山で出会う生き物の中で、一番怖いものは何か。
それは、まぎれもなく人間であると思う。

ツキノワグマにも遭遇したし、野生のイノシシの突進にあわてたこともある。
ヘビを踏んづけたり、ハチに刺されて全身が腫れて、注射をしたこともあるが、それでもやはり、一番怖かったのは人間だった。
しかも、私の場合は少女だった。

私は大学で地質を学んだので、学生の時から山を歩いている。
地質を調査するために山を歩くわけだが、当然道のないようなところもしばしば歩く。私と同じように少しでも地質をやった人なら、同じような恐怖体験はまあ普通に誰でも持っていると思う。

私は大学3年のころ、島根県の益田市から中国山地に少し入った地域を調べたことがある。
今は地質調査総合センター(旧地質調査所)で活躍しているO君と二人で、調査期間中の宿泊先である△△寺に入った。(寺の名前が思い出せない。)近くには旅館や民宿がなかったのでお寺に泊めてもらって、おかみさんに簡単なお弁当を作ってもらって山に入っていた。

調査を始めて何日後だったか、その日の仕事がすんだので、一人スタスタと細い山道を下っていた。O君とはその日は別行動であった。道の左側には草付きの斜面があって、その下は川になっている。右側はちょっと崩れた石ころの斜面になっており、要するに山仕事をするためにつくった細い作業道のようなものである。

ほぼまっすぐにつけてあるその道のちょっとむこうに、人影を見た。20mぐらい先だったと思う。ドキッとした。人が一人、こっちを向いて立っている。私はその時思わず立ち止まってしまった。
普通、こういう場合は立ち止まったりするのは相手に失礼だからやらないものだが、私はつい立ち止まってしまったのだ。それはなぜか。不自然だったからである。

それは、着物を着た少女だった。
なんでこんな山の中に少女がいるんだ?
えーっ、なんでなんで、という感じだった。

ひざ小僧は隠れていたと思うが、短めの着物の下から素足でぞうりを履いていたのが見えた。その彼女がさっきから私をまっすぐに見ながら立っている。
おそらく1秒以内の短い時間で私はどうするか考えたと思う。
そうだ、まずあいさつをしよう。あいさつをして普通にことばでもかけよう。

とっさにそう考えて、勇気を出して近寄り、努めてにこやかな顔をつくろって
「こんにちは」と遠くから大きな声をかけた。すると、少女は・・・。

無表情のままで何も答えなかった。
聞こえないのか?
聞こえているのに無視しているのか??
それとも何かたくらんでいるのか??? 
その手の後ろに何か持っていて、いきなり襲いかかってくるのでは????

こういうとき人間は悪い方にしか考えない。

それでも、私はそこを通過しないと里には帰られないから、歩速を少しゆるめて、少女から5〜6mぐらいのとこまで近づいていった。近づいたらようやく、少女の目や表情から、もしかしたら知的障害なのかなと直感した。それなら返事が返ってこなくても仕方がないなと思い、さっきよりは少し勇気が出た。

でも、私がいよいよ近寄っていっても道をあけるようすもなく、最初と同じ姿勢で道の真ん中に立っているのには弱った。
「ちょっとごめんよ」と少女に声をかけたが、それでもよけてくれない。
仕方がないから、彼女の左側、つまり山側の斜面に自分の身を寄せて横をゆっくりすり抜けようとした。すると少女は、すり抜けようとする私を自分の首だけ回しながらずっと見てくるのである。
この瞬間、私の心臓の鐘はまたまたガンガン鳴った。
すぐにすり抜けた。でもすり抜けたからといって急に早足になるのも相手に失礼だから強がって普通に歩いた。心臓はまだバクバクしていたが。
しばらく歩いて私は後ろを振り向いた。すると・・・
なんと少女は、首と体を後ろによじった姿勢で、まだ私を見ていたのだ。

私はがまんができなくなって、少女には悪いが、駆け出してしまった。
もう、どう思われてもいい。少女におびえている気弱なでちっぽけな自分をバカにされてもいい。とにかく早くそこから逃げ出したかった。

お寺に帰ってそのことを住職さんに話した。
「今日、けっこうな山の中で着物姿の女の子に会ったんだけど、誰なんでしょうか。」
「あー、そりゃあ○○ちゃんだ。」
「○○ちゃん?」
「知的な障害を持っている子だよ。でも心配せんでええよ。危害を加えたりする子じゃないから。」

今思えば、あらかじめそのことを知っていたら、あそこまで動転しなくてもすんだと思う。それから、いまならもし同じ状況になったとしても、もっと余裕のある態度がとれると思うが、あのころは自分もまだ若かったから知的障害のある子に対して偏見もあった。それだから、その道は2度と通らなかった。事情はわかったが、だからといって山の中でまたあの少女に出会いたくはなかった。

地質をやった友人や先輩からも、山中で人に出会って怖い目にあった話しはいくつか聞いた。長い髪を振り乱して走ってきた女性にいきなり抱きつかれたという話しは、実は遭難者だったというオチがついていたが、あれは本当だったのかそれとも作り話だったのか。

動物は所詮、想定どおりの行動しかしない。熊が襲ってくるのも、熊なりの思考パターンとか本能とかで説明がつくが、人間の思考パターンは無限にあり、本能すら失っている。簡単に次の行動が予想できないから怖いのだと思う。いまどきは里にだって、想定できない人間はたくさんいるが、里ならまだ逃げ道がある場合が多い。ところが深い山の中では1対1になるともう逃げ場がない。だから山で見知らぬ人間にばったり会うと、いまでも私はどこか怖い。

この話しは子どもたちにはよく話して聞かせてやっている。しかも夏の暑い時期に。
 聞き終えると少しは涼しくなるらしい。
おわり

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