりした後に、一行は当初の目的通り、海に行くことになった。夏海の家は本当に海の近くだったので、皆夏海の家で着替えてから浜辺まで歩いていくことになったのだが。
「・・・・・・」
 同室で着替える三姉妹をまじまじと見る夏海。
「ど…どうしたの、イクラちゃん…?」
 同性にまじまじと着替えを見られれば誰だって気色悪く思う。かなことて例外ではない。思わず脱いだ服をぎゅっと抱きしめて身を隠してしまう。
「夏海ちゃん、そう言うシュミがあったのかな?」
 着替えが遅いせいでまだ服を脱ぎ終わっていない下着姿のふみが、完全にからかう口調で言う。が、はつえはその冗談が通じなかったようだ。
「…っ! そう…だったんですか…っ」
 顔色を変え、自らの体を抱きしめるようにして小刻みに震えながら怯えの目を自分に向けるはつえを見て、夏海はあわてて首を振った。
「ちっ…違う違う! 絶対違うっ! あたしはノーマルだってば!」 
 夏海が三姉妹をまじまじと見ていたのは、無論そんな理由ではない。
 ノーマルな夏海としては、やはりノーマルな成年男子のことが気になるし、たぶんそのノーマルな成年男子であろう響がこの三姉妹の水着姿など見てどう思うか、というのも重大な懸案事項なのだ。
 なにしろこの三姉妹、うらやましくなるほど魅力的な体つきをしている。
 ふみは、たっぷりゆったりとした服を着ていて体型がよくわからなかったせいもあるが、かなり着やせするタイプだった。正直言って足も太めだし体重も結構ありそうだったが、優しい包容力を感じる身体だ。肉付きは豊かでも腰はちゃんとくびれているし、そして何より胸が大きい。
 一方はつえはというと、まあまだ中学生であるだけあってふみに比べ凹凸には乏しい。しかしながらそのか細い手足もウエストも、ものの見事にきゅっと引き締まっていて、ボディラインは絶妙だ。それに加えて肌はなめらかで真っ白、こういうのを餅肌っていうんですよと言わんばかりだ。しかも着ているのはスクール水着。どこかのあぶないおぢさんとかの犯罪を誘発しそうで、夏海はふと"jailbeit"などというアヤシイ英単語を思い出してしまった。
 そして、問題はいま夏海の正面で彼女の視線を一身に浴び恥ずかしそうに身をすくめているかなこである。
 一言で言えば、かなこはふみとはつえの長所を併せ持っていた。肌ははつえ同様なめらかだが、彼女よりは少し色が濃い。はつえと同じように手足やウエストは引き締まっているので、はつえよりも健康的に見える。顔つきが活発なのでなおのことだ。そのくせ脂肪がきっちりと付くべき所に付いている。身をすくめているかなこの胸の谷間と自分の胸を見比べて、夏海はため息をついた。
「どうしたの? イクラちゃん」
 何だか落ち込む夏海が心配になり、かなこは声をかけてみた。誤解が解けたのかはつえも心配そうな視線を向けてきた。
「ねえ、どうやったらそんな体になるの?」
「…どうやったら、って…。こういうふうに作ってもらっただけなんだけど…」
 かなこは正直に言う。実際、どういう意図があったのかはわからないが、かなこたちの体は祐がこのように作ったからこんな体つきなのであり、それ以外の何でもあり得ない。
「生まれつきなんだ…。神様って不公平よね…ふっ」
「あら、夏海ちゃんだって充分魅力的よ」
 ふみがまじめな顔で言う。はつえもその横でうんうんとうなづいていた。
「伊倉さん…わたしより、胸ありますし…」
「そりゃ、中学生で発育途上の13歳以下だったら女子大生としてちょっとツライけど…でもさあ」
 ぐずぐず何か言っている夏海を見て苦笑すると、ふみは夏海に耳打ちした。
「大丈夫よ。響くんは、私たちに心変りしたりはしないわ」
「え! あ、やだ、そ、そんなんじゃ…」
 その言葉に一瞬で真っ赤になり、いやんいやんとか言いながら体をくねくねさせている夏海を見て、くすっ、と笑う三姉妹。
「いいから早く行こう、イクラちゃん。響も待ってるよ」
 なおもいやんいやんを続ける夏海の手をとって、かなこは楽しそうに笑いながら外へと駆けだしていった。ふみとはつえもそれに続く。
 皆そうやってはしゃいでいたので、
「今日は夕方ンなったら海荒れッからのォ、気ィつけンだよお」
 と、後ろからかけられた海恵さんの声を、全員がうっかり聞き逃してしまっていた。
 
 響が心変わりするかどうかはともかくとして、三姉妹がそれぞれに魅力的でむあることに違いはなく…そして響もノーマルで健全な成年男子である以上、彼女たちに目くらい引かれるのはやむを得ないことなのであった。
 しかし、ふみの胸元だのはつえの足だのにちらちら目が行っている響を見て、夏海が心穏やかならぬのもまたやむを得ないことである。
「前島くん」
「え?」
「え? じゃないわよ、さっきからみんなのことじろじろヘンな目で見て! まったくもう…」
「あう…。ご、ごめん」
 すんなり認めてしまう響に、夏海は少し複雑な気分になった。言い訳をしなかったのはいいのだが、やっぱり見てたんだ…と。正直なのもいいのか悪いのか…。
「見るな、とは言わないわよ。でもさ、今一番近くにいるの、あたしよ?」
「え?」
 意外なことを言われた気がして見てみると、夏海は少し頬を赤らめている。
 お互い確認こそしていないものの付き合っている二人だ。相手を異性として意識していないわけがない。が、なんとなく、二人ともそのことをはっきりと口に出すことはしなかった。しかし今の夏海の言葉は、「あたしを見てよ」と言っているようなものだ。多少遠回しだとはいえ夏海がそのようなことを言い出すと思っていなかった響は正直面食らってきょとんとしてしまった。そんな響の様子に夏海はますます顔を赤くする。
「あの…えと…。だからってさ、そんなまじまじと見つめられても…なんか照れちゃうし…困っちゃうんだけど」
 夏海の水着は特別過激で大胆なものではない。とはいえ戦前でもあるまいし、肩も腿も当然露出しているのだ。素肌を直接見られていると思うと、なんだか急に気恥ずかしくなる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 二人ともが顔を赤らめ、何も話せないままうつむいていると、
「響くん、イクラちゃん、どうしたの?」
 後ろから突然かなこが話しかけてきた。別に何もやましいことをしていたわけではないのだが、二人とも、
「うひゃっ!?」
「きゃひっ!?」
 よっぽど驚いたと見え、文字通り飛び上がって驚いた。
「かかかかかっ、かっかかかなこさん!?」
「そんなに驚くことないじゃない。海を汚染する人類への復讐のために浜に上陸した半魚人に遭遇したわけじゃないんだから」
 両手を腰にあて怒ったふりをするかなこ。しかし、そこから少し離れたところでは、ふみが同じ格好でかなこをにらんでいた。
「だめねえ、かなこちゃん。恋人同士の語らいを邪魔するものじゃないわ。人の恋路を邪魔すると河馬に踏まれて死んじゃうのよ」
「…お姉ちゃん、河馬が踏んでも壊れないと思うけど…」
 誤った慣用句を披露するふみに、ピントのずれたツッコミを入れるはつえ。
「筆入れじゃないんだから、河馬が踏もうが象が踏もうがそんなことはどうでもいいの。そんなことよりはつえちゃん、これから後どうするのが一番楽しいかしら?」
「ちょっと待ってね…えーと…」
 万能遊戯用人型ホビーロボたるはつえには、周囲の遊び場を探る機能がある。傍目には周囲をきょろきょろ見回しているだけにしか見えないが、はつえの頭の中では膨大な情報が処理されていた。
「少し沖合に、小さな島があるよ。行くのにちょっとだけ疲れるけど、広いし他に誰もいないし、楽しそう」
 夏の海岸のご多分に漏れず、ここも人でごった返している。仲間だけになれるのなら、それだけで確かに価値はあるだろう。
「それよ、それだわ」
 ふみはにっこりはつえに微笑みかけた。それだけでふみが何を企んでいるかだいたい察したはつえは、小さいため息をつくと、
「…わかった…」
 と、力なくうなづいた。
 
「どうしたんだよ、二人とも…」
 ただでさえ気恥ずかしくて口もきけない有様だったところにかなこが乱入してきたため、響と夏海の気まずさは頂点に達していた。二人とも顔を赤くし、互いに相手から視線を外したまま、ただ黙ってうつむいている。そういった心境に関し極めて鈍感なかなこは、仲のいい二人がどうしてそんなになっているのかが今ひとつよくわからず首を傾げるばかり。取りなそうにも、二人の間に険悪な雰囲気は一切なく、ただただ気まずくも甘ったるぅい空気だけが漂っている。
「あたし、何か悪いことした?」
「…いや…」
「…そんなこと、ないわ…」
 話しかけてみても帰ってくるのはそんな気のない言葉だけだ。かなこがほとほと困り果てていると、
「お姉ちゃん、響さん、伊倉さん」
 横合いからはつえが声をかけてきた。
「沖の方に、小さな島みたいなのがありますよね?」
「ああ、あれ?」
 ことさらに明るく、夏海が返事をした。何か状況を打破するきっかけが欲しかったのだろう。
「みんなで、行ってみませんか?」
「大丈夫なの?」
 かなこが心配そうに訪ねる。
「大丈夫、小学生だって泳いでいけるわ。みんな、泳げるわよね」
「任せてよ。原子力潜水艦と海戦だってできるよ」
 夏海だけはこの言葉を冗談ととったが、ともあれ他の二人も泳ぎに関しては問題ないようだ。
「ふみさんって泳げるの?」
 響がはつえに聞いてみる。水泳のみならず、普段のふみは運動全般と縁が遠そうであるからだ。
「大丈夫です。お姉ちゃん、家事に関することなら材料の調達まで含めて万全ですから。やれと言われれば一人で鯨だって捕まえますよ」
 かなこの言葉を夏海が冗談ととっているのを確認した上で、はつえは彼女にしては珍しく冗談めかして言った。
「お姉ちゃんは鯨を捕まえて、妹は原潜と戦うの? すごい姉妹ねえ。…じゃ、はつえちゃんは?」
「…わたし…ですか?」
 自分に水が向けられて、はつえは一瞬きょとんとする。
「…わたしは、お姉ちゃんたちみたいにすごいことはできないんですけど…。スキューバダイビングくらいなら、できますよ」
 ふみが家事全般に通じているのと同様、はつえは遊技全般に通じている。ダイビングだけでなくヨットとかボートとかパラセーリングとかもおそらく自由自在だろう。はつえはそれを自分から誇示したりはしないが。
「鯨や原潜よりよっぽど説得力あるわね。それじゃ、久しぶりだけど行ってみよっか」
 夏海はすっかり気を取り直したらしく、元気よく立ち上がった。
 
「…ここらの…小学生ってのは…たくましい…んだな…」
「たぶん…そうじゃなくて…大学生の…あたしたちが…運動不足…なんだと思う…」
 ようやく島に泳ぎ着き、ぜえはあ言いながら砂浜に倒れ込む響と夏海。一方、
「あらあら、大丈夫?」
「だらしないなあ。たったこれくらいで…」
「でも、結構距離はあったよ。仕方ないと思う」
 当然ながら三姉妹はまったくこたえていない。そんな妹たちとヘトヘトの二人を見たふみが、何かを思いついたように一人笑みを浮かべた。
「ねえ、響クン、夏海ちゃん。二人はしばらく休んでいるといいわ。私たちは島の向こう側まで行ってみるから」
 島の中央にある小さな岩場を指差しながらふみは夏海に言った。
「え? 別に二人を待ってたって…むぐぐ」
 無粋なことを言おうとするかなこの口をはつえがすかさずふさぐ。かなこと違ってはつえはふみの意図を察していたようだ。
「うん…いってらっしゃい…」
 響と夏海は口々にそう言った。
「ゆっくり休んでね」
 ふみはそう言うと、うふふ、と笑い、身を翻した。はつえもかなこを引きずって、それに続く。ただ一人かなこだけが状況を理解せぬまま、
「むーむー」
 とかなんとかうめいていた。
 
 この島は、地元の者でなければなかなか気づかないところらしかった。しかも地元の者は子供でもない限りわざわざこんな所まで泳いでは来ない。そしてその子供達は今夏休みではない。というわけで、この島にいるのはどうやら五人だけのようだ。しかも、ふみ達三人は岩場の向こう側に行ってしまった。
 息が切れている間はそんな余裕などなかったのだが、一息つくと二人とも、二人きりで取り残されていることに気が付いた。
 先ほどの気恥ずかしさが蘇ってくる。それと同時に、響の脳裏に、ふみ言われた言葉が浮かんだ。
『照れる気持ちは分からなくもないけど、こういうことって別に恥ずかしいことじゃないのよ。はっきり口に出した方がいいことも、あるわ』
 ようやくここに至り、響はふみが何を言いたかったのかがわかった。
 自分の気持ちはもう疑いようもない。が、それをきちんと伝えたことがない。ふみのいう「はっきり口に出した方がいいこと」とは、たぶん、こういうことなのだ。
「なあ…夏海?」
「え…」
「あの…その」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 とはいえ、そうすんなり言えるくらいなら、短くはない今までの付き合いの中でとっくに言っている。言いよどんだまま、またも沈黙の時間が過ぎてゆく。
 
「…じれったいなあもうっ!」
 岩陰から二人の姿をうかがっていたかなこが苛立った声をあげる。
「ダメよ、かなこちゃん。聞こえちゃうわ」
 かなこと顔を並べながらも、ふみがかなこをたしなめる。
「ねえ、お姉ちゃん、やめようよ…よくないよ、こういうの…」
 はつえだけは姉二人を止めようとしていたが、三姉妹一の力を持つはつえであっても二人を相手にしては分が悪い。性格的に押しが弱いのだからなおさらだ。
「そんなこと言わないで、はつえも見てみなよ、後学のためにさ」
「こ…後学って、そんな…わたし…」
「はつえちゃんだって、いつまでもウブなネンネじゃいられないんだから」
「ええっ…や、やだっ…」
 ひとしきり姉二人にからかわれ、どうしたらいいかわからなくなるはつえ。何かに助けを求めるように思わず天を仰ぐと、
「あれっ?」
 その頬に水滴が当たった。改めてよく見てみれば、分厚い雲に空が覆われている。ごちゃごちゃと滑稽劇をしているうちに天気が大きく崩れてしまったようだ。
「ねえ、お姉ちゃん。そろそろ戻らないと…、なんだか、波も高くなってきたよ」
「そうねえ。私たちなら北極海の氷を叩き割りながらでも泳げるけど、あの二人はそうはいかないものね」
「どのみち、あの二人も雨に気づいたみたいだし。これ以上の展開は望めそうにないね。帰ろっか」
 
「…まずいわねえ」
 ため息をつきながら夏海が立ち上がり、周囲の海を見回した。
「どうしたの?」
「これ…荒れるわよ。泳いで帰れるかなあ…」
「じゃあ、遅くなっても仕方ないよ。落ち着くまでここで待とう」
「潮が満ちてくるまではいいけどね」
 夏海の表情はかなり真剣だ。状況は深刻らしい。
「…沈むの?」
「…沈みゃあしないんだけど…かなり狭くはなるわね。波にさらわれたりしないといいけど…」
 島に打ち寄せる波は次第に高くなってきている。
 
「…すごいことになっちゃったね」
 かなこがぼそっとつぶやいた。
「これほど激しい雨は、たぶん長続きしないと思うけど…」
 ふみはお洗濯のために、かなこは戦術計算のために、それぞれ気象情報の機能を持っている。潮が引くころには天気も回復するだろう、ということはわかっていたのだが。
「でも、響さんも伊倉さんも…」
 三姉妹とは違い、響も夏海も生身だ。先ほどから全身に打ち付けられる雨粒に体温を奪われ、小刻みに震えている。
「恥ずかしがってる場合じゃなさそうね。みんなでくっついていましょう」
「でも…」
 やはり、はつえだけは多少のためらいがあるようだ。しかし、彼女も状況はわかっている。三姉妹はどんなに濡れたところで体温が下がったりはしない。響と夏海のためにどうすればいいかは明らかだ。考えて、意を決して、はつえも近づこうとしたそのときだった。
「きゃ…」
 突然、小さくなった島を大波が襲う。一人だけ身を離していたはつえがそれにさらわれてしまった。
「あらあら」
「しょうがないなあ、はつえも…」
 響とそして姉二人は、高波にさらわれようが岩に叩き付けられようが通りすがりの鯨に跳ねられようがはつえはびくともしないことを知っている。が、夏海は違う。
「みんな、何落ち着いてるの! 大変じゃない!」
 言うが早いか、夏海は皆を振りきり、止める間もなく海に飛び込んだ。さすがに今度は残った三人ともが顔色を変えた。
「夏海っ!」
「だめ! 響クン、貴方じゃ二の舞になるだけよ!」
 すかさず、ふみが響を抑える。
「かなこちゃん!」
「わかってる!」
 ふみの言葉を受け、かなこは両腕を荒れる海にかざした。
「空間断層隧道展開!」
 叫びとともに、モーゼの十戒もかくや、といった様子で海が真っ二つに割れる。これが祐の言っていた「空間断層」か。響は目を見張った。真っ二つに割れた海の底では、はつえが夏海を抱きかかえていた。
「このまま浜まで行っちゃおう!」
「わかったわ。さ、響クン!」
 かなこの言葉に従い、ふみと響は浜に向け駆け出した。はつえも夏海を抱えたまま走り始める。
「ふみさん! この空間断層っていつまで保つの!?」
「かなこちゃんが活動不能になるか消そうと思うまではいつまでだって保つわよ。心配しなくていいわ」
 その言葉を聞いた響は、ここで初めて、かなこが「決戦兵器」であるということを本当に理解したのだった。
 
「・・・・・・」
 浜にたどり着いた四人は、黙ってかなこが残っている島の方を見た。やがて島の方から、徐々に海が閉じ始める。
「…?」
 その激しい水音とともに、何やらイヤに景気のいい声が聞こえてきた。
「いぃ〜いやっほおぉ〜!!」
 自分の開けた海の亀裂に流れ込む海水に乗って、かなこがサーフィンよろしく浜に突っ込んでくる。妙に楽しそうだ。
 そして彼女は浜が近づくと、
「とおっ!」
 かけ声とともに跳躍し、空中でくるくると回転して、見事砂浜に着地した。
「ふっ…決まった…」
「すてきよかなこちゃん」
 ふみはぱちぱちと手を叩くが、響とはつえは気まずそうに、はしゃぐ二人を見た。
「仕方なかった…とは、思うけど…」
「もう、ごまかせないよね…」
 そして、視線をもう一人に移す。
 夏海は…荒れる海に呑まれてはいたが、もとより泳ぎが得意だったこと、そして、かなこの対処が早かったことから、最後まで意識は保っていた。だから当然、ことの一部始終はその目で見ていたのである。
「あ…貴女達…。
 ただ者じゃないっていうのはうすうす気づいてたけど…。
 一体…いったい、何者なの!?」
 
〈つづく〉