中国大使 王毅氏、木曽駒ケ岳に登る 2006,6,10
(念丈倶楽部事務局さんの同行レポート)
登山が趣味の王毅駐日大使が、6月10日(土)ロープウェイ経由で木曽駒ケ岳に登山をしました。ちょっとしたきっかけで、私も同行することになり、記念に写真の書をいただきました。詳しいレポートを報告します。

写真の書は、永攀高峰 王毅 2006年610日(いつまでも)(のぼろう)(高い峰を)

大使が日中交流協会の招きで伊那谷に来訪する予定がある。接待役の知人から王毅大使の趣味は登山だから、6月の始めにどこの山が良いだろうかと、相談を受けたのが3ケ月ほど前でした。

大使の登山に許された時間は、6〜7時間しかありません。この季節、塩見や赤石に日帰りができるはずもないし、ロープウェイで千畳敷から木曽駒ヶ岳しかないね,と言いました。

それから1週間前に,念のため木曽駒ヶ岳に下見登山に行ってくれないかと相談がありましたが、下見をするほどの山ではない,なんなら当日サポーターとして同行してもいいよ,と答えておいたら今回の同行登山になりました。

当初の予定は、飯田、駒ヶ根滞在は2泊3日。公式行事が詰まっているなか、2日目に登山の予定でした。実際は6月9日(金)は梅雨入りで雨降りでした。雨天でも、ロープウェイで千畳敷までは行くとのこと。

ロープウェイに乗るだけなら,なんのサポートも必要ありませんから行く気がなかったのですが、同行メンバーに登録してあるからと言うので、9日の集合時間にホテルにいったところ、なんと知人と2人だけ。協会本部に電話を入れたら、雨がひどいのでスケジュールを朝になって急遽変更して、3日目と2日目を入れ替えるとのことでした。

そして、6月10日(土)は朝からすばらしい晴天でした。
大使は今日の午後6時には、都内のホテルで公式行事に出席しなければならない。

駒ヶ根を午後2時30分には出発しなければ、都心の交通事情によっては遅刻になってしまう。
帰りの時間が制約された、今回の登山です。

ホテルを朝7時に貸切バスで出発。8時発のロープウェイに乗り、下山は午後1時のロープウェイでホテル着は1時45分。風呂に入って背広に着替えて、都内のホテル会場に直行の分刻みの日程でした。

大使の奥方も、千畳敷までは同行。千畳敷までは一行16名。千畳敷で記念撮影をして、登山は6人でした。

大使と随行員、警護員の3人、現地案内役は当初4人の予定が、一人は急な葬式ができて、3人になり計6人に。リーダーは駒ヶ根市の建設会社の73歳の社長氏、サブリーダーは59歳の私の知人。私は、あくまでも部外者で、万一の時にサポーターのお役にでもなればと同行をしました。
中国高官のVIPと時間を共有できることなど、最初にして最後でしょう。もちろんボランテアですよ。

大使は53歳。富士山ほかあちこちの山を、多忙のなか暇をみつけて、年に数回は登山やスキーをしているとのことで、たいへんな健脚。身一つで杖をついて、昼飯や飲み物は随行員の一等書記官のザックに入れ出発しました。
随行員と警護員は杖の用意なし。かねて用意の私の測量ポールを2本持参していたので、杖代わりに使ってもらいました。

千畳敷カールの今年の残雪、雪渓の量は、例年より多いのか少ないのか私には判りませんが、雪は、乗越浄土までの距離の8割までありました。
夏山ならジグザグの登山道も、雪の上を直登で、大使先頭で40分で到着。リーダー、サブリーダーは、この登りですでに疲労困憊。聞けば、リーダーは5年ぶりの登山とのこと。5、6年前に、天狗荘(?)の山小屋の改装工事で2ケ月ほど通ったとのことでしたが。

サブリーダーも年に1、2回の山行。かつ、この一週間体調を崩していての今日の登山ですから、案内役の二人が、常に遅れっぱなし。

若い随行員は、息を切らせながらも、常に大使のそばにいなければ、任務が果たせません。
警護担当は、頑強な身体の富士見町出身の警視庁所属の警察官ですが、取り立てて山が好きでもないのに、VIPの行くところ、常に身辺警護をしなければなりません。

いかに観光客、登山者が少ないこの季節とはいえ、かつ、大使の登山計画を知る者は、関係者のみとはいえ、万一のことがあったら、外交問題になりかねません。

用心にも用心のはずなのに、案内役は体力不足で不安でした。私など、大使と口をきく立場ではもともとありませんが、肝心の案内役が大使の足についてこれないので、結果として山岳同定のお手伝いをするはめになりました。

地元警察からは、数人の警察官が、登山者風として、付かず離れず警護の任にあたっていました。

県警では、万一のときはいつでも出動できるように、松本にヘリコプターを待機させているとのこと。

梅雨の晴れ間の、6月10日(土)は、登山者は20人から30人程度で、擦れ違うことも、追い越すこともなく、それぞれの山頂で言葉を交わす程度でした。

写真は、雪渓を登る大使(先頭の青い着物)

時計を持たない大使と、時間を気にする随行員。随行員の心配に、いいからいいからと無視する大使。

千畳敷を出発するとき、大使は、東京での計画では、極楽平から宝剣岳経由のコースで駒ケ岳に登るはずではないかと主張するも、極楽平までの雪渓で、万一でも転倒すれば、確実に500Mの谷底に落下するから、危険極まりない。千畳敷カールなら、滑落転倒しても、確実に止まるからと、説得しました。

極楽平へ行く登山者が2人いて、あの2人は行くではないかと言うから、あの2人は命知らずですよと言いました。
大使と書記官は、日本語はまったく流暢で、会話にはなんの不自由もありません。

乗越浄土から、中岳、駒ケ岳山頂へ歩いて、宝剣山荘に戻るなか、三の沢岳が目の前に見えるので、あの山に行こうと大使は希望するのですが、すぐ近くに見えても、往復3時間はかかるからとても無理というと、私の足ならもっと短時間で可能だと大使。

私も8年前に三の沢には往復していたので、高低差も少しだし、駆け足でも往復できそうに見えながら、実際歩くのと見るとでは大違いです。
大使が望むなら行けるところまでと、ふと思うのですが、こう短い時間では往復しようもありません。

写真は駒ケ岳山頂にて。リーダーは下で休憩のため登頂せず。

8時20分に歩き初めて10時20分。「おやつ」にしようと大使。一行の持ち物は宿で用意した弁当で、おにぎり3個にペットボトルのお茶と缶コーヒーのみ。私は非常食にと、ザックに一口羊羹と小袋ピーナッツと一口アンパン協会の会員が用意してくれた氷温貯蔵の梨を食べるべく、腰を下ろして一休みしました。

おやつを食べて、時刻は10時30分、宝剣岳へ往復、宝剣山頂では、たっぷりと山々を眺めて、若いお母さんと坊やの親子連れの登山者がいて、僕は何年生と聞くと小学校4年とのこと、あとで帽子をとったところをみたら、女の子でした。
宝剣岳山頂の王毅大使
宝剣山頂に親子の登山者
写真は雪渓を滑る大使

乗越浄土に再び11時20分。昼飯を食べてから下山のつもりが、大使はさっきのおやつでまだ昼飯はいらない。12時に下りはじめれば30分で着くから、40分間を伊那前岳へ行こうということになり、20分行ったらところで引き返そうということで、でかけました。

リーダー、サブリーダーは昼飯にして休憩して先に下りるとのこと。
大使はもっと歩きたい、この程度では運動不足と言うも、1時のロープウェイに乗るためにはもうこれが限界と12時5分に下山を始めました。

千畳敷カールの雪の状態をネットの画像で見ていましたから、下りはシリセードでと、使い古しのアルミマットを持参していましたので、シリセードに賛成の4人のために、アルミマットを4つに切って、ここからなら安全だという場所から、マットを尻に敷いて、滑り下ろうと提案、大使は大喜び。

では私が模範滑走をと、なるべく雪渓の中央からすべるべく、踏み跡のない雪面を横に進み、さて、マットを尻に敷こうと思った瞬間、つるんと滑った足元。

転んだその勢いで折角のマットを手に持ったまま、本当の尻セードで200M近く滑落。かかとでブレーキを試みるも,一旦ついた勢いはそのまま続きました。

やがて斜面はゆるくなり、なんとか止まってマットを敷くも、斜面がゆるくて少し滑っておしまい。でも先に歩いて下りていたリーダーを追い抜きました。

続いて大使が試みるも、かかとのブレーキがかかり過ぎて一回転。でもそこは安全な雪の中。童心に帰ってのスリルを味わったと思います。

千畳敷から双眼鏡で監視していた県警が、一瞬遭難かと慌てたが、最後に手を振っていたので安心したと、苦笑いをしていました。

12時35分には千畳敷に到着。そこで昼飯にしました。
昼は、おにぎりとお茶だけ。私はいつものキュウリの芥子漬と塩イカを持参していましたので、4人でおかずにして食べました。

本当は缶ビールを持参して、山頂で乾杯をしたいと思いましたが、万一のトラブルがあった時、アルコールを飲んでいたからでは顰蹙物ですしね。

大使には、リフレッシュの登山でも、お供にとっては気を使う任務でもあるわけですからね。
午後1時5分前には、ロープウェイに並んで、予定どおりトラブルもなくホテルに到着できました。
朝の出掛けに、そうだチャンスがあったら、記念に大使に一筆書いて貰うと思いましたが、色紙の用意がないので、お菓子かなにかの白い厚紙と筆ペンを持参しました。ホテルについて、すぐお願いをしたところ、快く書いていただけました。私の子々孫々までの家宝になりますね。

天気は,朝の快晴から雲量がだんだんに増えて、駒ケ岳山頂では北アルプスは雲のなか、木曽御嶽山、乗鞍は霞のなかに見えました。南アルプスは霞んではいしたが、全部見えました。遠くに富士山も確認でき、梅雨の季節の登山としては、運のいいほうではないでしょうか。

風もなく、強い陽射しもなく、立ち止まっていると寒いくらいの気温でしたが、山歩きにはちょうどよかったですね。宝剣岳の鎖場にはつららがあり、夜はまだ氷点下の気温なのですね。

新聞やテレビでしか見れない大使は厳しい表情ですが、リフレッシュの登山の時間は常ににこやかに微笑んで、73歳のリーダーの足腰を心配したり、感心していました。

これからの長野県の観光(ことにスキー場は)は、豊かになりつつある中国の若者で成り立つのではと思います。
一衣帯水の中国と日本、共存共栄の外交努力なしに、両国の未来はありませんと大使の話(6月8日の飯田での講演会)を実感しました。
21世紀は東アジアの時代とも言われます。万に一つにも、中国と日本が覇権を争うことがあれば、とも話されました。

アメリカばかりに気をつかう、自公政権では日中友好は、おぼつかないかぎりですね。

飯田のY・Iさんの文章で、「随行登山記」とありますが、「随行」なら責任があるでしょうね。

今回、私は、たまたま同行の機会に恵まれた、野次馬にすぎません。

野次馬の無責任な内々の同行記ですので、そのように。

今回は、物のはずみで、同行することになっただけですから、私には何の責任も権限もないし、軽い気持ちで参加できました。

よって、この「同行記」の記述には、誇張もあるし、不正確なところもありますので。但し、虚偽はないつもりですので、そのつもりでお読みください。

大使が大役から解放された何時の日か、再び駒ケ岳に登られる時があり、変わった男がいたなーなんて、記憶の片隅にでも残ることがあれば、望外の喜びですね。


(以上,原文そのままですが,若干の句読点やことばの校正を管理人が行いました。)

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