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                                                     2013   11   4    〜

 今回の旅では 島岡さんに旅紀行をお願いした。    

南米11日間の超安旅行記

南米11日間の超安旅行は、海外旅行の経験があまりない島岡學と地球上は行ったところばかりで、今回の旅行が60か国目となるという超ベテランの矢澤利夫さんとの二人三脚で旅行をすることとなった。そもそもの二人が一緒に旅行をすることとなったきっかけは、私が幹事長を務める、毎月開催される「いちひゴルフ会 (会長・松沢定一)の天然温泉ホテル「湯―眠」で開催された席上、誰とも判らない中に「みんな行ったことのない南米は」という提案が持ち上がった。丁度、ペルーへの渡航経験のある関島氏から旅行社からの情報を次回までに集めることとなった。次回の表彰式会場で関島氏が旅行社からの情報を紹介、14日間に及ぶ南米デラックス旅行であった。この提案された旅行プランに同調した仲間は、会長を始め9人位が同調した。特に米国経由での南米旅行は長時間のフライトがあるため・ロス成田間はビジネスをお薦めするとの意見も出された。私は女房と一緒にゆっくりと旅行を楽しむつもりでいた。しかし、女房に相談をすると「私は行かないとの返事であった」、
 私が旅行費用を一切負担するからどうだと薦めたが残念の一言。私は龍江地区の役員もしているので余り長い休暇をとることもできないと気を遣い。いちひ会には不参加の意志表示をした。しかし、このチャンスを逃すと恐らく一生、南米には旅行はできないと思った。
 原君から携帯で島岡君の日程が長すぎて参加できないのなら10日間で同コースを回れるコースを矢澤君が考えているとのことを知らせてくれた。それなら私にも旅行ができそうだとすぐ判断ができた。早速、矢澤利夫さんに連絡、一緒によかったら連れて行ってくれとと頼んだ。彼からは快い快諾の返事が返ってきた。
 会の幹事長の立場から仲間を誘うことは差し控えた。だが、二人だけでは何か申し訳がないとも思った、旅行社との手続き等を矢澤利夫さんに一任して飯田・弥次喜多道中旅行のはじまりだ。しかし、安過ぎるが大丈夫なのかな。ちょっと、不安・心配。
 いよいよ旅行の初日、114日の朝10時、中央高速バス乗り場・伊賀良から家族に見送られて出発となった。滅多に海外旅行のない私が旅行をするとあって家族総出の見送りを受けた。高速バスの出発際に「孫から・じいちゃんキーホルダーのお土産を頼む」と送ってくれた。これは何としても旅行を無事に帰国しなくてはと心新たに南米旅行へと出発。
 途中、双葉のサービスエリアで15分の小休止、新宿までの約4時間、結構長く感じた。
 新宿から成田空港までは、エアーポートリムジンバス 利便性から利用することに。
 リムジンバスは高齢者には大幅な割引があってびっくり、約1時間も乗るとリムジンバスはフライト先別に国際線の入口へバスを停車してくれた。
 港内移動用カートにトランクを載せながら、旅行社指定の集合時刻午後545分より1時間も前に所定のカウンター前に到着できた。
 段々と集合時間が近づくにつれ、あちらこちらから阪急トラビスジャパンのピンクリボンを付けた初めて会う旅行仲間が集まってきた。この人たち(歳のころ全員60歳以上、夫婦者約半分)と一緒に旅をするのかと思ったら気持ちも楽になった。 
 これから受付をしますから二列に並んでくださいと若い女性より要請があった、パスポート並びに米国入国に必要なエスタを用意してくださいとの指示があった。この方がこれから大変にお世話になる斎藤久美子こと添乗員のお嬢さんであった
 パスポートを鞄から取り出し、エスタを探すもどこにも見当たらない。いやいや参った。もし見当たらなければどうなるの、なければフライトもできませんという人もいて、それならキャンセルして飯田へ帰ろうと決め込んでいた。しかし、その時、相棒の 矢澤利夫さんから私のエスタも保管をしてますからご安心をと言ってくれて「どっ」と気の緩むのを感じました。      これで、みんなと一緒に旅行が。

 もうすっかり陽もおちて、あたりは真っ暗。ロスアンゼルス行きのカウンター前ロビーに移動してそれぞれに椅子に腰かけた。ちょっと遅れたが搭乗の案内が放送され、パスポートと搭乗チケットを係員に提示して機内へと案内された。成田を午後8時にマレーシア航空のジャンボ機で爆音とともに離陸。アメリカ・ロスアンゼルスまでの10時間の長旅が始まった。日付変更線を越えて、機内食を2回、ビールとワインを飲みながら「うとうと」している中に、窓から日差しが差し込んでいる昼間のロスアンゼルス空港へ到着した。疲れた気持よりも緊張感の方が勝った。添乗員から米国への入国審査についての諸注意があり、入国申請書の記入方法についても解り易く説明があった。(彼女もかなり張り切り、緊張している様子) 我々は事前に旅行社へ事務代行料を支払っているので手続き不要となった。
 トランクをそれぞれに受け取り、いよいよ、世界でも1.2を争う入国審査が始まった。
 最初は人定チェックであつた。トランクを転がし入国審査となったが長い列ができ、トイレにも行けずじっと我慢して審査を待った。最初は右手4本の指紋、続いて親指の指紋、それがOKなら今度は左手も右手と同じように投影のガラスに押指をさせられる。それがOKとなると正面脱帽、メガネは外した写真をパチリ。アメリカへの入国目的について英語で質問をしてきた。その審査が通ると荷物検査があり、ベルトを外し、靴を脱いで、ゲートをくぐり両手を高く上げて所定の位置に立ち、OKが出たらやっと入国許可となる。この間2時間近くを要して入国ロビーについた。それから添乗員の引率により空港前のバス待合所まで訳300メートルの空港外路上をトランクをそれぞれに転がしバスを待った。どのバスに乗れば良いのか判らずに15分位は待ったであろうか、その後宿泊ホテルのバスに迎えられ10分ほどでホテル「ホリデイインロスアンゼルスインターナショナル」に到着した。
 ここで翌朝までの仮眠をとることとなった。異国の地第一歩、このまま仮眠とはいかない、二人は前から打ち合わせをしていたかのように、部屋にトランクを置くと、さっさと1階の「バー」へと足を運んでいた。早速「旅の始まりに乾杯・安全な旅に乾杯」と地ビールで乾杯となった。ほろ苦くちょっと甘くそれは本場地ビールの味だった。勿論、お替りをしながら飲んだビールが長旅の疲れを癒してくれた。まだ旅は始まりだからと割り勘で支払を済ませ、二人はご機嫌で部屋に戻った。
 ちょっと床から高いベットに横たわり、頼んでおいた午前2時モーニングコールで目を覚ました。ロビーには夫婦者を始めそれぞれにトランクを転がして23人が集まった。
 ここでホテルが用意をしてくれた朝食のサンドイッチと可愛いリンゴを食べながら添乗員の元気な日程説明後、トランクをホテルのバスに載せてもらい午前330分ホテルを後にした。まだ夜中、街の中は深夜にも関わらず照明とネオンの光で、まだ夜が明けていないロスアンゼルスの街も明るく、日本車のディラーの看板がはっきりと読み取れた。
 ここにも日本の企業が進出しているのかなと近親感を覚えた。すぐにバスは空港着。
 また、昨日の悪夢に怯えながら、ロス空港のターミナルに到着、出国カウンターに並んだ。ここで今度は、コンピューターの故障でちょっと遅れますとのアクシデントの案内表示が出され、係員も慌てた様子もなく平然と日本とは違う海外の「ノーブロブレム」のアバウト感覚が窺えて、びっくり。(大国は落ち着いている、動じない)
 やっと40分遅れで出国審査が始まったが、入国審査ほどではないが一通りのチェックはされた。第一中継地のサンサルバドルに向けてタカ航空は飛び立った。機内は、南米特有のグラマーなご婦人とハンサムな逞しい男性と一緒に乗り込み、荷物預けをしないでトランク持込みは当たり前の様子で客席の上の荷物棚はすぐに満杯だ。これは、飛行機から降りるのに時間がかかりそうだと感じながらも約5時間のフライトで乗継ぎ中継地サンサルバドル空港へ着陸した。この空港では外出は許されずに空港内だけの乗り継ぎ休憩となった、

赤道に近い国とあって、空港内は綺麗な店舗が並び、店員も南米を代表するかのような均整のとれた美女を揃え乗り継ぎ客に・・・のサービスをしていた。
 ここでの乗継は、何のためにあるのか。トイレ休憩とちょっとのコミニティタイムとでも言いますかよく判らない。でもいいや、美人に会えたのだから・・・。
 1時間ほどすると、また搭乗手続きをさせられ航空会社も違う飛行機に案内され、ペルーの首都リマへ乗継のために4時間10分のフライトが始まった。昼間に発ち、夜に着く。
 暗い空港リマへ着陸。東京と同じの人口を抱えるペルーの首都リマへ午後8時到着。

窓からの様子では、市内の電灯、照明から空港がちょっと大きそうには見えた。しかし、乗り継ぎとはいえ、入国審査を受けなければならない。ペルーの入国審査は米国ほどではないらしいが、ベルトと靴を脱いでの入国審査で結構審査に時間がかかった。
 1時間30分もすると今度は出国審査を受けなければならず、他国と同じように荷物とボディーチェックもここではあり、ボリュゥムのある女性審査官より受けることとなった。
 しかし、仲間の出国審査が無事に終わり、いざ搭乗手続きとる段になつて、予定されていた飛行機から小型の飛行機に機種の変更をするとの連絡が入った。そして点検・整備のために出発が遅れるとの連絡があり、突然の変更に大丈夫なのか不安がよぎった。 しかし南米ではよくあることのようで、驚く様子もなく、しかも飛行機の出発時刻は予定であって余り当てにはならず、搭乗口もその日によって変更されるようで常に注意を払わないと乗り遅れるとのことであった。

 夜の10時、ガラガラの飛行機(搭乗率50%)に乗っていよいよアスンシオンに向けて出発。一人で二席をご自由に、暗い闇の中を一路アスンシオンに。お隣には品のある中年の夫婦。
夫婦は並んで席をとり、旦那はいたって奥様に気を使い、優しい養子さん風。私はご主人の上着が目に留まり、突然に声をかけてみたくなり、ご主人の着用のユニホームはゴルフのようですがゴルフはやられますかと聞くと、予想どおりの週2回はやっているとの返事、K氏は東京生まれの東京人、奥様は恋愛で結ばれた静岡人、それも現役の日本舞踊「なとり」と聞いて、またびっくり。歳も私より1歳上と聞くや、又、又びっくり。
 俺も飯田に帰ったらあのように女房にできるのかなと思いながら、深い眠りについた。
4時間ぐらいのフライトは余り気にならなくなり、世界で最も偉大な滝「イグアスの滝」ばかりが頭を過るようになった。その時、偶然にも目が覚めた。
 4時小さな空港、街路灯が静かに通りを照らしているが車や人通りはない。
これから、
イグアスの滝を目がけて8時間のバスの旅が始まる。2階建てのバス、ちょっと先程の飛行機より快適そうなバスだな。こんな立派なバスが南米にもあるのか、日本でも超長距離バスに乗ったことがあるが同等以上のバスだ。一人2席に陣取り、リクライニングに身を任せ、現地案内人に同乗してもらい、薄暗いアスシオンの街を後にした。バスの車窓からは夜明けの静けさとちょっぴり肌寒い感じの心地が良いパラガイの朝だ。どこを見渡しても、平・平原、平原には牛と馬が放牧されている。牛は何頭か群れをなし朝食の草を食べていた。途中草原の道端は赤土に覆われて、水分もあり、所どころに水溜りができていた。早朝だというのに学校へ行く童が目につき、長閑な国風が車窓から伝わってきた。

農業国バラガイ、昔、外敵に滅ぼされ、現在の国境となっているとの説明をガイドから受けて判るような気がした。広い国土に少ない人口、ゆったりとした自然との調和。良い国だ。
 バスに乗って2時間30分走ったところでトイレ休憩をとってくれた。添乗員がバラガイは物価が安い。飲用水はここでと言われ皆挙って買い込み。私も4リットル・2日分を買い込んだ。  1リットルの飲用水は1米ドル。
 イグアスの滝を目がけてバスは、また動き出した。バラガイも平穏な陽気ばかりではなく、たまには大きな台風が襲来、大きな爪跡を残し、道端には壊れた看板等が残されていた。
 3時間ぐらい走るとちょっときれいなガソリンスタンド併用のドライブインで2回目のトイレ休憩となった。朝食は仕出し屋から取り寄せたハンバーグパンとリンゴとミルク製品が配られた。もう日本食は何日も食べていないためか、なんとなく機内食・ホテル食と外国食にも馴染んではいたがやっぱり和食が恋しくなっていた。
 バスが1時間も走ると外の風景が、草原から町に変わり始め、イグアス市内へ入ったことがガイドから告げられた。車も多く、街には人が溢れ、車と車の間を行商する男女が大勢いる。あたりでは何人かで回し飲みをしている様子もあった。 何か独特の特効薬とのこと。
 
ここで、パラガイを出国、ブラジルへ入国することとなるが、パラガイからの手続きはガイドがパスポートを集めて代行してくれた。10分ほどでガイドと添乗員がバスに戻り、
川を渡りブラジル側へ国境を超えることとなったが、国境を超える車が多くごった返していた。ここが、フォス・ド・イグアスと呼ばれるブラジルのイグアスだ。
 ブラジル側から国境を越えて物価の安いバラガイへ買い物に来るブラジル人が多く、特にガソリンを買いに国境を超える人が多いようだ。 ブラジルはインフレの始まりか。
 ブラジル側への入国手続きはそれぞれ個人が指定されたゲート窓口に並びパスポートと入国届出書を提示し、審査を受けることとなった、日本でブラジルのビザ受けているのに何でと思ったが入国許可がなければ入れない。順番で審査を受け許可された。その後トイレを覗くと、5か所のうち使用できるトイレは1つだけで、あとは工事中とのことで何日も放置されたままの状況であった。    これでは我慢とバスへ戻った。
 バスは8分位でフォス・ド・イグアス市内の昼食場へと案内をしてくれた、

 南国ブラジルは日本の6月を感じさせる陽気だ。昼食会場はバンドの入ったレストランで、バイキング方式の食材は豊富に出されていた。ブラジルビールを頼み、あまり脂肪分のない牛肉をミディアムで食べてみたが、ちょっと強い。豊富な食材とビールで満腹となり「上を向いて歩こう」の演奏をバンドがして歓迎をしてくれた。ここのレストランも熱帯圏の国らしく「脂肪分が少ない牛肉」をふんだんに食べさせてくれ、本場のコーヒーもお替り自由でもてなしてくれた。       結構、結構。
 昼食のバイキングを済ませ、バスは宿泊ホテルへトランクを置きに立ち寄つた。いよいよ待望の「イグアスの滝」見学へとバスは移動したが、ヘリコプターでの滝壺の見学ツァーの人たちは、我々より20分ほど早くヘリコプター基地へと特別に用意されたミニバンで出向いた。ヘリコプターの基地には、小さな小屋の中にヘリコプターに乗る順番待ちの人たちが順列を組んで並んでいた。我々の仲間も予約したのに搭乗の時刻が遅れていた。2機のヘリコプターが爆音とともに5人位をピストン輸送をしていた。無事に帰ってきた仲間とバスに乗り、バスはイグアス国立公園の入り口に到着。ここからは歩いて見学することとなった。 
 バスを降りると国立公園の中にも瀟洒なホテル「カタラタス」が見えた。ここのホテルは1泊どの位で泊まれるのかなと思いながら、そこを通りすぎた。
 ここからは、写真を見るなり、ビデオを見てほしいが一言でいえば、「言葉に表現できないスケール」での滝でした。人工では創造ができない自然が生んだ傑作としか言いようがない。歓喜のような声が方々から上がっていた。来てよかった。丸2日以上をかけて辿り着いた滝。飛沫に濡れながら叫んでいる。「悪魔の喉笛」をしっかりと眺めることができた。
 旅は珍しいものを見て感動するためにあるのだと痛感させられた。自然の神秘さをこれほど感じさせられたところは初めてだ。遊歩道をゆっくりと歩き、アルゼンチン側のイグアスの滝をしっかりと眺めた。飛沫にも濡れた。虹を下にも見た。凄い滝の水量に圧倒されながら、バスの集合場所へエレベーターに乗って到着しました。ちょっぴりの疲れも忘れて。
 添乗員の声高な集合合図になんとなく寄せられて一同がバスに乗ったのは、少し陽が西()に傾いていた頃か。  すっかり仲間の顔には満足の様子。さあ、出発。

バスはちょつと寄り道、お土産店によってくれた。水晶の置物等が数多く並び山梨県の某所を思い出させるほどに並んでいた。30分の休憩の後、バスは連泊となるホテル「カリマ」へ到着した。ロビーで添乗員から部屋のキーを渡され、夕食の時刻を案内されてそれぞれの部屋へ散っていった。ホテルは土地の広さが判らないほどの広さ、ゆったりと2階建ての1階に宿泊することとなった。築後30年は経っている貫禄のあるホテルだ。
 部屋も広く、落ち着いた雰囲気な客室だが、それぞれの荷物を部屋で確認するも、矢澤利夫さんの荷物が届いていないことに唖然。フロントへ届けるように電話で督促、どうなっているのか気を許せないと感じた。荷物も配達され、やっとの気持ちに戻り、夕食の会場へと二人向かった。レストランには仲間も集まりだし、添乗員が飲み物の注文を取りまとめている。小学生でもあるまいし勝手にさせたらと思いながらも二人は早速ビールを2本注文した。バイキングでもあり好き勝手に山盛りの食材をとってきてK氏夫妻との4人が向かい合わせで座り、自己紹介をし合いながら追加の飲み物を直接オーダーしたのであつた。上機嫌で話が弾み、いつしか4人は取り残されるまでになっていた。飲み物の精算をしたいとウエイトレスに米ドルで支払うとおつりが合わない。勘定を電卓で換算しているみたいだが合わない。やっとおつりを貰って部屋に戻る。    (決して悪気がないので許せ)
 二人は、部屋に戻りシャワーを浴び、「梅干し」を舐めながら、ビデオの撮影が気になっていた。上手く映っているのかな、それともダメかどうか。心配。
 矢澤利夫さんのOKサインに安心し、バッテリから携帯までを充電器で充電、そのうちに矢澤利夫さんが日本から持参の自家用ポットに水を汲みお湯を沸かして、「日本から持参した味噌汁の元」で日本の味をカップに作ってくれた。これは何よりも熱いが美味かった。外国の旅慣れた人でないと気が付かない気遣いが嬉しかった。今までの疲れも癒され元気が湧いた。しかし、エアコンの音が耳に着いた。     (ちょっと古いのか)
 
 久しぶりに朝9時の出発となり、バスに乗る仲間も元気が戻っていた。アルゼンチン側へバスは橋を渡りに入国審査となった、ガイドが入国審査の書類とパスポートを預かり、まとめて代行を済ませてくれた。この国は案外、スムーズに事務手続きが済まされた。
 バスは原野の中を通り抜け、昨日の反対側よりイグアスの滝を観光することとなった。 
 バスを降り、遊歩道を通り抜けてイグアスの滝を覗いて見ることができた。ここもスケールの大きなパノラマに歓喜の声が上がった。30分位かけて遊歩道を過ぎるとトロッコ電車に乗ることとなった。駅に並んでトロッコ電車に乗ると15分位で「悪魔の喉笛」を見下ろす通路の入口駅に着いた。15分位通路橋を歩くと「悪魔の喉笛」の滝壺の上に辿り着いた。 
 もの凄い水量から落ちる滝飛沫はブラジル側で見たものとはまた違った凄さがあった
 自然が作り上げた神秘さに圧倒された。帰りは「黄色の蝶」の群集を見ながら、又トロッコ電車に乗り昼食会場のレストランへと向かった。
 昼食のレストランはバイキング。アルゼンチンでの食事もブラジルとあまり変わりがなく。肉の料理とフルーツがふんだんに出されていた。レストランでは日本人の観光グループ20人と隣合わせで新婚さんらしいカップルも目についた。
 また、バスは入国した時とは逆に整備された原野を通り抜けて、出国ゲートへと向かった。ガイドが簡単に用を済ませて、またホテル「カリマ」に戻った。
 今晩は「サンバショウ」見学組とホテル滞在組とに分かれ、大半がショウ見学組に入っていた。本場サンバを見ながらのディナーショウは人気が高く、会場は1500人もの観客が集まると聞いていた。ホテルから10分ほどで会場に到着。早速、舞台から10メートルぐらいの前列に席をとり、バイキングの肉や魚を山盛りに取り、ビールとワインを注文。会食を始めていると時間が経つにつれ、いつしか会場が満席なっていた。
 世界からのお客様という感じの雰囲気でした。元気の良い、スペイン語で司会するマイクの音が会場をより盛り上げ、歌とエネルギッシュな踊りがまた観衆を酔わせた。
 7か国のダンスショウが繰り広げられ、忽ちに1時間の40分の時間が過ぎ、これからが本場ブラジル美人によるサンバショウが始まるとあり、お腹も満腹、アルコールも満杯、お目目もとろり、薄暗い舞台に踊り子にスポットが輝き、背中に着けた大きな羽がキラキラ揺れ、均整のとれた肢体が撓り、激しく踊るサンバが一層輝いて見えた。さすが満喫。

2泊お世話になったホテル「カリマ」を後にして、バスはいよいよパラグアイ日系移民センターへ向かうこととなった。バスに乗って1時間、イグアス移住地へ到着した。
 そこはかって日本人がブラジル丸に乗って移住した移民の地であった。原始林を開拓して苦労に苦労を重ねて開拓した移住地は大変なものだったと思われる。残されている日系博物館や日本人学校を2時間かけて案内いただいた。その当時活躍した農機具とか事務機を見て、先人たちの国策として南米へ移民した血と汗の尊い結晶だと一目で解った。
 移住地の周辺は赤い土に覆われ鉄分が多く含まれている土壌との説明があったが、しかし、肥沃かどぅかは判らないが水もあり温帯で平らな土地であった。(園田さん説明) 
 バラガイは農業国であり、ここ一人当たりの平均耕作面積は320ヘクタールとの話があり、規模的にも日本とは違うことが窺えた。また移住者が日本を思い「日本語学校」や「神宮」を造り、二世や三世にお祭りや日本語を教えて、日本の文化を繋いでくれていることに熱いものを感じました。日本からすれば地球の裏側の地にも日本の血が流れている。
 それは日本語学校校歌の中にもしっかりと滲んでおります。
 感心をしていたら昼食の時間となった、案内された料理店は日本人が経営をしている和食店でやっと5日目にして和食を食べられることとなった。やっぱり、和食はいいものだ。
 食事を終えると、アスンシオンを目指してバスは和食店を後にした。

パラガイの首都アスンシオン観光、平らな土地に川のそばに大統領府は聳えていた。街へ入るとのんびりした南国の街との思いがあった。街中で女子高校生にスペイン語て゛「オラー」と呼びかけたら人懐っこい顔でにこにここしながら,「オラー」の返事が返った。
 こうしてみると、地球は表も、裏側も人は皆同じなんだ。仲良くしなければ・(写真参照)
 アスンシオンに1泊することとなったが、何かホテルが窮屈であった。新宿の2等ビジネスホテルクラスでトランクは置けるが、ゆったりはできない。朝、2時起床、4時出発。
 大分、旅慣れたか、集合時刻に遅れると仲間にご迷惑がかかるとの気遣いか、集合時刻には遅れる者はいなくなった。・・これでこの旅も安心・・・

いよいよ、標高の高い都市 (クスコ )への移動となった。   朝、7時出発。
 小さな感じの良いアスンシオン空港を後に、ペルーのリマ空港へ、また4時間ぐらいのフライトだ。お隣にペルー人らしい年恰好25才位の独身女性、小生としてもスペイン語は全然ダメ、しかし、ゲスト(初めまして)、オラー(今日は)ここまではスペイン語。最後は自分が食べられないと思った機内食のクッキーを「プリーズ」と差し出すと彼女は「にこっ」と受け取り笑顔が返ってきた。旅は楽しい、言葉が通じなくても何かが通じる。
 忽ち飛行機はリマ空港に着陸、1時間の乗り換えでまたクスコへ向けて飛び発った。
 上空からペルーを覗くと、砂漠あり、耕作地あり、山また山の国柄。飛行機は1時間20分ほどのフライトでインカ帝国の首都、クスコに着陸した。 (余り慌てず)

 インカ帝国が1400年前にスペイン人により滅ぼされた、南米の大国・アンデスの大国インカ帝国の歴史の始まりである。(完全、強国なインカ大国がなぜ)
 クスコ空港の観光バス停には、ガイドが出迎えてくれた。山口県出身の森川さんと名乗った。現在はクスコに日本人女性と結婚し、幼児の3人家族と聞いた。年齢も若く、現地の観光会社に身を置き、日本人のツァーコンダクターをしているようだ。
 熱心なガイドを聞きながら、かってのインカ帝国の隆盛と残された文化の違いを見ながら、アルマス広場へバスは到着した。カテドラルが真正面の2階のレストランで昼食をとることとなった。昼食はナポリタンが出され味は濃く、ビールとよく合った。
 昼食後、レストランを出てアルマス広場に着くと物売りが近寄ってきた。アルパカのものからペルーの繊維ものまで物売りがされていた。ガイドは「12角の石」へと案内をしてくれた。なんでこんなものが有名なのか無学な小生には理解ができなかった。まあ良い。

バスは、今晩の宿泊地「ウルバンバ」へ向かうこととなった。途中、クスコを離れ標高3860メートルの高原を超えた。バスに揺られて1時間30分のバス旅行だった
 富士山の山頂より高いところをバスで超す。  いい気。そんな感覚がない。
 長閑な高原をバスはスピードをあまり落とさずにウルバンバへと突っ走る。草と開墾された農地、機械化は余りされていないようだが、ジャガイモとペルーのトウモロコシを栽培しているようだ。日曜日でもないのに、家族が畑の傍らに集まりお茶を飲んでいるみたいで、のんびりいい風景が窺えた。バスは上り坂かと思いきや、今度は下り坂を下り始めた。
 遠くの山々には白い残雪が見えた。  (その山は標高が5000メートル以上と聞く)
 陽も傾き、バスは谷底の街、「ウルバンバ」市内へ到着したようだ、周囲は山に囲まれた 聖なる谷の町「ウルバンバ」、街中を流れる川に町は結構整備されているようだ。
 バスは5メートルほどの塀に囲まれたホテル「マベイ ウルバンバ」へ入った。ここが宿のようだ、クスコより標高が600メートル低く、大分と凌ぎやすいのかと思った。
 部屋は2階建ての少しゆとりのある部屋が用意されていた。  ここで2晩。
 ここでも矢澤利夫さんが「日本から持参した味噌汁の元」で温かい味噌スープを作ってくれた。やっぱり元気の源は味噌汁か。いよいよ明日は「マチュピチュ」の観光だ。
 夢にも見た「マチュピチュ」どうしても、今度の旅行でのメインだ。
 ホテルにモーニングコールを330分に頼み、430分から朝食。午前5時30分にバスに乗った。

 ウルバンバの朝は早く、太陽が少し上っていた。バスは約
30分で
「オリャンタイタンボ」駅に到着した。山峡の渓谷を縫うように到着した。
 オリャンタイタンボ駅には列車に乗る順番待ちができ1列に並さられた。座席指定があり「天井が窓のビスタドーム」で、よく上の景色も見えた。電車の中は向かい合わせで飲み物もサービスがされた。峡谷を1時間半で走る列車「インカレイル」はアマゾン川に注ぐウルバンバ川とともに下り、何となく断崖絶壁の合間の駅、「マチュピチュ村」に到着した。
 ここでは「マチュピチュ」への専用シャトルバスが待っていてくれた。シャトルバスは川を渡り、九十九折の狭い専用道路を慣れた運転手のハンドルに命を任せて15分位で「マチュピチュ」の入口へ到着した。マチュピチュ村駅から600-800メートルは上ったか。
 入口は整備されており、レストランもあり、世界の観光地を思い知らされた。
 入場券を渡されゲートを潜ると、ちょっと坂を登ると左側の側壁にマチュピチュの発見者の銘板があり、「ハイラ・ビンガム」の名前が刻まれていた。よく発見したな。
 ガイドに従い、一列に行儀よく進むと「これは吃驚」写真で見たばかりの光景が目の中に飛び込んできた。       (ここからは、カメラとビデオを見てください)
 こんな2400メートルの山頂に空中都市を築いたのか。食料も自給自足、500人から1000人が居住したとされているが、水と食料をこの地だけで自給できたのか。謎。
 到着した当初は少し霧がかかっていたが、ガイドが15分位したら霧がなくなりますからご安心をという言葉を信じて待つこと10分。左の谷底から段々と霧が移動して消えてゆく。
 写真で見た通りの遺跡が姿を現し、石で築いた堅牢な難攻不落城壁、インカ帝国の宗教施設として謎が残る。あとは、又行く機会があったら勉強しましょう。
 一通り、マチュピチュを見学したら3時間が過ぎていた。ぼつぼつ昼食、入口のレストラン(1か所しかない)で豪勢なバイキング昼食をとることとなった。街と同じのバイキングが用意されており、ドリンクだけがちょっと高くなっていた。(標高も高いのだから)念願の世界の「マチュピチュ」も見学できたし、また来た時との逆の道筋でホテルへ戻ることとなった。バスは又九十九折をゆっくりと下り、マチュピチュ村駅に向かった。
 マチュピチュ村駅の駅前には何件の売店があるのか、数えきれないほどの売店が軒を連ねていた。     (何か買ってやらないと、何か貢献できるか)
 ホテルへ到着するともうすっかり日は落ちて、暗くなっていた。

いよいよ旅行も8日目、大分と疲れも出てきたのか、お土産のことが頭に浮かぶようになってきた。何かお土産らしいものはないか。迷った。
 ウルバンバの夜も明けて、またクスコへ向けてバスは出発となった、2晩お世話になつたホテル・ウルバンバともお別れ。また、3860メートルの丘を超え、クスコへ着いた。
 人口38万人が生活しているというクスコ、何の商売で生活をしているのでしょうか
 あまり、工場のような建物はないみたい、観光業のみかな。  それは凄い。
 クスコの中心地に近いところに、サント・ドミンゴ教会があり見学した。
 教会はインカ時代の部分とスペインが征服した時代のものとが重なり、よく見ると時代の権力が歴史を変えていることが窺えた。
 いよいよクスコから首都リマへ移ることとなった。昼食は日系人が作ったという「おにぎり弁当」。久しぶりの米ごはん、小さなリンゴがついて待合のベンチで昼食をとることとなった。美味しかった。やっぱり、日本食はいいものだ。ここで森川ガイドとお別れ。感謝。

やっと、ペルーの首都リマへ昼間着陸、市内観光となった。空港にはペルー人のガイド「ポセ」さんが待っていてくれた。日本語が上手で安心して案内をしていただけると思った。
 元フジモリ大統領が国を立て直した国として、発展と治安が良くなった国として興味がわいた。旧市街地と新市街地がはっきりと区別されて、まるで東京を思わせる街並みに発展をしていた。バスはマルヤス広場、サンフランシスコ教会、大統領府などを見学、恋人たちの公園で一休憩をとってくれた。リマの海岸は余り汚れていない。
 ちょっと、日系人が経営している「お土産店」に案内されてそれぞれに買い込んだ。
 バスは海が見える「ちょっと洒落たレストラン」で夕食をとることとなり、シーフードをたべた。飲み物が東京並に高くなっていた。ホテルブリタニア・ミラフローレンス。

いよいよ旅行も最終コース、地上絵を観光。ホテルを朝7時にバスに乗り、3時間30分バスの旅。海と砂漠を見ながらバスは高速並のスピードでピスコに向かった。荒れた山、途中で砂漠の中に突然集落があったり、灌漑ができているところは町ができ、畑も耕され、ハウスも見られた。雨が年間、少しも降らないところもあるようで、塀はあるが屋根が余り丈夫ではない家も目についた。途中、20分の休憩をお土産店でとってくれた。
 バスは予定通りにピスコの街に到着、ナスカの地上絵を見学する軽飛行機(セスナ機)の飛行場へと案内された。飛行機は何回も繰り返し搭乗したが、セスナ機は初めての経験。
 酔わなければよいがと心配になった。かなり斜行飛行を繰り返すこととなり心配だ。
 仲間は2班に分けられ、分けられ方と座席は個人の体重を申告して、それをもとにバランスを考慮して2機に分かれて飛行をすることとなり、機長にチップを渡して安全運航をお願いした。1時間30分の旅が始まり、最初の30分は現地までの運行時間で、砂漠の山をいくつも超えて、ナスカの地上絵らしい砂漠の丘に到着。副機長が機内放送で説明をしてくれた。そのたびごとに写真を撮ろうと真剣に傾いていた。ぼつぼつ気持ちも変になりそうな頃に帰港するとの合図でほっとした。全部をはっきりとは確認ができなかったが、珍しいものが記憶に残っている。(ハチドリ、フラミンゴ、サル、クジラなど確認)
 2人の仲間がどうも飛行機に酔ったらしく、二人とも青白い顔をしていた。

バスは3時間30分の道のりをホテルに向かって走り出した。
 車窓から見える風景も海岸あり砂漠ありの連続で、道路はよく整備されていた。早朝からの連続活動が疲れを蓄積、乗り心地の良いバス内は「うとうと」が始まったようだ。
 リマ市内に近ついた頃には外は真っ暗となり、ホテルの前にバスは到着した。
 ああ、これで楽しみにしていた「南米11日間の超安旅行」も9合目か。
 南米最後の晩餐会、ホテルから出された料理もちょっと良い、ビールとワインで乾杯。
 仲間23人が全員揃い、「ご苦労様でした、良かったね」とあちこちから声が上がった。
 この旅行で、初めて知り合った仲間、途中ちょっとは遅れた人があったとしても、無事にここで晩餐会ができることは何よりだ。白馬村の太田夫妻、東京のK夫妻、府中の鈴木夫妻、愛知からの姉妹、埼玉からの酒屋の主人、昔霞が関の武田さん、カヌー仲間のお二人さんみんな仲良く一諸に旅ができて良かったですね。
 二人は部屋に戻り、トランクの整理を始めだした、またロスの空港では厳格なチェックが待っている。中身の検査で遅れると仲間に迷惑がかかる。手荷物とトランクの荷物を分別してトランクにベルトとキーをかけた。午前1時、モーニングコールが鳴り、1階のロビーへとトランクを転がした。これから始まる長時間のフライトを覚悟しているかのように、仲間たちは朝食弁当をホテルから受け取り、椅子に分かれて座っていた。
 バスはもう玄関前に停まって我々の乗車を待っていた。運転手が皆のトランクをバスに載せ、添乗員が人員を確認してリマの空港へとバスはゆっくりと走り出した。
 空港に到着したら、パスポートと旅券を提示して荷物を預けた。帰りもサンサルバドル経由のロスアンゼルス行きで、サンサルバドル空港の乗継時間が30分しかなく、入国・出国審査がスムーズにゆかないとロスアンゼルスでの便に乗れなくなる。
 添乗員の甲高い声で「走って集合」の声がかけられ、高齢者も人に遅れてはと一生懸命に空港内を走った。添乗員も日頃の行動をチェックしているみたいで、中々スピーディーに
 活動ができない仲間を入口近くの座席に指定するなどしたが余り効果がなかったようだ。
 タカ航空グループ同士の乗継とあってか少々の遅れは、調整してくれたようで無事に空港を後にすることができた飛行機の窓からはカリブ海が綺麗に見え始め、紺碧の海に白い船が浮かんで見えた。1時間もするとメキシコの上空、砂漠のようで茶褐色な大平原が見えた、ところどころに灌漑による耕地が見え、緑の絨緞となっていた。道路も何十キロも真っ直ぐで、まるで地図上に定規を当てて線を引いたかのように見えた。
 サンサルバドルを出てから5時間が過ぎようとしていると飛行機はだんだんに頭を下げだした。窓から下を覗くとロスアンゼルスの町だ。きちんと区画整理がなされて、白と緑が調和され、ところどころに市民の憩いの場所、公園やゴルフ場が10数か所見えた。
 飛行機が到着、入国審査となったが並ぶのに遅れたのか随分と待たされた。「トランジット」の取り扱いもなく、初めてロスへ来た人と同じに指紋検査から脱帽、ベルト及び靴を脱ぐ検査は当たり前となっていた。意地の悪い係官からいじめられ,憮然としていると一番端から手招きしてほぼフリーパスの状態で通過・入国させてくれた。入国ロビーを出ると今度は出国ロビーへと移動となった。約300メートル位はあっただろうか空港外の通路をトランクを転がして、2階の出国カウンターまで移動した。ここでも機内持ち込み検査が厳重にあり、23人が無事に揃って出国できることとなった。いよいよ成田へ向けて
 昼間の午後2時40分、マレーシア航空のジャンボに乗ることとなった。
 やっと、座席も通路側が欲しかったが抽選で決めることとなり、幸運を矢澤利夫さんが引き当てた。お蔭で「初めての通路側」に座席が取れた。トイレに行くのに、エコノミー症候群の防止にも通路側の座席のほうが便利だ。    (12時間の旅の始まり)
 前の席は矢澤利夫さん、お隣は鈴木夫妻で、大分と日本を離れて日本の情報が入ってこない。日本の新聞も何紙か配られ、一通り目を通した。2週間ばかり日本を離れていると世の中が変わっているものだと感じた。
 搭乗機には日本人客室乗務員がいてくれて、日本語での対応、機内放送も英語と日本語でしてくれた。なんとなく落ち着く気分となった。鈴木さんは以前、マレーシアで日本語学校講師を務めたそうで、少々のマレーシア語が話せるようでアテンダーが来ると親しくマレーシア語で会話を交わしていた。
 飛行機は機内が消灯され、通路とトイレが表示されるだけで、あたりは真っ暗となっていた。静かにおやすみなさい。
 座席のデスプレイに表示されるあと成田まで何時間、現地の温度等が表示されるのを見ては又眠り、それを繰り返していると飛行機が頭を下げて着陸態勢に入った。
 窓から見ると薄暗い成田空港が目に入ってきた。やっと日本に戻れたのだな。
 成田空港での入国審査はいたって簡単、パスポートを見せるだけの入国審査。
 それぞれにトランクを引き取り、添乗員の彼女に軽くお礼の会釈をして、旅行のアンケート封筒を渡して、それぞれに軽く挨拶を交わしてそれぞれに散っていった。
 添乗員の彼女もほっとした様子と疲れた様子が窺えた。ありがとう。
 二人は、早速リムジンバスの乗り場へ向かった。丁度5分位で新宿へ行くバスがあると聞きそれに飛び乗ることとした。リムジンは丁度良く空いており、順調に新宿西口へ着いた。
 ここからはタクシーで宿泊先の西柏木ホテルへトランクを押し込みながら向かった。
 ホテルは狭いが綺麗なホテルだった。(宿泊料が安いのだから)
 荷物を置くと二人は夕食をとりに街へ出ることとした、味噌ラーメンみたいな汁物が食べたい。日本酒も飲みたい。5分位歩いたところに丁度居酒屋風の食堂かあったのでそこに入ることとした。早速、キリンビールを2本、そして日本酒2本、野菜炒めに餃子、最後にラーメンを頼んだ。旅の疲れもあったが日本へ無事に戻れたことが何よりの喜び。
 ご苦労様でした、何か月も前から書類の提出、予約金の振込、手続きでイライラしてキャンセルをしようか迷ったことも一切忘れて日本の食事を味わった。
 翌朝は予約便より一バス早いバスで飯田へ帰ることとした。半月ぶりの故郷。
 予定の時刻に伊賀良のバス停に着くと、それぞれの迎えの車で家路に向かった。

楽しい旅行でした。   人生に感謝 健康に感謝。             

おわり

筆者  島 岡  學  (69)  飯田市龍江在住




エルサドパドル                       パラグァイ
サン・サドパドル空港で  私達きれい                    ブラジル国境までバスで7時間                     国境の町バイクタクシーが並ぶ
  


ブラジル
ブラジル国境                                                   ブラジルのレストランでまずめし                          ブラジルは肉を多く食べる
  

ブラジル
フォス・ド・イグアス
ブラジルでの泊はホテルカリマ                           ここで入園券を購入して                                 ダスカタラス
  



イグアスの滝全体はブラジル側から見る
 



おっさん達もやっとここまで来た                          すごいなー
 



悪魔ののどぶえ
 


アルゼンチン
プエルト・イグアス
ブラジルから国境を越えて                                          滝の入り口ビジターセンター
 



滝の上の歩道を歩く                                                                            ハナグマには餌をやらないこと
  



ここから滝が落ちる                                                  滝へ突っ込むボート
 



道端にはこんなやつか゜゛                            トロッコ電車で上流へ
 



アルゼンチン国境                                    ブラジル国境                                 ペルー国境
  



悪魔ののどぶえ上から                                                  この蝶はなんで集まってくるのか
 


ブラジル
夕飯はサンバショウを見ながら                              食べ過ぎかな
  


パラグァイ

パラグァイのイグアス移住地38000haには日系移住者220世帯が入植している。
不耕起栽培で大豆を25000ha栽培している 大豆収穫後の冬季は小麦が栽培されイグアス農協の製粉工場で製粉販売している。
パラグァイの大豆生産1000万トン世界第4位の生産国 日本の大豆消費は500万トン 大豆は1haで4トン生産 平均耕作面積300ha
北海道の大規模経営39ha 50年前鹿児島から移住した 園田爺さんが熱く語ってくれた。
イグアス移住地の宿゜
     ペンション園田 595-632-20273   ペンション小林595-983-602561
     福岡旅館 595-632-20214      ホテルイグアス595-632-20446
イグアス日本人会 595-632-20243



パラグァイも畑は大豆                               移民の歴史はブラジルより古い 移民博物館
 



子供のころ移住した園田さん                           日本人学校
 



                                          パラグァイイグアス移住地の農協                                       ここで日本食を食べた  美味かったなー
  



パラグァイの首都アスンシオンへバスで7時間移動                            大統領官邸                                   川に浮かぶ小さな軍艦
  



子供は明るい                                      ハァーイ                                        右 国立美術館
   



アンデスを超えてペルーへ                                          下界に標高3890mのティティカカ湖
  



ペルー


クスコはインカ(王様の意味)帝国の首都 1450年に部族を統一し太陽を神とする王政国家つくり 1500年にはアルゼンチン・チリからコロンビアまで4000Kを支配する大帝国をつくった。
1532年スペイン人により皇帝は捕えられインカ帝国は滅亡した このときのスペイン兵は190人 鉄の武器と鉄砲に石の武器が対抗できなかった。
宮殿は石壁の上に萱の屋根がかけられ黄金でコーティングされていたという 石加工の文化は高度に発達し 花崗岩を磁鉄鉱岩で砕いて加工したという。

日本ではこの時代は室町時代であり1443年征夷大将軍は足利義政である 武田信玄が1521年に生まれている。
種子島への鉄砲伝来は1543年  ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトによる。

クスコでは高山病がこわいので深呼吸しながらゆっくり歩く これでOK
クスコ(3400m)の空港                             アルマス広場   ラ・コンパニーァ・デ・へスス教会               3400mの都市 空気は青いかな
  


のどかだ
                                           カテドラル
  



これがインカの石組                                 12角の石
 




マチュピチュ(2400m)は インカ帝国の時代 農業試験場だという説がある。
段々畑は遺跡に40段 下のウルバンバ川までに300段の畑がある
この標高差を使って 良い種だけを標高差上下しながら品種改良が行われたとみられている。
クスコの皇族がスペイン軍に敗れてウルバンバ川を下ってインカの反乱軍を組織したときマチュピチュの人々も
この空中都市を離れインカの反乱軍に参加し ビルカバンバで戦ったとみられている。




これからマチュピチュへ     青はペルーレイル   料金安い          旅行者はインカレイルで                           
 



マチュピチュ駅のある町                               マチュピチュ入り口(2400m)
  



霧が出てきた                                                       遠く アンデスの山々
 



ガスってきて見えなくなってきた                                             このおばはんはなんだ 拡大して見ればけっこうな不美人だが
  



待っていたら霧が晴れてきた  ラッキー                                      谷は深い
 



ワイナピチュ山頂も見えてきた         感動だ!                                     山頂の石切り場
                      太陽神をいただく人々は山頂に水と石のある平を見つけ石を切り出し水路をつくり町をつくった
 


主神殿
                                                                                    太陽の神殿
  



                                            太陽神殿のインティワタナ 陽時計かな                                  天体観測の石  水鏡となる
  



コンドルの神殿   コンドルの羽                        コンドルの頭                        谷底にマチュピチュの駅 あそこから歩いて登ってくる人もいる
   



メイン広場にはこんなやつも   リャマ                     入り口のレストランでバイキング   
 



ウルバンバ(2800m)のホテルで                         ホテル 庭に咲く花                                ホテル マベイ ウルバンバ
  



宿泊した聖なる谷ウルバンバの町(2800m)                                    海抜3600mの丘
  


遠く白い頂は氷河だが年に40〜50m溶けていくようだ
チンチュエロ農村地帯は3780m                                      作物はトウモロコシとジャガイモ
   



クスコは3400m                                            宗教美術博物館入り口                       土台の石組はインカ・ロカ宮殿  
  



石組はほぞで接続されており地震に強い                              ロカ宮殿の石組の上に現在の漆喰の壁や廊下が造られている
    


ペルー
リマ        アルマス広場   カテドラル                ペルー政庁                                             ラ・メルセー教会
  



恋人達の公園                                    海岸から山岳地帯の間は砂漠   一路ビスコへ
 



ナスカの地上絵

 
紀元前後800年ごろ海岸から80K程の乾燥地帯にナスカ文化が栄えていた
100〜600年頃ナスカの人々は広大な大平原(バンパ・インへニオ)に三角形の図形や動植物 魚などの絵を描いた
絵は地表を覆った黒い石や砂をどけて白っぽい地面を出して描いた。



ビスコの空港からセスナでナスカへ                               下界は砂漠  ビスコからナスカまで1時間30分
 



ナスカの地上絵は旋回をしながら写真を撮る 乗り物酔いになる                                     山腹にフクロウ人間の絵
 



キツネ                                                       トンボ
 



                                                        クジラ
 



サル                                                   ハチドリ
 



海鳥                                                              クモ
 


これは何かな
                                                          サギ
 




 



太平洋                                                ビスコのレストランで                            ぺルーともお別れだ