結論から言うと、私は深田久弥という人が書いた「日本百名山」という「本」が大好きだ。だから深田という人物もどちらかというと好きだ。でも、彼が選んだ百の山をいま積極的に登ってみたいとは私は思わない。

それはブームだから逆に嫌だというへそ曲がり的な理由だからではなくて、深田久弥という人はあの世で、この百山にはできればあまり人は登って欲しくないと思っているだろうと考えるからだ。好きな人がそうしてほしいと思うようにしてあげたいというのが一番の理由なのだ。

高校生のときに、本屋で「日本百名山」という単行本をはじめて見た。でも当時はおこづかいが少なくて買えなかった。結局買ったのは大学生になってから、文庫本化されたものだったのだが、大人になって引っ越したときに一度なくなってしまった。だから今手元にある文庫本は平成元年の印刷である。
 
高校生以後の私という人間の、生き方や考え方や価値観を左右した何冊かの本が、今も手元にあるが、その中のベスト3にも入ろうかというこの本を、私はいったい何度読み返したことだろう。高校生の時の作文コンクールには深田の山の紀行文をパクって、自分も山の紀行文を提出したぐらいである。当然落選したが・・・。

そんなわけで、私は深田百名山のピークハント的な登山には当然違和感がある。
そんな登山を誰よりも望んでいないのは当の筆者であることは、「百名山」を読んだら誰でもわかると思う。深田は、できれば人に会わないですむコースを好んで登る傾向があったと思うし、山が俗化していくのを心から嘆いていたと思うから。

深田百名山をいまピークハントしている人やこれからやろうかと思っている人に、ちょっと待ってもらってお願いがある。それはまず「百名山」という本をよく読んでほしいということ。それから、深田がどんな思いでこの文章を書いたかを想像してほしいということだ。それでもやはり、深田百名山にこだわりたいという人には、もう一つお願いがある。それは白旗史朗の「百一名山」という写真集を見てほしいということだ。

白旗史朗といえば日本の現代の山岳写真の草分け的写真家で、いまや世界のクロサワ、いやシラハタと言っても過言ではないと思う。その白旗が、富士山は別格として、日本の百名山を選んでいるが、選ばれた山は当然深田のとは違っている。それは選ぶ基準が違うからなのだが、私も含めて現在の多くの登山愛好者には、深田百名山よりも白旗百名山の方が、ニーズに合っているような気が私はする。

白旗百名山はさすがに写真家が選んでいるので、離れて見てもかっこいいし美しいし、登っても絵になる風景がいっぱいある山なのだ。深田の方は歴史や風土、風格や宗教も意識して選んでいるから、ちょっと渋い山もある。一億総カメラマンと言われる現代人には「どこが名山なの?」という山も含まれている。つまり、どうせ登るなら白旗百名山の方がかっこいいし、優れた風景の思い出や写真がたくさん残るはずなのだ。山を仕事としてプロ意識で登っているという意味でも深田よりも白旗の方が上のような気もする。

こんなことを書くと、深田百名山をやめて白旗百名山に行こうと言っているようだが、そんなつもりは私にはまったくない。そこで最後に私の結論を述べる。

それは、白旗の百名山もなかなかいいなあと思うことで、深田の百名山には普遍的な値打ちなどないということに気がついてほしいということなのだ。他人が選んだ山はたとえそれに「名山」という名前がついていても自分にとっての「名山」になるとは限らない。深田や白旗など、他人のものさしで次に登る山を決めるのではなくて、自分の目で山を見回してみて、
「あの山が気になるから次はあの山に行ってみたい」
という感覚こそ、太古の昔から持っている人間の好奇心の原点だと思うのだ。そういう登り方をしたのが、実はあの深田であり白旗なのだと私は思っている。結果として100を選ぼうが、10を選ぼうが、自分の名山の方がよほど値打ちがあるとわたしは思う。

深田百名山を登った記録より、「山頂で眺めていたら次に登りたくなって登った私の百名山」という記録の方に私は興味を覚える。

それでもやはり深田百名山だという人も当然いるだろう。
それはそれでいい。私は違和感は覚えるが、否定はしない。このひとりごともそうだが、最後はその人の価値観の問題なのだから。


お詫び:文中の敬称は省略しました。日本高山植物保護協会の会員でもある管理人が、その会長である白旗先生を白旗などと記述したことを深くお詫びします。加えて、白旗先生の本来の竹かんむりに旗の字は表記できませんでしたので単に旗としています。


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