私がこの場所で覚悟を決め動き出したのは平成6年4月29日のこと、伯父の倉澤整体のプレハブを取り壊して地鎮祭をした日から19年が経ちました。当時29歳の私にとって、当然のことながら初めてのマイホームの新築です。四賀村、山奥育ちの三男坊(男4人兄弟)で、馬鹿でかいだけの築100年以上の古民家で育ちました。家というものは雨風さえ防げればよいもので、機能であるとかデザインであるとかなど、建物に全く興味がありませんでした。そこで初めてのマイホーム(家づくりではなく)は、ハウスメーカーの既製の間取りに店舗を当てはめただけです。予算も少なく、ほんとに“建てました”というだけのものでしたが、当時本当にうれしかったことを覚えています。その時はまだ結婚前の妻が、間取りであるとか仕様であるとか、何から何までハウスメーカーに注文してくれたおかげで、17年間ずいぶんと快適に過ごしてこられました。

 平成6年11月1日、ふりはた整骨院として開業。伯父の整体の地盤があったからこそ、順調に仕事になっていきました。半年後に結婚、そしてすぐに子供の誕生と、なにせ慌ただしい開業一年目でした。そろそろ周りが見えだしたころ、まだまだ誰かの力を借りなければこの土地に根を下ろせないと、地域のお祭りの仲間、消防団、公民館など何でも引き受けました。良し悪しはあったものの、地元地域の患者さんが増えました。順調にスタートして2年半の平成9年、早期胃がんと診断され、手術に伴い5月1日から7月31日までの3ヶ月間休業せざるを得なくなりました。やはり3か月の休診が響き「もう患者は戻らないのかな?」と不安な毎日でした。案の定その後半年、借金を返し生活していくことで精一杯、それでも地道に休まず患者と向き合い、何一つ余裕のない生活を経験したことで、又自分を見つめ直すことができました。

 段々と子供が成長するにつれ、やはり住まいの見直しを考えなくてはなりません。土地が68坪、建物は1,2階合わせて32坪、3人家族の住宅なら余裕のある広さです。でも店舗併用住宅が故に生活空間は14坪ほど。そこで子供部屋の確保のためにリフォームの計画を立てました。2社から何度もプレゼンしてもらい見積もりを取ったものの、金額に驚き断念するしかありませんでした。如何したものかと思案している中、平成20年5月15日、不動産会社から突然に裏隣の54坪の土地の斡旋がありました。裏隣りのお宅が借金のかたに、家屋敷を処分せざるを得なくなったようです。うなぎの寝床のような細長い土地になりますが、現在の敷地と合わせると122坪です。リフォームから計画を変更することとなりました。

 あの時リフォームに踏み切らなくて本当に良かったと胸を撫で下ろしています。あれこれと住まいのことを考えているうちに、子供はすでに13歳で中学生。友達が遊びに来ても自分の部屋はありません。それはそれでよかったのかもしれませんが、この建物でこの先あと30年OKという訳にはいかないことが多々発生していました。新築、建て替えの望みができました。

 いよいよ2回目の本当の家づくりです。まずは家づくりというもののビジョンです。ハウスメーカーは頭にありません。最初で懲りたわけではないのですが、今その会社は名前を変え存在はしていますが、あまりにもフォローがいい加減で、10年保障なんてうたい文句だけのことで、雨漏りの際もパテの上塗りだけでした。仲の良かった飲み友達の担当者も職を転々としている状態で、一生に一度の買いもといわれる割には責任感がないような気がします。そんな経験から今回は慎重に、随分いろいろな建築士さんや工務店の方とお話をさせていただき、内覧会も遠くは長野市まで行きました。

 平成20年7月27日、尾日向さんの『あおいやね』完成見学会に行き、建築士さんの建物を初めて見させて頂きました。斬新的なデザインとアイデア、そしてお施主さんの希望をかなえるコンセプトなど、うなづかされることの連続です。その後も数人の建築士さんとお話をさせていただきました。家づくりへの考え方を一から変えていく期間でした。一番に感謝は家内です。常日頃から家へのこだわりを聞かされ、段々と耳障りだったことが興味に変わり始めていきました。さてもうそろそろ踏み切らないと、息子の思春期に間に合わないと、まずは尾日向さんにコンタクトを取りました。

 平成21年11月3日が最初のプレゼンでした。自分達の住まいの形がジオラマで出てきたことに感動を覚えています。プレゼンだけで尾日向さんにお願いすることを決めた訳ではなく、人柄であったりそれプラス、この設計士の先生になら“結構何でも言えるかな?”みたいな感じがありました。それが平成22年7月18日、『平屋の家』の見学会で確信しました。尾日向さんにお願いしてよかったと。前述で建物にまるで興味がないと言っていた私ですが、少しずつ目が肥えてきたというか観る目が変わってきたというのか、ストレスなく快適に過ごすという事、建てる場所や回りのことを考えるという事、そして家は拠りどころであるという事を尾日向さんと家内、そして見てきた建物が教えてくれました。

 同じ土地での建てかえ工事です。普通であれば店舗の移転であったり、アパートへの引っ越しであったり大変な作業があるはずです。本当に恵まれていたのか、仕事もそのままで居ながらにしての家づくりなんて本当に考えられない話です。尾日向さんのいろいろな発想に感謝です。約一年を要した設計に目途が立ち、施工はさみぞ工務店に決まり、平成22年11月28日、新たな土地での地鎮祭を行い新築工事に入りました。毎日変わっていく建物の姿を、隣で観察しながら生活できたことはうれしい限りです。現場打ち合わせなどもまめに行っていただき、職人さんたちとも打ち解けられ、これが本当の家づくりなんだと感じられる毎日で、完成が待ち遠しく時間の経過を遅く感じていました。

 その反面、目立った事をしての周囲の反応や、50歳を前にしての大きな借金をしなければならず、返済をしていけるのかなどいろいろな葛藤や不安はありました。しかも概ね家の形になってきた矢先、あの平成23年3月11日の東日本大震災です。絶対に経験などしたくはない未曽有の災害を、メディアを通して見るにつけ、気の重い日々を過ごすだけでした。建築工程でも資材の調達が困難になり工期が2ヶ月も伸びるなどし、引越しにこぎ着けたのは6月19日、すでに7カ月が過ぎようとしていました。

 まだ二期工事の玄関まわりの建築と駐車場の整備が残っています。引っ越しから2日後、既存の建物の解体工事です。震災報道が続いている中、住まいを流された人、破壊された人が多くいる中で、まだ十分住める築16年の建物を壊していいのかとか、16年間の思い出が詰まっている建物が壊されていく姿を目の当たりにし、やるせない気持ちからか涙があふれ出てきました。ここまで張りつめていた気持ちも、“いっぱいいっぱい”だったのでしょう。恥ずかしながら大号泣してしまいました。家内と息子は帰宅して、無くなっている家の跡を見て“広くなったねー”とか”見晴らしいいねー”などとつぶやいていましたが・・・。

 駐車場のデザインにも的確に指示を出していただき、満足いくものに仕上がりました。玄関周りは整骨院の顔です。私の意見をことごとく却下し、せいせいとした開放感を演出していただきました。そうこうしながら完成したのは10月下旬、着工から1年を要しました。そしてそれから丸2年が経過しようとしています。やっと自分たちの本当の家の形になっています。

 いろいろな人に「50歳を前に2回も家を建てられるだでよっぽど儲かるだね」とか「えらい儲けただねー、稼いだだねー」とか言われることがあります。もちろん悪意はないことはわかってはいるのですが、儲けるつもりで仕事をしている訳ではありません。痛みを抱えている患者さんの痛みを取ること、和らげること、気持ち良くお帰り頂くこと。それだけを考えて頑張ってきただけであり、ただその結果だけだと信じています。

 最後に今回、ふりはた整骨院併用住宅の建築に携わっていただいた多くの皆様に本当に感謝を申し上げ終わりと致します。特にこだわりを持ち、譲れないところはしっかりと説明をして、私達の提案を受け止めていただいた、尾日向辰文先生、ありがとうございました。家族3人、猫2匹で快適な生活を送っています。今後とも末永くよろしくお願い致します。

平成13年6月、ふりはた整骨院併用住宅施主