第8号 2003年7月発行

目次 ご挨拶

    田んぼを作り続けると言うこと

   田の神

   地域材家具

   最近作ったもの

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 梅雨もあと半分。じめじめしたこの季節には、トマトやズッキーニに病気が出はじめ、祈るような気持ちで梅雨明けを待ちます。 
 田んぼの方は、田植えが大幅に遅れたこともあって、成長が遅れているうえに、例年どおりドロオイムシが葉を食べはじめました。これも梅雨明けごろまででいなくなるのですが、食害を受けた分は確実に成長が遅れてしまいます。
 田植えが遅れた主な理由は稲苗が立ち枯れ病にかかってしまったからです。農業改良普及員に相談して原因もだいたい判ったのですが、この状況を止めるには薬を散布した方が良いと言われ、初めて農薬を買いに行きました。
 当然のことながら農薬を使うということもひとつの技術です。除草剤でも消毒でも、撒き時というものがあり、それを間違えると稲がちゃんと育たなかったり、目的とする効果が得られなかったりします。そういう事が判っている人は、ただ機械的に決められた量を撒くのではなく、少しでも農薬を減らすことができるのでしょう。
 もっとも私たちには積極的に農薬を使う気は全くありませんので、保温や保湿によく注意して、来年は元気の良い苗を育てたいと思っています。

田んぼに咲くオカノトラノオの花

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[脩]


 私たちが借りている田んぼの水の源は、 田んぼから沢沿いの道を歩いて5分程度のところにあります。この道が非常に荒れているという話しは、一昨年のこの通信に書きました。一部、崖沿いに木道を渡してあるのですが、それが腐りかけていて今にも落ちそうです。この木道を修理しなければこの田んぼを使い続けることはできませんが、自分独りで修理することは到底無理な話しです。この田んぼの地主であるおじいさんは身体を悪くしていて、とても面倒を診てもらうことはできません。私たちの隣で田んぼを作っているMさんの水源は別の沢沿いにあるのですが、一部分だけこの荒れた木道を共用しています。春が来てまず田んぼの水を引くという時期に、Mさんに頼んで木道の修理を一緒にやってもらうことにしました。

 一緒に修理すると言っても私は助手専門で、Mさんの言う通りに道具を運ぶとか、丸太の片方を持つとか、縛るとかしかできません。それでも半日くらいでなんとか再び通れるようになりました。作業が終わるとMさんは、「おまえんところの水路を一ぺん診てやる。」と言って、水源から田んぼまでを歩いて、水路に使っている黒パイプの継ぎ目から水が漏れるところや、垂れ下がっていて水の通りが悪くなっている部分を丁寧に治すとともに、そのやり方を教えてくれました。

 春先の水を引く時期にはいつも水路の点検をしなければなりません。地主のおじいさんが病気で倒れた後、この田んぼを借りるようになって3年目になりますが、過去の2年間はやり方を教えてくれる人もおらず、自分なりにいろいろ考えて水路の修理をしていました。当然水は思うようには流れて来ず、水にはいつも苦労させられてきました。ところがMさんに面倒を診てもらうことで、水はかってないほど多量に流れるようになりました。Mさんには本当に感謝してもしきれません。

 この一連の仕事を通して考えさせられたことがあります。田んぼの作り方は本では会得できない、ということです。水路の修理だけではなく、田んぼのどこが水持ちが良いか悪いか、大雨が降った時はどうすればいいか、平らにするにはどういうコツがあるか、などなど、その田んぼにはその田んぼのやり方というものがあります。そして私たちが借りている田んぼのことは、地主のおじいさんが倒れてしまった今となってはもう誰も解らないのです。田んぼだけではありません。畑もそうですし、林の手入れもそうでしょう。たぶん漁業も。第一次産業と言われるモノのほとんどは親から子へ、そのやり方を伝授していくことで成り立って来た。その間にいくつもの試行錯誤や失敗があったはずで、その何代、何百年にも渡る蓄積が今の田んぼや、山林を支えているとも言えます。

 稲作を辞めてしまった田んぼは耕作放棄地などと簡単に言葉で現されますが、自分の代で田んぼを辞めてしまうということはその膨大な蓄積を無にしてしまうことで、当の本人にしてみればまさしく断腸の思いなのだと、そんなふうに思います。


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[弓]


 田んぼの田植えが終わると一段落です。籾蒔きから苗を育て、田んぼを耕して、畦をつくって、水路の点検修理をし、田んぼに水をつけてしろかきをして、平らにならす。田植えまでの仕事は気が抜けないし、力もいります。田植えの準備が整って、苗を植えるのは、それまでの地味な仕事にくらべるととても楽しいし、ハレの仕事といってもいいくらいだなぁと思います。

 そして、その田植えが終わると、田んぼのぼたが崩れないようにと、ボタ餅を田の神様に供えてお祈りし、一段落した喜びを噛み締め、甘いあんこのぼた餅をほおばるのが、ここ和合の習わしになっています。
 平らな土地がめったにない、山あいの斜面に田んぼを拓く苦労は想像を絶するものです。砂地で崩れやすい土地柄ゆえにボタが崩れないように維持する工夫、祈りの気持ちが継承されているのも納得がゆきます。
 今までは、一連の仕事をこなすことだけで精一杯でしたが、今年はなんとか、ボタ餅を作って食べたいと去年はじめて作ってみたとっておきの小豆を煮て準備してありました。田植えが済んで一息ついて、ボタ餅を作り、田の神様を祭ってみました。

 和合に来るまでの私のかつての暮らしの中では、祈るという機会は皆無で、年に一度、初詣でに行き、せいぜい十円くらいなケチなお賽銭を投げ入れて、欲張ってあれもこれもお願いし、トントンと手をあわせるのが関の山でした。

 和合に来てからは、山の色が変わるたびに、百姓仕事が一段落するたびに何かしらの祈りの行事があり、頭を傾け目を閉じて、静かに神妙に手をあわせる機会があります。
 なぜこんなに山に住む人は祈るのだろう、街に住む人は祈らないのだろう、ということを考えるようになりました。
 山では自然災害や野生動物の被害など、人の力ではどうにもならないことといつも隣り合わせだから、祈るより仕方がなく、街ではあらゆるコンクリートの設備が整っていて何か不都合なことがあれば管理元が大概のことはどうにしてくれるし、祈る思いで色々な保険に入っているから大丈夫、というのはすぐに思いつくことです。

 けれど、私がここで抱きはじめた「祈る人」への畏敬の念に比べてあまりにも単純すぎる答えのような気がしました。
 私は、こうして祈りながら暮らす人をどうしても、つましく、美しいと思うのです。だから、何かもっと深い理由があるのではないかと考えざるを得ませんでした。
 今年はじめて田んぼの神さまを祭って、ボタが崩れませんように、稲がよく育ちますようにとお祈りするゆとりができました。このゆとりとは、田んぼの一連の作業の中で、稲を育てるために自分のなすべき仕事がおぼろげながらわかりかけて来て、やっと出来たもののような気がします。
 だから、ボタが崩れませんように、と祈る反面、ボタの草をきちんと刈って、アゼにモグラの穴ができたらすぐに埋めて、といった仕事をきちんとこなしますよ、田んぼの除草もちゃんとして、水管理を怠らないで立派な稲を育てますよ、と自分に誓っていることなのだと思うのです。

 人の暮らしをとりまく自然とその中を生き抜く人の自律の精神の交わりあうところに、祈りという、小さな確かな点があるのではないでしょうか。
 祈るということが、すがるということでなく、自分を律するための大切な行事と思うようになりました。
 終わりのない百姓仕事の小さな一段落ごとに、生き抜きと楽しみをかねての行事でもあるからこそ、季節ごとの食材を活かした食文化も伴われるのではないでしょうか。
 私たちはおもしろ半分にちょこっと真似してみたりするだけなのですが…。


田植えが終わると余った稲苗をワラで縛って神様に供えます


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[脩]


 現在日本国内で流通している木材の80%以上は、海外から輸入されているという事実を御存知でしょうか。
 建築材、パルプ、土木工事、家具、建具、など用途は様々ですが、価格が安い。それにつられて国内産の材木の価格も非常に安くなっています。材木の売り値が安いので、山の木を伐って市場に持って行っても、日当も出ない。そうすると山の木の手入れをしなくなり、山が荒れて行く。
 海外の安い輸入品に依存するという構図はどの産業でも同じですが、山の木には水源を確保するとか災害を防ぐといった機能があり、山が荒廃していくことはそういった機能が低下していくことを意味しています。
 長野県では田中知事になってから森林の公益的な機能を確保するため、今までよりいっそうの補助金が森林行政に注ぎ込まれています。この春から地元の森林組合でアルバイトを始めたのですが、その仕事の内容が山林の所有者の手入れの状況に応じて補助金の申請を行うというものです。しかし、補助金はあくまで補助金であって、所有者にも当然負担金は必要です。「山の木はまったく金にならん、そんなものに金をかけて手入れする気はない。」と言われる所有者の方も中にはいます。

 こんな状況の中、伊那谷近辺の木工屋が集まって、『地元の木材を利用して家具を作る。』という試みをスタートさせました。まだどんな形になるか暗中模索の状態ですが、5月に駒ヶ根市であったクラフトフェア”くらふてぃあ杜の市”に、地域材家具というテーマブースを設営し、15名ほどが地元の木材で椅子を作り出展しました。市場で流通している木材のうち、家具に使われるモノはほんの数パーセントにすぎません。ほんの数人の自分達がいくら地元の木材を使って家具作りをしても、前述したような問題が解決するとは決して思ってはいません。しかしこの活動を通して、一般の人に山の現状を知ってもらうことによって、少しでも貢献できるのではないか、と考えています。

下伊那郡南信濃村で伐られたミズメの木で作ったダイニングチェア

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 昨冬からやっと稼動しはじめた古い機織り機(はたおり機)で織るための糸を少しずつ染めています。
 毎日の暮らしの中に染め物が入ってから、周囲を見る目はいつも染められる植物はないかと探してウロウロしているようになりました。
 どんなに忙しいと言っていても、草木染めは一日のほんの少しの時間を家事の合間に投じればゆっくり、しっかり染まっていきます。そうやって一色ひといろ、どんな色になるか、わくわく、どきどきしながら染めたものをためていき、どんな柄を織るのか考えることで、気持ちの疲れが癒されるように思います。
 フキの葉で染めた緑がかったネズミ色はお気に入りのひとつです。フキを食べて、その捨てる部分で染め物ができるというのは実に愉快です。故にいっそう良い色にも思えるのでしょう。

 でも、なんといっても、この春の記念すべき色は、茜(アカネ)で染めた茜色です。
 犬の散歩の度に、茜の根を集めましたが、染めるだけの量がたまるのには何日もかかりましたし、媒染には、ツバキの葉枝を燃やした灰からとった灰汁(あく)を使うので、決して容易ではありませんでした。けれど、一年中で田んぼも畑も一番気が抜けない時期に、頭の隅では、茜染めの段取りをしているのは、追われる気持ちの息抜きにもなるのです。ワクワク、ドキドキできることがあるというのは、素晴らしいことです。
 茜は、その名の通り赤い根、アカネの当て字であるそうですが、こんなやさしい青い草のどこに茜色の力が秘められているのでしょうか。小さな白い花をつけるので、奥ゆかしさという花言葉がついているそうですが、私はまだその花を見たことがありません。草の姿は、すっと延びた茎の一節に放射状にハート型の葉が四枚、規則正しくでていて、特徴的です。株元をさぐりあて、丁寧に掘ると、深紅の根が現れます。それを集めて、干し、酢をおとした水で煮だします。その染液は、レンガ色のような冴えない色ですが、糸を入れるとその色素を糸がきれいに吸って透明な水に戻るので、とても不思議でした。そして、その冴えないレンガ色の糸をツバキ灰汁につけると、心臓がどんどんと打つリズムにあわせて、はずむような茜のピンク色に変わっていきます。
 普段好んで身につける色は、紺、茶色など地味な色が多いのに、この茜色の糸を手に取るとうきうきとし、どんなに疲れたり、沈んだりした気持ちの時にも励まされます。

 一番はじめにこの色を世の中にうつし出した人、その時の感動ははかり知れないだろう、と思います。この草の名がアカネということから、人とこの草のつき合いはここから始まったであろうと伺えます。そして、ツバキの灰汁でなければ、というところに淘汰されるまでに愛され、継承されてきたのだから、ほんとうに多くの人がこの感動を経験してきたことでしょう。

     茜


子ども椅子 

 私がこの和合へ住むきっかけとなった小掠さん夫婦にお子さん(聡子ちゃん)が産まれました。小掠さんの御家族からの依頼で、子ども椅子を作りました。子どもはすぐに大きくなり、あまり小さいものだと座れる時期が短くて寂しいので、ちょっと大きめに作ってください、との注文でだいたい3歳くらいまでは使えるような椅子にしました。今聡子ちゃんは8ヶ月ですが、座ぶとんをすき間にいれて座っています。材料にはブナを使いました。ブナは木目がやさしく、赤ちゃんが使うものには合った素材だと常々思っています。




    

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