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長 野 県 の 歴 史 資 料 集 (近世)

長野郷土史研究会機関誌「長野」第119号(やさしい信濃の歴史)より


目次


藩(大名)

  飯山藩

 このあたりには、戦国時代には上倉・奈良沢・泉・尾崎・中曾根・今清水などの小土豪が分立していましたが、川中島の戦のころみな上杉謙信の部下に なり、泉弥七郎という武士が飯山城主でした。この城は永禄六年(1563)四月、いったん武田氏にとられかかったので、上杉氏から応援の将が来ていまし た。謙信が死に、上杉氏に相続争いがおこると、上杉景勝は信濃全部を武田勝頼に与えたので、飯山城も武田領になりました。武田氏が亡びていったん織田信長 の将森長可が海津城主になってこのあたりも統治しましたが、信長は武田氏を亡ぼしてからわずか三カ月で、殺されてしまったので、上杉景勝が川中島を占領し て、この地も上杉領になりました。慶長三年、上杉氏が転封になって、同五年に森忠政が松代城主になって、飯山方面も治めました。その後の飯山城主は次のと おりです。

関一政(松平忠輝の城代)(四万石) 1601〜1603

皆川広照(松平忠輝の城代)(四万石) 1603〜1609

堀直寄(四万石) 1610〜1616

佐久間氏(三万石) 1616〜1638 (安政―安長―安次)

松平(桜井)氏(四万石) 1639〜1706 (忠倶―忠喬)

永井直敬(三万三千石) 1706〜1711

青山幸秀(四万八千石) 1711〜1717

本多氏(二万石) 1717〜1869 (助芳―康明―助有―助盈―助受―助賢―助実―助成―助籠)

 このうち、関一政と皆川広照はこの地方の大領主だった松平忠輝(徳川家康の六男)の城代でした。忠輝は粗暴なところがあったので、皆川はそれを家 康に訴えたところ、かえって罰せられて流されてしまいました。そのごは三万石から四万石くらいの小大名が次から次へと移って来ましたが、在城期間の短い城 主が多くて、落着いて政治もできぬありさまでした。最後に城主になった本多氏は譜代大名でした。江戸時代には本多氏で大名になった家が五家ありました。一 番有名なのは徳川の四天王といわれた本多平八郎忠勝の子孫岡崎藩本多氏(五万石)ですが、飯山本多氏はこの家とは別系です。もと五万石でしたが、ゆえあっ て領地を減らされて一万石になり、糸魚川にいましたが、時の将軍吉宗は幕府創業の功臣の子孫を優遇する方針をとったので、二万石に加増されて飯山城主にな りました。享保六年に千曲川沿いの水害常習地を幕府にかえし、かわりに上水内郡方面などのいい土地をもらいましたので、表高は二万石でもじっさいは三万五 千石くらいあったといいます。
 飯山城は千曲川にのぞむ独立の丘に築かれ、この地の小豪族の城でしたが、上杉氏の軍事基地として改修されました。石垣はほとんどなく、土塁だけで、本丸あとは神社になっています。

  須坂藩

 堀直重が元和三年(1617)一万石を与えられ、須坂に館をかまえました。城がない大名、いわゆる城なし大名です。石高も大名としては最小でした。この藩はめずらしく藩主の交替がなく、明治初年まで二百五十二年の間、堀氏が藩主でした。
 堀氏は尾張国奥田庄から出た武士で、信長・秀吉に仕え大名になりました。領地は十三か村でした。

堀氏(一万石) 1615〜1869 (直重―直弁―直輝―直佑―直英―直寛―直堅―直郷―直皓―  直興―直格―直武―直虎―直明)

          -直清(流罪)
        |
        |-直寄(飯山藩主―越後長岡藩主―越後村上藩主)
堀直政―|
        |-直重(須坂藩主)
        |
          -直之(越後椎谷藩主堀氏の祖)

 なお、この堀氏の一族は、飯山藩主になったこともあり、また椎谷藩の飛領地が上高井(六川)や水内郡(問御所・中御所)等にあって、信濃と関係の 深い家でした。最後の藩主直虎は若年寄兼外国総奉行の重職につき、慶応四年(明治元年)江戸城が官軍に攻められそうになった時、江戸城中で切腹して死にま した。堀氏は明治後は奥田氏と改姓しました。もとの姓にかえったのです。
 須坂藩には城がなく、館あとは旧藩主をまつる奥田神社と須坂小学校になっています。館を囲んでいた足軽長屋が残っています。

 松代藩

 松代城(海津城)は武田信玄が川中島地方経略の根拠地として築いた城です。松代は上田地方から地蔵峠をこえて川中島地方へ入る出口に当たっていま す。信玄の重臣春日弾正忠虎綱(高坂昌信)が城代でした。武田氏滅亡後、森長可が入り、ついで上杉景勝がこの地方を占領して、須田満親等が城代になりまし たが、上杉氏転封後は、次のように何度も城主が替わりました。

田丸直昌(四万石) 1598〜1600

森忠政(十三万七千五百石) 1600〜1603

松平忠輝(城代 花井吉成・同義男)(十四万石) 1603〜1616

松平忠昌(十二万石) 1616〜1618

酒井忠勝(十万石) 1618〜1622

真田氏(十万石) 1622〜1869
 (信之―信政―幸道―信弘―信安―幸弘―幸専―幸貫―幸教―幸民)

 上杉景勝が移封されてから、わずか二十三年間に五回も城主がかわりましたが、真田信之が上田からここに移って来て以来は、真田氏が引続いて城主でした。信之は父祖伝来の上田城からここに移るのが不満でしたが、移ってみたら案外いいところだと満足したようです。
 松代藩の領地は善光寺平とその周辺の山地でしたが、奥信濃にも湯田中など三か村を飛領地として持っていました。真田氏には幕末に近いころ、真田幸貫という特色ある藩主(松平定信の子で養子に来た人)が出て、佐久間象山などを起用して積極的な改革を行いました。
 幕末にはいちはやく勤皇方になって奥州征伐などに奮戦したので、新政府の受けがよくて、明治政府で名をなした人が大勢出ました。信濃の士族で明治政府で成功した人の多いのは松代藩が第一で、高遠藩がこれにつぎ、そのほかの藩はあまりふるいませんでした。
 城はいま本丸あとの石垣が残っているだけで、この石垣は上杉領時代に築かれたといわれます。近くにある旧真田邸は文久二年(1862)の建築ですが、旧大名屋敷の形をよく伝えています。

 上田藩

 上田城は真田昌幸(信幸・幸村兄弟の父)が天正十一年(1583)に築いた城です。真田氏はそれまで、谷の奥の方にいましたが、千曲川の旧川敷にのぞむ平野部へ進出して来たのです。尼ガ淵城ともいいました。
 昌幸はこの城によって、天正十三年には徳川の大軍を撃退し、慶長五年の関ヶ原戦の直前には、徳川秀忠の軍をここで防いで、とうとう関ヶ原の決戦に遅れさ せてしまいました。昌幸が高野山へ流されたのち、徳川方についた信之が城主になりました。そのご、仙石・松平と城主がかわりました。次のとおりです。

真田信之(九万五千石) 1600〜1622

仙石氏(六万石) 1622〜1706 (忠政―正俊―政明)

松平(藤井)氏(五万三千石) 1706〜1869 (忠周―忠愛―忠順―忠済―忠学―忠優―忠礼)

 この松平氏は、徳川氏の古い分かれで、三河藤井郷に住んでいたので、藤井松平といいました。松平忠周が但馬出石の四万八千石から五万八千石に加増 されて仙石氏と入れかわりになりました。そのご忠周は老中になつています。上田藩の領地はおもに小県郡にありましたが、川中島地方に一万石の飛領地があり ました。このうち五千石は、忠周の次子に分け与えられたので、上田藩は五万三千石になりました。
 このように上田藩主は譜代の松平氏ですが、真田氏があまり有名なので、上田城というとすぐ真田十勇士などが思い出されます。今の上田城の石垣やヤグラは仙石氏の時代に築かれたもので、本丸のヤグラは三つ残っています。 

 小諸藩

 小諸城は浅間山の裾野の末端を千曲川が削り取った台地に築かれており、古くは鍋蓋城といいました。佐久の豪族大井氏の一支城にすぎず、小さなもの でした。武田信玄は天文十五年(1546)から十八年ころにかけて、この地方を占領し、小諸城を拡張して基地にしました。天正十年(1582)武田氏が滅 びた時、この城は武田の臣下曾根岳雲軒賢範が守っていました。信玄の甥典厩信豊は部下二十騎ばかりつれて小諸城に逃げて来ましたが、下曾根は信豊をあざむ いて二の丸へ入れ、その家に火をかけて焼き、信豊の首を織田信長に送って降参しました。この信豊は川中島の激戦で戦死した信繁(信玄の弟)の子です。
 織田信長の死後は、小田原の北条氏政がこの城を占領してその臣大道寺政繁を城代にしました。この地の土豪で武田氏の臣になっていた依田(芦田ともいう) 信蕃は家康に属して北条氏に対抗していました。この年十月北条氏と徳川氏との間に講和が成立して、信蕃が小諸城主となりました。ところが信蕃は翌年正月、 岩尾城(佐久市)を攻めて戦死してしまい、その子康国が城主になりました。ところが康国も天正十八年に上州石倉城を攻めている時事故死してしまったので、 その弟が小諸城主となりました。戦国時代には、親も子も次々に戦死ということがよくあったものです。さて、小諸城主の変遷を表にしてみると次のとおりで す。

仙石氏(五万石) 1590〜1622 (秀久―忠政)

徳川忠長(城代 屋代越中守 三枝土佐守) 1622〜1624

松平(久松)忠憲(四万五千石) 1624〜1647

青山宗俊(三万石) 1648〜1662

酒井忠能(三万石) 1662〜1679

西尾忠成(二万五千石) 1679〜1682

松平(石川)氏(二万石) 1682〜1702 (乗政―乗紀)

牧野氏(一万五千石) 1702〜1869
 (康重―康周―康満―康陛―康儔―康長―康明―康命―康哉―康済)

 飯山藩とよく似て江戸中期までは藩主の交替が実にひんばんでした。西尾氏のように、わずか三年たらずでまたひっこして行った城主もあります。交通 の不便な時代におおぜいの家来・家族をつれてひっこして歩くのですからたいへんだったでしょう。依田氏についで城主になった仙石権兵席秀久は、美濃の人 で、賎が岳の七本槍の一人で、豪傑として有名でした。この秀久の時、小諸城を大改修して、今のような規模にしました。天守閣もできましたがのち雷火で焼失 しました。しかし、大手門は今もりっばに残っています。今懐古園の入口の門になっているのは三ノ門で大手門ではありません。大手門は駅の北の町の中に残っ ています。今の駅のあたりも昔は城内でした。秀久の子忠政の時、大坂の陣の功で一万石加増され、真田氏のあとの上田城へ移りました。
 元禄十五年以後は牧野氏がひきつづいて城主だったわけですが、この牧野氏はもと三河の武士で、はじめ今川氏に従っていましたが、のち牧野康成が家康に 従って功がありました。関が原役の直前、徳川秀忠が上田城を攻めた時、康成と大久保忠隣が軍令に違反して勝手に攻撃をはじめたというので、秀忠の後見役本 多正信は、この両隊の旗奉行(作戦主任)に死を命じました。ところが、康成は、旗奉行贄掃部を自殺させるにしのびず、こっそり逃がしてしまったため、領地 を没収されました。しかしのちに許され、その正系は越後長岡藩主となりました。小諸牧野氏は康成の孫武成の子孫です。牧野氏ほ一万五千石でしたが実際は内 高三万石あまり、わりに楽だったといわれます。牧野氏で有名なのは最後から二番日の藩主牧野康哉です。この人は同族の常陸笠間藩主牧野氏から養子に入った 人ですが、家をついだのが天保三年(1832)で、ちょうど天保の飢饉のはじまった年でした。これから毎年不作つづきで、ことに天保七年は大凶作になりま したが、康哉は出産児には子育米という米を支給し、八十歳以上の困窮者には手当を与えました。
 また藩医を長崎にやってオランダの医師から種痘を学ばせ、嘉永四年(1851)にそれを領内で実施しました。もちろん、領民のなかにはしりごみする者が多かったので、康哉はまず自分の子供に種痘をさせて模範を示しました。日本での種痘のはじまりです。
 明治三十二年、鳥崎藤村が旧城址の小諸義塾の教師となって赴任して来て、七年間この地に住み、「千曲川旅情の歌」などいくつもの詩や随筆を書きました。城内にこの歌碑や、若山牧水の「かたはらに秋草の花語るらく、亡びしものはなつかしきかな」の歌碑があります。

 岩村田藩

 岩村田は鎌倉時代から大井氏の館のあったところで、この地方の中心地でした。元禄十二年(1699)内藤正勝が一万六千石でここに封ぜられ、その 子孫が明治四年まで藩主でした。内藤氏はもと三河の武士で、古くから松平(徳川)氏の家来でした。本家は日向延岡の藩主でしたが、信州高遠藩主と岩村田藩 主ほその分家です。

内藤義清――清長→日向延岡藩主
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           -忠卿―清成→高遠藩主
                |
                 -正次―正勝→岩村田藩主

内藤氏(一万五千石) 1703〜1869 (正友―正敬―正弼―正興―正国―正縄―正誠)

 この内藤氏は幕末ころにはひどく貧乏になり、「金はナイトウ志摩守、裾からポロが下がり藤」などと歌われました。幕末の藩主は内藤志摩守正誠、家紋は下がり藤だったのです。

 竜岡藩(田野ロ藩)

田野口は戦国時代にも田野口城があり、要地でした。文久三年(1863)松平乗謨がここへ城をかまえました。この松平氏は大給松平といい、松平氏の 古い分かれで、三河国加茂郡大給からおこった武士です。大給松平氏で大名になった家が四家あり、竜岡藩の松平氏一万六千石は宝永元年(1704)に松平乗 真が信濃佐久郡に一万二千石の領地を与えられて信濃と関係ができましたが、三河にも四千石の領地があり、三河額田郡奥殿に住んでいました。幕末になって世 間が物騒になったので、おもな領地のある信濃へ本拠地を移したのです。そして田野口に西洋式築城術による五稜郭、有名な函館の五稜郭と同じ形の城をつくり ましたが、全部完成しないうちに廃藩になってしまいました。竜岡というのは明治元年に新しくつけた藩名です。

松平乗謨(一万六千石) 1863〜1869

 松本藩

 松本の地は、もと深志といわれました。沼地という意味でしょう。この地方は平安時代に信濃国府(いまの県庁)のあったところで、そのためこの地方 は府中ともいわれ、室町時代には府中小笠原氏が支配していました。小笠原氏はもと甲斐の武士でしたが、鎌倉時代に信濃に領地を与えられ、南北朝時代から信 濃守護になって勢力がさかんでした。室町時代初期に分裂して、一派は下伊那に、一派は府中にいたのです。府中小笠原氏は林城を本城とし、深志城はその支城 でした。天文十九年(1550)武田信玄は小笠原長時を追い、深志城を修理して腹心の馬場民部(のち美濃守)信春をこの城におらせました。これから深志城 がこの地方の中心になりました。武田氏が滅びると、信長により木曾義昌に与られましたが、信長が死に、長時の遺児貞慶が旧領を回復しました。そのごの城主 の変遷は次のとおりです。

石川氏(八万石) 1590〜1613 (数正―康長)

小笠原氏(八万石) 1613〜1617 (秀政―忠真)

戸田氏(七万石) 1617〜1633 (康長―庸直)

松平直政(七万石) 1633〜1638

堀田正盛(七万石) 1638〜1642

水野氏(七万石) 1642〜1725 (忠清―忠職―忠直―忠周―忠幹―忠恒)

戸田氏(六万石) 1725〜1869 (光慈―光雄―光徳―光和―光悌―光行―光年―光庸―光則)

 小笠原氏についで松本城に入った石川数正は家康の重臣でしたが、家康のもとを逃げ出して秀吉に属した人です。数正の子康長が五層六階の天守閣を完 成しました。豊臣氏の番城として築かれたらしく、りっぱなものです。中央に五層天守閣(約三十メートル)、北に乾小天守、東に辰巳付ヤグラ、その東に月見 ヤグラがついています。月見ヤグラだけは松平氏の時付け加えられたものです。石川氏はまもなく大久保石見守長安事件(家康の奉行として功のあった長安が、 死後、謀反の企があったとして財産を没収された事件)に連座して取りつぶしになり、そのごはめまぐるしく藩主がかわりました。水野氏はわりに長く続きまし たが、その間に貞享三年(1686)の有名な嘉助騒動がもち上りました。藩のかける重税に対してその減免を訴えたのですが、藩当局は二十八人を死刑にする という苛酷な弾圧をしました。のち水野忠恒が江戸城中で発狂して人に切りつけて取りつぶしになりました。その後戸田氏が入って幕末までつづきましたが、戸 田氏は幕府領五万石を預けられていました。松本は江戸時代には信州第一の町でした。

 高島藩(諏訪藩)

 諏訪地方は古代から諏訪明神の子孫という諏訪氏が祭政一致的な形で支配していました。天文十一年(1542)諏訪頼重が武田信玄に殺されていった ん亡び、この地方は武田氏の支配下にはいりました。武田氏滅亡後、信長に占領されましたが、信長の死後頼重の従弟頼忠が旧領を回復しました。小田原の役の あと、家康が関東に転封になったのに従って諏訪氏も武蔵奈良梨、のち上野惣社に移され、そのあとへ日根野高吉が二万七千石ではいりました。この高吉が高島 城を築いた人です。この城は湖の中へ築き出した水城で三層の天守閣をもっていました。この天守閣は明治初年にこわされましたが、昭和四十五年に復元されま した。日根野氏は慶長五年(1600)在城十二年で去り、諏訪頼忠・頼水父子が旧領に帰って来ました。自ら希望し、幕府の要路へ運動し、関が原役後の大名 配置変えの時その希望がかなったのです。日根野氏と同じ諏訪郡一円二万七千石でしたが、大坂の役後、筑摩郡で五千石を加増され、そのうち二千石を藩主の弟 二人に与えたので、諏訪藩は三万石になりました.諏訪藩は途中わずかの中断はありましたが、古代以来領主がかわらなかったわけで、これは全国的にもたいへ んめずらしい例です。

諏訪氏(三万石) 1601〜1869
 (頼水―忠恒―忠晴―忠虎―忠林―忠厚―忠粛―忠恕―忠誠―忠礼)

 高遠藩

 高遠城は古くから上伊那地方の要地で、戦国時代には諏訪氏の支族高遠氏がいましたが、天文十四年(1545)に武田信玄に追われその後武田氏の支 城になり、保科氏が城代になっていました。武田氏滅亡の時、信玄の五男仁科五郎盛信がこの城を死守して討死したことはよく知られています。天正十年 (1582)三月三日のことです。そのご、一時信長の将毛利秀頼が伊那郡全部を支配しました。信長が死んで、保科氏がまたこの城を奪いかえしました。その 後の城主のうつりかわりは次のとおりです。

保科氏(三万石) 1600〜1636 (正光―正之)

鳥居氏(二万石) 1636〜1689 (忠春―忠則)

内藤氏(三万三千石)1691〜1869 (清枚―頼卿―頼由―頼尚―長好―頼以―頼寧―頼直)

 保科氏はもと北信濃の保科(長野市若穂)から出た武士らしいですが、保科正俊が武田氏の下で高遠城代になり、槍弾正と呼ばれて武名がありました。 正直の時、家康に従って関東へ移りましたが、関が原役ののち、高遠へ帰りました。正直の後妻多劫は徳川家康の異父の妹でした。家康の実母が松平広忠(家康 の父)と離縁して久松俊勝に再縁してできた女です。それで保科氏ほ徳川氏と縁つづきになりました。
 徳川秀忠の夫人は、浅井長政とお市の方との間にできた三人姉妹の三番目で、淀君の妹でした。お市の方は織田信長の妹でしたからこの夫人は信長のメイに 当っています。そのせいかたいへん気位がはげしく、秀忠はいっこうに頭が上らず、親父の家康みたいにたくさんの側室をもつことができませんでした。しかし 秀忠も男ですから、たまには浮気もします。侍女お静(神尾氏)に生ませた男子(正之)が一人ありましたが、夫人の手前をはばかり、実母の家に養わせていま した。夫人が死んだのち、正之を保科正光の養子にしました。それで保科氏は事実上親藩(将軍の近親の藩)になり、トントン拍子に出世して、会津二十三万石 の大領主になりました。有名な白虎隊の会津藩はこの信濃大名の子孫です。そのご鳥居氏を経て内藤氏になり、明治に至りました。内藤氏については岩村田藩の ところで説明したとおりです。

保科正俊―正直―正光=正之→山形藩主→会津藩主(二十三万石)
           || |   (秀忠の子)
        家康妹|
              |-正重
              |
                -正貞→上総飯野藩主(二万石)

 高遠城は中世以来の山城で城下町も立地条件が悪く不便でしたが、この藩には好学の風があり、砲術家阪本天山、儒学者中村元恒・元起父子など著名な学者が出ています。藩校の進徳館も有名で、今も建物が残っています。

 飯田藩

 飯田城も中世以来の城で、松川に面した段丘上にあり、武田時代にもこの地方の軍事基地でしたが、天正十年(1582)、織田軍が伊那地方に侵入す ると守将坂西織部・保科正直は戦わないで逃げ出しました。そのご、織田氏の将毛利秀頼が飯田城にいて伊那郡を統治しましたが、わずか二か月で去り、徳川家 康がこの地方を占領しました。そのご城主のうつりかわりは次のとおりです。

菅沼定利 1582〜1590

毛利秀頼(十万石) 1590〜1593

京極高知(十万石) 1593〜1600

小笠原秀政(五万石) 1601〜1617

脇坂氏(五万五千石) 1617〜1672 (安元―安政)

堀氏(二万石) 1672〜1869
 (親昌―親貞―親常―親賢―親庸―親蔵―親長―親忠―親民―親〓―親義―親広)
 (〓は「害」の「口」に替えて「缶」を置いた字)

 このうち、毛利秀頼は二度日の国入りでしたが、秀吉の朝鮮征伐の時、陣中で死に、そのムコの京極高知が飯田城主となりました。この時まで飯田領は 遠山地方を除く伊那郡全域でしたが、次の小笠原氏の時から五万石になり、堀氏の時はわずか二万石、二十七か村、のこりは天領(幕府領)になりました。
 堀氏は信長・秀吉に仕えて猛将として知られた堀久太郎秀政の二男親良の子孫です。(須坂藩主堀氏は久太郎家の家老の子孫ですので、明治になって旧姓の奥 田と改姓しました。秀政系の堀氏に本家面されるのがいやだったからでしょう。)堀氏には好色の藩主が何人か出、四代の親賢という人は、側室に髪をゆわせて いる時、側室がそこへ来た用人の牛之助という者にほほえみかけたというささいなことで、嫉妬に狂って牛之助を惨殺して、そのタタリに苦しんだというし、七 代の親長は吉原通いばかりするので、家老の柳田為美がそれを諌めるために自殺してしまいました。この人は民俗学者として有名な柳田国男の祖先です。石高も 二回にわたって減らされて、明治のはじめには一時一万五千石になってしまいました。

 長沼藩

佐久間氏(一万石) 1615〜1688 (勝之―勝友―勝豊―勝茲)

 坂木藩

板倉氏(三万石) 1682〜1702 (重種―重寛)

 岩城領

岩城氏(一万石) 1616〜1623 (貞隆―吉隆)


街道と宿場

 江戸時代の信濃を通る街道でいちばん重要なものは、江戸と京都を結ぶ中山道(中仙道とも書く)で、これは日本橋から出、碓氷峠・和田峠ををこえて 下諏訪へ出、木曽を通って美濃へ抜ける道です。また江戸から甲府をへて下諏訪に至る甲州街道も大切な街道でした。そのほか追分で中山道から分かれ、上田、 善光寺を通って越後の出雲崎へ至る北国街道、塩尻から伊那谷を通って三河に通じる伊那街道三州街道なども重要な街道でした。

 中山道

(坂本)―軽井沢―沓掛―追分―小田井―岩村田―塩名田―八幡―望月―芦田―長久保―和田―下諏訪―塩尻―洗馬―本山―贄川―奈良井―藪原―宮越―福島―上松―須原―野尻―三留野―妻籠―馬籠―(落合)

 甲州街道

(台ヶ原)―蔦木―金沢―上諏訪―(下諏訪)

 北国街道

(追分)―小諸―田中・海野―上田―坂木―戸倉―矢代―丹波島―善光寺―新町―牟礼―大古間・柏原―野尻―(関川)

 北国街道松代通り

(矢代)―松代―川田―福島―長沼―神代―(牟礼)

 北国西街道(善光寺街道)

(洗馬)―郷原―村井―松本―岡田―刈谷原―会田―青柳―麻績―稲荷山―(篠ノ井追分)

 北国脇往還保福寺道

(上田)―浦野―保福寺―(岡田)

 伊那街道

(塩尻)―小野―宮木―松島―大泉・北殿―伊那部―宮田―上穂―飯島―片桐―市田―飯田―山本―駒場―下清内寺―上清内寺―蘭―(妻籠)
岡谷道 (下諏訪)―岡谷―平出―(松島)

 佐久甲州街道

(岩村田)―野沢―高野町―上畑―海尻―海野口―平沢―(長沢)

 三州街道

(駒場)―浪合―平谷―根羽―(津具)

 糸魚川街道(千国街道)

(松本)―成相新田―穂高―池田―大町―海ノ口―沢渡―飯森―千国―来馬―大網―(糸魚川)

 大笹街道

(福島)―仁礼―(大笹)

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