交響曲


27.ベートーベン 交響曲第1番
指揮者、オケ レーベル コメント
クリュイタンス、BPO SER まだまだ若干30才のベートーベンはフルトベングラーよりはやはり他の人で聞きたい。クリュイタンスのラテン的明るさが心地よい。でも第1番であってもベートーベンはやっぱりベートーベンだ。


29.べートーベン 交響曲第2番
クリュイタンス、BPO SER この曲もやはりクリュイタンスが良い。青春。みずみずしさ。新鮮さ。音も未だ古くなっていない。
ワルター、コロンビアSO SONY ワルターを最初に揚げるべきだったかも知れない。小編成のオケが小気味よく利いている。軽妙、洒脱。


23.ベートーベン 交響曲第3番「英雄」
フルトベングラー、VPO EMI フルトベングラーの幾つかあるエロイカの演奏の中で最も均整のとれたアポロ的なもの。エロイカの演奏というのはなかなか難しい。その分なかなか名盤には出会えないのだ。
フルトベングラー、VPO EMI 1944年の通称ウラニア盤である。金管の生々しさが凄い。やはりスタジオ録音とは違うものを感じさせる。劇的、壮大。学生時代、第7番のBPO盤と共に夢中になって聴いたものだった。
トスカニーニ、NBC RCA フルトベングラーをもっときっちりさせたと言うべきか。行き方は全く違うんだけれども、奏法とすればアインザッツや弓のぶれがないぶんだけ端正になる。

現代の演奏で、エロイカの理想的な演奏が出てこないというのもつくづく残念な事です。



25.ベートーベン 交響曲第4番
ワルター、コロンビアSO SONY 正直言って余り聞いてなかったが久しぶりに聞いてうーん名演だと感じてしまった。やはりこのしなやかさはワルターの持つ人間性だろうと思う。
クリュイタンス、VPO SER シューマンはこの4番を「両雄の間に立つギリシアの乙女」と言ったとか。しかし、全然この曲は構造的に見ても聞いた感じも女性的では無いのだ。カルロス・クライバーの名演もそうした点をついたところにあるのだろうが、何度も聴きたいとなるとやはりクリュイタンスのこの盤に戻ってきてしまう。


.ベートーベン 交響曲第5番「運命」
フルトベングラー、VPO EMI 言わずと知れた名盤。スタジオ録音ですが、やはり良いです。
フルトベングラー、BPO DG ライブ盤。VPO盤とは甲乙付けがたし。出来るだけ若いうちに聞きたい。
クライバー、VPO DG 批評家の評価も高いのですが、なんど聞いても一体どこが良いのか私には判りません。クライバーのウィーンものは結構好きなのですが。
トスカニーニ、NBC RCA 音がdeadなのがいけないですが、フルトベングラーと双璧です。
ライナー、CSO RCA ライナーを聞いたことがない方は是非聞いてみて下さい。
イッセルシュテット、VPO DECCA この時代のウィーンフィルが一番ウィーンフィルらしい良い音を出してます。録音・演奏共に良かった頃でしょう。
ショルティ、CSO DECCA もっともっと評価されて良い指揮者だと思います。
レイボウィッツ、RPO RCA 昔、リーダーズダイジェストから出ていた交響曲全集の中の1枚。思い入れもあるとは言え、仲々の演奏だと思います。


10.ベートーベン 交響曲 第6番「田園」
ワルター、CSO SONY 名盤と言われていながら、どういう訳かその良さが全然判らずにいたものです。しかし、最近になってようやく「やはり田園はワルターだな」と感ずるようになってきました。野に咲く花と同じで余りにも自然でありすぎたためだと今になって思います。ワルターの偉大さはそんなところにあるように思えます。
ベーム、VPO DG 車を運転していてFMで流れてきたのがこのベーム、ウイーンフィル盤。ウィーンフィルの音もさることながら、その格調の高さ、精神性の高さに思わず襟を正してしまった。ベーム唯一の田園。これぞドイツ人の職人芸。田園の2楽章って実に演奏するのが難しいんですよね。大したものです。
フルトベングラー、VPO DG 「感情の表現」というのをこれほど明確に表したのはフルトベングラーが最初でなかったかしら。冒頭の第1楽章、それに第5楽章、凝縮された精神というものを感じずにはいられない。でも根底に命があるのがフルトベングラーですね。
クリュイタンス、BPO EMI クリュイタンスのベートーベンもいいものが多いですね。特に偶数番号。2、4、6、8どれをとっても良い。このセンスのよさは特筆もの。その気品の高さはラベルなどフランスものだけではなくベルリンフィル相手のベートーベン全集においても聴かれます。淡い田園。
クライバー、ACO DECCA クライバーといってもこちらはカルロスでは無く、お父さんの方のエーリッヒ。筆者が初めて聴いた田園がこのクライバーのものだったというのは幸せでした。モノラルですが実に端正な演奏。アムステルダムコンセルトヘボウの狩りのホルンの響きなど絶品です。「フィガロの結婚」の名演と言い、クライバーは、お父さんの方がレパートリーも広く、遙かにいいと思っているのは私だけでしょうか。


19.ベートーベン 交響曲第7番
フルトベングラー、VPO EMI やはりベートーベンの奇数番号はフルトベングラーになってしまう。これは致し方のないことだ。それほどフルトベングラーのベートーベンは圧倒的ということだろうか。舞踏の聖化をこれほどまでに演奏したものはいないのだから。
フルトベングラー、BPO EMI 凄絶なというか圧倒的な第7はこれだろうか。音楽の中に大戦中の雰囲気も感ぜられ、2楽章も聞くと、「もういいです、ベートーベン先生」という感じになってくる。恐るべきカナ、ドイツ魂。日本も戦時中はこんなだったかな?
クライバー、VPO DG 未だにこの盤がベストレコードになっているなんて、日本の音楽評論家の先生方、「何を聞いてんの」て言いたくなってしまう。クライバーの名前に負けてしまっているのだろう。こんなやせ細った、チリチリした病的な第7は毒にも薬にもしたくない。これは絶対に違う。


21.ベートーベン 交響曲第8番
S・イッセルシュテット、VPO DECCA これは名盤である。これほど深い味わいのある8番は他に例がないのではないか。何よりもウィーンフィルの音が美しい。実に洒脱な演奏。非常に頻繁に聞く盤である。
クリュイタンス、BPO SER クリュイタンスは今CDで出ているのだろうか?私の持っているのはLPなので。未だに評価が低いのは納得できない。7番と双子のこの8番も非常にリズミカルなのだ。そうした点、シンコペーションなどを実に小気味よく表しているのがクリュイタンスなのだが。

モントーがシカゴSOを相手にこの第8番を演奏しているのを学生の頃、見たことがある。これはCDではでないのだろうか?



17.ベートーベン 交響曲第9番「合唱付き」
フルトベングラー、バイロイト祝祭O EMI これは誰もが揚げる定番中の定番。やはりこれを真っ先に揚げないわけにはいかないだろう。演奏史上、いや歴史上の奇跡でもあると言える。曲が曲だけにこういう演奏は2度と生まれないのではないかと思われる
フルトヴェングラー、VPO ORFEO まさか今頃になってと思われるフルトヴェングラー、ウィーンフィルのザルツブルグでのライヴ、しかもバイロイトの数ヶ月後の演奏だから、バイロイトの解釈に最も近い。しかもウィーンフィルだから何とも言えない。今頃になって出てくるのに音も良いのだからこれは嬉しい。
フルトヴェングラー、PO TAHRA かつてはCETRA出ていたもの、ルツエルンでのライヴ。LPの時は眠たいような演奏であったが、リマスタリングによって嘘のように良い音、良い演奏となった。両方聴いているだけにこれは信じられない。特にだい3楽章の美しさはまさに絶品。天上の美しさである。これで、フルヴェンの第9ベスト3部作ができあがった。
メンゲルベルク、ACO PHILIPS 歌舞伎界の大物、メンゲルベルクの第9、合唱がはっきりしていて明快。一番ぶっ飛んだのはLastだ。先ず、これを聴いてぶっ飛ばない人はいないはず。これは聴いてのお楽しみ。大学時代、友人と朝方ラジオで聞いていたのを思い出す。まだまだあの頃の方が精神的なゆとりが時代にあったのかな。
S・イッセルシュテット、VPO DECCA 音楽的に第9を聴こう、しかもウィーンフィルでとなれば、この盤以外には無いような気がする。ウィーンフィルもこの頃の音が最高に良かった。弦も管も合唱も非常に美しい。美しさの第9。
ベーム、VPO DG ベーム先生の端正な第9。ベームほどドイツ音楽をきっちり聴かせてくれる人はいなかった。謹厳実直なようでいながら、その造り出す音楽の見事で深いこと。この人もやはり職人だった。
コンビチュニー、ライプチッヒゲバントハウスO PHILIPS ベートーベン交響曲全集であげてもいいかもしれない。これほどオーソドックスで、重厚、ドイツ的でありながら、これほどみずみずしい演奏もないのではないかと思われる。是非是非一聴の価値あり。最近の指揮者の柔な演奏なんか。


67. ベルリオーズ 「幻想交響曲」
チョン・ミュンフン、バスティーユO DG 幻想はミンシュ以外にはないなと思っていた筆者の固定観念を見事にうち破ってくれたのがこの盤。そう幻想は時代と供に常に新しくなっていかなくてはいけない。かつてベルリオーズが超革新的であったように。そんなことを思い起こさせてくれる演奏だった。チョンがこの先どのようなオケに就こうと彼の色彩感溢れる鋭い演奏には注目していきたい。
ミュンシュ、パリ管 EMI これは定番中の定番であるのであまりいうことはない。しかし例えば2楽章の舞踏会の3拍子の伴奏3拍目の均質な木管一つをとっても並はずれた名演であることが判る。そしてそうした構造的な知的アプローチに加え、ミュンシュの燃えたぎるような熱情がベルリオーズにぴったり合っているということは言うまでもない。ボストンSOよりも音色の点で勝る。
モントウー、ハンブルグ北ドイツ放送O DENON モントーの幻想。明晰・洒脱。特に第3楽章〜第5楽章が良い。最晩年の円熟老練の演奏。1965年度ACC国際レコード大賞受賞。
クリュイタンス、パリ音楽院O ALTUS 1964年東京ライヴ。クリュイタンス最初で最後の来日時のライブが極上のステレオ録音でCD化されたことは実に嬉しいことである。ただ単に記念碑的な演奏ということだけでなく、極上、最上級の音色のライヴ演奏ととらえたい。もはや、フランスもののこんなライヴは2度と聞けないのではないか。この時、会場にいたかった。
デュトワ、モントリオールO DECCA デュトワは明らかにミュンシュの後継者である。しかしミュンシュを男性的というならばデュトワは女性的。優雅・繊細・華麗である。この幻想においてもそのことが当てはまる。骨太のミュンシュに量感のデュトワと言うべきか。
ブーレーズ、LSO SONY ブーレーズ初期の、例によって分析的な演奏。情念的なものを感じなかったので、その後あまり聞いてないが、ブーレーズである。もう一度しっかり聞き直すことも必要かも知れない。


68. ブラームス 交響曲第1番
ミュンシュ、パリ管 EMI いまできあがったばかりの、切れば血が噴き出してくるようなこの生々しい演奏はどうだろうか。こんなにも情熱溢れるブラ−ムス1番というのは聴いたことがなかった。これまでフルトベングラーが1番と思っていたが、彼にはステレオ盤がないので、ピンチヒッターとしての登場。幻想とともにミュンシュ最晩年の超名盤
フルトベングラー、BPO EMI ブラームスのSymphony、わけてもこの1番は最も演奏が難しいのではなかろうか。テクスチャーをしっかりと見据えながらも、ただ形を整えれば良いというものでは済まされない要素が多々あるからだ。内側で燃えているものが自然に出てくるようなものというのは、なかなか得難い。そんな意味でフルトベングラーのBPOはそうしたものをじっくりと聴かせてくれる。勿論、VPO、北西ドイツ放送SOのライヴが素晴らしいものであることを認めた上での話であるが。
ベイヌム、COA LONDON 端正にして緻密な演奏。そして造形の見事さ。かつてのブラームス1番の名盤であったことも頷ける。又、この頃のコンセルトヘボウの実力は実に凄い。エーリッヒ・クライバーの「田園」にしてもそうである。
トスカニーニ、NBC RCA ブラームスというと「カラヤン」「カラヤン」と草木もなびくが、それも判らぬではない。構造的で重層的な響きが絶対的に必要とされるからだ。でも最終的にカラヤンから出てくる響きはブラームスではないのではないかと私は信じている。強いて良いというならば一番初期のBPOの演奏である。では何を求めるのか?その答えがこのトスカニーニの演奏である。
ケンペ、ミュンヘンP BASF 私がブラームスに求める響きはひょとしたらこのケンペ盤にあるのではないかとずっと感じている。勿論確定的なものではないが。カラヤンの響きとはなんと対極にあることか!!。全く今は評価されずにいるが。


69. ブラームス 交響曲第2番
バルビローリ、VPO SERAPHIM この曲に初めて接したのがフルトベングラーのロンドン・フィル盤であったが、ウイーンフィル相手のこのバルビローリ盤に触れた時は驚いた。その柔らかな響きが2番とぴったりあって実にいい感じ。バルビローリはチェロ出身だけあって、ウィーンフィル相手に苦労したそうだが、その成果が充分出ているといっていい演奏である。
フルトベングラー、LP LONDON フルトベングラーであれば、後のBPOの演奏を挙げるべきかも知れないが、上に記したように、ブラームスの2番に初めて接したものであるのでこの盤に触れないわけにはいかない。ベートーベンの「田園」に感じたのと同じようにやはり精神的な起伏の大きな演奏であった。しかし、2楽章の瞑想の深さ、4楽章の燃焼度など今でも感じさせるところの多い演奏である。
ケンペ、ミュンヘンP BASF ケンペのファンはおそらくケンペが有名になることなぞ望んでいないのではなかろうか。じっくりと熟成されたワインを飲む楽しみに似ている。忘れ去られても良いではないか。ケンペとてそういうことは望んでいないだろうし、共に素晴らしい音楽を共有できさえすれば。黄昏・やさしさ・しなやかさ。ケンペの真摯な演奏である。
カラヤン、BPO DG 1番でトスカニーニの項で記しておいたのだが、ブラームスというとやはりカラヤンには触れておかない訳にはいかない。で、それが最も適しているのがこの2番。しかも世評とはこれも異なって、一番古い63年の録音である。カラヤンは言うまでもなく非常に優れた指揮者である。しかし彼の場合、ザルツブルグ生まれの為なのか、ギリシア系が影響しているのか判らないが、あまりにも彫琢しすぎるのだ。メディアも選びすぎる。そんなカラヤンの飾らない地の部分がそのまま出ているのがこの演奏だろう。DGのDGらしい録音の最も良い頃でもある。


70. ブラームス 交響曲第3番
フルトベングラー、BPO EMI これはフルトベングラーのブラームスの中でも最高の部類に属する。勿論総てのレコードの中に於いても。フルトベングラーは総てそうだが、この求心性はどうだろう。ただただ内に向かって燃焼、発展し続ける。必然的にそれは元もロマンティックな演奏となる。近年ロマンティックな演奏を映画音楽のように解釈している者も多いが、それはあまりにも勉強不足というものだろう。ドイツはロマンティケルの宝庫だ。シュティルネル位読んで欲しいものだ。まあ、音楽には関係ないと言われればそれまでだけれど。
カラヤン、VPO DECCA カラヤンとVPOということでここでは挙げておこう。ウィーンフィル最高時の音である。カラヤンBPOはやはり1964のものを挙げておく。いずれにせよ、カラヤンはこの頃が一番良かったのだ。
ケンペ BASF ブラームスの交響曲全集は、65歳という指揮者としてはあまりにも早い若さで亡くなってしまったケンペの人生、掉尾を飾る追悼盤になる。地味な指揮者の地味な味わい。これを聴くと無性にドレスデンに行きたくなってしまう。むろん今は異なってしまっているのだろうけれど。


71. ブラームス 交響曲第4番
ワルター、CSO SONY ブラームスの4番に何を求めるかによって選択の幅は多いに異なってくる。しかし我々は音楽の創造者ではなくて、享受者である。その分だけ我が儘勝手に色々なものを選択できる。甘えも許されるというものだ。で、先ずはワルター盤。1番で出しても良かったのだけれど、ここで初めて登場だ。筆者の頭の中ではこの4番はモーツアルトの40番に繋がっている。となるとモーツアルトの40番のいい人がブラ4もいいということになる。で、先ず筆頭はワルター。弦はあくまでも優しく。
フルトベングラー、BPO EMI モーツアルトの40番とブラームスの4番。疾走する悲しみと人生の黄昏。出だしの上昇調と下降調。そんなところの連鎖だとは思うのだけれど、その連鎖の第2弾はフルトベングラー。これも両方とも名盤で、彼の「ブラームス論」を読むと一層心に迫ってくるものがある。ワーグナーとの対立。純真素朴でいつも人間的であったブラームス・・・・。
バルビローリ、VPO SERAPHIM ここからはモーツアルトの40番とは関係なくなる。しかし2番の項でも述べたが、バルビローリとウィーンフィルのこの出会いは我々にとってなんと幸せなことであったろう。柔らか・しなやかなウィーンフィルの弦が又、管が徹底的に歌ってくれる。あまりの素晴らしさに、ワルターがウィーンフィルだったらなどとここでつまらないことを考えてしまう。
ケンペ、ミュンヘンP BASF 色々なことを言わずにブラームスの音楽にどっぷりと浸ろう。これぞ純正ブラームス。いぶし銀、重厚、流麗。ふくよか。


81. ブルックナー 交響曲第3番「ワーグナー」
ベーム、VPO DECCA 筆者はブルックナーにはやはりVPOが一番合っていると考えている。悠揚迫らぬのんびりとした響きが絶対必要であり、都会的なBPOのどちらかと言えば機能的な響きには合わない。特にホルンを初めとした金管群が大事である。実に地味な味わいを出すウィーンフィル。テンポ感も絶妙である。ノバーク版第2稿使用。
クナッパーツブッシュ、VPO DECCA クナのブルックナーの中では、これが一番馴染めない。MONOの為もあってか音が堅い。ブルックナーでは音の柔らかさこそ命なのに。しかし、まだこちらが3番自体を聴き足りない為もあるかもしれない。そのため、細かいニュアンスまで聞き出せずにいるのかも。
セル、クリーブランドO SONY セルのブルックナーはこの他に8番があるが、この3番もセルらしい引き締まった良い演奏をしている。ちょっと録音が古く、音が痩せてしまっているのが残念だが。


72. ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」
バント、BPO RCA バントの出現によってBPOは音を変えた。カラヤン、アバドのあのふにゃふにゃした響きがなくなりベームの時のような、かつてのBPOの響きが戻ってきたような気がする。そこでのブルックナーの「ロマンティック」。これは実に見事である。ブラームスではあまり満足させてくれなかったが。バントは悠揚迫らないものが最も逢っているように思える。
ベーム、VPO DECCA 晩年のベームは「田園」も素晴らしかったが、このブルックナーの田園でも素晴らしい演奏を聴かせてくれる。どちらもウィーンフィルが相手で、晩年のゆったりとしたテンポの上に、ウィーンフィルの弦・管等が絶妙な響きを聞かせてくれてもう何とも言えない。一度聞けばこの演奏と判る精神的にも非常に高度なものとなっている。
クナッパーツブッシュ DECCA TOPに挙げるべきかも知れない演奏であるが、MONOでもあり、通好みという気がしないのでもないので、ここに挙げさせてもらった。しかし、実にニュアンスに富んだ演奏であり、MONOということを忘れて楽しませてくれる。VPOを相手に、あの恐い顔をしたクナがなにか自然と戯れていると印象なのだ。クナは、そこにブルックナーがいれば、きっと馬鹿にしたり、からかったりしたに違いないが、本当の所はお人好しのブルックナーが好きでたまらないのだ。クナがブルックナーになっていることを感じさせてくれる演奏だ。


82. ブルックナー 交響曲第5番
クナッパーツブッシュ、VPO DECCA クナがウィーン・フィルとのSTEREO盤を残しておいてくれたのは嬉しい限りである。ウィーン・フィルの各楽器個々の響きが、特にブルックナーの場合は、クナのインスピレーションに満ちた棒と相まって、ぴったりとはまり、これ以上はない世界を垣間見せてくれる。
ケンペ、ミュンヘンP BASF 一般的な人気のない曲だが、スケールの大きさ、完璧な構築という点で傑作である。渋く地味でり、カトリックとしてのブルックナーが非常に良く現れている作品。ここではケンペがそのブルックナー録音に際して真っ先に取り上げたもので、ミュンヘンフィルのどっしりとした響きの中に馥郁とした香りがある名演である。


83. ブルックナー 交響曲第7番
シューリヒト、ハーグPO DENON シューリヒトによるブル7の名演。最初はそれほどではなかったのにだんだん有名になってきてしまった。困ったことである。こっそりと楽しみたかったのに、という意味合いに於いて。シューリヒトは決して粘っこさや重たさというものが無い。さらりとしていて、そのさらりとしているところが、実に微妙に味わい深いのである。筆者にとってはConcert Hall Society 以来の付き合いである。
クレンペラー、フィルハーモニア EMI シューリヒトよりももっと聞かれなくなってきてしまったのがクレンペラーである。晩年の頃の演奏であるが、金管を中心に引き締まって純度の高い演奏である。もっともっと聞かれて良い盤である。


84. ブルックナー 交響曲第8番
クナッパーツブッシュ、ミュンヘンPO WESTMINSTER 名盤中の名盤であるが、確かにと思う。クナは縦の線が実に巧みである。金管の場合、この縦の線のバランスが良くないと、真にオルガン的な響きにはならない。しかし、クナの場合は高音、中音、低音どこかが飛び出すということも無いため、実に分厚い響きとなって、聴かせてくれる。どうして他の指揮者ではこのようにならないのかと思ってしまう。宇野攻芳の言う通り、確かにアダージョはいまいちか。シューリヒトを買わずばなるまい。
朝比奈隆、大阪PO ジャンジャン 朝比奈は何回も録音しているので混乱が生じるが私の持っているものは東京は渋谷ジャンジャン発売の2LPである。まだ朝比奈初期のライブと思ってもらっていいだろう。朝比奈の演奏はあまりにも素っ気ないほどの飾り気の無い演奏である。しかしそれだけにブルックナーの想いが確実に伝わってくる演奏というか、作曲者に語らせる演奏となり、それが壮大な伽藍を建築している。我々日本人としても実に嬉しいし、又、宇野功芳の功績も大である。
ヨッフム、シュターツカペレ・ドレスデン EMI ヨッフムの演奏するブルックナーは疲れない。つまり、何度も聴くに堪えるブルックナーだと思う。それだけ実に自然な演奏であるということだろう。この8番も発売当初から 有名になった盤である。ヨッフムにはBPO盤もあるがやはり手慣れたドレスデン盤が良いだろう。
カラヤン、BPO EMI ブル8はカラヤンが良い。面白いことに。ブルックナー8番て通俗名曲になってしまったのかしらんと思うくらいにカラヤンが良いのだ。朝比奈も良いが、カラヤンも良い、だからカラヤン、BPOで2組も持っている。しかし、どこが良いのかはまだ細かく分析はしてない。こちらはそのうちの古い方である。
カラヤン、BPO DG こちらはカラヤン・BPOの1975年の演奏。音も格段に良くなっている。オーケストラの機能的な美しさを十分に発揮できるのがこのブル8かもしれない。BPOでこれだけ良いのだからVPOの方が当然もっといいことは判る。しかし、残念ながらまだ所有してない。クナパーツブッシュも同じ。それにシューリヒトも。早く購入したいものだ


85. ブルックナー 交響曲第9番
シューリヒト、VPO EMI 立派な構成の8番と比べても何の遜色もない未完の第9。それにしても実に美しい曲だと思う。正に白鳥の歌にふさわしい。その9番をシューリヒトはなんのケレンもなく表出している。そうしたところが正に我々の心を打つのだろう。VPOであるというのも幸いして、聞きしにまさる名演となっている。
ヴァント、BPO RCA ヴァントのブル9、「ロマンティック」に記した事が言えると思うが、なんと言ってもこちらは9番。出来るならば存命中に生で聴いておきたいものである。
クレンペラー、NPO EMI ブル9を最初に聞いたのがクレンペラーのこの盤だったので筆者には思い出深い。金管を中心とするその響きは、素朴な表現というよりはむしろ都会的な表現だが、非常に構築的であり、都市の教会の大伽藍を見るように、圧倒的で説得力がある。クレンペラー晩年の演奏だが、非常に若々しくもある。ノバーク版。
カラヤン、BPO DG 絶対にここにカラヤンを載せてはいけないのだろうが、ともかくブル9の比類のない美しさのそのものに焦点を当てた演奏で、その音色の絶対的な美しさは喩えようもない。これ1枚では、その人は不幸だが持っていて損は無い1枚である。
フルトベングラー、BPO DG フルトベングラーはよく「生成」という言葉を使っていたが(「音と言葉」)、その言葉が一番ぴったり来るのが「第9」ではなかろうか。勿論、ベートーベンとブルックナーの第9である。録音は古いがその醸し出す雰囲気は正に「生成」そのものであり、大きな音楽のうねりの中に我々は放り出される。1944年のライブでのそれは、歴史の中で翻弄される我々自身であり、その中で我々如何にあるべしといった確信のようなものさえ感出される。


130. ドボルザーク 交響曲第7番
セル、クリーブランド管 SONY ブラームスの3番を聞き、それに負けないものを書こうとして作られたこの作品は、ブラームス風の重厚さとボヘミアの民族性に根ざしたドヴォルザークの個性が見事に融合した作品となった。セルらしい精緻なアンサンブル、開放感に満ちた音楽を聴かせる。もう少し余裕があってもいいような気もするが。
スウィートナー、シュターツカペレ・ベルリン SchallPlatten ドイツ風な性格を捉えて、要所を押さえた確実な構成力によって、4つの楽章をしっかりとまとめている。


131. ドボルザーク 交響曲第8番
カラヤン、VPO DECCA ここに聞かれる歌はどうであろうか、何とも言われない華がある。カラヤンが一番充実していた時期の録音でVPOとともに実に素晴らしい録音を残してくれた。85年の録音もあるがこちらの61年のものの方が良い。
スウィートナー、シュターツカペレ・ベルリン ScallPlatten カラヤンとは反対にドイツ的な視点からのアプローチ。あまり注目されることの無い盤だが、しっとりとした表現の中から確実に歌が聞こえてくる。スウィートナーならではの味わいがある。


.ドボルザーク 交響曲第9番「新世界より」
バーンスタイン、NPO SONY 批評家が何を言おうと「新世界より」といったらもうこれより他無いと思います。若さ、しなやかさ。
トスカニーニ、NBC RCA モノラルですが、実に奥深い。考えさせられます。音がひとつひとつ生きています。
ケルテス、VPO DECCA 実に味わいがあります。ウィーンフィルで新世界を聞きたいとなったらやはりこれです。
ノイマン、CPO SPR 所謂、地元もの。ドボルザークはこういう語り口なんだよという味わい。いいですね。
アンチェル、CPO SPR 同じく、地元もの。ノイマンの一世代前。チェコフィルの充実期でしょうか。
ターリッヒ、CPO SPR やはりオリジナルな味わいというか、ホルンの響きなど。
アンチェルの更に一世代前。今まで挙げてきた米国VSチェコの基本中の基本
カラヤン、VPO DG こんなものを推薦するなんて日本の批評家の耳はやはりおかしい。トランペットが飛び出してきたときは耳を疑った。
ストコフスキー、NPO RCA 知る人ぞ知る、SP時代「新世界」と言えばストコフスキー/フィラデルフィアでした。家にあった。
カラヤン聞くならこっちだな。
ライナー、CSO RCA まだこれは聞いてないのでなんとも言えません。でも、今一番聞いておきたい1枚です。


128. フランク 交響曲 ニ短調
フルトヴェングラー、VPO LONDON 初めて聴いたものがフルトヴェングラーのこの盤であり、これは圧倒的な刷り込みであった。決して華麗なとか、豊かな響きとかいうものではない。しかし、ここに聴かれる精神性はどうであろう。第2楽章1部に聴かれるような厳粛な面もち。楽器編成は2管3管と華やかなものではあるが、そうした外面的な華やかさとは別の宗教的で理性的、哲学的で、思索的な面が前に出された演奏であるといえよう。
ミュンシュ、BSO RCA ベルギー生まれのフランクを演奏するのにアルザス生まれのミュンシュほど相応しい人はいないだろう。ドイツ精神とフランス的センス、まさにこの盤はそれらの幸せな邂逅であろう。録音が当時としては優秀なのも良かった。極めてスケールが大きく、フランク独特のオルガン的な響きを良く出している。
マルティノン、フランス国立放送O ERATO 発売当初は良く評価されていたのに、最近は全く忘れられている。軽妙洒脱なインスピレーションに満ちたマルティノンの棒がフランス国立放送響を相手に、余分な誇張や劇性は一切なく表現され、最も模範的な演奏を繰り広げているのに。マルティノンは恐らくは独裁的で、人付き合いがうまくないのであろう。敬遠される頻度の高い指揮者であるように思われる。シカゴとも(これは判るが)、パリ管にも採用されなかった。筆者も性格的にはあまり・・・・。しかし、演奏は格別である。まあ、マルティノンだから、判る人だけに判ってもらえばいいか。通好みとしておこう。
バレンボイム、パリ管 DG 繊細で情念的なバレンボイムの「フランク」。フルトベングラー流とも言えるし、そうではないとも言える。ゆったりとした1楽章、2楽章1部もやはりゆったりしているが、フルヴェンとはやはり異なる。その後、自然にダイナミックに動いていく。パリ管7年目の幸せな録音であったろうか。


119. ハイドン 交響曲第94番「驚愕」
フルトヴェングラー、VPO EMI ハイドンを聴くと言うよりもやはりフルトヴェングラーを聴くと言った方が良いベートーベン的なハイドンである。悠然としたテンポのスケールの大きな演奏であり、VPOを相手に古典の格調をほのかなロマンとともに表した演奏。やはり感動を覚える。
ホグウッド、エンシェント室内管 オワリゾール ピリオド楽器でありながら、非常に美しく、楽しむことができる。響きの柔らかさとニュアンスの豊かさ。
トスカニーニ、NBC RCA 数少ないトスカニーニのハイドン。テンポなど、フルトヴェングラーとは全く対照的と言って良い演奏だが、その造形性には見事なものがある。


121. ハイドン 交響曲第100番「軍隊」
ホグウッド、エンシェント室内管 オワリゾール 第2期ゾロモンセットと言われる99番からの6曲の中の人気作。この演奏も「軍隊」という謂われとなった2・4楽章を中心に楽しさに溢れた演奏である。いききとした表情がなんともいえない。
サバリッシュ、VSO fontana ウィーン・シンフォニカを相手とするサバリッシュの軍隊、正統的なこの演奏はもっと評価されてしかるべきだと思っている。しかし、古楽器が隆盛を占めている、今日、録音も古くなって次第に忘れられていく盤かもしれない。淋しいことである。


120. ハイドン 交響曲第101番「時計」
トスカニーニ、NBCO RCA 「驚愕」もそうだが、トスカニーニのテンポは最近の演奏に近いものがある。規範とされているのかも知れない。「軍隊」と比肩するハイドンの傑作を完璧に演奏しているのがトスカニーニ。NYPの方が良いとされているが、未聴の為、こちらを挙げておく。
サバリッシュ、VSO fontana 上記、「軍隊」とのカップリングのLP。ウィーン響を相手に端正ではあるが、ウィーン風の曲作りとなっている。非常にいい演奏なのだが、ステレオではあっても録音が古く分解能が悪いのが残念だ。
ヘルビッヒ、ドレスデンフィル SchallPlatten シャルプラッテンといえ、馬鹿にするなかれ。今は希少価値となっている東ドイツ系の重厚な響きを聞かせてくれる演奏が多いのだ。ここでのヘルビッヒ、ドレスデンフィルも、シュターツカペレまでとはいかなくても、スタープレーヤーがいない分、非常に優れたアンサンブルを聴かせてくれる。


122. ハイドン 交響曲第104番「ロンドン」
ホグウッド、エンシェント室内管 オワリゾール ハイドン104曲の交響曲の最後飾る最高傑作「ロンドン」ザロモンセット自体がロンドン交響曲とも呼ばれていて、この12曲の最後を飾る代表ということで「ロンドン」と覚えておけば間違いなかろう。又、実際それだけの内容を有している。ホグウッドは独自の響きと強弱法を駆使して鮮やかな音楽を聴かせる


86. マーラー 交響曲第1番「巨人」
ワルター、コロンビアSO SONY 筆者がまだ本当に青年の頃、心に焼き付けられた盤。どちらかと言えばマーラーは苦手だが、この「巨人」だけは全く別である。若さ、青春というものの真実をこれほど明瞭に語ってくれたものは無い。青春というものは決して美しいものでは無い。青春の持つ苦さ、悲劇性というものを自然に明らかにしたものを、これ又ワルターが極々自然に活写している。永遠の名盤であろう。
バーンスタイン、ACO DG マーラーの交響曲に対してワルター、バーンスタインとユダヤ系指揮者が続くのは致し方無いところだろう。表情の一つ一つが説得力を持って語りかけてくる。そうしたものがストレートに心に響いてくるのだ。
小澤、BSO DG 1977年の録音で小澤がまだまだ若い時のものである。しなやかでみずみずしく、正に小澤自身の青春の1里塚である。確かにブラームスの1番、幻想交響曲、巨人などは皆むせ返るような青春の臭いを漂わせている。


89. マーラー 交響曲第2番「復活」
ワルター、NYP SONY ワルターのマーラー交響曲の演奏は正に慈しみである。作曲者マーラーに対する慈しみのみならず、マーラーの愛した人生、生きとし生けるものへの讃歌、ワルター自身が愛した人生そのものへの慈しみである。自然であり、豊かであり、美しい
バーンスタイン、NYP DG 3種類あるものの中からこれは最後の87年の録音。レニーの率直な熱い情熱は聞き手をいきなり引きずり込まずにはいられない。非常に強い説得力。我々はレニーの魔力に心地よく最後まで酔わされる。音楽はマーラーの場合、特に麻薬と化す。
小澤、サイトウキネンO SONY なんと交響曲部門でアカデミー賞をもらってしまったという充実の小澤の復活である。1年後同じくマーラーの9番を聞いたが、これが又、絶品であった。もともと日本のオケのコンマスレヴェルが集まっている弦に加え、管にも世界の優秀なプレーヤーが入っているのだから、堪らない。今の小澤・サイトウキネンは絶好調。注目株である。


90. マーラー 交響曲第4番
アバド、VPO DG マーラーを聴くにはやはりVPOでというのが心情だろうか。しかし、ワルターの55年・60年のものが手に入らない限りは、その代理でということでアバド登場。この明るい交響曲とアバドとVPOの幸福な出会い。


129. マーラー 交響曲第5番
クーベリック、バイエルン放送響 audite 今、クーベリックほど熱くさせてくれる人はいない。余分な虚飾は一切なく、ただひたすらマーラーのスコアに対峙するクーベリックとその手兵バイエルン放送響。このコンビは幾多の名演を残してきたが、この盤は永遠に人々の記憶に止めることになろう。ああ、それにしてもアダージェットの美しさよ。


91. マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」
ショルティ、CSO、ウィーン国立歌劇場cho DECCA ショルティ・シカゴのヨーロッパ演奏中のウィーンでの録音。この演奏・録音は正に「指輪」に匹敵するものと言えよう。オケ、ソリスト、コーラス総てにおいてバランスがとれ、重厚な演奏をしている。バーンスタインは感動はあるが荒い演奏なので割愛。


92. マーラー 交響曲第9番
ジュリーニ、CSO DG マーラーを敬遠しがちな筆者にとってこの9番は不思議なことに早くから手元にあった。不思議なことにこのマーラーの9番は、指揮者の伝説的な名演と語り継がれることが多い。ジュリーニのこの盤も当時(76年)から名盤と言われたものである。しかしこうした名盤を手に入れていても解できないものは理解できないのだから面白い。今度は判るかも知れない。
バルビローリ、BPO EMI こちらの方が録音されたのが早いにも関わらず手に入るのは遅かった。それほど日本ではバルビローリは冷遇されていた。BPOでの演奏会のこの曲があまりにも素晴らしく、BPOの楽員の総意から録音が実現された曰く付きの盤。いや、私もこのバルビローリを聞いてようやくこの曲の良さが判ったような気がしたものだ。
バーンスタイン、BPO DG こちらもバーンスタイン生涯ただ1度だけののBPOとの演奏会ライブで、一期一会の伝説的名演。いや敵の牙城に乗り込んでの演奏。レニーもBPOのメンバーもさぞや緊張したことでしょう。しかし皆が皆、この出会いを楽しんでいます。確かにレニーの人柄が伝わってくる感動的な名演。


93. マーラー 交響曲 「大地の歌」
ワルター、フェリアー、VPO LONDON あまりにも有名な盤であり、ここに付け加えることは何もないように思う。「大地の歌」はこれ1枚あれば足れり。ステレオでなくても構わない。学生の頃より今でも、折に触れて口に出てくるのは "Dunkel ist das Leben, ist der Tod." 「そうだそうだ」と実に妙に納得させられるのである。


125. メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」
マーク、LSO DECCA スコットランドといえばマークと言われたほどの名盤である。あの明るいメンデルスゾーンのこの憂鬱はやはりスコットランドそのものに起因すると思われる。そのロマン性を実に見事に表現したのが、このマーク、ロンドン交響楽団の演奏であった。絵画的な描写力に優れ、暗鬱たる表現が聴くものに迫ってくる。カップリングされているフィンガルの洞窟とともに、圧倒的な名演である。
レヴァイン、BPO DG メトのレヴァインらしく、声楽的なしなやかな歌に満ちた表現である。BPOを相手に重心の低い、それでいて感覚的に洗練された交響性も良い。この陰影性、マークとともに評価されて良い表現である。現代的ではあるが、非常にみずみずしい。
ミュンシュ、BSO RCA ミュンシュのメンデルスゾーンも全く忘れられていると言っていい存在である。録音も古くなったので致し方無いことかも知れないが、ミュンシュの造形性、ボストンのソノリティの豊かさからいっても、この盤は忘れられてはならないと思う。ただ思うのはミュンシュはライブで燃える。BSOよりも他のオケの方がその本領を発揮するということであろうか。


126. メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」
トスカニーニ、NBCso RCA イタリアとなれば、やはり真っ先に挙げなければならない盤であろう。ステレオであるとか、モノラルであるとかいったことを超えた、最上級の表現。カンタービレとそのリズム感を主に燃えたぎった灼熱の音と躍動感、圧倒的な演奏を繰り広げ、これ以上の名演は今後も不可能なように思える。
レヴァイン、BPO DG トスカニーニに次ぐものと言えば、現在ではやはりこのレヴァインをおいてはないのでは無かろうか。イタリアではやはりカント、カントであろうか。歌が響かなければ意味がないと言える。ユダヤ人であり、裕福な家庭に育ったメンデルスゾーンの徹底的に明るいこの曲イタリアは、Opera的な環境が必要なように思える。BPOを相手にしてのこの豊かで暖かい響きと歌はやはりレヴァインならのものであろう。レヴァインの今後の総ての活動に期待したいものである。
サヴァリッシュ、VSO fontana 一般的にN響のかつての常任指揮者というのは低い評価に置かれているのはなぜだろうか。サバリッシュ、マタチッチ、ホルストシュタイン、フルネ、マルティノン。N響の指揮者の選択は非常に優れているにも関わらず、批評家の評価は身近なものには非常に厳しいといういかにも日本的な風土のような気がする。。創造と批評の典型のような気もするが。で、サヴァリッシュ、浪漫派の音楽を語らせたら、この人しか無いではないかという演奏である。造形の確かさ、、ソノリティの豊かさ、歌わせ方のうまさ。日本の批評界は貧しいか。
ミンシュ、BSO RCA ミュンシュのメンデルスゾーンがあまり語られることがないというのは全く不当である。今やどのカタログを見ても挙げられているのを見たことがない。ひょとしたらRCA自体もおろそかにしているのかも知れない。しかし、ミュンシュのこのイタリアを挙げないでいて良いのだろうか。早めのテンポに造形の決まり良さ、生き生きとした表現などミュンシュの良さが総て出ているイタリアである。


217.メンデルスゾーン 交響曲第5番「宗教改革」
ミュンシュ、BSO RCA バッハのマタイ受難曲を発見し、蘇演した直後に作曲されたこの曲はその影響が終楽章などに窺える。ミュンシュは例によって構造的な中にも音色豊かな表現で、巧みに捉えている。


95. モーツアルト 交響曲第28番
ベーム、BPO DG 学者ベームの演奏はおおむねカチッとした端正なものである。オーストリア人でありながら、ウィーン風の気楽さや典雅さはなく、あるのはドイツ的な真摯さ、無骨さと硬質な音である。それでは初期のモーツアルトに相応しくないではないかと思われる方がいたとしたら大間違い。愉悦さを音の中に閉じこめてあるのだ。従って演奏が始まり出すと音達はこぼれてくる。


96. モーツアルト 交響曲第29番
ベーム、BPO DG ピリオド楽器が隆盛になったのはこの10〜15年くらいだろうか、様々な団体が様々な試みを見せてくれた。しかし、ベームの捉えているモーツアルト感はいささかも古さを感じさせない。それは只楽器を代える、編成を代えるといった小手先の部分では無い、楽曲の構造から、音からモーツアルトの魂に肉薄していったものだからである。


97. モーツアルト 交響曲第32番
ベーム、BPO DG ト長調のこの曲は交響曲というよりはシンフォニアである。31番の交響曲「パリ」や「フルートとハープのための協奏曲」などパリでの経験は傑作も生みだしたが、同時に母親を失うことにもなってしまった。パリから帰り、マンハイムを経てザルツブルグに戻って来てできたのがこの曲である。真摯な演奏。


98. モーツアルト 交響曲第35番「ハフナー」
ワルター、NYP SONY 1953年の録音、VPOからNYPに移り、より自己の主張ができるようになって来た頃の演奏。流麗さに厚みと威力が加わった。生命力に満ち、自在な精神の飛翔が見られる。モーツアルト本来の愉悦がここには見られる。
ベーム、BPO DG ハフナーを最初に聞き親しんできたのはこちらの方である。例によって構築的な音楽であり、その響きはあくまでも透明である。ベームとワルターは正に好対照であり、比較して聞くとこれ又楽しい。


99. モーツアルト 交響曲第36番「リンツ」
レバイン、VPO DG レバインがVPO相手に若さをぶつけての演奏である。きびきびとしたリズムは躍動感に溢れ、誠にモダーン。VPOが相手だからそれによって音色が削がれるということは決してない。
ワルター、コロンビアSO SONY 新旧両方の録音があるがこちらは55年の古い方。モノラル盤ながら「リンツ」の理想的演奏。
ベーム、BPO DG ベームはミュンヘン歌劇場でワルターの知り合い、この18歳年長のワルターから大変可愛がられ、その演奏するモーツアルトにも大変な感銘を受けた。でも地方小都市グラーツ生まれのベームは決してワルターにはならなかった。師弟の話として非常に良い話であると思う。このリンツにおいても又、然りである。


100. モーツアルト 交響曲第38番「プラハ」
ワルター、コロンビアSO SONY ワルターには3種の録音があるが、ここでは最後のコロンビアSOとのステレオ録音を採った。宇野攻芳お薦めのNYPはこれまで手に入れなかったと見える。しかし、ステレオ録音というものはやはり良い物だと改めて感銘を受ける。ワルター、NYP、VPOのモーツアルトを是非是非ステレオで聞いてみたいというのは無い物ねだりである。
ベーム、BPO DG 世評ではウィーンフィルの方が高いが、私のものはBPO。いや、これも買い逃しただけである。プラハはどうも名盤を買いそびれてしまうようである。しかし、ベームという人はBPOではBPOの音がし、VPOではVPOの音がするから不思議な人である。当たり前の様な気がするが実はこれは決して当たり前のことではないのだ。フルベンはどこでもフルベン。チェリはどこでもチェリなのだから。いやVPOにしても実際聞いてみなければ判らぬが


101. モーツアルト 交響曲第39番
ワルター、NYP SONY どう見ても、どう考えてみてもモーツアルトに関しては宇野功芳路線になってしまうが、これは確かにそれが良いとなってしまうのだから致し方の無いことである。ピリオド楽器など目に入らないのもそんな所にあるのかも知れない。ひょっとしたら過去にのみ目を向ける頑迷なお爺ちゃんになりつつあるのかも知れない。しかし、この旧スタイルのあまりにも素晴らしい演奏をできるだけ多くの人に聞いてもらいたいし、知ってもらいたいということだけは確かだ。今はもう忘れられつつある?
ベーム、BPO DG 83年位まではベスト3に入っていた名盤なのだがこれも今は忘れられつつあるというのは残念だ。消費社会というのは常に新しいものを作り続けていかなければ商売にならないのだから困ったものだ。新旧交代というのは常になければならないものなのだけれど。ベームは又いつかHeritageとして蘇るだろうから心配ないのだけれど、むしろ使い捨てにされている新しい人の方が心配だ。ところでベーム、実に重厚な上にも気品溢れた見事な演奏である。
ライナー RCA どこにも取り入れられてないので挙げておこう。ライナーはよく「自分の最も好きな作曲家」としてモーツアルトの名を挙げていた。ワルターも毎年CSOに客演しモーツアルトを取り上げ、多くのファンを魅了していた。ライナーのモーツアルト
予想に違わず、きびきびした演奏で尚かつ香り高い演奏である。


102. モーツアルト 交響曲第40番
ベーム、VPO DG モーツアルトの交響曲を真っ先に聴いたのは高校生の時。ベーム、BPOの40番・41番のカップリングであり、これも又当時、名盤と言われたものであった。この頃のDGは、DECCAやEMIが華々しい音造りをするのに対してDGとしてのPolicyを毅然として譲らず渋い音色であり、その筆頭格がベームであり、それが実に堪らなく嬉しかった。ここではそこから又10年後になってしまうが、VPOとの演奏である。
ワルター、NYP SONY VPOとの演奏も手に入れてない。なかなか欲しい盤があっても手元に置けないというのが実状である。年間1000枚近く購入するような人もいるようであるが、ごく普通のの生活者の視点から見れば、なかなかそうそろえられるものではない。まだ道を究めてないと怒られそうでもあるが、生活とは往々にしてそう言うものである。ということで、NYPとのものを。
フルトベングラー、VPO EMI 小林秀雄・ゲオンの「疾走する悲しみ」を最も端的に表しているのは、やはりこのフルトベングラーの演奏では無かろうかと若いときに感じた。とどまることの出来ない精神、若さとはそういうものであろうか。ガイストからのアプローチはやはりこちらであろうか。
カザルス、マールボロー音楽祭O SONY 「真率な心がモーツアルトの存在そのものの(あることの)悲しみを歌い上げる」という言葉自体が古く、くさいものになってしまった。しかし本当にそうであろうか、ともう一度問いたい。普遍というものは永遠に不変なのである。
ライナー RCA 上記39番とのカップリングである。推進していくそのリズムこそ、その総てがある。


103. モーツアルト 交響曲第41番「ジュピター」
ベーム、VPO DG これも40番のところで書いたことと同じである。というのもこの曲は40番とのカップリングが多いからであり、その分セットで語られる事も多い。当初のBPOとのLPも40番よりは41番の方がアポロ的名盤として挙げられていたように記憶している。もう既に40番の方が圧倒的に心に染み込んできていたのではあるけれど。BPOの直裁、VPOの柔軟。
ワルター、NYP SONY モノラルながらベームの師匠ワルターのJupiterはまたいよいよアポロン的であり、華やかで圧倒的である。


247. プロコフィエフ 交響曲第1番ニ長調Op.25「古典交響曲」
デュトワ、MSO<88> DECCA ロシアはバレーとの繋がり以来であろうか、フランスとの繋がりが密接にある、従ってフランス系の指揮者に名演が多い。作曲者に依ることも多いが、プロコフィエフのこの曲の場合は、デュトワ、MSOがピッタリと合い、非常にモダーンで洗練された仕上がりとなっている。


127. サンサーンス 交響曲第3番「オルガン付き」
デュトワ、MSO DECCA この曲は音響的に優れていなければと思う。トスカニーニはモノラルではあったけれども、この曲を大衆に知らしめた。さて現在では、デジタル録音のデュトワが最高である。もともとフランス音楽のデュトワであるのだからこれはいうまでもないもないこと。モントリオールの弦・管も極めて美しい。ハーフォードのオルガンも元々DECCAの特質である適度な残響時間を得てたっぷりと余裕をもって響いている。豊麗なソノリティのオルガン付きである。
ミュンシュ、BSO RCA トスカニーニの7年後ミュンシュはステレオで録音した。デュトワの大先輩格になろう。この盤をベストに推す選者も多い。ミュンシュらしい骨太な造形、多彩な響き、生き生きとしたニュアンスなどが堪えられない。録音も例のLiving Stereo であるので悪くない。
プレートル、パリ音楽院管 SERAPHIM 筆者が最初に聴いた「オルガン付き」がこの盤であったというのは幸運な事であった。クリュイタンスより薫陶を受けたプレートル、それにパリ音楽院、オルガンはデュリュフレである。このエレガンス、美しい響きは堪らない。プレートルの熱い想いも又伝わってくる。


268. シューベルト 交響曲第3番
クライバー、VPO DG 未完成とカップリングされた1枚。クライバーなのに曲が曲だけに滅多に云々されることもない。それではじっくりとよく聞き込んでいるかというとそうでもない。恐らく感銘を受けたのであれば、何度も聞いているはずであろうから、何とも感じなかったのだろう。それではまずいので、今度じっくり聞き込んでからコメントを付けることにします。


31. シューベルト 交響曲第8番「未完成」
ワルター、NPO SONY 未完成と言えばこれ、定番です。もっとすっきりした演奏もあるかも知れないけれど情緒纏綿たるシューベルトの旋律、音楽に最もぴったりするのはやはりワルターですね。オーボエの美しいこと!!十分に泣けます。
フルトベングラー、VPO EMI モノラルですがフルトベングラーはフルトベングラーしてますね、やはり。その深さは尋常なものではない。孤独感、憂愁感はただものではありません。何度も聴けるものではないかもしれないけども。
クライバー、VPO DG これも名盤とされているので揚げないわけにはいかないのですが、世評とは違ってどうも全然しっくり来ないのです。クライバーはオペラの指揮者ではあってもシンフォニー指揮者ではないのではと感じます。ここでもアンチクライバー派になっていますが、おかしな言い方ですがどうもクライバーの音楽は健康ではないのです。


32. シューベルト 交響曲第9番「ザ・グレイト」
ベーム、BPO DG 冒頭のホルンの調べからベームの真摯なマジックに絡め取られていく。このかっちりと構造的であり尚かつ深遠な音楽造りの見事なこと。客観的にあくまでに客観的に演奏しているからこそ、その深みも出てくるのだ。
フルトベングラー、BPO DG ベームと全く同じ事がフルトベングラーにおいても言える。モノラルではあっても聴いている内にそんなことは全く問題ではなくなってくる。これも又フルトベングラーの残してくれた貴重な遺産の一つである。超名演。


123. シューマン 交響曲全集
ハイティンク、ACO PHILIPS ハイティンクは、それほど凡庸な指揮者なのであろうか。なぜか忘れられるか、無視される存在である。この「シューマン交響曲全集」においても今や名盤大全のカタログにすら挙げられていない位だ。第1番「春」にしても第3番「ライン」、第4番にしても発売された当初はかなり評価されていたのに、である。第1番「春」は奇を衒わないストレートな表現で、説得力を持っている。第3番もオーケストラを充分鳴らしてゆとりある響きを作りだし起伏に富んだ演奏を聴かせる。第4番は別項で。


275. シューマン 交響曲第1番変ロ長調Op.38「春」
レヴァイン、BPO<90> DG レヴァインは弾む。ともすればオーケストラがァインの若さとこの曲の見事な合致だろう。春=Spring をまさに感じさせてくれる名演である。
フルトヴェングラー、VPO<51> LONDON 真っ先に挙げなければならなかったかも知れない。しかし録音やら、4番ほどの感銘を与えてもらえなかったような気もするので2番手とした。しかし、演奏内容からすれば、レヴァインの上を行くことは間違いない。今となっては何人も与えてはくれないような名演である。このような深さはやはり歴史のもたらすものであろうか。
ハイティンク、ACO<83> PHILIPS 伝統あるオーケストラ、かつてはNO.1とも讃えられたアムステルダム・コンセルトヘボウの現在常任であるハイティンクによる「春」。曲を良く知り尽くしたACOと、巨匠と言われるにはまだまだ若いハイティンクの推進力の融合がここにはある。


276. シューマン 交響曲第2番ハ長調Op.61
レヴァイン、BPO<87> DG シューマンに興味を持つようになったのはいつ頃からだろうか、シューベルトに飽きてきたその向こうにシューマンがいたのかも知れない。確かにロマン派におけるシューマンの位置は固い。この味わいは一度知ってしまったものにはたまらない魅力がある。交響曲第2番というのもその最たるものだろうか。レヴァインはそうしたロマン派といった捉え方には全く拘泥しないで、あくまで音楽的に処理していて、飽きず美しい。健康的とさえ言える。
サヴァリッシュ、ドレスデン国立O<72> EMI サヴァリッシュもシューマンが好きだったようである。又、その演奏も品格が高く名演である。ここではドレスデン国立Oという伝統的な響きのあるオーケストラを相手に、いかにもロマン的な演奏となっている。但し、EMIの幾分やせた録音には文句を付けたい。
ハイティンク、ACO<84> PHILIPS 知らず知らずのうちにシューマンの交響曲のLP・CDが貯まっているというのはやはり好きな証拠なのだろう。でも知らず知らずのうちにと言うところが面白い。いかにもシューマンらしいといったところか。ハイティンク、明晰な演奏である。


277. シューマン 交響曲第3番変ホ長調Op.97「ライン」
サバリッシュ、ドレスデン国立<72> EMI EMIの録音にはどうも納得がいかないところが多いが、サバリッシュとドレスデンの演奏・音色は限りなく良い。格調高く頑固一徹。渋い。
ハイティンク、ACO<84> PHILIPS ハイティンクはアムステルダム・コンセルトヘボウの常任になってからもう何年になるのだろうか。録音もさることながらハイティンクになってからこのオーケストラの音色が明るくなったと言って良い。


124. シューマン 交響曲第4番
フルトヴェングラーBPO DG これはフルトヴェングラーの演奏の中でも名盤中の名盤である。又、シューマンの4番といえば、やはり筆頭に思い出される演奏であろう。53年という録音の古さをも感じさせないものがあり、BPOのメンバーも又、いつまでも記憶に止めている演奏である。いかにもロマン的なシューマンをロマンティックなフルトベングラーが振るとこうなりますよという典型であり、オーケストレーションの弱さも感じられず、フルトヴェングラーの確かな造形性の中に、神々しいまでの光を放っている。まさに歴史的な名盤である。いつ聞いてもいいし、何度聞いても良い。これほど共感に満ちた演奏も又、無い。
サバリッシュ、シュターツカペレ・ドレスデン EMI ステレオでシューマンを聞こうというなら、サヴァリッシュの全集が一番であると思っているが、筆者の元には3番&4番しか無いのでとりあえず、ここに記すことにした。知的な造形、それにパッション。3番、4番ともにドレスデンのオケを相手に、非常に熱くて重厚な演奏を聞かせてくれる。が、惜しいことに録音がいまいち、薄っぺらである。
ハイティンク、ACO PHILIPS シューマンの持つロマンティックな幻想性と劇性をうまく配分し、又、造形的にも見事なものを見せる。豊かな響きと明朗な西部処理、この作品を知るためには一番な演奏だと思うのだが、今は「平凡」「個性が無い」と全く無視されているのは余りにも残念である。時におもねる批評が余りにも多い。今に限ったことでは無いと思うが。


283. スクリヤービン 交響曲第4番Op.54「法悦の詩」
スヴェトラーノフ、ソヴィエト国立SO<66> VICTOR スヴェトラーノフにはロシア国立を振った新盤もあるようだが、こちらは66年のソヴィエト国立SOのものである。実に細やかな神経、光彩陸離たる音色の交差ででスクリヤービンの陶酔の神秘を描き出す。


284. ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調Op.47
バーンスタイン、NYPO<59> SONY ステレオによるこの曲の最初の名盤と言っても良いだろうが「証言」以後の今となっても古さは全く感じさせないのはバーンスタインの凄いところである。
ムラヴィンスキー、レニングラードPO Merodia ムラヴィンスキーがメロディアに録音した最初のステレオ盤であるが、LPでもあり、残念ながら録音年が判らない。筆者が最初に購入し、感銘を得た盤である。ショスタコービチの5番と言えばムラヴィンスキーのこの盤と決まっていたようなものである。その後、いくつものライブもでてくるようになったが。
ストコフスキー、ニューヨークスタジアムSO COLUMBIA 茶目っ気を出してストコフスキーを買うなんていうのは一体誰の影響を受けたのだろうか。


285. シベリウス 交響曲第2番ニ長調Op.43
モントウ、LSO DECCA モントウ。なんて暖かな演奏なのかと思います。恐らくはモントウですから極めて音楽的なのでしょう。でもそれが極めて人間的、有機的な演奏という気がします。まさに音楽が生きているというか、切れば血が出るんだということを感じさせてくれる演奏だという気がします。シベリウスの素晴らしさを気付かせてくれただけでも有り難い。
それにしてもモントウは何という指揮者なんだろう。宇野功芳はシベ2、フムフム、バルビローリ、ベルグンドについで3番手にモントウ挙げていますな。
セル、クリーブランドOライヴin TOKYO SONY セルの東京ライブも伝説だけあって良い演奏です。しかしマイクがオン気味で、こういうのを聴いているとやはり残響付けたり、音をいじりたくなったりしますねえ。(殆どいじらないんですが。)
カラヤン、PO EMI ウチではカラヤン・フィルハーモニアがずっとあったのですがこれが何となく冷たい感じがしていて、その印象もあって殆ど聴くことがなく放っておかれたような気がします。フィンランドなんだからクールはクールで良いんだけれど、今日聞き直してみても、綺麗なんですが、録音も悪いせいか耳にざらつく演奏。疲れる演奏でした。良い演奏と言うものは録音の善し悪しを越えて聴いていて疲れないんですよね。


163. R・シュトラウス アルプス交響曲
ケンペ、ドレスデン国立O EMI この曲を交響曲の分類の中に入れるかどうかでも迷ってしまった。交響詩だから管弦楽の方に入れた方が適切なのかも知れない。ケンペの「アルプス」交響曲。どこかブルックナーのSymphonyを聞いているような雰囲気がある。Symphonicでありながら、全然うるささを感じさせないのがケンペの真骨頂。確かに「アルプス」交響曲。自然をそのままに歌い上げていけば、ブルックナーに繋がるのも当然ではないか。オーケストラの各パートを、このように見通しよくperspectiveに、尚かつ、分析的ではなく、Symphonicに演奏してくれる指揮者は今、いない。
R・シュトラウス、バイエルン国立歌劇場O EMI R・シュトラウスの自作自演盤である。録音は古いながらも、R・シュトラウスは自作自演の名手でもあったので、彼が自作の曲をどのように解釈していたのか参考になろう。ついでながら自作自演であと面白いのはハチャトリアン、ラフマニノフ、ブリテンくらいであろうか。


144. チャイコフスキー 交響曲第4番
ムラビンスキー、レニングラードSO DG これほどかちっとした演奏・録音も無いのではないだろうか。聞き込めば聞き込むほど、その音色に惚れ込んでいく。余分なものは一切無い。不足なものとてこれ又無い。必要にして充分な演奏。チャイコフスキーにおいてはこのほの暗さも不可欠な要素に思える。
カラヤン、BPO EMI 昔のステレオで聞いていた時には、この豪華華麗、爛熟した演奏が好きであったが、ステレオをグレードアップした途端、その電気的な処理が鼻(耳)につくようになった。LPであるがむしろこれは録音の問題と言えよう。総じてEMIは編成の大きなオーケストラ曲の場合、このような事が多い。


145. チャイコフスキー 交響曲第5番
ムラヴィンスキー、レニングラードSO DG 1960年DGに録音したこのチャイコフスキーの後期3大交響曲は永遠の光を放つ名録音である。正にいぶし銀のようなという表現がピッタリであろう。チャイ5は演奏効果が大きいだけに非常に派手な演奏が多いが、このムラヴィンスキーの演奏はそうしたものを遙かに超えた正に大人の演奏である。
カラヤン、VPO DG カラヤンが最晩年にVPOと入れた録音。あれだけ自分の楽器としてき、磨き上げたBPOとの演奏よりも良いのだから音楽というものは分からないものである。しかしムラヴィンスキーとはどれほど異なっていることだろう。
ストコフスキー、NPO DECCA ストコフスキーが晩年にニューフィルハーモニアとフェイズ4で録音したチャイ5である。徹底したストコ節でこれほど面白いものはない。徹底的にやりたいことをやってくれている。チャイ5だもの、これで良いのだ。


15.チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
ムラビンスキー、レニングラードSO DG 悲愴はやはりこの盤だろう。淡々としているが、その想いは深い。音も良い。枯淡の境地。
マルティノン、VPO LONDON 一体こんな悲愴を誰が考えつくのだろう。マルティノンがウィーンフィル相手に実に男性的な「悲愴」を作り上げている。実にドライな悲愴だ。センチメンタリズムはどっかへぶっ飛んでいってしまう。
フルトベングラー、BPO EMI フルトベングラーはフルトベングラーだ。彼の手になるとチャイコフスキーの泥臭さももこのようなドイツ的精神となり、止揚(アウフヘーベン)され、一般化される。音が精神たりうるのだ。ウーム。
メンゲルベルク、ACO TELFUNKEN いやあ、これは歌舞伎だネ。これくらい誇張されるとかえってスッキリする。まあ、何度も聴くものではないと思うけど、こういうものに巡り会えるから、コレクターはやめられない。しかし、TELEFUNKENのロゴを見るたびに、ドイツ・ナチスを思い出す。(勿論、こちらは戦後生まれだが)
バーンスタイン、NPO SONY これは筆者にとって懐かしの1枚だ。当時「新世界」でもって売り出し中のバーンスタイン、「悲愴」はどうなんだろうと思って買った1枚。まだ高校生だった。もうこれで充分感動したものだった。
カラヤン、VPO DG 枯れたカラヤンだ。しかもウィーンフィル。世評は高いが、筆者にはまだ今一しっくりこない。