確か2003年の1月ごろだったと思うが、こんなニュースが全国に流れた。

広島県の沖美町(おきみちょう)が、瀬戸内海に浮かぶ無人島に米軍の滑走路を建設すると発表した。T町長の計画によると・・・・

私は以前、沖美町の学校に勤めていたので、この無人島が「大黒神島(おおくろかみじま)」であることはすぐにわかったし、あの島に2000mの滑走路をつくるなんて土台無理だと思ったし、島の自然をぶっ壊して何が滑走路だと思って、真っ先に反対を表明した。信州伊那谷から。

大黒神島ってどこにあるの?という方のために、まずはでっかい地図をご覧いただこう。



大黒神島は、瀬戸内海に浮かぶ無人島の中では、けた外れに大きい。面積が7.5kuもあり、昔は少数の人が住んでいたらしいが、昭和のおわりごろに無人島化した。いまは人が住んでいない大きな島だから、滑走路にはちょうどいいと考えたのだろうが、この島を探検し、島の最高峰に登った私としては、とんでもない計画だと思った。
次に、島の拡大図をご覧いただきたい。



この島の地形が地図からおわかりかと思うが、大変なトンガリ島なのである。
切り立った岩が海から突き上げているところがいくつもあって、周囲にはほとんど平地はない。
最高峰は櫛ノ宇根(くしのうね)という山で、標高は460mもある。その東にも440mのピークがあるので、北から遠望するとみごとな双耳峰になっている。

島の北部にかろうじて田畑のなごりが見られるが、島の上に2000mの滑走路をつくるとなると、標高200m近くの山をいくつも削る大工事だ。20mの山ではない。200mの山である。そんな工事が簡単にできるわけがない。もし仮にそれをやったら、島の景観はまったく変わってしまい、この青々とした大黒神島は消滅してしまうことになる。いったい何を考えているのだろう。

このあまりにも唐突で現実性のない、しかも平和都市広島の目の前に米軍基地をつくるという市民感情を逆なでするような計画は、ほんの一週間でご破算になり、T町長も辞任に追い込まれたと聞く。当然の成り行きである。そんなわけでこの島は、今ももとの姿で浮かんでいるはずである。

ネットで検索すると、この島はどうも釣りのメッカだ。だが、この島を登山の対象としている物好きなサイトは見当たらなかった。ということは、私が書いた登山記がひょっとしてこの世に残る唯一の記録なのかもしれない。

平成4年の冬に私たちは登頂に成功したが、実はその前の年には敗退している。ルートによってはあまりのブッシュに前進不可能を宣告される、なかなかおもしろい山なのだ。
私はこの時の紀行文を町の公民館報に投稿し、活字になった。ここにその駄文を掲載する。

能美島から大黒神島を望見すると、左右二つの頂がほとんど同じ高さで立っている。
右の頂を櫛ノ宇根と呼び、海抜460mの最高地点である。櫛ノ宇根は登ってみるとなかなか手ごわい魅力的な山であった。

私たちがこの山に最初に挑んだのは91年2月の風の冷たい日だった。
友人の船で白瀬の浜に上陸し、向かって右側の大きな谷に入っていった。しばらくの間は谷筋に道らしき踏み跡があったのだが、やがて道は消えて背丈ほどのシダ植物が前進を阻んだ。

シダはそれでもなぎ倒してでも歩けるのだが、尾根に取り付いてからは樹木の藪こぎになり、足の踏み場もないほどの潅木の密生地帯に突入した。1時間ブッシュと格闘しても高度が30mしかかせげないのをみて、私たちはそれ以上の登攀をあきらめた。この尾根はどこも一様にこんなブッシュで、ルート選択を間違えたことを認めざるを得なかった。一度ですんなり登れる山ではないことが、かえってこの山を魅力的にしている。

二度目の挑戦は翌年92年のやはり2月に日を定めた。
今度は風もなく、よく晴れた暖かい日となった。今回は船着場から向かって左の谷に入っていった。小さな川が流れているそのほとりに小道があって、赤いトタン屋根の作業小屋までは順調だった。小屋の前で小休止をとりながら、5人でルートを相談する。山に向かって大きく三つの谷がせり上がっていたが、櫛ノ宇根が右に見えているので、左の谷は却下された。右の谷にいくか、それとも中央の谷でいくか。それほど真剣に考えたわけでもないが、なんとなく真ん中の谷が歩きやすそうだったのでそこに決めた。

ところがこの日、私たちが登頂できたのは、この時たまたま真ん中のルートを選んだからだったのだ。なぜかというと、下山の時にたどった右の谷は去年と同じようなとんでもない藪だったからだ。櫛ノ宇根に登るルートは今のところこの中央ルート一本しかない。

中央の谷を小屋から1時間ほど登ると沢には水もなくなって、花崗岩がごろごろした急斜面に変る。このあたりから谷を離れて右の尾根に強引に登る。急斜面なので落石には注意する。30分弱で尾根に出る。

尾根に出るとこれまでの難儀が一度に晴れるような絶景が広がった。かきいかだを浮かべた群青色の海をはさんで、対岸の沖美町の家並みもこうして見れば美しい。尾根は乾燥していて草木が少なく、花崗岩の風化したざらざらの斜面を慎重に登る。双耳峰を結ぶ吊尾根に出ればあとは鼻歌まじりの快適な天井散歩だ。

正午、私たちは念願の登頂を果たした。2m四方のせまい裸地に三角点が埋まっていた。そこからさらに10mほど稜線を先に進むと、大きな岩峰があるからその上に立つ。自分の足で登ってきた者にしかわからない感動がこみ上げる。
眼下に広がる瀬戸内海。そこに行き交う船。かきいかだの向こうに見える岩国の街並み。
のどかだった。
山の裏側は急角度で海に落ち込んでいるので、海岸線が真下に見える感じだ。

そよとの風もない、雲一つなく晴れた山頂での小一時間、私たちの心はなごやかだった。
去りがたい山がまた一つ増えたことはうれしくもあったが、私にとっては悲しいことでもあった。もう二度とここには来ないだろうと思うと、いつも私は山の上で悲しくなるのである。

なお、大黒神島はマムシが多いので、夏はやめた方がいい。冬は今度はキジ打ちのハンターが入るので彼らに一声かけておく方が安全である。

上の文章は、原文を少し書き改めて掲載した。
この山に登った1ヶ月後には広島を離れ、信州に来ることがわかっていたので、「2度とこの景色は眺められないなあ」という悲しい思いは余計に大きかった。広島に住んでいた14年間にも少しばかりの山歩きは楽しんでいたのだが、日本の屋根を抱く信州の山への想いがどうしようもなく募り、92年4月に、ここ伊那谷に移住してきたのである。

つい先日、こんな電話がかかってきた。
「先生、お久しぶりです。ぼく○○です。お元気ですか。沖美町の沖中学校が来年の3月で廃校になることが決まったんです。そこで、学校がまだ残っているうちに、同窓会をやることになったのですが、先生、来てくれませんか。」

懐かしさがこみ上げてきた。○○君の声は中学の時とは違っていたので、ピンとは来なかったが、当時の生徒の名前を聞くたびに、どんな大人になっているだろうとわくわくした。
34才になったと教えてくれたのであれから18年経っていることになる。そのクラスの中のひとりの女子は私と同じ中学の教師をやっているが、私の携帯電話にメールをくれた。寝るところは心配ないからどうしても来てくれと。


下の校舎が小学校、上の白い校舎が中学校。1984年夏に撮影


彼らにとって、自分の母校が廃校になるのはどんなに悲しいことだろう。でも、その悲しさが18年ぶりの同窓会によって少しでも癒されればそれはそれでいいのではないか。私はなんとか都合をつけて、同窓会に出席することにした。

私もあのころは20代のお兄さんだったが、今は50前のおじさんなのである。
私の方は、彼らがどんなに素敵な大人に成長したか楽しみで仕方がないが、彼らからすれば年をとって老け込んでしまった私を見て、さぞがっかりするだろう。
まあ、それもそれでいいか。

そんなわけで、近々広島県の沖美町に行くことになり、またあの大黒神島が眺められることになった。まさか登ることはできないが、対岸からゆっくり眺めてこようと思う。
来年はこのHPに瀬戸内海の写真を紹介できそうで、今からなんだかうれしい気分。

おわり

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