The Life of Kodály Zoltán


Kodály Zoltán  コダーイ・ゾルタン(ハンガリーに倣い姓名順表記) 
             (1882年12月16日 ケチュケメート生〜1967年3月6日 ブダペスト没)
            ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、音楽教育家




略歴:

1882年12月16日

父 Frigyes(フリジェシュ)母 Paulina(パウリナ)の間に生まれる。父母ともにアマチュアの音楽家で、父はヴァイオリンを弾き、母は歌を歌い又 ピアノを奏する環境にあって彼は様々な楽器に親しみ、幾つかの古典派の名曲(ハイドンやモーツアルトの室内楽)を知るようになった。父Frigyes(1853-1926) はソブ(1883-84)、Galánta(ガラーンタ、現スロヴァキアのガランタ、1885-92)、Nagyszombat(ナジソンバト、現スロヴァキアのトルナヴァ、1892-1910)の駅長としてハンガリー国有鉄道に勤務した。            
Zoltánは2才の時にガランタの町に移り住む事になった訳であるがこの古い由緒ある町の印象と、そこで耳に馴染んだジプシー音楽とが後に「ガランタ舞曲」となって結晶する。又、このガランタの小学校で Zoltánは友達の歌う純粋な形の民謡に接する機会を得た。      

1892年

 豊かな文化の伝統を持った歴史的な都市であるナジソンバトに一家は移り住み、Zoltánはローマ・カトリック教会のギムナジウムへ通い、総ての試験に抜群の成績を収めたが、特に文学と語学に秀でていた。この町のカトリック的な敬虔な雰囲気が、コダーイの音楽に満ち満ちている宗教的な精神を養う基礎となったと思われる。
 ここでピアノとヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを習い、それほど上達しない頃から家庭での室内楽や学校のオーケストラの演奏会のメンバーに加わり、腕を上げていった。又、教会の合唱団で歌うとともに、教会の図書室でハイドンやフンメルやモーツアルトの合唱音楽のスコアに没頭し、なかでもベートーベンの「ハ長調ミサ」に影響された。  


1897年

 15才の時にはすでに序曲管弦楽と合唱のためのミサ「アヴェ・マリア」などを書くにいたった。記憶力も良く、移転の時に紛失したハイドンのいくつかの4重奏曲のパートを記憶で書き直したが、それらが原譜とほとんど変わらなかったという話もある。   

1898年2月  フル編成のオーケストラのための序曲ニ短調、初演。
1899年2月  2台のヴァイオリンとヴィオラのための3重奏曲変ホ長調、初演。


1900年

  6月、卒業試験。奨学金を得て、ブダペストにあるパーズマーニュ・ペーテル大学哲学科入学。ハンガリーとドイツの言語学と文学を学ぶ。又、エトベシュ大学でも学び、双方の大学でフランス文化とラテン人文主義について学ぶなど幅広い教育を受けた。このことは彼の作品に見られる印象主義傾向と、16世紀イタリアのポリフォニーの傾向に寄与した。


1901年

 大学に在学のまま、ブダペスト王立音楽院(アカデミー)のHans Koessler (ハンス・ケスラー、ハンガリー名ケシュレル・ヤーノシュ、1853-1926)の作曲家クラスに入学。
 ケスラーはレーガーの従兄弟にあたるドイツの作曲家であったが、1882-1908年の間、音楽アカデミーの教授としてドホナーニイ、バルトークらの俊才を育てた。
 これ以降コダーイの生涯は作曲とマジャール(ハンガリー)民謡の研究と民謡にもとづく国民的な音楽教育体系の創造という3つの大きな分野にささげられることになる。    


1904年

 王立音楽院卒業、研究生となる。作曲でディプロマ取得。在学中の作品にはブラームス風な多くの室内楽や宗教的な合唱音楽があげられる。    
  この頃から彼は、ハンガリーの国民音楽の創造について大きな関心を抱き始めた。ハンガリーは当時ハプスブルク家の古く根強い19世紀的な帝国主義の支配下にあり、社会は貴族と大ブルジョアジーによって構成される上層と、農民と小市民を主体とする下層とにはっきり分かれていた。
  エルケルやリストの伝統があるとはいえ、こうした封建的な遺制の根強いハンガリーで国民音楽創造の運動を進めることは、きわめて困難な闘争と努力を必要とした。
 1904年バルトークの「コシュート交響曲」(この曲は真っ向からハプスブルク帝国主義を攻撃した)の上演によって口火を切られた、真のハンガリー国民音楽の創造のために、コダーイは「本当のハンガリー民謡」の収集と探求が必要であると考えた。  


1905年

  音楽教育法でディプロマ取得。夏、ハンガリー北西部の辺境に最初の民謡収集旅行を敢行。その結果はハンガリー民族学会の機関誌<Ethnographia>に発表された。

1906年

  4月「ハンガリー民謡のストローフ構造(韻律法の節構造)」の論文で博士号取得。これらの民謡研究は、同じ頃すでに民謡採譜を始めていたバルトークに大きな衝撃を与えた。「バルトークは私を訪ね、詳しく民謡の採譜の仕方、フォノグラフ(録音機)の扱い方、民謡を歌う農村の人間との接触の仕方などについて質問した。」(コダーイ「フォークロリスト・バルトーク」1950、羽仁協子訳編「ある芸術家の人間像−バルトークの手紙と記録」所収)



            採譜をする晩年のコダーイ 


 こうして二人の交友が始まった。彼らは人間的な性格でも、作品の様式でもほとんど共通するものがなかったにもかかわらず、国民音楽の創造についての本質的な信念と情熱において一致し、それ以後、終生変わらず尊敬しあう親友となった。

  バルトークは自叙伝風の記録にコダーイについて次のように記している(1918)。「彼はその明瞭な洞察力と健全な批評眼によって、音楽のいかなる部門にも大変に貴重な助言と有用な忠告の両方を与えることができる。」
 そしてコダーイは自身のラジオ番組「バルトークの思い出 Bartók emlékezete」(1955.11.3) の中で、彼らの共同研究の基盤とその始まりについて次のように述べている。「民衆の間から新たに生まれた教養あるハンガリーの未来が私達の前に浮かび上がってきた。我々はその実現に向けて生涯をささげる決心をした。」

 「ハンガリー民謡(Magyar népdalok)」出版。2人の協力の最初の成果で、2人が10曲づ つ採譜・編曲したピアノ伴奏付きの曲集である。コダーイによってまとめられた序文には彼らの計画が述べられている。

  その頃、20世紀の初頭におこった新しい音楽運動がハンガリーにも波及してきた。1906年のコダーイ作曲の交響詩「夏の夕べ」<Nyárieste>には、すでに彼独特のポリフォニー 技法(彼はそれをパレストリーナや古いイタリアの大家たちに学んだ。)とともに、印象主義 的な設計を示している。1906年10月22日、その「夏の夕べ」が王立音楽院でのディプロマ授与式の演奏会で演奏され、その結果として外国留学のためのささやかな奨学金を受けることとなった。12月にベルリン」に向けて出発し、ついで翌年3月にはパリに旅行し1907年4月にはパリに移った。この6ヶ月は彼の生涯を通じて唯一の外国生活の機会であったが、その間の最も印象深い経験は、ドビュッシーの音楽との出会いであった。彼はドビュッシーの音楽から圧倒的な感動を受け、その作品、特に「ペレアスとメリザンド」を研究した。
            
 印象主義の影響は、直ちにピアノのための「ドビュッシーのモティーフによる瞑想」数曲の歌曲Op2の弦楽四重奏第1番となってあらわれた。その上大胆にも彼はこの成果を民謡の和声づけにまで適用し始めた。   

ハンガリーへ帰国。再度の民謡収集旅行。
秋 ブダペスト王立音楽院の教授に任命される。音楽理論の講義を担当。


1908年

作曲科の1年生のクラスをケスラーから引き継ぐ。


1910年

3月17日、コダーイ作品のみによる初めての公開演奏会がブダペストで行われ、彼の名を高める。
             Op.2 弦楽四重奏第1番(ヴァルドバウエル−ケルペリー四重奏団演奏) 
             Op.3 ピアノのための音楽 zongoramuzsika (piano:バルトーク演奏)
             Op.4 チェロソナタ ヘ短調 Gordonkaszonáta

  パリの国際音楽協会によるバルトークとの共同演奏会、パリに大きな反響を引き起こす。

5月29日  チューリヒでヴィレム・ド・ブール四重奏団、弦楽四重奏曲第1番を演奏。
8月3日才能ある作曲家、ピアニストであり、詩人、翻訳家でもあるエンマ・シャーンドル(改姓前はシュレジンゲル)と結婚。


1911年

コダーイ、バルトークらは、現代音楽の作品が適切に演奏される機会を確保するために、新ハンガリー音楽協会を結成。しかし、数年の内に、一般大衆の無関心と当局の反対に直面し、活動を中止。ハンガリー民謡のコレクションの出版も同じような理由により頓挫。


1913年

「新総合民謡収集・整備計画」(民謡の新しい集成のための提案)をバルトークとともに作成、キシュファルディ協会に提出。この提案は通らなかったが、2人は第1次世界大戦勃発により収集旅行に終止符が打たれるまで研究を続けた。その後コダーイは、作曲と民族音楽の資料の科学的分類を進めた。

1914年

第1次世界大戦勃発はコダーイ達の民謡の仕事を中絶させ彼らの作品の場所と機会を奪った。暗い日々であったにも関わらず、コダーイは多くの室内楽作品を生みだした。これらの中には弦楽4重奏曲第2番Op.10無伴奏チェロ・ソナタOp.8などが含まれている。

1917年11月〜1919年4月

音楽批評家として活躍。文芸誌<Nyugat>に50近い評論を、後には自由派の日刊紙<Pestinapló>にも書いた。特に重要なのは民族音楽の重要性を説いた記事と、バルトーク作品の分析である。後者はバルトークの音楽における美学的評価の論拠となった。

1918年

秋、革命が起こり、続いて大戦が終わった。革命政府(ハンガリー人民評議会共和国)は直ちに音楽行政の改革に着手し、コダーイをバルトークらとともに音楽委員会の委員に起用。  

1919年

革命政府は音楽院を大学に改組し、校長にドホナーニ、副校長にコダーイを任命。 革命政府は133日しか続かず、8月崩壊。ホルティ政権のもと、保守派は革新派の頭目と目されるコダーイに相次ぐ査問や人身攻撃を集中し、彼を追い落とそうとした。その時毅然として彼を弁護したのは、ドホナーニとバルトークであった。2人は革命の間における行為の責任が問われるならば、コダーイだけでなく自分たちも同様に負うべきである、と主張した。コダーイもまた同様に告発を受けた他の人々を弁護した。2年の後、ようやく彼は音楽アカデミーに復帰したが、彼に対する攻撃や妨害はその後も長く尾を引いた。

1923年

ブダペスト市当局はブダとペストが合併した50年祭記念に、ドホナーニ、バルトークとともにコダーイに作品を依頼し、コダーイはそれに応じて「ハンガリー詩編」 Psalmus hungaricus を書いた。これまで彼の作品はとかく悪意に満ちた非難の的であったが、この作品の演奏は圧倒的に成功し、コダーイの名はこの作品とともに一躍して世界的なものとなった。
この作品は16世紀の説教者で詩人でもあったミハーイ・ケチュケメーティ・ヴェーグのハンガリー語訳の詩編第55編によるもので、2ヶ月の間にテノール、合唱、管弦楽のためのオラトリオとして作曲された。初演はドホナーニによって指揮され、ペスト、ブダ、オーブダの3地区ががブダペストとして統合された50周年記念行事の一環として、23年11月19日に行われた。単に宗教的な精神だけではなく、戦争の苦悩の体験を通じて希求された人間性の復活の祈りとして、同じ体験と惨苦を味わったヨーロッパ中の人々を心から揺り動かしたのである。ハンガリー国外では26年6月18日にチューリヒでアンドレ−エの指揮によって初演されている。これはコダーイの芸術に対する国際的な認識の転回点となった。

1926年

10月16日、ブダペスト歌劇場で滑稽な風刺劇でハンガリーのドン・キホーテ物語ともいえる美しい音楽劇「ハーリ・ヤーノシュ」 Hály János が上演され、前作に勝る成功をもたらした。                    

1927年

3月24日、バルセロナにて6楽章からなる組曲「ハーリ・ヤーノシュ」初演。成功にさらにはずみがついた。
これらの作品はコダーイの活躍を世界各地へと広げるための地歩を固めた。トスカニーニ、メンゲルベルク、アンセルメ、フルトベングラーなどは、これらの作品を早い頃からプログラムに取り入れている。

 コダーイ・ゾルタン(左)とアルトウーロ・トスカニーニ

4月のアムステルダムでのデビュー以降、コダーイ自身も自作の指揮をするようになった。同年後半にはケンブリッジ(11月30日)とロンドン(12月4日)でハンガリー詩編を指揮している。

外国での仕事が頻繁になっても、コダーイの関心はハンガリーで行うべき仕事に向けられていた。彼は教育活動の範囲を広げ、1925年以降は若い世代に対する音楽の訓練に特別な注意を向けるようになった。この目的のためにソルフェージュ練習曲を書き、合唱曲を作曲した。これはハンガリーの合唱活動の復興を促す役割を果たした。コダーイは講演を行い、論文を書き、全国で演奏会の指揮をし、音楽に対する無知や不十分な教育に対して本腰を入れて取り組んだ。かつての門下生たちもこの闘いに加わり、指揮者や教師、出版者としてコダーイを援助することになる。30年代の初頭にはすでにいかなる公的な支援も受けず、新聞紙上での新たな攻撃にも公然と立ち向かいながら国民的な規模で「歌う若者たち」という合唱運動を開始することが可能になっていた。そして10年のうちに初等学校の音楽教育に抜本的な変化がもたらされる結果となった。
27年、発展途上にあるハンガリーの音楽学に討論の場を提供するために、「ハンガリー音楽研究」 Magyar zenei dolgozatok という題名のシリーズの刊行に着手。


1930年

管弦楽のための「マロシュセーク舞曲」Marosszéki táncok (27年にピアノ用として作曲、30年管弦楽化)がF・ブッシュによってドレスデンで初演。直ちにトスカニーニによってアメリカで初演された。
トスカニーニに励まされて初期作品「夏の夕べ」改訂。
この年から数年にわたってブダペスト大学で、後には自由大学でそれぞれ民族音楽の講義をした。

1932年

4月24日、(24年に農民音楽を素材として構成されたオペラ「セーケイ地方の紡ぎ部屋」 Székeley fonó を更にふくらませて完成)、ブダペストにて紹介された。更に33年1月14日にはスカラ座で大成功を収めた。
12月、コダーイ50歳誕生記念の演奏会が盛大に催された。
1924年〜1932年、「ハンガリーの民族音楽」  Magyar népzene という題名の下に10曲から成る声楽とピアノ用に編曲された57曲の民謡とバラードを出版。全10巻。


1933年

ブダペスト・フィルハーモニー協会80周年記念のための「ガラーンタ舞曲」 Galántai táncok 作曲

1934年

ハンガリー国民芸術会議のメンバーに推挙される。

1936年

トルコからのブダ解放250周年記念のための「ブダ城のテ・デウム」 Budavári Te Deum 作曲

1937年

民族音楽研究の包括的なまとめである「ハンガリーの民族音楽」 A magyar népzene を出版

1939年

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の創立50周年記念のための管弦楽曲「『孔雀は飛んだ』 Felszállott a páva による変奏曲」作曲。
11月23日、メンゲルベルク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウにより初演。

1940年

シカゴ交響楽団委嘱による「管弦楽のための協奏曲」作曲
初演1941年2月6日、シカゴ。フレデリック・シュトック指揮、シカゴ交響楽団。

オーストリアがナチス・ドイツに併合されてからは、コダーイはオーストリアと関係を持つことを嫌い、「『孔雀は飛んだ』による変奏曲」「管弦楽のための協奏曲」はオーストリアの敵国であるイギリスのブージー&ホークス社から出版された。事実、彼はハンガリー国内における右傾化に反対し、バルトークとともに、38年の人種差別法制定の草案に最初に抗議を起こした起こした人物の中に名を連ねている。
又、ハンガリーにはすでに親ナチ的なファシストの政権が樹立されていた。社会主義労働者合唱団のために書いた合唱曲「孔雀は飛んだ」 Felszállott a páva (1937) は歌詞が革命的であるとの理由で演奏禁止になった。バルトークは40年アメリカに亡命したし、多くのすぐれた若いハンガリーの音楽家も亡命の道を選んだ。しかしコダーイは、戦乱のハンガリーにとどまる道を選んだ。彼は34年以来、「歌う若者達」 Éneklö ifjúság という合唱運動に力を入れていたが、41年同名の雑誌の創刊号に彼はこう書いた。「我々の運動は階級社会的階層に基づくあらゆる差別を拒否する。音楽は万人のためのものでなければならない。」これはナチス・ドイツとそれに従属する政府に対する昂然たる不服従の表明である。民謡集出版の仕事もバルトークの去った後は全面的に彼の肩の上にあった。そして「ハンガリーのビチニウム」 (1937-42) 以後、いっそう熱心に子供の教育の世界に打ち込んでいった。
コダーイの要請により文部省は40年の秋からハンガリー科学アカデミーの援助の下で民族音楽の研究の仕事をすることを彼に委任。それ以降、音楽院ではハンガリー民族音楽の講座のみを続け、42年の退職後もこの講座を引き続き担当した。

1942年

コダーイ生誕60周年に当たり、ハンガリー合唱協会によって「コダーイ年」と名付けられた。ハンガリー民族学会は栄誉をたたえて記念アルバムを出版し、音楽関係雑誌は特集を組んだ。このような敬意と評価の表現により、当局もその功績を称揚するしるしを与えざるを得なくなった。政府からハンガリー功労勲章の十字章を授与された。
記念演奏会でブダヴァール・テ・デウムを指揮。

1943年

科学アカデミーから客員会員に選定される。
コダーイは戦争中にも作曲を続けたが、その中でも注目に値するのは「いくさ歌」 Csatadal「囚われの国の息子」 Rabhazának fia「神の奇跡」 Isten csodája といったペテーフィの愛国的・革命的な詩に作曲したものである。
戦乱の末期ハンガリーの敗色が濃くなり、ソヴィエト軍のブダペスト包囲が始まった頃、コダーイも妻とブダペストの修道院地下室に逃げ込むことになり、そこで、以前にオルガン用ミサ曲として書いた「ミサ・ブレヴィス」を来るべき平和のために黙々と独唱・合唱・オーケストラ用に書き改めていた。彼はブダペストの市街戦をオペラ座の待避壕から目撃している。彼の家は砲撃によって破壊されたが、このミサの原稿は廃墟の中で奇跡的に無事であった。45年、戦火の跡も生々しいブダペストで、このミサは永遠の平和の祈りを込めて痛切な感動とともに歌われたのである。

1945年

国民芸術会議議長、音楽学校指導者会議議長

1946年9月〜1947年6月

イギリス、アメリカ、ソヴィエト連邦への演奏旅行。各地で自作を指揮。

1946年〜1949年

ハンガリー科学アカデミー総裁

1947年

政府から最高位勲章を授与される。

1948年

3月15日、ブダペスト国立歌劇場で、ハンガリー革命100年祭を記念して書かれたバラージュの台本によるジングシュピール「ツインカ・パンナ」 Czinka Pannaが紹介される。これはラーコーツイ王の宮廷に現れて、音楽によってジャンヌ・ダルク的役割を果たした天才的少女詩人ツインカ・パンナの伝説を描いた重要作である。
コシュート賞受賞
西ヨーロッパで指揮。

1949年

音楽科協会名誉会長
西ヨーロッパで指揮

1951年

国立民族アンサンブルにより、「カールロー村の対舞」 Kállai kettös 初演。

1952年

コダーイ生誕70周年。科学アカデミーより特別記念論集が刊行される。政府から最高位勲章を授与される。コシュート賞受賞

1954年

バリトンと合唱のための「ズリーニの訴え」 Zrínyi szózata

1956年

コシュート賞受賞

1957年

ブダペスト大学より名誉博士号を授与される。 ベルギー科学アカデミー名誉会員

1958年

11月22日、妻エンマ死去。

1959年

12月18日再婚。

1960年

オックスフォード大学より名誉博士号を授与される。

1961年

交響曲ハ長調 国際民族音楽協議会会長に選出される。

1962年

政府から最高位勲章を授与される。コシュート賞受賞

1963年

モスクワ音楽院名誉会員、アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員。

1964年

東ベルリン大学より名誉博士号を授与される。国際音楽教育協会名誉会長に選出される。

1965年

合唱のための「モハーチ」 Mohács。東西の文化的な関係の探求が評価され、ヘルダー賞が授与される。

1966年

合唱とオルガンのための「オルガン讃歌」 Laudes organi トロント大学より名誉博士号を授与される。

1967年

「ハンガリー民族音楽大観」 Corpus Musicae Popularis Hungaricae の最初の5巻は50年から67年にかけて出版された。又、彼の理念に従った音楽の授業が毎日行われる音楽教育システムが同じ時期に120の小学校で導入された。
3月6日ブダペスト没