「子どもの個性を伸ばす教育」ということばが流行っている。
「個性を伸ばす」ということばはいかにも聞こえはいいが、そもそも「個性」とは何なのだ。
最近の子どもはそんなに個性が足りないのか。
昔の子どもはそんなに個性が豊かだったのか。

仕事がら、個性を伸ばす教育という大道に従ってはいるが、個性というものの定義を聞いたためしがない。

いつだったか、ある研究会に出たらこんな発言が耳に飛び込んできた。
「えー、まず私は子どもの協同性というものを個性ととらえました。」
すぐに私は、「えっ、えーっ!」と思った。
協同性は個性じゃないと思うんだけど・・・。

協同性とは多くの人間が力を合わせて何かことを行う資質という意味であろう。
そういう資質は人間ならだれでも持っていなくてはならないはずである。
協同性や協調性がまったくない人間がいたとしたら、それはもう人間とは言わない。
あるいは、あたりまえの人間社会では、モラル上まともに生きていけない。

そのような、人間としてだれでも持っていないと困るものは、個性とはいえないと私は思っているのである。
では個性とは例えばどんなことをいうのか。
それはたとえば、本が嫌いな人がいたとする。まわりがどんなに本を薦めても一切読もうとはしない人だ。でもこれは個性である。本をまったく読まないという個性である。個性は尊重するべきであって他人がバカにすることでもなんでもない。本を読まないからといって、人間社会でまともに生きていけないなんてことはない。

(でも、できれば読んだほうがいい。)

能力的なことでもいい。
手足が不自由で階段が自由に登り下りできない人がいたとする。それも個性だ。
不自由どころではなくて、まったく身動きできなくても個性だろう。口だけで絵を描いている画家は世の中にたくさんいる。立派な個性といえる。

つまり個性とは、それがあってもなくても人間として困らない、資質や能力や性格や価値観のことである。

一方、協同性や協調性、連帯性や遵法精神、誠実さや謙虚さ、素直さやうそをつかないことなどは個性とはいわない。個性とはいわなくてなんというのか。適当なことばがみあたらないから、いま私は「普遍的なもの」と呼んでいる。「普遍性」というとちょっと違った意味になるような気がするので使っていない。

まとめるとこうなる。
個性とは、あってもなくてもどっちでもいいもの。人と違っていても認められるもの。
普遍的なものとは、多かれ少なかれ必ず必要なもの。みんな持ってないと困るもの。

人間の人格は実はこの二面性から形作られていると私は考えている。

だから個性を伸ばす教育も必要だろう。それはそれで意味がある。
でも、一方では普遍的なものを伸ばす教育も必要だといいたい。

いやむしろ、いまの教育には後者の方こそ求められていると私は思っている。
つまり、人間だれでも持っていないと困る資質や能力、考え方や価値観をちゃんと育てる教育の方が大事ではないかと。

私が思うに、人間の人格は個性と普遍的なもので構成されている。
しかもその二つは順序性というか優先性というか、そういうものに支配されており、並列なものではないと考えている。
ではどっちが優先か。
もちろん人間として大事なものは普遍的なものの方である。
個性はそのあとから形成されるものと考えている。
そして、このことをモデルにしてみると、さらにわかりやすい。
私たち人間はみんな家に住んでいる。
持ち家のある人もいれば、借家住まいの人もあるだろう。高層マンションやアパートに住んでいる人もいるだろう。そういう家に住みながら幸せな人生や家庭を築こうとしているのが人間だ。
その家の形態や大きさはいろいろでも、家には必ず基礎というものがある。その基礎は必ず土地に埋まっている。そうやって土地に埋まることで家と土地を固定し、さらに上にのっかっている家を支える役目をもっているのだ。

土地を人間社会と置き換えてみる。
乾いた土地。じめじめの土地。ふにゃふにゃした軟弱な土地。傾斜のある土地。
土地にもいろいろあるように、自分のまわりの人間社会にもいろいろなタイプがある。

そして次に、家の基礎を普遍的なものと置き換える。
土地の上に家を建てるときと同じように、いまの人間社会に自分を生かしていくためには、まず基礎を打たなければならない。人間としてだれでも持っていないといけない普遍的なものをまずそこに打ち込むのだ。協同性や協調性、連帯性や遵法心、誠実さや謙虚さ、時には妥協性もいるだろう。そういうものを総動員してまず人間社会のなかまに入らなければ、その上の個性など建つはずがない。
人間はこの普遍的なものがあってこそ、社会に受け入れられるものなのだと思う。社会にちゃんと根ざしているからこそ幸せが築けるのだ。

基礎の部分がだいたい打てたなと思ったら、その上に家を乗せよう。
自分の家だから自分の好きなように建てればいい。
三角でも丸でも星型でもなんでもいい。どんな形だろうが他人には関係ない。誰にもとやかく言われることはない。それが個性なのだから。
そしてできれば家は人真似しないことだ。最初は人真似でも、あとから改築してもいい。とにかく家の部分は自分の個性の象徴だ。

ところで、たまにこんな人がいる。


個性は立派だが、基礎がないから地面をころがっている。個性を社会につなぎとめておくものがないからだ。こういう人はころがっていくうちにやがて壊れてしまう。だから、個性ばかり成長させても幸せは築けないのだ。私たち大人はそういう教育をしてはいけない。
自分も含めて、こういう人にならないように、またしないようにしなければと思う。

以上が私の考える個性、人格、人間社会だ。
子どもを育てる大人の一人として、個性を伸ばすことも必要だが、その基礎になっている普遍的なものをしっかり育てることの方がむしろ大事だと考える理由が、これで理解していただけただろうか。

でも実際の子どもたちをみていると、基礎はちゃんとしてるんだけど、どうも個性がぱっとしないなあという子どももいる。そういう子どもこそ見る目のある大人が的確なアドバイスをしてあげなくてならないと思う。個性を伸ばす教育も大事だというのはそういうことだ。

今回は山とは関係のないひとりごとを書いてしまいました。
最後まで読んで下さった伊那谷の山ファンの皆さんに感謝します。
ありがとうございました。
おわり

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